2021.10.19

「連帯」という視点から人間の存在構造を辿る——『連帯論 分かち合いの論理と倫理』(筑摩選書)

馬渕浩二(著者)倫理学・社会哲学

連帯論 分かち合いの論理と倫理

著者:馬渕浩二
出版社:筑摩書房

コロナ禍と連帯

連帯は、この時代を写す言葉となっている。連帯という言葉が用いられる場面は多様であろう。だが、今日、連帯という言葉がもっとも象徴的に用いられているのは、このコロナ禍の文脈においてであるように思われる。それには相応の理由がある。コロナ禍は、連帯という語で表現する他ないような生の現実を露わにしたからである。このコロナ禍を連帯という視点から眺めてみることを通じて、小著『連帯論』の問題設定へと近づいてみることにしたい。

コロナ禍において私たちが目の当たりにしたのは、人々が思わぬ規模と思わぬ仕方で繋がっているということであった。感染の世界規模での拡大という事実そのものが、その証拠である。証拠はそれだけではない。たとえば、外食の制約が米の生産者にまで影響を及ぼすように、様々な社会的活動が様々な仕方で結びついていることが、このコロナ禍ではっきりと意識されるようになったのだった。

さらに、コロナ禍において、世界中の人々がほぼ同じ体験を共有した。もちろん、それは、新型コロナウィルスの脅威と、それを終わらせるための制約だらけの疲弊した生活の体験ではあった。そのようなネガティブな体験であったとしても、「同じ境遇にいる」という共通の感覚が人々のあいだに広範囲に共有されたことは事実であろう。

コロナ禍は、このような人々の繋がりを教えただけではない。同時に、コロナ禍は、この繋がりを通じて、一人一人の生活が他者の活動に深く依存していることも私たちに教えた。もっとも注目されたのは、重症の感染者の生命が献身的に働く医療従事者によって支えられる様子であろう。

また、コロナ禍では、買い物のような日常の営みでさえ、様々な仕事に従事する人々に支えられることで初めて可能になるということが強く印象づけられた(もちろん、裏返して言えば、それは、在宅勤務など許されず、コロナ禍の危険な現場の最前線に立たざるをえない人々が数多く存在するということである)。さらに、コロナ禍により、職を失い、住まいを追われ、窮地に立たされた多くの者たちがいる。そうした境遇に置かれた者たちを支援するための、様々な草の根の取り組みが試みられている。

このようにして、コロナ禍は、繋がりや依存や扶助という生の現実を私たちに大規模に同時的に経験させた。そして、コロナ禍が露呈させたこれらの現実によって、繋がりと支え合いを主意とする連帯という語は相応のリアリティを与えられ、この時代の象徴的な言葉として招き寄せられたのである。おそらく、そのように述べても間違いではないだろう。

認識の変容

もちろん、かつて今日以上に連帯という言葉が強い影響力を帯びた時代があっただろう。この国でもそうであったように、学生運動に代表される政治の季節が、それである。だが、そのとき、連帯という言葉は、まずは政治的な文脈で用いられていたはずである。つまり、特定の政治的課題を解決するための、政治的闘争のスローガンとして、それは用いられていたはずである。

もちろん、今日においても、連帯という言葉は、おそらくは政治的な文脈において多用されているだろう。だが、コロナ禍で連帯の語が用いられるようになり、連帯の語を政治に限定されない文脈で用いることが広く許容されるようになったと思われる。その証拠に、自宅に留まることさえもが、連帯として語られるようになったのだから。

少し考えてみると、コロナ禍に関して連帯の語が可能であるなら、この社会で問題となっている様々な出来事にも、連帯という視点からアプローチすることが可能であることが分かる。たとえば地球規模の気候変動の問題がそうである。気候変動は、地球規模での人々の協力なくしては解決ができない問題である。

あるいは、差別や格差や貧困の問題もまた連帯の問題であろう。それらの問題が多数の人々の手によって作り出される社会構造に根差すものであるかぎり、その解決もまた多数の人々の協力や支えなくしては不可能である。そうした個別の問題に留まらず、どのような社会が望ましいのか、どのように社会を作り替えてゆくべきなのかという根本的な問題も、突き詰めてゆくなら、それが人々の支え合いの問題と無縁ではない以上、まさに連帯の思考の対象となるはずである。

もしかしたら、私たちは、コロナ禍を経由することで、図らずも、人間と社会を連帯から見るための視点を手に入れたのではないだろうか。人々の生を支え合いという視点から考え直す必然性を学び取ったのではないだろうか。つまり、ある種の認識の変容が生じつつあるのではないだろうか。

たとえば、過去数十年にわたって、自助努力や自己責任を強調する新自由主義的な言説が流布してきたが、そうした新自由主義の人間観(独立した存在としての人間は他者に依存することなく自身の努力によってその生を維持しなければならない)が、コロナ禍以降、どこか偏狭で古びたものに感じられるとしたら、それは、この認識の変容がもたらした結果だと言えるかもしれない。

かりにそうであるとするなら、連帯という語を一過性のものとして使い捨てにしてはならない。人間や社会を見るための堅固な視点として連帯という語を彫琢しなければならない。コロナ禍は、連帯論を要求しているように思われる。

小著『連帯論』は、コロナ禍以前に構想され、まとめられた本であるが、期せずして、こうしたコロナ禍の知的状況と交差することとなった。小著において、私は、人々が様々な仕方で繋がっており、支え合わなければ生きてゆけないという生の根源的事実に定位して、人間の存在構造は連帯的である、あるいは人間は連帯的存在であるというテーゼを提示した。

そして私は、このテーゼのもとで、連帯の様々な領域や問題——社会的連帯、政治的連帯、市民的連帯、人間的連帯、宗教と連帯、経済と連帯——について考察し、連帯概念の輪郭をよりはっきりと描き直そうと試みた。もちろん、この本は直接にコロナ禍を扱っているわけではない。けれども、この本に含まれる様々な論点は、コロナ禍が明るみに出した人間の姿や社会のあり方を連帯という視点から考えるためのヒントとして役立つと、私は信じている。

生命のイメージ

最後に、小著のエピローグに引いた一節に触れることで、小論を終えることにしたい。それは次のような文章である。

「いのちは決して途切れない。いつでも、他者から繋がり、他者に渡され、他者へと引き継がれていく。いのちとはまた一筋の糸でもあるのだ。私のいのちは決して私一人に還元されない。私を育み、私を染め上げた多くの者が私の中に住まい、私といういのちの形を刻んでいる。私がそうした他者と解きほぐしがたく繋がっているという意味で、私とは織物の結び目でもあるのだ。」(佐々木俊三『随筆と語り 遠来の跫音』荒蝦夷、2014年、86頁)

この美しい一節に導かれて、『連帯論』は成立した。この文章に記されている生命のイメージを、小著ではやや無骨に連帯という言葉で表現した。この文章が述べているように、ある人の生命は、その人と関わった他者たちの生命とともに織られることで成り立つ。あるいは、一人一人の生命は、他者の生命とともに、あるいは他者の生命が刻み込まれて成立する。だから、生命は、最初から、またその成り立ちからして閉域ではない。他者に依存し、他者に支えられること、あるいは、他者に依存され、他者を支えることが、生命の可能性の条件なのである。

私は、そのような生命のイメージを先の一節から読み取った。この生命の透過的なイメージは、自己と他者の生命の間に境界線がかっちりと引かれる生命のイメージ、あるいは自己の生命を持続するためには他者の生命を排除しなければならないと見なす生命の排他的なイメージとは相当に異質なものである。果たして、どちらのイメージが生の現実により接近しているだろうか。

かりに前者の透過的イメージが正しいとすれば、最初から生命は支えられてあるものだと言うべきではないだろうか。もしそれが生命の基本構造なのだとすれば、私たちが生きるこの社会もまた、その視点から光を当てられ、吟味されなければならないだろう。つまり、この社会は、生命の支え合いがうまく作動する社会だろうか。あるいは、生命の支え合いという視点から、この社会をどのように組み替えてゆくことができるだろうか。そのように問うことが可能になるはずである。

資本主義の行き詰まりと乗り越え、ポスト資本主義といった言葉が人口に膾炙するようになり、別の社会のかたちを模索することが思考の課題となりつつあるように思われる。そのような現在にあって、この織物としての生命、あるいは人間の連帯的存在性という視点は、来るべき社会のあり方を考える際の一つの軸になる。私は、そのようにも感じている。

プロフィール

馬渕浩二倫理学・社会哲学

1967年岩手県生まれ。東北大学大学院博士課程修了。中央学院大学教授。博士(文学)。専攻は、倫理学・社会哲学。著書に、『倫理空間への問い』『世界はなぜマルクス化するのか』(ともに、ナカニシヤ出版)、『貧困の倫理学』(平凡社新書)、訳書に、ハンス・ヨナス『回想記』(共訳、東信堂)など。

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