2021.11.05

性はどのようにして罪深いものとなり、その真理を追い求めるべきものとなるのか――『性の歴史IV 肉の告白』ミシェル・フーコー(新潮社)

慎改康之(訳者)フランス思想

性の歴史 Ⅳ 肉の告白

著者:ミシェル・フーコー / 慎改康之(訳者)
出版社:新潮社

『性の歴史』という構想

ミシェル・フーコーの『肉の告白』は、『性の歴史』と題された長大な研究の第4巻として、2018年にフランスで公刊された。1976年に第1巻、1984年に第2巻、第3巻が刊行された後、研究を締めくくるはずであったその最終巻は、すでに出版社に原稿が委ねられていたにもかかわらず、著者の突然の死によって、長いあいだ未刊のままにとどまっていたのだった。

第1巻『知への意志』において、セクシュアリティの歴史をめぐるフーコーの研究は、18世紀以降の西洋における権力のメカニズムとのかかわりで性の問題を扱うものとして提示されていた。しかし第2巻以降、当初の企図は放棄され、古代ギリシア・ローマから初期キリスト教に至るまでの性倫理が、自己をめぐる技術の変化との関連で分析されることになる。

研究計画のこうした抜本的な変更に関して、フーコーは、第2巻の序論で次のように述べている。研究を進めていくなかで、「欲望」をめぐる一つのテーマがあまりにも広く受け入れられていることが明らかになってきた。つまり、自分の欲望を解釈し、それによって自分自身の真理を明るみに出すというテーマが、いたるところに認められたということであり、したがって、長いキリスト教の伝統から受け継がれていると思われるその「欲望の解釈学」の系譜を辿るべく、時代を大きく遡ることが必要になったのだ、と。

そうした新たな企図のもとで、第2巻『快楽の活用』、第3巻『自己への配慮』においてまず示されるのは、欲望の解読という務めが、古代ギリシア・ローマの性倫理には完全に不在であったということである。つまり、異教の哲学にとっての問題は、快楽をどのように使用すればよいかということであり、自分自身の奥底に隠された秘密をどのようにして狩り出すべきかということでは決してなかったということだ。

それでは、後に欲望が解釈すべきものとなり、主体の真理と分かちがたく結びつけられるようになるのは、いったいどのようにしてなのか。新たな『性の歴史』の核心そのものにあるこの問いに対し、初期キリスト教の発達に関する考察によって答えてくれるのが、フーコーの死後30余年を経てついに我々の手元に届いた第4巻『肉の告白』なのである。

「欲望の解釈学」の成立

『肉の告白』においてフーコーは、「欲望の解釈学」ないし「情欲の主体の分析論」と呼びうるようなものが2世紀から5世紀にかけて徐々に形成されていくプロセスを、当時の教父たちのテクストの丹念な分析によって明らかにしようとする。そしてそのなかでもとくに重要なものとして詳細に検討されているのが、カッシアヌスとアウグスティヌスのテクストである。

フーコーは、カッシアヌスによって証言されているようなものとしての3世紀末以降の修道制の発達を、欲望の解読という務めが開始される重要な契機とみなす。自分自身の奥深くに隠された秘密を探査し、それを他者に対して語るという際限のない解釈学的任務が、修道制における修練の実践において課されるようになるということだ。そしてそうした任務は、性的欲望が問題となるときにとりわけ際立ったやり方で現れる。

カッシアヌスによれば、性をめぐる悪徳は、両性のあいだの肉体的交わりよりもはるかに、一人の個人の身体および魂にかかわる。したがって、重要なのは、他者とのあいだの許されざる行為ないし禁じられた関係を差し控えることではなく、自分の魂と身体を襲う情欲の動きに自分の意志が決して巻き込まれないようにすることである。そしてそのためには、自分自身を絶えず監視し、自分を誘惑しようとする敵をそこに識別して、それを追い立てなければならない。自己を不断に検討し、自己の奥底に秘められたものを他者に告白することで、自己のうちに身を潜める他者としての欲望を狩り出すことが必要となるのである。

カッシアヌスはこのように、情欲を、自己にとって闘うべき敵として描き出す。これに対し、情欲を、自己の外から自己を襲う他者としてではなく、逆に主体自身の構造の一部としてとらえようとするのが、アウグスティヌスである。

性的欲望に関するアウグスティヌスの理論が拠り所とするのは、堕罪以前の性行為の可能性をめぐる以下のような聖書釈義である。男女間の性的関係はエデンの園においてすでにありえたのだろう。ただしそれは、意志によって完全に制御されうるものであり、男性器はそこではいわば種をまく手のようなものでありえたのだろう。しかし、アダムとエバが犯した罪とともに、人間自身の意志の自由にならぬものが人間の身体および魂のなかに侵入し、それによって性行為が恥ずべきとなってしまったのだろう。そしてアウグスティヌスは、いわば神への反逆に対する罰のようなものとして人間に課されたその非意志的なもののことを、「リビドー」すなわち情欲と呼ぶ。

これは、カッシアヌスにとっての情欲とは異なり、意志にとっての他者ではない。アウグスティヌスにとってのリビドーとは、人間の意志が自らに執着し神に背を向けたことによって意志そのものに生じた根本的な欠陥を示すものである。つまりそれは、意志と根源的に不可分のものであるということだ。そして、まさしくアウグスティヌスによるこうした一連の推論とともに、性に関する西洋の思考にとっての重大な帰結がもたらされることになるとフーコーは言う。

すなわち、性的関係に伴う非意志的な動きとしての情欲が、主体の意志と切り離しえぬものとされることによって、性的行動の形式と主体の構造とのあいだに根本的な結びつきが見いだされるようになるということだ。あらゆる性行為のうちに見られる情欲のはたらきが、主体性にとって構成的なものとしてとらえられるようになるということであり、こうして、自らの欲望を解釈し、そこに自らの真理を解読しようという企ての可能性が開かれるのである。

キリスト教において欲望が不断の警戒および分析の対象とされ、欲望と主体とのあいだに根源的な関係が打ち立てられるようになるプロセスを、フーコーは以上のように描き出す。「欲望の解釈学」の系譜を辿るという新たな『性の歴史』に課された任務が、ここに果たされるのである。

キリスト教と自己の実践

なお、『肉の告白』における初期キリスト教に関する探究は、欲望の理論や解釈の義務をめぐる以上のような分析を軸としつつ、その傍らで、そうした分析を直接的ないし間接的に支えるいくつもの興味深い考察を展開している。そのうち、とくに重要であると思われるものを以下に簡単に紹介しておきたい。

まず、第1章「新たな経験の形成」において提示され、補遺2においてとり上げ直されている、悔い改めの実践の二つの形態に関する分析について。身振りや振舞いを通じて自己の罪深さを現し出すと同時にそれを消し去るものとしての「エクソモロゲーシス」と、自己の奥底に秘められたものを探り出してそれを言葉にするものとしての「エクサゴレウシス」という、自己の魂を向けかえるための二つの形態およびそれらのあいだの関係が、西洋における罪の赦免と真理の現出化との結びつきを考えるために大きな手がかりとなるものとして、そしてさらには近代的統治性の起源とされる司牧権力の発達に大きく関与するものとして示されている。

次に、第2章「処女・童貞であること」では、キリスト教における処女・童貞性へのポジティヴな価値付与が、西洋において主体とその性的活動との関係がすでに重要なものとなっていることをしるしづけるものとして読み解かれる。キリスト教が性行為に付与してきたネガティヴな価値は、自己の自己との関係において性が中心的な位置を占めているという、より根本的な事実から出発して理解されねばならないことが強調されているのである。

そして第3章「結婚していること」では、結婚生活における性的関係をどのように考えるべきかということに関して、クリュソストモスの主張とアウグスティヌスの主張が対比される。

クリュソストモスによれば、結婚とは、何よりもまず、性的欲望に制限を加えるためのものである。つまりそれは、男女が互いに一人の相手のみで満足するようにすることで、情欲の過剰な溢出を食い止め、それによって姦淫の罪を防ごうとするものであるということだ。こうして、夫あるいは妻と性的関係を持つことが、結婚生活における厳格な義務となる。夫婦の各々は相手が自分に期待する役割を果たさねばならないということであり、したがって、同意なしに一方が他方を拒むとしたらそれは不正な行為とみなされるのである。

これに対し、アウグスティヌスは、結婚における性的関係が従うべき規則を、自らの欲望の理論にもとづいて打ち立てる。情欲は、堕罪に由来するものである以上、それ自体として罪深いものである。そして性的関係を結ぶためには、いかなる場合においても自らの情欲を使用せざるをえない。しかし、その使用には二通りのやり方がありうる。

すなわち、子づくりのためもしくは相手の情欲を満たすためにそれをやむをえず使用することもありうるし、逆に、自らの情欲を満たすことそのものが目的とされることもありうるということだ。それ自体は悪しきものとしての情欲を、善く使用することも悪く使用することもできるということであり、こうして、性をめぐる罪に関する帰責可能性が打ち立てられることになる。相手との関係においてではなく、自分自身の情欲との関係において、許されることと許されざることとが区別されるのである。

悔い改めにおける自己の真理の現出化。自己の自己との関係における性の特権的な位置づけ。自己の情欲を中心に据えた性道徳の確立。このように、『肉の告白』は、古代世界における「欲望の解釈学」の成立を描き出すと同時に、とりわけ晩年のフーコーにおいて重要であった自己をめぐる実践というテーマに接近するための新たな視点を我々に提供してくれる。

2世紀から5世紀にかけてのキリスト教に関するフーコーの探究は、長いあいだ宙づりにされてきた『性の歴史』を完結させるばかりでなく、西洋における自己の真理や自己の統治に関する彼の一連の分析を別のやり方でとらえ直す可能性を開いてくれるということだ。フーコーを今あらためて読み始めるための導きの糸が、ここに見いだされるのである。

プロフィール

慎改康之フランス思想

1966年、長崎県に生まれる。明治学院大学教授。著書に、『ミシェル・フーコー』(岩波新書)、『フーコーの言説』(筑摩選書)、訳書に、ミシェル・フーコー著『性の歴史IV肉の告白』(新潮社)、『知の考古学』(河出書房新社)、『ミシェル・フーコー講義集成』IIVVVIIIXIII筑摩書房)など。

この執筆者の記事