2022.01.14

踏みにじられたい人はいますか?――『「オピニオン」の政治思想史 国家を問い直す』(岩波新書)

堤林剣+堤林恵

#「新しいリベラル」を構想するために

「オピニオン」の政治思想史 国家を問い直す

著者:堤林剣、堤林恵
出版社:岩波新書

「国家」はやわらかい

国家、あるいは権力。

ああ、カタい。堅いし固い。まさに堅固。三つか四つしか音節がないのに二つもカ行が入っているせいだろうか。ちょっと投票したくらいでは微動だにしないに違いない——

本書でつづったのは、その「国家」や「権力」が存外やわらかくできている、という話である。

簡単にいってしまえば、国家も権力も人間の作り上げたフィクションである。

フィクションというと「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体等とは一切関係ありません」なる決まり文句が脳裏をよぎる。しかし政治思想でいうフィクションに当てはまる日本語は「架空」ではなく「擬制」である。要するに、人の手による「作り物」ということだ。ほっといてもたくましく自生したりするわけではない一方、架空や虚構と違って実在しないわけではない。日本という主権国家は、フィクションではあるがご存じのとおり実在の団体である。

その団体が強いんじゃん、堅いんじゃん、と思うかもしれない。実際には強いことと堅いことはイコールではないのだが、基本的には強いほうが堅い(安定する)。したがって、確かに権力も国家もあの手この手で強くなろうと歴史を重ね、紆余曲折を経て今に至る。

「まあいいや」が国家を支える

では国家や権力は、いかにして強さを手に入れたか。

強力な兵士や武器をたくさん集める? それも大事だ。権力と暴力が往々にして表裏一体であることは否定できない。だが、それではただ強いだけである。「強いやつAとその仲間たち」は、いつか現れるかもしれない「より強いBとその仲間たち」の存在に常に脅かされる。Aの支配はこのままでは不安定で、堅くない。

ではどうするか? 「Aに従うことを望む/受け入れる人間を増やす」のだ。これが本書の関心の中心、オピニオンの調達である。Aが偉いのは、Aが強いからでは必ずしもない。Aに従う人びとがみな「Aは偉い」と思っているからこそ、Aは偉い人物として扱われ、敬われる。中には熱狂的なファンもいれば、大して恐れ入っていないやつもいるかもしれないが、後者が異議を唱えるほどでもなく「まあいいや」と受け入れるならばAの支配は安泰である。

つまり、権力を支えているのは、オピニオンの支持にほかならない。これはグループの規模が大きかろうと小さかろうと変わらない。国家であっても学校の教室であっても同じである。いやいやルールとか法律とかいろいろあるでしょう、と思うだろうか。だがルールや法律を受け入れると決めるのが、まさにオピニオンである。盗んだバイクで走り出す人間が多数派ならばクーデターかアナーキーの出番だが、国家や学校生活が安定しているのはルールを守る常識人が多いからである。あなたが「あえて逆らわない」だけで、政府や先生に対するあなたのオピニオンは調達される。そんな何にでも当てはまる言い方反則では、といわれるかもしれない。その通り、何にでも使えるのがオピニオン論の売りであり、18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒューム以来の伝統芸である。

ではどうやってAは偉い、権力に値すると思わせるか。本書が「正当性理論」と呼ぶそれは、環境によって千差万別である。ルールだから、法律だから、逆らうと怖いから、だってそういうものだから。暴力でも文化でも慣習でも伝統でも科学でもよい。根拠がなんであろうと、より多くの人間を継続的に説得できた者が、より多くのオピニオンを獲得し、支配を安定させることができる。

「神様」がいなくなった世界で

中世のヨーロッパ人にとってそれは宗教だった。「神様がそう決めたから」というのは信心深い社会においては最強である。だがこの切り札が有効なのは、だいたい神様が言いそうなことについて解釈が広く一致しているあいだだけである。宗教改革が起きて解釈がわれると、かえって悲惨な殺し合いとなった。神様を持ち出すとお互い譲れなくなるので、諸刃の剣だ。

これではまずい、国内で多少意見が対立していても揺るがない、右にも左にも上にも下にも「とりあえず従え」と命じられるだけの絶対的な権力を打ち立てなければ——と荒廃した近代ヨーロッパで人びとは必死に考えた。そうして生み出されたのが、「主権」である。

本書が、異世界ファンタジー並みに現代日本とかけ離れた中世ヨーロッパから語り始めたのは、今わたしたちの暮らす「主権国家」の起源がそこにあるからにほかならない。

主権もはじめは「神様から王様に与えられた」権力だったが、ある時それではオピニオンが維持できなくなり、王様の手から奪われることになった。おなじみフランス革命である。

18世紀フランスのオピニオンが、それまでの長い歴史も伝統も法律も全部ぶっちぎって「王族もへったくれもない、人間は生まれながらに自由で平等、国家の主権は人民みなのものである!」と宣言した結果がめぐりめぐって、わたしたちは21世紀のデモクラシー国家たる日本に暮らしている。

ならば「人権」も「デモクラシー」も比較的新しいだけの、ただのフィクションなのだろうか? 今のところ、その通りだ。普遍的真理と信じる人もいるし、それがいつか証明されたらいいなとは筆者たちも思う。しかし残念ながら万有引力のような科学的証明の見通しはたっていない。りんごはほっとけば勝手に熟して落ちるが、人権は天から降ってこない。歴史上降ってきたことになっていた時期もあるにせよ、神様に頼れなくなった今、人権はわたしたちがこの手で握るか放すか決めねばならないフィクションである。

幸運を手放すな

政治の舞台にはたくさんのフィクションが登場する。国家。権力。主権。そして人権。自由。平等。なにもユートピアや脳内お花畑と揶揄されるような価値だけがフィクションとは限らない。あたかも真実や本性、本能として語られがちな弱肉強食の世界観や自己責任論だって、やはりフィクションなのだ。人間は動物ではないし、「最後は結局自分が大事」という人もいれば「最後まで自分を犠牲にして誰かを助ける」人もいる。どちらも個々の事実としてはリアルであり、人間社会一般として語るならフィクションとなる。誰かが周りを説得しようとして練り上げた物語という点で、優しい世界も苛酷な世界も変わりはない。

そうした数あるフィクションのなかから、わたしたち一人ひとりが自分の住みたい社会像を選び取るのがデモクラシーである。その日々の積み重ねのなかでオピニオンが生まれ、権力を動かし、国家を形づくっていく。

これは、どちらが勝ちとか敗けとかいう問題ではない。正解や不正解のある問いでもない(少数派になったら無視された、というならそれはデモクラシーではない別の何かである)。

間違いがあるとすれば、オピニオンを示さないことで国家や権力から遠ざかろうとすることかもしれない。あえて試練の道を行きたいというなら個人の趣味だが、人並みに幸せになりたいならあまりお勧めできない。近代国家に住む以上、どこにも逃げ場はないし権力は否応なく全員の生活を左右する。「国家や権力は存外やわらかい」ことは歴史を知れば見えてくるが、同時に「好き勝手できるようになった権力はろくなことをしない」ことも嫌というほどわかるからだ。

人権も、自由も、平等も、今のところなんとか手にしているし、このままその日々が続いてほしい——そう感じている人もいるだろう。本書では、テクノロジーの進歩がその未来を脅かす可能性について最後に語ることにした。だが数百年先にタイムスリップしなくとも、ミャンマーに、香港に目を向ければ、当たり前の権利として受け取っていたものがある日突然国家によって奪われる現実がそこにある。

オピニオンに耳を傾ける必要はないと判断すれば、国家権力はやわらかさを捨て、極限の硬度をもって個人を踏みにじる。その時、人権やデモクラシーというフィクションはあっという間に消えてしまう。

だからこそ、まがりなりにもデモクラシー国家に暮らす幸運を手にしているわたしたちは、どのフィクションを選びどんな物語を現実として生きていきたいかを示し続けなくてはならない。国家がやわらかさを失わないうちに、国家がやわらかさを捨てないように。

プロフィール

堤林剣政治思想史

1966年生まれ。英ケンブリッジ大学博士号。現在、慶應義塾大学法学部政治学科教授、同法学部長。著作—『政治思想史入門』(慶應義塾大学出版会、2016年)、『コンスタンの思想世界』(創文社、2009年)、‘Deparochializing Political Theory from the Far Eastern Province’, in Melissa Williams (ed), Deparochializing Political Theory, Cambridge University Press, 2020,「カント-コンスタン虚言論争におけるコンスタンの論理と狙い」(『法と哲学』第6巻、信山社、2020年)ほか。

この執筆者の記事

堤林恵政治思想史

1978年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科後期博士課程中退。著作―‘“There’s a west wind coming”: Sherlock Holmes in Meiji Japan’, Keio Communication Review, no. 37, 2015. 二人の共著に、「love actually――あるいは政治と芸術の臨界」(萩原能久編『ポスト・ウォー・シティズンシップの思想的基盤』慶應義塾大学出版会、2008年)、「Sound of Silence――戦後世界における〈寛容〉の問題性と可能性」(萩原編『ポスト・ウォー・シティズンシップの構想力』同、2005年)、共訳に、バンジャマン・コンスタン『近代人の自由と古代人の自由・征服の精神と簒奪 他一篇』(岩波文庫、2020年)がある。

 

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