2022.02.08

結論が凡庸になっても論理的な哲学的思考を手放さない――『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』(晶文社)

ベンジャミン・クリッツァー(著者)批評家

#「新しいリベラル」を構想するために

21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える

著者:ベンジャミン・クリッツァー
出版社:晶文社

「自然主義的誤謬」を避けながら進化心理学を用いる

2021年12月に刊行された拙著『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』では、副題が示すように、さまざまなテーマについて論じられている。

本書の副題については、『哲学と進化論から導かれる「正しい考え方」』という案もあった。たとえば、ジェンダーの問題にせよ、あるいは幸福の問題にせよ、それらについて論じるためには、「人間の男女の間には、どの点にどのような差異があり、その差異を発生させる原因とはなにか」「わたしたちにはなぜ幸福を感じる機能が備わっていて、幸福を感じるためには具体的にどのような条件を満たさなければならないか」といった点について考えることが欠かせない。

そして、人間に性差が発生する原因や幸福を感じる機能が備わっている理由に生物学的な要素が関わっていることは疑いもなく、生物学的な問題について考えるためには、進化論のメカニズムを前提とする必要がある。

ただし、進化論を前提にすることには、「〜である」と「〜すべき」を直結させてしまう「自然主義的誤謬」の危険が付きまとう。たとえば「男らしさ」や「女らしさ」の背景には生物学的な要素が存在するからといって、「男性は男らしい振る舞いをすべきである」とか「社会は男女の性別役割分業を維持すべきだ」という結論が導かれるとは限らない。進化論からも導かれる「事実」と「規範」は別物であり、「規範」について考えるためには、哲学・倫理学の考え方が必要となるのだ。

そのため、『21世紀の道徳』に収めた論考の多くは、まずは進化論や心理学の文献を引用しながら該当のトピックに関する事実について紹介したうえで、哲学や倫理学に基づきながら、そのトピックについての規範的な考察を行う、という構成になっている。

進化論に関する言説が二極化してしまう現状

進化論や生物学の知見を参照しながらも、自然主義的誤謬を回避しつつ規範的な考察を行う、という議論自体は、とくに目新しいものではない。一部の哲学者や科学者たちの間では、このような議論はスタンダードなものとなっている。しかし、とくに本邦では、一般の読者にとっては、『21世紀の道徳』で行ったような議論は、いまだに馴染みのないものであるようだ。

書籍を出版している著述家や、WEBメディアやSNSで活躍しているライターおよびインフルエンサーのなかには、進化論の知見を積極的に紹介する者もいる。しかし、彼らの多くは、生物学的な要素を拡大解釈し、センセーショナルな「身もふたもない事実」や「残酷な現実」を読者に突きつけたうえで、「所詮は人間も動物であり、わたしたちの行動や思考は遺伝子に操られているに過ぎず、理性や愛情は嘘っぱちである」といったペシミズムやニヒリズムを喧伝するような主張を行っている。

このような議論は過激でキャッチーではあるが、生物学的なメカニズムがわたしたちの行動や思考に及ぼす影響が、実態よりも大げさに強調されており、「事実」に関する議論としても誤っていることが多い。また、「規範」に関しても極端な主張がなされており、生産的な論争には結び付かないことが大半である。

現状、この種の主張を歓迎しているのは、「リベラル」や「フェミニスト」に対して反感を抱いているタイプの読者たちである。このような読者たちは、リベラリズムやフェミニズムが提唱する規範的な主張を煙たく思っているために、進化論を用いながらペシミズムやニヒリズムによって「規範」そのものを否定する議論が、「リベラルやフェミニストの偽善や欺瞞を暴くものだ」として受容されているのだ。

とはいえ、リベラリストやフェミニストなどの「左派」の論客の多くが、進化論や生物学を用いた議論を軽視したり無視したりしている、という点も否定できない。

彼や彼女らは、進化論を用いた議論は自然主義的誤謬を避けられず、現状を肯定する保守的な結論にしか結びつかないと思っているようだ。また、左派の人々は、世の中で発生している問題の原因を自然的な法則に見出すことを嫌がり、代わりに「社会」や「権力」や「イデオロギー」などの人為的な物事に原因を見出すことを好む。

問題の原因が自然的なものであるとすれば、その問題に対処することは一筋縄でいかなくなるが、問題の原因が人為的なものであれば対処が容易に感じられる。「世の中で悪いことが起こっているのは、誰かの悪意や無知が原因であるのだから、それを取り除けば世の中は善くなる」と見なせるようになるためだ。

ピーター・シンガーの『ダーウィン左翼』と『輪の拡大』

『21世紀の道徳』の第1章では、1999年に出版された、倫理学者のピーター・シンガーによる著書 A Darwinian Left: Politics, Evolution and Cooperationについて取り上げている。本書の原書名を直訳すると『ダーウィン左翼:政治、進化、協力』であるが、2003年に発売された邦訳版の書名は『現実的な左翼に進化する』であった。

本書は日本語圏ではほとんど注目されてこなかったが、経済的な不平等を主とした社会問題の原因を生物学的な要素に見出しながらも、自然主義的誤謬を否定して弱者を救うための運動や政策の必要性を主張したシンガーの議論は、現代にも通じるものだ。

社会問題の背景にある事実を直視すると同時に、規範に関しては左派的な主張を提唱する「ダーウィン左翼」という立場は、『暴力の人類史』や『21世紀の啓蒙 理性、科学、ヒューマニズム、進歩』などの大著を出版しているスティーブン・ピンカーや、日本でも100万部以上の売り上げを記録した『FACTFULNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』の著者ハンス・ロスリングにも受け継がれているといえる。

また、『21世紀の道徳』の最終章では、未邦訳のシンガーの著書 The Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress(『輪の拡大:倫理、進化、道徳の進歩』)について取り上げた。1981年に出版された『輪の拡大』は、当時、話題となっていた「社会生物学論争」を背景としており、昆虫学者のエドワード・オズボーン・ウィルソンによる「人間の道徳のすべては生物学によって説明することができる」という主張に対する反駁が行われている。

アリやサルやコウモリをはじめとした、さまざまな動物たちが行う利他行動は、血縁利他主義・互恵的利他主義・群淘汰などの進化的適応のメカニズムによって説明することができるが、ウィルソンは、人間が行う道徳的な行動や思考も、これらの進化的メカニズムの範疇に含まれるものに過ぎないと主張した。それに対してシンガーは、人間には「理性」が備わっており、そして理性は進化的な適応の範囲を超えて機能させることができる、と論じたのである。

他の動物とは違い、人間は自分たちの行動や思考に影響を与えている生物学的な傾向の存在を理解することができるからこそ、その傾向に逆らった判断を選択することができる。また、相手が自分と同じように痛みや苦しみを感じる存在であるということを認識したり、相手の立場に立って想像を働かせることができたりするために、自分にとっての利益を諦めてでも不道徳な行為を控えたり、自分が損を被りながらも道徳的な行為をしたりする、という選択ができるのだ。

理性に基づいた道徳としての「功利主義」

シンガーは、「一人を一人として数え、けっして一人以上には数えない」ことと「最大多数の最大幸福」を目指すことを信条とする「功利主義」の考え方を提唱していることでも有名だ。また、心理学と哲学の両方を専門とする学者ジョシュア・グリーンの著書『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』でも、功利主義の主張が展開されている。

規範倫理学の主張には功利主義のほかにも、カント主義(義務論)やケアの倫理(フェミニズム倫理)などが存在するが、グリーンによると、それらの主張は多かれ少なかれ人間の「道徳感情」に影響されたものである。そして、わたしたちに備わっている道徳感情は、人類が進化の歴史の大半を過ごしてきた狩猟採集民の集団における社会生活に適応するためであると考えられる。

逆に言えば、過去よりも複雑で多様な現代社会における問題について、狩猟採集民の時代に培われた道徳感情が正しい答えを導き出せるとは限らない。だからこそ、感情に影響されたカント主義やケアの倫理ではなく、抽象的な思考から導き出される功利主義に基づいてわたしたちは道徳問題に対処すべきなのだ、とグリーンは主張する。

グリーンは功利主義を「深遠な実用主義」と呼び、功利主義は道徳に関する絶対の真実というよりも、道徳問題を解決するうえで最も適切な方法として位置付けている。一方で、シンガーは、功利主義やそれに関連するいくつかの原理は、物理や数学の法則と同じように、理性を駆使することでわたしたちが発見することのできる、客観的に実在する道徳法則であると論じている。

いずれにせよ、功利主義の主張は道徳に関してわたしたちが抱いている直感や常識と真っ向から反することもある、かなりラディカルなものだ。『21世紀の道徳』では、功利主義が「権利」という概念の棄却を要請すること(第4章)、「5人を救うか、1人を救うか」を選択するトロッコ問題や現実の世界におけるトレードオフの問題で、多数派を救うことを要請することについて解説している(第5章)。

また、人間だけでなく動物も痛みや苦しみを感じる以上は道徳的配慮の対象とすべきであり、「人間とは違うから」「動物であるから」という理由で動物に苦痛を与えたり生命を奪ったりすることを正当化するのは生物種に基づく差別=種差別である、という考え方も功利主義によって発展させられてきたものだ(第3章)。

さらに、「同じ国に住んでいる人だから」「近くに暮らす人だから」という理由で、他国に住む人よりも自国に住む人の援助を優先することも、道徳的に正当化できるとは限らず、先進国の人を1人助けられるのと同じ金額で、発展途上国の人を数人以上助けることができるのであれば、先進国の人は自国ではなく発展途上国に暮らす人を積極的に支援すべきである、という「効果的な利他主義」の考え方も、功利主義によって導かれることになる(第6章)。

進化論の知見に基づきながら性差と恋愛について論じる

『ダーウィン左翼』や『輪の拡大』では、性差やジェンダーに関する問題はほとんど扱われていない。しかし、とくに最近では、「人間の行動や認知における男女差」の問題とそれに関する議論は、進化心理学に関する話題のなかでも最大のホットトピックとなっている。

人文学におけるジェンダーに関する議論といえば、フェミニズム的な問題意識と社会学的な方法論に基づきながら、「男女の間で思考や行動に差があるのは、女性の意思や自由を抑圧して男性にとって有利な社会を維持しようとする家父長制によって、社会的に構築されたものである」といった議論がなされることが多い。

それに対して、進化心理学の議論では、男女の思考や行動の性差は、多かれ少なかれ生まれつき備わったものであることが前提とされる。ジェンダー論では、「社会」や「権力」といったものが「男らしさ」や「女らしさ」を個々人に押し付けるトップダウンな世界観が想定されているが、進化心理学では、個々の男女に備わった生得的な特徴を平均値を表す指標として「男らしさ」や「女らしさ」といった社会通念が形成された、というボトムアップが前提とされることになる。

『21世紀の道徳』の第7章では、近年にフェミニストや男性学者たちがしきりに論じている「有害な男らしさ」という概念について、その概念が指摘するような男性に特有の問題が存在することを認めながらも、「有害な男らしさ」の原因は家父長制ではなく、男性に特有の「モノ化思考」という生物学的傾向に見出すべきである、という議論を行なった。

また、最近では、哲学や経済学や生物学をはじめとした多くの学問において、その学問の「男性中心主義」を見直して、これまでに無視されてきた「女性的」な視点やトピックを取り上げるべきだ、という運動が盛んになっている。倫理学の世界においても、論理や理性や抽象的な原理原則といった「男性的」な要素への偏りを批判したうえで、「共感」や「ケア」に基づく倫理を説くフェミニスト倫理学への注目が増すようになってきた。しかし、『21世紀の道徳』の第8章では、進化心理学の考え方を用いながら、「共感」に基づいた道徳の問題を指摘して、「理性」に基づいた道徳を復権させる必要性を論じている。

また、「特定のパートナーと恋愛して、結婚して共に家庭を築きたい」という願望ですら、フェミニズムやジェンダー論によると、家父長制によって押し付けられた「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」に基づくものに過ぎないとされる。近年の倫理学や社会学でも、同性愛や性的少数者、フェティシズムやポリアモリー(多夫多妻制)などに関するトピックは頻繁に取り上げられるが、ヘテロ・セクシュアルの人が特定の異性に対して抱く恋愛感情…いわば「ふつうの恋愛」について肯定的に取り上げられることは少なくなっている。

『21世紀の道徳』の第9章では、「特定の(異性の)相手に好意を持って、パートナーになって、絆を培いたい」という願望も、進化的な基盤を持つ生得的で普遍性のあるものであることを指摘したうえで、「ふつうの恋愛」に関して倫理学に基づく考察を行った。

幸福論の「正解」を探る

「幸福」は、古代ギリシアの時代から、哲学や倫理学にとって重大なテーマであり続けてきた。ただし、幸福に関してはあまりに多くの哲学者や思想家が論じてきたために、論者によって異なるさまざまな意見が乱立している状況だ。そして、数多くの意見があるということは、より「正解」のほうに近い意見もあれば、「誤り」のほうに近い意見も存在しているはずだ。

わたしたちが「幸福になりたい」と思うなら、「誤り」ではなく「正解」に近いほうの意見を参考にして、実践する必要がある。『21世紀の道徳』では、幸福に関する現代の進化論の知見や心理学の研究を参照しながら、幸福論の「正解」を探った。

第10章では、「ストア哲学」の考え方について考察した。ストア哲学では、性や食事に関する快楽を追い求めず、名誉や財産や社会的地位に関する欲求も捨てて、いま自分の手元にあるものに満足することが推奨される。そして、進化的に考えても、性欲や食欲などの短期的な欲求は、適切にコントロールする必要がある。

人間や動物に備わった欲求というシステムは、個体を一定以上の年齢まで生き延びさせて、異性と性交して繁殖して遺伝子を残すために設計されている。だが、逆にいえば、欲求とはあくまで遺伝子を残すためのシステムであり、個体の「幸福」を実現するためのものではないのだ。むしろ、短期的な欲求に振り回されることは、わたしたちの人生を不幸にする可能性が高い。ストア哲学は、「欲求」というシステムに潜む落とし穴を的確に見抜いた思想であると評価できる。

とはいえ、「すべての欲求を捨てて、価値や理想も追い求めずに、現状に満足した人生を送る」ということが正解であるとも限らない。むしろ、幸福を得るためには、短期的な欲求をコントロールしながら、長期的な欲求を満たす必要がある。

『21世紀の道徳』の第11章では、「人間が幸せに生きること」を科学的に探究する学問である「ポジティブ心理学」の知見に基づきながら、アリストテレスを主とする古代ギリシアの哲学者たちが論じてきた「ユーダイモニア(幸福/繁栄)」論を紹介している。アリストテレスは、「有意義な目標に向かって、自分の強みを生かしながら、努力を重ねる」という「活動」のなかにこそ幸福が存在する、と論じたのだ。

現代社会に生きるわたしたちにとっての「幸福」を考えるためには、「労働」や「仕事」というトピックについても考察することは避けられない。労働とは政治的で社会的なものであると同時に、個人の価値観やアイデンティティ結びついた実存的なものであるからだ。しかし、近年では労働の「政治的」な側面ばかりが強調されて、やりがいのある仕事が人生にもたらす価値といった「実存的」な側面は無視されてしまいがちだ。

とくに、最近の人文学や思想では、「働いたら負け」や「資本主義は奴隷制だ」といった極論に近い意見が大手を振るっているが、『21世紀の道徳』の第12章では、そのような意見を批判しながら、地に足のついた現実的な仕事論を展開している。

『21世紀の道徳』で取り上げたトピックは多岐にわたるが、進化論などの知見からもたらされる「事実」に関する知識を直視すること、そしてイデオロギーに影響された極論を述べたり、キャッチーで耳心地のいい主張をしたりする誘惑に負けずに、結論が凡庸になっても論理的な哲学的思考を手放さないことは、本書に収めた全ての論考に通底している。進化心理学の議論に興味がある読者、そして近年の人文学や「哲学」に違和感を抱いている読者にこそ、『21世紀の道徳』を手に取ってほしい。

プロフィール

ベンジャミン・クリッツァー批評家

1989年京都府生まれ。2014年に大学院(修士)を修了後、フリーターや会社員をしながら、ブログ「道徳的動物日記」を開始(2020年からは「the★映画日記」も開始)。批評家として、倫理学・心理学・社会運動など様々なトピックについての記事をブログやWebメディアに掲載。論考に「動物たちの未来は変えられるか?」(『atプラス 思想と活動』32、太田出版、2017年)、「ポリティカル・コレクトネスの何が問題か アメリカ社会にみる理性の後退」(『表現者クライテリオン』2021年5月号、啓文社書房)、「ウソと「めんどくささ」と道徳」(『USO 3』、rn press、2021年)などがある。

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