2022.03.08

経済成長と自由を選ぶのか、脱成長と全体主義社会を選ぶのか――『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠 』(PHP新書)

柿埜真吾(著者)経済学

#「新しいリベラル」を構想するために

自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠

著者:柿埜真吾
出版社:PHP新書

出口が見えないコロナ禍や地球温暖化問題を背景に、資本主義や経済成長を否定的にとらえる風潮が広がっている。地球温暖化を防ぐ「脱成長コミュニズム」を唱える斎藤幸平氏(大阪市立大学准教授)の『人新世の「資本論」』(1)は40万部を超える異例のベストセラーとなっている。資本主義の批判者の話を聞いていると、感染症や災害は産業革命以来の人類の歩みが間違っていた証拠であり、天罰だと言わんばかりである。斎藤氏も「気候変動もコロナ禍も〈…中略…〉どちらも資本主義の産物」(斎藤,2020,278頁)だと述べている。

(1)斎藤幸平(2020)『人新世の「資本論」』集英社新書.

地球環境を守り、弱者に優しい社会を望む思いは誰しも同じだが、善意も間違った道を選べば悲劇につながる。資本主義と経済成長を放棄したとき、もっとも苦しむのは弱者である。現在の世界の一党独裁国家6ヶ国はすべてマルクス主義の流れをくむ政党が支配し、恐ろしい人権侵害が続いている。環境破壊や感染症のもっとも深刻な事例は、国民に所有権がなく、国営メディアによる情報隠蔽が容易な共産主義の国々で起きてきた。

20世紀の共産主義は1億人もの犠牲者を生んだが、21世紀の共産主義も、その実態は個人の自由や多様性を認めない全体主義体制である点でまったく同じである。脱成長コミュニズムが実現したとき、もっとも後悔することになるのはまさに環境を守り弱者を助けたいと願う善意の人なのである。通念に反し、資本主義と経済成長は弱者にも環境にも優しい社会をもたらしてきたし、自由を犠牲にせず環境保護や弱者救済に取り組むことは可能である。

「資本主義はその発端から現在に至るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきた」(斎藤2020,237頁)とか、「現代の労働者は奴隷と同じ」(斎藤2020,252頁)といったレトリックを真に受ける前に、まず事実を見ていただきたい。

資本主義以前が古き良き時代だったというのは幻想である。自然と調和した生活を送っていたどころか、人類は資本主義以前から何度も何度も壊滅的な疫病や大規模な自然災害に直面してきた。資本主義以前の社会では平均寿命は30歳前後に過ぎない。大多数の人々は文盲であり、多少なりとも文化的な生活を楽しむことができたのは一握りの特権階級だけだった。前近代社会は限られたパイをめぐる暴力的争いの絶えない、貧しく悲惨な社会だったのである。

有史以前から永久に続くかと思われた貧困から人類を救い出したのは、まさに経済成長を生み出す競争的資本主義だった。1820年には世界人口の約9割が絶対的貧困の下で暮らしていたが、世界の貧困率は2017年には9.3%まで低下している。今日では発展の遅れた地域でさえ、産業革命の先進国よりも遥かに豊かな生活を送っている。資本主義がもたらした経済成長の下、疫病や災害の被害は劇的に減少し、世界の平均寿命は現在70歳を超え、世界はより住みやすくなっている。

経済成長で人々は安全な家に住むようになり、災害対策も充実した結果、2010年代の気候関連災害による死亡率は1920年代に比べ約99%減少している。感染症との闘いはコロナ禍で一時後退を余儀なくされたが、人類は長い目で見れば確実に勝利に向かっている。天然痘は撲滅され、ポリオも撲滅寸前である。新型コロナウイルス感染症の発生からわずか一年で画期的なワクチンが開発されたのは、ファイザーやモデルナといった企業の開発競争の結果であり、グローバルな自由市場経済の賜物である。

出所:M.Roser and E. Ortiz-Ospina(2013), “Global Extreme Poverty,” Published online at OurWorldInData.org. Retrieved from: ‘https://ourworldindata.org/extreme-poverty’ [Online Resource]及びWorld Bank.
出所:EM-DAT Database.各年代の平均値.

脱成長論や共産主義が繰り返し流行するのは、「誰かの得は誰かの損だ」というゼロサムゲーム的な誤解があるためだろう。斎藤氏も、資本主義は搾取によって成長しているとし、「自分たちがうまくいっているのは、誰かがうまくいっていないからだ」という(斎藤2020,34頁)。同じ主張は他の反資本主義者にもみられるが、これは自発的交換である市場経済の仕組みを根本的に誤解している。

資本主義は自発的交換によって成り立つが、自発的交換は必ず当事者双方に利益をもたらす。誰もわざわざ自分の損になる取引をしたりはしないからだ。自分が利益を得るには、他人にとって必要なサービスを提供しなければならない。だからこそ、利益を得ようとする企業同士の競争は消費者に喜んで買ってもらえるような画期的な製品を生み出し、社会を豊かにしてきたのである。自発的取引はゼロサムゲームではなく、当事者全員が利益を得ることができるプラスサムゲームである。

共産主義者や脱成長論者は、資本主義を保守反動とみなすが、反動的なのは共産主義や脱成長の方である。彼らが求める社会は、集団の目標に個人を従属させた前近代社会と酷似している。資本主義以前の時代には、個人の自由は私利私欲と非難され、新しい発想や競争は秩序を乱し、他人の取り分を奪う行為として抑圧されていた。

脱成長コミュニズムがもたらすのも、他人とは違う独創的発想が迫害され、個人の自由が抑圧される社会である。斎藤氏によれば、脱成長コミュニズムは「使用価値経済」だという。「使用価値経済」の下では、主要資源が共同体に管理され、「使用価値」がないものは禁じられる。例えば、「マーケッティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止される。コンサルタントや投資銀行も不要である」(斎藤,2020,303頁)。ブランド化や使用価値がない製品も認めないという。

だが、問題は一体誰がその「使用価値」を決めるのかである。市場経済では、使用価値があるかないかを決めるのは一人一人の消費者だが、社会主義経済では、何に価値があり何に価値がないかを決めるのは政府や共同体の命令と強制である。斎藤氏の言葉からも、脱成長コミュニズムの下では、職業選択の自由も言論の自由も存在しないのは明白である。

「似たような商品が必要以上に溢れている」(斎藤,2020,256頁)とか、様々な職業が「不要」だと断言する斎藤氏に拍手喝采する読者は、何が使用価値で、何が必要か、自分が決める気でいるようだが、ある人にとって不要で下らないものは、他の人にとってはかけがえのないものである。脱成長コミュニズムは、特定の「使用価値」が全員に押し付けられ、あなたの大切なものが「不要」、「使用価値がない」と否定され、弾圧される社会である。

現代社会で多様な価値観が共存できるのは、市場で自由な選択が可能だからである。斎藤氏の提案するような共同体が「使用価値」を決める社会では多様性が否定され、少数派の価値観は必ず犠牲になる。斎藤氏がいくら民主主義を称えようと、脱成長コミュニズムには、権力の暴走を防ぐ仕組みが欠如している。民主主義は複数の独立したメディアがあり、多数派と違う選択が自由にできる資本主義社会でなければありえないのである。

かつての共産圏では、「人々の欲望を不必要に喚起する」西側大衆消費文化の広告は禁じられていた。「シーズンごとに捨てられる服、意味のないブランド化」といった斎藤氏が「悪い自由」と呼ぶものは存在せず(斎藤,2020,269-273頁)、商品は画一化され、何十年もデザインも品質も劣悪な同じ服、同じ車が販売され続けていた。革新的な芸術家や反体制派は「「使用価値」を生まない意味のない仕事」(斎藤,2020,306頁)をしている嫌疑で逮捕された。脱成長コミュニズムの実態はソ連の暗黒社会そのものである。

脱成長コミュニズムは個人の自由を抑圧するだけでなく、環境に優しくもない。「使用価値」と温室効果ガス排出量には何ら必然的関係はないから、使用価値経済は温暖化対策にはなりえない。歴史上、もっとも深刻な環境破壊を引き起こしてきたのは脱成長を実現した共産主義国である。1980年代のソ連はゼロ成長だったが、大気汚染等の公害が深刻化し、ついにチェルノブイリ原発事故という大惨事を招いた。

非効率で膨大な資源を浪費する共産主義が環境に優しいはずもない。共産主義者は地球環境が危機だから今こそ共産主義だと主張するが、地球環境が危機であればなおさら、無駄の多い共産主義は決して採用してはならない。

環境を保護する仕組みが何もない点で、脱成長コミュニズムはソ連と同じである。例えば、斎藤氏は電力や水、GAFA等の生活に不可欠な財・サービスは「市民営化」(事実上の国有化)し、無償化すべきだという。無償の財・サービスは好きなだけ消費できるから、当然、何もしなければ、無駄遣いが発生する。斎藤氏が「市民営化」を提案する財・サービスにはCO2を排出するものが少なくないが、一体どうやって消費を抑制するのだろうか。

市場経済の下では、希少な資源は価格が上昇し、人々の自発的な行動の変化で消費が抑制される。この仕組みを利用した温暖化対策として、温室効果ガスの排出に課税する炭素税がある。炭素税を課税すれば、温室効果が大きい技術を使う製品は割高になり、政府が強制しなくても自然に消費が抑制される。また、炭素税の負担を避けるために、企業は競って温室効果ガスを排出しない新しい技術革新に取り組むようになる。価格メカニズムを活用すれば、人々の自由な選択を尊重しつつ、環境に優しい社会が実現できる。

ところが、脱成長コミュニズム社会では、こうした調整は不可能である。価格メカニズムを排除すれば、何らかの強制で人々の生活を画一化し、事細かに規制する以外のやり方はない。そもそも、価格がなければ、現在どの資源が不足していて、どの程度消費を抑制すべきか、正確に判断することさえできない。政府が膨大な数の財・サービスの温室効果ガス排出量を測定し、生産や消費の計画を事細かに決めるやり方がまったく機能しないのは、ソ連の失敗からも明白である。

脱成長コミュニズムがもたらすのは、政府が恣意的にどの製品をどれだけ使うか定めて違反者を取り締まったり、人々がお互いに監視しあい、他の人と違う行動をする人が糾弾され、村八分にされたり自己批判を強要されたりする、恐怖の全体主義社会である。コロナ禍の下で様々な自粛要請と行動制限に私たちはすっかり疲れ切っているが、脱成長コミュニズムでは規制と自粛がありとあらゆる分野に広がり、しかも永久に続くのである。

温暖化を防ぐには、脱成長コミュニズムよりも、炭素税のような価格メカニズムを使った方法の方が遥かに有効である。過去の歴史からも明らかなように、気象関連災害への対応能力を高めるには、自由で活発な市場経済の下での経済成長こそが最高の切り札になる。

弱者を救うためにも経済成長は不可欠である。経済が貧しくてはそもそも分配する富がない。斎藤氏は1970年代の生活に戻るべきだというが、一人当たりGDPを1970年代の水準に落とせば、社会保障費は2040年にはGDPの3分の2に達し、完全に破綻する。脱成長とは社会保障の大幅カットと同じなのである。脱成長や共産主義の下で真っ先に犠牲になるのは弱者である。負の所得税(ベーシックインカム)のような貧しい人の所得を補助する政策の方が、特定産業の恣意的な無償化よりも遥かに効果的な弱者保護になる。

歴史を顧みれば、共産主義は“物質的”豊かさをもたらすことに失敗しただけではなく、深刻な環境破壊を招き、人権弾圧と精神の貧困を生み出してきた。脱成長社会は縮小していくパイを奪い合う社会であり、不寛容でまったく希望のない社会である。

経済成長と自由を選ぶのか、脱成長と全体主義社会を選ぶのか。人類の未来はこの選択にかかっている。弱者に優しく環境に優しい社会を望むなら、資本主義と経済成長を捨ててはならない。安易に資本主義と経済成長を否定する前に、今一度、立ち止まってほしい。

プロフィール

柿埜真吾経済学

1987年生まれ。経済学者、思想史家、高崎経済大学非常勤講師。学習院大学文学部哲学科卒業、経済学研究科修士課程修了。立教大学兼任講師等を経て2020より現職。著書に『ミルトン・フリードマンの日本経済論』、『自由と成長の経済学』がある。

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