「賢い有権者」だけで政治はよくなるのか?

―― では左翼にとって、いま政治に必要なものはなんだとお考えなのでしょうか?

 

ひとつは新しい政治的シンボルでしょう。

 

安倍政権が強い理由のひとつはシンボル操作に長けているから。民族とか、国とか、歴史とか、伝統とかね。これは日本人なら誰しもが平等に共有しているシンボルで、これを上手に操作している。戦後長らく、日本では生活の豊かさや消費水準、安定した雇用とそこからくる一戸建てといった物質的なものがシンボルとして共有されていた。ところが、現代ではそれらは当たり前のものとして政治は供給できなくなってしまっている。個人化が進んでいく中で、そうすると人を動員していくわかりやすいシンボルは、勢いナショナルなものにならざるを得ないんです。これは自民党が農村政党から都市型政党への変化、低成長時代への突入とともに利益の分配ではなく、右バネを効かした価値観の分配へと舵を切ったこととも符号しています。

 

ナショナルなものがシンボルであっていけないというわけではない。日本ほどナショナルなものが否定的な意味合いを付与されている国はむしろレアケースです。憲法九条が未だに強い訴求力を持つのも、それが戦後の豊かさのシンボルでもあるから。問題は、左翼の側が普遍的に共有できるようなシンボルがいまは供給できていないことです。人権や平和、女性解放、安全、保護される権利、環境権……いろいろとあげられるじゃないかという人もいるかもしれないけど、今の日本ではそれらは決して平等に配分されるどころか、経済的な豊かさや出自によってライフチャンスが左右されるようになって、みんなが平等に共有できるようなものになっていない。だからこそ、いまは左翼が供給し、共有されるようなシンボルを新たに作ることが大事になっているんです。

 

 

―― シンボルになりうるものはなにがあるとお考えですか?

 

うーん、日本には歴史的な条件もあって、なかなか難しいんですよね。脱原発とかフェミニズムとか環境問題とか重要なテーマはもちろんあるんだけど、どこまで共有されているかというと心許ない。はたして日本に、左翼の誰もが共有できるシンボルがあるのかというと、ぼくもいまのところこれといったおススメがあるわけではありません。ただね、シンボルって一から作り出されるものではなくて、手元にあるものを再度フィーチャーしていくものですから、これから何があるか、点検していけばいいと思います。

 

本の最終章でその条件を探っていますが、中でも手がかりになるのはこれからの福祉国家の在り方です。今ではちょっと意外かもしれませんが、福祉国家って80年代まではフーコーの議論もあって、知識人からは批判の対象に過ぎなった。生権力という言葉もそこから生まれてきた。それが社会保障にまつわるリソースが細ってきてしまったことを背景に、福祉国家が守るべきものになっている。日本で不況になると途端にライフチャンスの縮減が起きてしまうのも、雇用と社会保障がリンクしているから。これをいかにユニバーサルなものにしていくのか、というのは有力なシンボルになりうるかもしれません。

 

問題になるのはこれまで左翼が「大きな政府は駄目だ」って言ってきたことです。敗戦国で、左翼の反国家主義は「大きな政府」への批判につながるから、その経緯は理解できる。ただ、そのせいで左翼の知的・動員リソースは枯渇してしまっている。政治不信の高さも含めて、これは冠たる福祉国家を作ってきた北欧の国々と比べても、日本の負の特徴のひとつですね。

 

 

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リーダーシップではなく、フォロワーシップを

 

―― 日本の政治への信頼が低いことは本書でも指摘されています。

 

不信の前には裏切られるという経験がないといけない。政治不信ではまず政治を信じて、裏切られるという経験が必要なんです。でも日本は政治をそもそも信じていない。

 

では相手が信じられる存在かどうかをどう判断できるのか。本ではルーマンの議論を借りて、相手の行動を待って判断することを「信用」ではなく、「決断の契機」としての「信頼」が政治にとっては不可欠だと提言しています。

 

しかも政治不信が高いのであれば、つまり政治が信じられないのであれば、自分たちで政治に参加することで糺していくしかない。でも政治参加の程度も日本は低いんです。2000年の数字ですが、投票以外の、政治集会であったり、政治家に手紙を書くことだったり、テレビ局に文句を言うことであったり、何らかの形で政治参加をした経験があるかを調べた調査では、イギリスがおよそ25%、アメリカがおよそ40%、フランスがおよそ50%だったのに比べて、日本は14%しかなかった。

 

 

―― それは先ほどお話になっていた、自分の利益を考えて行動すればするほどパブリックなものからデタッチするほうが得な構造になっているから、ということでしょうか。インセンティブがないなら参加しない、というのは仕方ないことだと思うのですが……。

 

インセンティブがないことも問題なのかもしれません。でもインセンティブが提供されないということが共同体にコミットしない理由に本当になるのかどうか。コミットしないと、信頼も生まれず、自分の利益も漸減していくという民主主義のシステムを前提とした場合、どう行動したらいいのか、という話なんです。インセンティブだけで共同体が維持できればいいんですけど、民主政というのは共同体の自己決定を前提として機能する共同体であって、構成員はそのメカニズムから抜け出せません。だからコミットしなくては最終的には損してしまう。好むと好まざるに関係なく、民主主義はそういう構造になっている。

 

大切なのはインセンティブではなく、内発性なんだと思います。パブリックなものに参加したいと思う気持ちです。最近、宮台真司さんが自発性ではなく内発性が大事だと繰り返して強調しています。自発性はインセンティブによって行動する誘引から出てきます。宮台さんは恋愛だとか宗教だとかアジア主義だとか、あるいは沖縄などを持ち出して、内発性がどこから調達されるのか、それがどのように世界を拡張するのかを示唆しています。ぼくは本書で、集合意識やデモ、感情や贈与を持ち出して、自発性ではなく内発性に基づく政治がいかに成り立つか、成り立ちうるのかを書いたつもりです。

 

 

―― 政治への信頼感を持つために、あるいは政治に参加したいという内発性を喚起するために、とりわけ左翼にとって必要なのはどんなことでしょうか?

 

方法として考えられるのはリーダーを作ること。ただ、もともと左翼と強いリーダーというのは政治文化として相性が悪いんです。政治的リーダーを否定するところから始まってしまうから。でもリーダーの肯定は民主主義を否定することとは限らない。グラムシ流の西欧マルクス主義はリーダーを否定しないし、西ドイツのブラント、フランスのミッテラン、イギリスのブレア、好き嫌いはあっても、左派で成功したのは強烈なリーダーがいたからこそ、です。

 

いま「若者は投票に行こう!」と言っている人がたくさんいますよね。啓蒙するのは悪いことではないけれども、政治に関心を持って投票に行くことだけで世の中がよくなるわけではない。若者の利益を本当に政治で実現したいなら、自分たちのリーダーを作ったほうが近道です。それこそ市議会議員レベルだったら、数百人を動員できれば、当選させることができる。あとはリーダーがスピンアウトしないように、枠を設けていくフォロワーになればいい。リーダーシップというのはリーダーありきではなくて、フォロワーシップによって作り上げられるものなんです。民主党政権にはリーダーシップもなかったけれど、それを作ろうとするフォロワーシップもなかったのが致命的でした。

 

何にしても政治不信の問題を考える場合、「お前は信頼できない」と言い募るのではなくて、「信頼できないなら、自分はどうするのか」という地点に立ってから考えないといけない。そうでないと、何も変わらないと思いますよ。「政治はショッピングじゃなくて結婚生活のようなもの」という至言をシャットシュナイダーという政治学者が残しています。民主政治は家族のようなもんだと考えてみてください。自分の奥さんとか子供に「お前は信用できない」と非難していても相手は思うようにはならない。セックスしたり、遊んだりして、一緒に行動する中で信頼関係は出来上がっていくものでしょう。

 

大事なのは賢い有権者で作る政治ではなくて、共感する有権者でもってどういう政治が作れるのかだと思います。政治は仲間作りだという側面を取り入れていくことが重要なんです。そういう意味じゃ、三宅洋平さんの政治運動のあり方なんかは、いろいろ批判があるにせよ、参考にできるところはあるかもしれないですね。

 

 

空欄の民主主義に人間の希望が隠されている

 

―― 最後に、出版後どのような反応があったのか、そして読者にどのように読んで欲しいとお考えかお聞かせください。

 

沢山映画のエピソードも入れたので、映画評論の話がこないかなあと思っているんですけど来ないですねえ……それはともかく(笑)、これまで非合理性だとか感情だとかを真正面からすえて政治学を論じるものはそれほどありませんでしたから、政治学者の中でも評価はいろいろだろうと思います。政治学はもちろん、哲学や社会学の話も盛り込んでいますから、専門家からみても、脇が甘いかもしれない。

 

この本は、デモの話もあれば選挙の話もある。歴史的な話もあれば、福祉の話もあると、おもちゃ箱をひっくり返したような本です。ただ総じていえば、とにかく違和感がこもった本だと言えると思うんですよね。政治学者として、いまの政治学に対する違和感があり、あるいは政治学というプリズムからみえる、今の政治の捉え方に対する違和感、そしてそこから成り立っている社会への違和感。そうした違和感が詰まっている。違和感って言語化しにくいものなんですけど、それらを一生懸命引っ張ってきて、問題提起したつもりです。

 

でも、手前味噌になりますが、大学のゼミで輪読していますという声もあったし、他にも実際の政党の文書に引用されたり、学会のペーパーでも引用されたり、教育、実践、研究の場で参照されているというのは嬉しいですね。違和感が少なからず共有されている、ということでもありますから。

 

本書には正解は書いてありません。世界をわかりやすく見せるものさしを書いたわけでもない。読み終えて納得できるようなものでもない。むしろ世界がより複雑に見えてしまうかもしれない。ただ、その複雑さが、目にうつる単純に見えるさまざまなものが、いかに複雑なものに成り立っているかを読み取ってもらえたら、と思っています。

 

政治というのは、正しさというものがつねに揺らぐものです。ある処方箋を出したら、それへの反対を必ず伴う。正解そのものが問題を生み出すという、どうしようもない行為なんです。でも、個人的な言い方をすれば、でも、それこそが人間に対する希望だと思うんですね。人間が反省することで、未来を切り開くという可能性が政治には隠されている。それを強調することが、いまの政治学の役割のひとつだと、ぼくは思っています。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.279 

・川口俊明「全国学力テストの失敗は日本社会の縮図である――専門性軽視が生み出した学力調査の問題点」
・神代健彦「道徳、この教育し難きもの」
・大賀祐樹「懐疑的で楽観的な哲学――プラグマティズム」
・平井和也「世界の知性は新型コロナウイルスをどう見ているのか」
・川名晋史「誰が、なぜ、どこに基地を隠したか」
・石川義正「「空洞」の消滅──現代日本「動物」文学案内(4)」