「俺がルール」じゃ動かないから――「均衡解」の日韓関係へ

 ――ルールに適応して、期待された役割を演じながら変更を目指すべきだ、というお話はもっともなのですが、一方で、そのルールこそが間違っているのだ、それに則って行動することはその間違ったルールに屈することだ、と主張する人々もいるかと思います。それについてはどう思われますか。

 

一つ押さえておかなければならないのは、ルールを変えるということは、そのルールに基づいて一回一回のゲームに勝つことよりも、はるかに難しいということです。というのは、ルールの変更というのは、既存のルールの下で得をしている人にとっては、損をすることになるかもしれない不確実性がありますので、合意を引き出すのは至難の技です。

 

分かりやすい例が選挙制度改革です。今の選挙制度の下で勝って選ばれた現職議員に対して、あなたたちが選ばれたルールを変えましょうと言っても、なかなか賛成しないのがむしろ当たり前ですよね。衆議院の選挙制度改正が90年代になぜ可能だったのかは、当時「政治改革」の要求が高まり、国会も無視できなくなったことが決定的でした。他には、「参議院不要論」もこの類の議論で、参議院を廃止したり権限を縮小するための憲法改正発議には、まず衆参両院で3分の2以上の賛成が必要ですが、参議院議員が政治的に「自殺」することに合意するのはよっぽどのときです。

 

となると、ルールを変えたいという心情はそれなりに理解できても、それはどこまで実現可能(feasible)なのか、という話になります。典型的なのは「歴史戦」ですが、慰安婦問題に関する世界の認識を変えることができるかというと、およそ実現可能ではありません。強制連行があったかなかったかという話だけが重要だと、世界で認識されているわけではありません。どのような経緯であろうと、総じて本人の意思に反するところがあれば、定義上「奴隷」で、「紛争下における女性の普遍的な人権問題」ということになっているわけです。事の是非とは別に、そのルールや規範を覆すことがはたして現実的にできるのか、ということを考えなければいけません。

 

それが無理なら、今のルールの枠内で評価され、それに則って戦うしかないわけで、「謝ることを『買って』もらう」ことを考えたほうが得策ではないか、ということになります。ルールや規範を作り変える、ということはそれだけ難しいことなのです。

 

冷戦直後に国連安保理を改革しようという動きがありましたが、結局実現されませんでした。「戦争」直後というのは一番ルールを変更できる可能性が高いタイミングだったわけですが、講和条約が伴わなかったこともあり、そのときでさえ変えることができなかったのに、今になって再度試みるというのは、控えめに言っても「チャレンジング」だと思います。

 

そういう意味で、私が考える慰安婦問題に対する一つの解決策は、「正しいとされている側につかないと損をするので、謝りましょう」というものです。

 

いわゆる「リベサヨ」の人たちは、「日本が悪い、だから謝る」という論理で、実はこれに私もかなりの程度「共感」しているのですが、それだと外交政策を動かしている人たちを説得できないので、「損得」という軸を入れて、「謝ったほうが無難だ」というロジックです。

 

こう言うと「日本が間違っていたとストレートに認めないのか」という批判をされるわけですが、これだけ日本の中に「90年代にあれだけ努力したのに裏切られた」と思っている人が多いことを考えると、この一本調子では再度幅広い合意を形成しにくいと思います。損得という軸を入れてはじめて、左右に大きく割れて対立しているスペクトラムの中で、「センター」を分厚くし、「機会の窓」を開く可能性が出てくるのです。

 

また、「ネトウヨ」の人たちが私の提案に対してどう言うかというと、「お前は相手が正しいと言っているのか」という反応になるわけです。私はそうストレートに言い切っているわけではありません。正しいと「されている」側につくことが重要で、それが社会的に構成された現実なのです。これもある種の「擬制」ですが、何もしないと損をするだけだったら、早く「損切り」しましょう、ということです。

 

現代世界では、「規範にコミットしている」ということが「国力」の源泉になっていて、国際社会の中で「俺達の仲間である」と思ってもらわないと、それだけで損をしてしまいます。人権、特に女性の人権は最たる例です。日本は戦後70年間、基本的には「国際の平和と繁栄」に貢献してきた優等生プレーヤーだったわけですが、こと慰安婦問題に関しては逸脱プレーヤーに映ってしまっているので、そこを考え直し、立ち居振る舞いをいま一度改めるチャンスなのではないでしょうか。

 

 

「均衡解」を求めよう!

 

――今おっしゃったような考え方は、日韓関係だけではなく、広く外交関係、あるいは政治一般に当てはまるように思われます。

 

まさにそこですよ。要は「ベスト・ミックスを考えよう」ということです。あらゆることを右か左かという一つの軸だけで判断するのではなく、安全保障に関してはリアリストで、社会的な問題についてはリベラルな立場をとる、というようなことは可能なはずで、一つひとつではなく組み合わせでベストを生み出すのが大切だと思っています。

 

それに、「正解」だけではなく、「均衡解」を求めることが重要ですね。もちろん、学問では真実を追究することが重要ですが、政治や外交の世界ではどこかに「落としどころ」を見つけなければいけません。ある一部分の人たちにだけ賞賛されるような「正解」をいつまでも探すより、65点くらいの評価かもしれませんが、幅広い利害関係者になんとか「納得」してもらえるところで「えいやっ」と「決着したということにする」ことのほうが、はるかに重要なのです。

 

 

――かつては、日本もうまく「均衡解」を求める政治・外交ができていたのでしょうか。

 

「プロ」同士が外交をしていた時代はうまくできていたんだと思います。一つは、問題が独立していた、つまり例えば領有権問題と歴史認識問題や漁業問題は別の話だった、ということと、もう一つは、政策決定に関わる関係者が少なかったことが理由です。

 

ところが、どんどん外交の民主化が進み、「アマチュア」、それは国民ですが、口を挟むようになると、均衡解を求めるのが格段と難しくなりました。「パブリック・ディプロマシー」なんて、外交官同士が合意すればよかった頃はそもそも考える必要がなかったわけですが、今は「内交」、つまり国内での合意を獲得しつつ、国際的にも長く持ち堪えるポイントを探すことが必要になっている。

 

複数のアリーナで異なる役割を演じるマルチレベル・ゲームだと、どこか一つのゲームで一方的に譲歩するような政策では、落としどころにはなりえません。そんな状況で、「正解」指向を強く持ってしまうと、「均衡解」を求められないので、結果的に物事がいっこうに動かないままになってしまいます。

 

 

――状況が変わってしまったわけですね。

 

「楽だった」時代の外交の常識が、今でもそのまま通じるだろう、と思い込んでしまうことは問題ですし、相手国が自国と同じだという前提に立つのも無理があります。時代は大きく変わったし、そもそも「他国」「外国」なのですから。

 

自分の手持ちの物差しの上に相手を置いたり、過去の延長線上に現在を置く、こうしたアプローチは危うい。「昔はうまくいっていた」「あの頃はよかった」というのは、確かにそうだったとしても、だからそれと同じやり方で現在の問題を解決できるかというと、そうではないんですね。

 

私も「日韓友好」モードが強かった自分の韓国留学時代(2000~2005年)の感覚に引きずられていないか、と常に自問していますが、今はかつてとは明らかに状況が変わってしまっているわけです。だからこそ、”back to the past”、つまり過去のある時点が「正常」で、そこに戻そうとするのではなくて、”back to the new normal”、つまり変化した現実、「ニュー・ノーマル(新常態)」に適した関係へと「正常化」していくことが大切になります。

 

もちろん首脳同士が会談するのがベストですし、最終的にはそれを目指せばいいのですが、とりあえず財務大臣や防衛大臣同士が会談して、実務から関係を再開するという「首脳会談なき正常化」がさしあたっては現実的ではないかと思います。

 

 

――先生のお話に従うと、世論が強い影響力を持つようになった現在では、「現実的に均衡解を求めていく」という考え方が社会一般に広まっていくことが必要であるように思われます。本書を書かれた背景にも、こうした考え方を広く知ってもらいたいというお考えがあったのでしょうか。

 

そうですね。あえて言うと、日韓関係はケーススタディにすぎないと捉えています。

 

変化するルールに応じてプレーの仕方を考えなければいけない場面は、日々の生活でもよくありますよね。どんな研究テーマを選ぶのか、どことビジネスをするのか、誰と付き合うのか、この会社、この業界にずっといるのか、人生の節目ごとに誰もが選択に悩んでいます。

 

外交だけでなく日常生活もそうした戦略的環境の一つですので、刻一刻と変化する状況に対応しなければいけませんし、場合によってはルールやゲーム自体が変わってしまうかもしれない。そういうときにいつまでも同じやり方を繰り返していても、当然うまくいきません。

 

「手厳しい相手との付き合い方のケーススタディとしての日韓関係」と言ってもいいかもしれません。九州大学で「キャンパス・アジア」という若者の交流・教育プログラムを担当している友人は、「インテリジェンスとしての日韓」という言い方をしています。

 

 

――どういうことでしょうか?

 

日韓関係や韓国に関する情報はあふれているけれども、玉石混交で、中には意図的な誤情報すら混じっています。そうした「(ディス)インフォメーション」を選り分けて、意思決定に役に立つ「インテリジェンス」にまで昇華させるトレーニングとして、日韓関係ほど適した素材はない、ということです。

 

日韓関係という「ハードケース」でそれができるようになれば、他の場面でも当然できるようになっているはずで、この本が読者のみなさんにとって一番役に立てる部分がまさにこの点にあります。

 

 

連立方程式のなかの日韓

 

――終章に、若い世代は日韓関係をもっとクールに捉えていて、視点がそれまでの世代とは違うという指摘がありました。

 

今の若い世代は「コスモポリタン的」というか、「日韓」というかたちでは問題設定しないんですね。グローバルな世界の中で、そのつど局面によって関係性が変わると見ているように思います。あるところではライバルだけれども、別のところではパートナーでもあるような複合的で可変的な関係である、と。

 

もちろんマイクを向けられて「独島」についてどう思うかと聞かれたら、他の世代と同じように「韓国領」と答える韓国人がほとんどだと思いますが、普段の生活では「日本」を特に意識しないでしょうし、純粋にコンテンツとして良いものだから取り入れる、という「理解」「対応」になっているのではないでしょうか。

 

ラーメンや日本酒が好きだからといって、安倍首相に対して好感を抱くことにはつながらない。逆に、安倍首相の靖国参拝に反対だからといって、ラーメンを食べなくなるわけでもない。つまりカテゴリーに応じてそれぞれ別の問題としてクールに認識しているということです。

 

 

――ではそうした世代が社会の中心を占めるようになると、日韓関係は新たな局面を迎えることになるのでしょうか。

 

いまや日韓という「一次方程式」だけではほとんど何も分からないし、物事も動かせないということだと思います。アメリカや中国を入れた「連立方程式」の中で、まず日米関係や日中関係を動かすことで日韓関係を解く、というアプローチが求められています。それだけタフな知性が試されています。「日米韓」「韓米中」「日中韓」など複数の連立方程式を同時に解くのは困難で、「やせ我慢」が強いられる局面もあるでしょうが、全体としてどう振る舞うのかが問われているのではないでしょうか。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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