2015.06.08

「俺がルール」じゃ動かないから――「均衡解」の日韓関係へ

『韓国化する日本、日本化する韓国』著者、浅羽祐樹氏インタビュー

情報 #日韓関係#新刊インタビュー#韓国化する日本、日本化する韓国

かつてなく冷え込んでいる日韓関係。慰安婦問題や竹島領有権問題など山積する課題が、両国の間に大きな溝を生み出している。しかし日韓は、互いに決して逃れられない「重要な隣国」でもある。この悩ましい関係に、そして変化する現実に、どのように向き合っていけばよいのだろうか。

この問題に対して正面から取り組んだのが、今年2月に出版された『韓国化する日本、日本化する韓国』(講談社)だ。著者の浅羽祐樹氏に、変化する日韓関係のこれまでとこれから、そしてより一般的に、ルールに適応してプレーするという戦略について、インタビューを行った。(聞き手・構成 / 向山直佑)

韓国化/日本化とは?

――本書の題名である「韓国化する日本、日本化する韓国」ですが、日本と韓国はそれぞれどのような点で「韓国化/日本化」しているのでしょうか。

日本にとって韓国、韓国にとって日本は、「似ているようで違う」「違うようで似ている」ところがあります。どこを見るか次第で、まったく異なって見えてきます。その見方、向き合い方を提示したのが本書です。

ともに先進国ですので、「憂鬱な」政治や外交の課題を数多く共有し、それぞれ互いをベンチマーキングしながら取り組んでいるところがあります。少子高齢化や格差の拡大が進む中、福祉の水準や対象と税負担のバランスをどのようにとり、持続可能な社会を構築するのか。中国の台頭や米中関係の変容など「地殻変動する東アジア」の中で、外交戦略の見直しを迫られています。本来、互いに「参照項」として最も活用できる間柄のはずです。

にもかかわらず、互いに相手の全体像やロジックを知らずに、ごく一部の情報に基づいて、その時、その場の「最大瞬間風速」のようなものだけに強く反応してしまう、そういう傾向が目立つようになっています。ネットでも、「韓国」ネタが一番「炎上」しますよね。他人事ではありません(苦笑)。

これはとても残念なことです。物事を俯瞰して全体像をつかむと同時に、過去からの積み重ねと未来への展望の中に「いま、ここ」を位置づけて、それぞれ適度な比重で臨む必要があるのに、一部にだけ過剰に反応してしまって、相手のことがよく分からない。だから互いに反発しあって負のスパイラルに陥ってしまっているんですね。

これをもう一度とらえ直すことで、日韓関係だけでなく、世界の見方、向き合い方に「釣り合い(proportion)」を取り戻したい、という思いがあります。『ゲド戦記』(宮崎吾朗・2006年)ではありませんが、世界の均衡が崩れつつあるのはマズい、と。

とはいえ、だからといって日韓関係を即座に好転させたいとか、させられるというわけではありません。関係は悪いんだけれども、この「現状」がこれまでの積み重ねの中では相対的にどういう比重を占めるのか、という全体の文脈に位置づけて理解できるようにしたい、という思いを込めました。

――このタイトルに対する反響には、どのようなものがありましたか。

韓国でも「『外交におけるプラグマティズム』に関する親切な教科書」という書評が出ていますが、一部で「残念な」反響もあります。一般に「日本の韓国化」と言う場合、日本が韓国のように「劣化した」「悪くなった」というような意味で使われることがあるのは事実です。そういう用法と、この本で示している「韓国化する日本、日本化する韓国」という「対照させるという方法」を、同じものだと短絡されてしまっている側面があるように思います。

互いに相手の実像ではなく、虚像、つまり自分の中でイメージした相手のゆがんだ姿に対して罵り合っている、負の感情を増進させているのは端的に不毛で、筋が悪すぎますね。「カカシ論法(fighting a straw man)」は議論の禁じ手で、カカシ相手に勝利宣言していて虚しくないですか、に尽きます。論敵こそフェアに再現(=表象 represent)するのは、ストリート・ファイトやネット果し合いではなく、プロが議論するときの大前提です。

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――つまり、「韓国化する日本」は「日本化する韓国」とセットになっていて、一方的に日本が韓国みたいに「悪く」なっている、というような意味ではまったくないわけですね。

もちろんです。相手に照らし合わせて自らの姿、あり方を考え直す、そして現状を改めるきっかけになる一番の相手が、日本にとっては韓国であり、韓国にとっては日本であるということです。そういう存在として互いに設定すれば、相手の悪いところはマネしない、良いところはマネする、といった健全で発展的な関係を築けるはずです。

例えば、これがスウェーデンなんかだとちょっと遠すぎて、照らし合わせて日本のあり方を考える、ということはなかなか難しいだろうと思うんです。日本とスウェーデンでは、いろんな条件があまりに違いますので。少子高齢化問題や、TPPなどのグローバルな競争レジームへの参画と第一次産業の保護・再編といった、似たような政策課題を共有している日韓は、そういう意味で学び合いをしやすい関係にあるはずなのです。

かつては日本のほうがほとんど全ての分野で先を行っていたのでしょうが、今では分野によっては韓国のほうが進んでいるので、日韓は相互に学び合える絶好の「ペア」なのだと思います。

――前半部分でセウォル号の事件や、徴用工の裁判についての事例が挙げられていますが、ではこれらは韓国のマネするべきではないところ、として挙がっているのでしょうか。

そうではなくて、文化論や国民性で韓国、他国を安易に論じてはいけない、他のアプローチをとるとこうも分析できるということを示しました。

何か事が起きると「韓国人が◯○なのは韓国人だからだ」と時事解説されることが多いのですが、こんなのはトートロジーにすぎません。それでもこれで相手をなんとなく分かった気になってしまう人が少なくない。こうした残念な議論の仕方が日本社会で今、広く見られます。

セウォル号が沈没したのは韓国人の「パルリパルリ(はやくはやく)文化」「ケンチャナヨ(いい加減な)精神」のせいだとか、したり顔で言う人がいますが、こういう議論の立て方では、なぜ海難事故だったのか、なぜセウォル号だったのかの説明がつきません。「何でも説明できる」のは、実は「何も説明していない」「当該対象を説明できない」のです。それなのに、「韓国人だから」と言われると、分かった気になってしまう人があまりに多いという現状があります。

そうした現状を踏まえた上で、文化論や国民性ではなくて、制度的な理由、つまり業界団体や規制官庁、さらには大統領をめぐるルール、その中でプレーヤーそれぞれにとってのインセンティブ構造に注目して、本来規制すべき官庁が業界団体に取り込まれてしまった「規制の罠」の典型である、という理解の仕方を提示しました。そうすると、東電の原発事故との類似点も見えてくるわけです(高校生のための教養入門「比較政治学」編「比べてみないと、相手も自分も、分からない――物差し同士も照らし合わせて」)。

――理解の仕方を変えたい、ということですね。

30センチしか測れない物差し(スケール)に継ぎ接ぎして50センチにするのか。それとも、物差しそのものを変えるのか、はそのつど見極めないといけませんね(「ボリュームアップか、スケールシフトか」については「地方からの教育イノベーション(浅羽祐樹×斉藤淳×飯田泰之)」を参照)。すでに無用になった枠組みに「ゴミを入れてもゴミしか出てこない(garbage in, garbage out)」のはある意味当然ですよ。

この「理解」という言葉がよく誤解されていて、「理解する」=「共感する」、つまり全面的に受け入れるという意味だと思い込まれていることが少なくないようです。

本来、「理解する」というのは、「物事がいま、どのようにあるのか(what it is)」と現状を認識し、「なぜそのようになったのか(why it is as it is)」という原因を推論することです。なので、共感できないからといって理解できないわけではないし、むしろ共感できない行動や相手に対してこそ理解する必要があります。そしてもちろん、理解するからといって必ずしも友達にならないといけないわけでもありません。

日韓関係についても、確かに現状は「史上最悪」かもしれないし、朴槿恵大統領の対日政策には到底「共感」できないとしても、だからといって理解することを諦める必要はまったくありません。そういうときこそむしろ、相手がこういうゲームのルールの下でこう考えながらプレーしている以上、こちらがこうプレーすれば、相互に協力できてこういう結果を得られやすい、ということさえ理解していれば、それなりに見通しは立つじゃないですか。

首脳会談が長らく途絶え、互いに悪感情を強めている中でも、どうしたら「正常化」できるのか、そもそも国家間関係における「正常」とはどういう状態なのか、冷静に探ることができるはずです。情緒的にならず、「理解」という言葉を、「共感」としっかり分けて使うことが重要だと思います。

我慢できない日本?

――ここ数年で顕著に、日韓の間で相手に対しての非常に感情的な言論が増加したように思われますが、これはなぜなのでしょうか。

1965年に国交を正常化してから、日韓関係は長い間「非対称的」でした。経済的にも政治的にも、基本的に日本のほうが「進んでいた」ためです。しかし韓国が経済成長をし、民主化することで、関係が「対称的」になり、相手に照らし合わせて自分を考える、「対照」させるという方法がリアルになりました。

これが10年前だったら、「韓国化する日本、日本化する韓国」なんて言っても、「韓国とはまだまだレベルが違うでしょう」と受けとめる向きも少なくなかっただろうと思います。それは「民度」などという話では決してなく、経済発展の度合い、民主主義の定着度といった点で、いまやごく普通の「先進国」同士なのに、すっかり変わっ(てしまっ)た現実を受け入れられずにいつまでも上から目線のままいるからなのかもしれません。

――本書ではまた、「いま頃になって政治家や影響力のある有識者たちが、本音でものを言い始めた」と書かれていますが、これはどういった変化なのでしょうか。

外交にせよ政治にせよ、前提となっている「擬制(フィクション fiction)」があって、「~~ということになっている」ことを受け入れた上で、それぞれ期待された役割を各アクターが演じるからこそ、「アリーナ(舞台/競技場)」が成り立っています。

なので、たとえ個人的には靖国神社に参拝し哀悼の誠を捧げたいと思っていても、首相という一国の政治リーダーたるものはこう行動するものだとか、あるいは国内外の政治状況を冷徹に見極めた上で、それこそ「国益」を最優先させて行動選択を比較衡量することが重要なわけです。

東京裁判やポツダム宣言について、不平不満があったとしても、それを「受諾した」というのは、その枠組みの中で期待されている役割を粛々と演じるということまで受け入れたということです。「戦後70年」はその前提の上に成り立っていて、だからこそ「戦前」とは決別したと受け入れられているわけです。たとえ個人的には忸怩たる思いがあったとしても、これまでの経緯や周りからの期待との間にズレがあるのはデフォルトで、その上でどういう選択をするかです。

その「フィクション」がうまく継承されず70年にもなると、いつまで敗戦国のままなのか、という「ホンネ」を段々と我慢できなくなっているのではないかと思います。それは私も心情的には分かる部分がないわけではないのですが、やはり不平不満を言うにしても、今のルールに則って言い通さなければいけません。ロシアや中国の例を見ても分かるとおり、現状を力で一方的に変更しようとしても、国際社会の中で受け入れられません。

安倍談話が注目されていますが、歴代首相が繰り返して確認してきた発言のラインから外れるとなると、はたして「一方的な現状の変更」としてみなされてしまうのではないか。談話の正否はそこにかかっています。

日本は冷戦においては明らかに「戦勝国」の側に入っていましたが、残念ながら(?)冷戦は講和条約なく終わったので、今でも「戦後」と言ったら「冷戦後」ではなく、「第二次世界大戦後」を意味します。このように、日本の中にある「冷戦の勝利者」としての意識、もっと言うと「自負」と、「第二次世界大戦の敗者」という扱いの間に著しいギャップが生じていて、「ホンネ」と「タテマエ」が徐々に乖離していることも、不満が募る原因だと思います。

不満があるのは、ある意味当然です。70年間でパワーバランスは大きく変わりましたから、それを反映して仕組みを変えてほしい、という要望が、国連安全保障理事会の改革問題などにも現れています。中国が西太平洋に出たいというのも、そうした例なのでしょう。ただ、フィクションと現実がズレていて、そのズレをどう埋めるんだというときには、「平和的変革」しかありえないわけです。歴史家でもあり、国際関係学の創始者でもあるE・H・カーはこう述べています。

「実際、われわれは次のことを承知している。すなわち平和的変革は、正義についての共通感覚というユートピア的観念と、変転する力の均衡に対する機械的な適応というリアリスト的観念との妥協によって初めて達成される、ということである。成功する対外政策が実力行使と宥和という明らかに対立する二極の間で揺れ動くのはなぜか、その理由はここにある」(原彬久訳『危機の二十年─理想と現実』2011年、岩波文庫、420ページ、原著の刊行は「戦間期」「第二次世界大戦」直前の1939年)

現状を一方的に変えようとするのではなくて、その中で役割を演じつつ巧く変えようとしないと、「勝ち組」の側から「修正主義者」に映ってしまうことになります。

 ――ルールに適応して、期待された役割を演じながら変更を目指すべきだ、というお話はもっともなのですが、一方で、そのルールこそが間違っているのだ、それに則って行動することはその間違ったルールに屈することだ、と主張する人々もいるかと思います。それについてはどう思われますか。

一つ押さえておかなければならないのは、ルールを変えるということは、そのルールに基づいて一回一回のゲームに勝つことよりも、はるかに難しいということです。というのは、ルールの変更というのは、既存のルールの下で得をしている人にとっては、損をすることになるかもしれない不確実性がありますので、合意を引き出すのは至難の技です。

分かりやすい例が選挙制度改革です。今の選挙制度の下で勝って選ばれた現職議員に対して、あなたたちが選ばれたルールを変えましょうと言っても、なかなか賛成しないのがむしろ当たり前ですよね。衆議院の選挙制度改正が90年代になぜ可能だったのかは、当時「政治改革」の要求が高まり、国会も無視できなくなったことが決定的でした。他には、「参議院不要論」もこの類の議論で、参議院を廃止したり権限を縮小するための憲法改正発議には、まず衆参両院で3分の2以上の賛成が必要ですが、参議院議員が政治的に「自殺」することに合意するのはよっぽどのときです。

となると、ルールを変えたいという心情はそれなりに理解できても、それはどこまで実現可能(feasible)なのか、という話になります。典型的なのは「歴史戦」ですが、慰安婦問題に関する世界の認識を変えることができるかというと、およそ実現可能ではありません。強制連行があったかなかったかという話だけが重要だと、世界で認識されているわけではありません。どのような経緯であろうと、総じて本人の意思に反するところがあれば、定義上「奴隷」で、「紛争下における女性の普遍的な人権問題」ということになっているわけです。事の是非とは別に、そのルールや規範を覆すことがはたして現実的にできるのか、ということを考えなければいけません。

それが無理なら、今のルールの枠内で評価され、それに則って戦うしかないわけで、「謝ることを『買って』もらう」ことを考えたほうが得策ではないか、ということになります。ルールや規範を作り変える、ということはそれだけ難しいことなのです。

冷戦直後に国連安保理を改革しようという動きがありましたが、結局実現されませんでした。「戦争」直後というのは一番ルールを変更できる可能性が高いタイミングだったわけですが、講和条約が伴わなかったこともあり、そのときでさえ変えることができなかったのに、今になって再度試みるというのは、控えめに言っても「チャレンジング」だと思います。

そういう意味で、私が考える慰安婦問題に対する一つの解決策は、「正しいとされている側につかないと損をするので、謝りましょう」というものです。

いわゆる「リベサヨ」の人たちは、「日本が悪い、だから謝る」という論理で、実はこれに私もかなりの程度「共感」しているのですが、それだと外交政策を動かしている人たちを説得できないので、「損得」という軸を入れて、「謝ったほうが無難だ」というロジックです。

こう言うと「日本が間違っていたとストレートに認めないのか」という批判をされるわけですが、これだけ日本の中に「90年代にあれだけ努力したのに裏切られた」と思っている人が多いことを考えると、この一本調子では再度幅広い合意を形成しにくいと思います。損得という軸を入れてはじめて、左右に大きく割れて対立しているスペクトラムの中で、「センター」を分厚くし、「機会の窓」を開く可能性が出てくるのです。

また、「ネトウヨ」の人たちが私の提案に対してどう言うかというと、「お前は相手が正しいと言っているのか」という反応になるわけです。私はそうストレートに言い切っているわけではありません。正しいと「されている」側につくことが重要で、それが社会的に構成された現実なのです。これもある種の「擬制」ですが、何もしないと損をするだけだったら、早く「損切り」しましょう、ということです。

現代世界では、「規範にコミットしている」ということが「国力」の源泉になっていて、国際社会の中で「俺達の仲間である」と思ってもらわないと、それだけで損をしてしまいます。人権、特に女性の人権は最たる例です。日本は戦後70年間、基本的には「国際の平和と繁栄」に貢献してきた優等生プレーヤーだったわけですが、こと慰安婦問題に関しては逸脱プレーヤーに映ってしまっているので、そこを考え直し、立ち居振る舞いをいま一度改めるチャンスなのではないでしょうか。

「均衡解」を求めよう!

――今おっしゃったような考え方は、日韓関係だけではなく、広く外交関係、あるいは政治一般に当てはまるように思われます。

まさにそこですよ。要は「ベスト・ミックスを考えよう」ということです。あらゆることを右か左かという一つの軸だけで判断するのではなく、安全保障に関してはリアリストで、社会的な問題についてはリベラルな立場をとる、というようなことは可能なはずで、一つひとつではなく組み合わせでベストを生み出すのが大切だと思っています。

それに、「正解」だけではなく、「均衡解」を求めることが重要ですね。もちろん、学問では真実を追究することが重要ですが、政治や外交の世界ではどこかに「落としどころ」を見つけなければいけません。ある一部分の人たちにだけ賞賛されるような「正解」をいつまでも探すより、65点くらいの評価かもしれませんが、幅広い利害関係者になんとか「納得」してもらえるところで「えいやっ」と「決着したということにする」ことのほうが、はるかに重要なのです。

――かつては、日本もうまく「均衡解」を求める政治・外交ができていたのでしょうか。

「プロ」同士が外交をしていた時代はうまくできていたんだと思います。一つは、問題が独立していた、つまり例えば領有権問題と歴史認識問題や漁業問題は別の話だった、ということと、もう一つは、政策決定に関わる関係者が少なかったことが理由です。

ところが、どんどん外交の民主化が進み、「アマチュア」、それは国民ですが、口を挟むようになると、均衡解を求めるのが格段と難しくなりました。「パブリック・ディプロマシー」なんて、外交官同士が合意すればよかった頃はそもそも考える必要がなかったわけですが、今は「内交」、つまり国内での合意を獲得しつつ、国際的にも長く持ち堪えるポイントを探すことが必要になっている。

複数のアリーナで異なる役割を演じるマルチレベル・ゲームだと、どこか一つのゲームで一方的に譲歩するような政策では、落としどころにはなりえません。そんな状況で、「正解」指向を強く持ってしまうと、「均衡解」を求められないので、結果的に物事がいっこうに動かないままになってしまいます。

――状況が変わってしまったわけですね。

「楽だった」時代の外交の常識が、今でもそのまま通じるだろう、と思い込んでしまうことは問題ですし、相手国が自国と同じだという前提に立つのも無理があります。時代は大きく変わったし、そもそも「他国」「外国」なのですから。

自分の手持ちの物差しの上に相手を置いたり、過去の延長線上に現在を置く、こうしたアプローチは危うい。「昔はうまくいっていた」「あの頃はよかった」というのは、確かにそうだったとしても、だからそれと同じやり方で現在の問題を解決できるかというと、そうではないんですね。

私も「日韓友好」モードが強かった自分の韓国留学時代(2000~2005年)の感覚に引きずられていないか、と常に自問していますが、今はかつてとは明らかに状況が変わってしまっているわけです。だからこそ、”back to the past”、つまり過去のある時点が「正常」で、そこに戻そうとするのではなくて、”back to the new normal”、つまり変化した現実、「ニュー・ノーマル(新常態)」に適した関係へと「正常化」していくことが大切になります。

もちろん首脳同士が会談するのがベストですし、最終的にはそれを目指せばいいのですが、とりあえず財務大臣や防衛大臣同士が会談して、実務から関係を再開するという「首脳会談なき正常化」がさしあたっては現実的ではないかと思います。

――先生のお話に従うと、世論が強い影響力を持つようになった現在では、「現実的に均衡解を求めていく」という考え方が社会一般に広まっていくことが必要であるように思われます。本書を書かれた背景にも、こうした考え方を広く知ってもらいたいというお考えがあったのでしょうか。

そうですね。あえて言うと、日韓関係はケーススタディにすぎないと捉えています。

変化するルールに応じてプレーの仕方を考えなければいけない場面は、日々の生活でもよくありますよね。どんな研究テーマを選ぶのか、どことビジネスをするのか、誰と付き合うのか、この会社、この業界にずっといるのか、人生の節目ごとに誰もが選択に悩んでいます。

外交だけでなく日常生活もそうした戦略的環境の一つですので、刻一刻と変化する状況に対応しなければいけませんし、場合によってはルールやゲーム自体が変わってしまうかもしれない。そういうときにいつまでも同じやり方を繰り返していても、当然うまくいきません。

「手厳しい相手との付き合い方のケーススタディとしての日韓関係」と言ってもいいかもしれません。九州大学で「キャンパス・アジア」という若者の交流・教育プログラムを担当している友人は、「インテリジェンスとしての日韓」という言い方をしています。

――どういうことでしょうか?

日韓関係や韓国に関する情報はあふれているけれども、玉石混交で、中には意図的な誤情報すら混じっています。そうした「(ディス)インフォメーション」を選り分けて、意思決定に役に立つ「インテリジェンス」にまで昇華させるトレーニングとして、日韓関係ほど適した素材はない、ということです。

日韓関係という「ハードケース」でそれができるようになれば、他の場面でも当然できるようになっているはずで、この本が読者のみなさんにとって一番役に立てる部分がまさにこの点にあります。

連立方程式のなかの日韓

――終章に、若い世代は日韓関係をもっとクールに捉えていて、視点がそれまでの世代とは違うという指摘がありました。

今の若い世代は「コスモポリタン的」というか、「日韓」というかたちでは問題設定しないんですね。グローバルな世界の中で、そのつど局面によって関係性が変わると見ているように思います。あるところではライバルだけれども、別のところではパートナーでもあるような複合的で可変的な関係である、と。

もちろんマイクを向けられて「独島」についてどう思うかと聞かれたら、他の世代と同じように「韓国領」と答える韓国人がほとんどだと思いますが、普段の生活では「日本」を特に意識しないでしょうし、純粋にコンテンツとして良いものだから取り入れる、という「理解」「対応」になっているのではないでしょうか。

ラーメンや日本酒が好きだからといって、安倍首相に対して好感を抱くことにはつながらない。逆に、安倍首相の靖国参拝に反対だからといって、ラーメンを食べなくなるわけでもない。つまりカテゴリーに応じてそれぞれ別の問題としてクールに認識しているということです。

――ではそうした世代が社会の中心を占めるようになると、日韓関係は新たな局面を迎えることになるのでしょうか。

いまや日韓という「一次方程式」だけではほとんど何も分からないし、物事も動かせないということだと思います。アメリカや中国を入れた「連立方程式」の中で、まず日米関係や日中関係を動かすことで日韓関係を解く、というアプローチが求められています。それだけタフな知性が試されています。「日米韓」「韓米中」「日中韓」など複数の連立方程式を同時に解くのは困難で、「やせ我慢」が強いられる局面もあるでしょうが、全体としてどう振る舞うのかが問われているのではないでしょうか。

プロフィール

浅羽祐樹比較政治学

新潟県立大学国際地域学部教授。北韓大学院大学校(韓国)招聘教授。早稲田大学韓国学研究所招聘研究員。専門は、比較政治学、韓国政治、国際関係論、日韓関係。1976年大阪府生まれ。立命館大学国際関係学部卒業。ソウル大学校社会科学大学政治学科博士課程修了。Ph. D(政治学)。九州大学韓国研究センター講師(研究機関研究員)、山口県立大学国際文化学部准教授などを経て現職。著書に、『戦後日韓関係史』(有斐閣、2017年、共著)、『だまされないための「韓国」』(講談社、2017年、共著)、『日韓政治制度比較』(慶應義塾大学出版会、2015年、共編著)、Japanese and Korean Politics: Alone and Apart from Each Other(Palgrave Macmillan, 2015, 共著)などがある。

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