2022.05.04

バブルの物語――「東京ブラックホールⅢ」への若干の異論

中里透 マクロ経済学・財政運営

経済

NHKスペシャル「東京ブラックホール」は、時代の転機となった年(終戦直後の1945~46年、東京オリンピックのあった1964年、バブルの1989~90年)をとりあげて、それぞれの時代について一般に広く持たれているイメージとは異なる時代の側面を見せてくれるよい番組だ。5月1日に放送された「東京ブラックホールⅢ 1989-1990」も、バブルの頃のさまざまな出来事を描いて、面白いものであった。

ただ、バブルの時期を1986年~1989年として、1990年をバブル崩壊後の時期として描くというのは、当時の実際の状況や世の中の雰囲気からすると、ややずれが生じているようにも思われる。1990年10月にはNHKスペシャル「緊急土地改革・地価は下げられる」という番組が5夜連続で放送されたが、そのサブタイトルには「土地本位制を崩せ」「(東京)一極集中の排除」といった文字が並んでいる。となると、1990年はまだ「平成景気」「平成バブル」のもとにあったとみることもできるだろう。

もちろん、バブルがいつ始まり、いつ終わったのかを特定することは難しいが、当時の記憶が薄れないうちに、さまざまな人が、さまざまな立場で記録をとどめておくことには一定の意義があるだろう。以下ではできるだけ具体的なデータと客観的な事象をもとに、「バブルの物語」を描いてみることとしたい。

なお、「バブルは崩壊して、初めてバブルとわかる」というアラン・グリーンスパン元FRB(米国連邦準備制度理事会)議長の言葉にもあるように、バブルの真っ只中にいる人たちが目の前で起きている動きを「バブル」と認識することには困難が伴うが、以下では表記の簡素化のために、「現時点で、過去を振り返ってみたときに、バブルと思われる事象」あるいは「現時点で、過去を振り返ってみたときに、バブルと思われる時期」のことを「バブル」と表記することとする。

1.2つの「バブル」

地価のバブルと株価のバブル

「東京ブラックホールⅢ」でバブルの時期を1986年~89年として、90年を除外することには一定の合理性がある。株価の推移をもとに「バブル期」とその後の時期を区分するということであれば、89年と90年の間に境界線があることはたしかだ。日経平均株価は1989年の大納会で38,915円87銭の史上最高値(終値ベース)を付けた後、1990年に入ると大発会から下落に転じ、同年10月1日には89年の年末の水準の半値近くまで値を下げている(20,221円86銭。その後は上昇に転じた)。したがって、株価を基準に「バブル崩壊」をとらえるなら、その起点を1990年としてもおかしなことはないだろう。

だが、「バブル」にはもうひとつのタイプがある。それは地価のバブルだ(もちろん、ファンダメンタルズとバブルは容易に区別できないという前提のもとで)。「公示地価」(国土庁)で地価の動きをみると、下落に転じたのは1992年の調査においてであり、このことは地価下落が始まったのが91年からであるということを意味している(公示地価は毎年1月1日時点における標準地の地価をもとに算定されるため、92年の調査ではその前年、91年の地価の動きがとらえられていることになる)。となると、90年にはまだ地価の上昇は続いており、こうしたもとで、地価高騰を懸念する立場から、NHKスペシャル「地価は下げられる」は制作されていたということになる。

1990年が「バブル崩壊後」ではなく、「平成景気」「平成バブル」のもとにあったということは、「景気基準日付」(内閣府)からも確認できる。しばしば「平成景気」と称される第11循環は1986年(昭和61年)11月に始まり、1991年(平成3年)2月に景気の山を迎えてピークアウトしている。この経過を景気動向指数のデータ(CI一致指数)でみると、秋にはやや足踏みが生じたものの、1990年はまだ景気拡大の過程にあったということになる。

翌年、1991年の1月にフジテレビの「月9」ドラマ「東京ラブストーリー」がスタートしたが、このドラマを「バブル崩壊で失われゆく東京の姿を記録と記憶にとどめる映像」という気分で観ていた人は少ないだろう。「東京ラブストーリー」の主人公は、リカでもカンチでもなく、平成景気のもとにある東京そのものだったのだ。

「平成不況」の到来

もっとも、91年の春あたりから、次第に不況の影がしのび寄ってくる。ジュリアナ東京が開業したのはこの年の5月、フジテレビ製作の映画「就職戦線異状なし」が封切られたのは6月。ジュリアナ東京のお立ち台は、しばしばバブルの象徴として取り扱われるが、これはバブル絶頂期のものではなく、むしろバブルの残照のような光景なのである。

「就職戦線異状なし」は新卒者の就職が売り手市場だった頃の大学生の就職活動を描いた映画であるが、新卒者に対する求人数は、1991年卒業見込みの大学生が就職活動をする時点(1990年)でピークを迎える。92年卒からは就職活動が厳しくなって、大卒者の就職難が社会問題となっていく。自由国民社(ユーキャン)の新語・流行語大賞で「就職氷河期」が審査員特選造語賞を受賞したのは1994年のことだ。

このように、「平成景気」が「平成不況」に転化したことは、92年頃には広く認識されるようになったが、それがいま認識されているような「バブル崩壊」、すなわち、構造的な変化(経済成長率の下方屈折)を伴うものだという理解は必ずしも一般的ではなかった。1992年6月に刊行された宮崎義一『複合不況』(中公新書)は、今回の不況が単なる需要不足に起因するものではなく、バランスシート(ストック)の調整を通じて信用逼迫につながるものだということを指摘していたが、「山高ければ谷深し」という従来型の景気認識も根強くあった。景気は1993年10月に底打ちして回復に向かったから、地価が下げ止まればさまざまな問題も解消に向かい、元の成長軌道に戻れるという期待もあった。

このような楽観的な見方が消え、経済や社会に不可逆的な変化が生じたのではないかという認識が広まることとなったきっかけのひとつは、1995年に起きた一連の出来事であろう。この年の1月には阪神淡路大震災が起き、3月には東京で地下鉄サリン事件が起きた。8月には兵庫銀行の経営が行き詰まり、戦後初の銀行破綻が生じた。これらは戦後日本の「安心・安全・安定」が崩れ去ったことを世の中に広く知らせる出来事であった。平成という元号に込められた「地平らかに天成る」という願いとは裏腹に、困難な時代が到来することとなった。

その後は、大和銀行ニューヨーク支店巨額損失事件(1995年7月・公表は同年9月)、「住専国会」(1996年1月)、ジャパンプレミアム(信用力の低下した日本の金融機関が資金調達を行う際に課される上乗せ金利)の発生を経て、97年11月の金融危機(三洋証券・北海道拓殖銀行・山一證券)へと続いていくことになる。

これらの経過を踏まえると、たしかに株価は1990年の年初から下落に転じたものの、90年中は景気は拡大を続けており、そのもとで地価も上昇が続いていたから、1989年までを「バブル期」、90年以降を「バブル崩壊後」と区分することにはやや慎重でなくてはならないということになるだろう。92年頃には不況色が強くなったが、この状況は通常の景気循環のもとでの「山」「谷」の動きとみる向きもあり、バブル崩壊が後戻りできない不可逆的な変化であると認識されるまでには、そこからさらに3年ほどの月日を要したことになる。

2.「バブル」と地価高騰の物語

バブルがいつはじけたのかを特定することが難しいのと同じように、バブルがいつ生まれたのかを特定することも難しいが、バブルが発生する契機となった事象が何であったのかを振り返ることはできるだろう。ここでは時計の針を戻して、「平成バブル」の出発点とその後の経過についてながめてみることとしよう。

きっかけはフジテレビ?

1980年代後半から90年代初頭にかけて日本で生じた資産価格の上昇が、仮にバブルであったとすれば、その発生の契機となった出来事としては85年9月のG5(先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議)・「プラザ合意」をあげるのが一般的である。だが、ここではフジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」が始まった83年4月を起点として、「バブルの物語」をスタートさせることとしよう。実際、東京都心の地価はこのころから値上がりが目立つようになり、翌84年の年初には日経平均株価が初の1万円台となった。

このような株価・地価の動きと並んで、1983年にはもうひとつ特筆すべき出来事がある。それは同年11月の「日米円・ドル委員会」の発足だ。日本の金融自由化については「2つのコクサイ化」、すなわち経済・金融の国際化と国債の大量発行がその後の経過に大きな影響を与えたとされるが、そのもとで金融自由化の方向性を具体的に決定づけたのが、日米円・ドル委員会における協議である。

金融自由化は日本にとって避けて通ることのできない道であったが、護送船団方式のもとでの行動様式(横並び意識など)から離れることができないまま、経営の自由度が広がったことは、金融機関の活動にさまざまな歪みをもたらした。長短分離によって仕切られていた長期信用銀行は、長短の垣根が低くなるにつれて次第に都市銀行との競争を迫られるようになり、このことが長信銀のその後の経営に大きな影響を与えて、さまざまな帰結がもたらされた(長信銀3行のうち2行は1998年に相次いで破綻し、残る1行は都銀と合併して、いまはシステム障害に苦しんでいる)。

「円高不況」と「平成景気」

その後は、プラザ合意をきっかけとした急速な円高の進行によって「円高不況」が起こり、その対応策として公定歩合が史上最低(当時)の2.5%にまで引き下げられ(87年2月)、ブラックマンデー(87年10月)の影響もあって極めて緩和的な金融環境が継続したことから、地価と株価の異常な高騰がもたらされた、というのが日本版「バブルの物語」の定番的なストーリーということになる。

もっとも、ここで留意が必要なのは、このような資産価格の上昇が実質経済成長率の上昇を伴いつつ生じたということだ。「バブル」というと「実体経済の改善を伴わないマネーゲーム」という形容がなされることがあるが、円高不況後の日本は87年から90年まで4%を上回る経済成長を実現しており、第一次石油危機後の期間についてみると、成長率の高かった77~79年と同じかそれをやや上回るペースとなっている。91年にはやや減速が生じたが、それでも4%近い経済成長を達成している。

このような形で好景気が続いたにもかかわらず、物価は落ち着いた動きを示していた。消費者物価指数(前年同月比)でみると、1988年までは上昇率が0%台で推移している(89年には2%台後半の上昇が生じているが、これは消費税導入の影響が大きいものとみられる)。当時、極めて緩和的な金融環境が継続した理由はさまざまであるが、物価上昇率が低位にとどまったことが、利上げのタイミングを後ずれさせる要因となったことはたしかだろう。

このような状況は1989年の後半に転機を迎える。ひとつは物価上昇のペースが加速したことによるものだ。もうひとつは、資産価格、とりわけ地価の高騰が、金融政策の運営において無視しえない要素となったためである。史上最低(2.5%)となっていた公定歩合は、89年5月にすでに引き上げに転じていたが、89年10月、12月、90年3月、8月と相次いで引き上げられて6%に達した。

この過程では、金融政策だけでなく金融行政の面でも、また土地税制や国土利用計画法の運用の面においても、地価高騰への対応が大きな課題となっていった。

「地価抑制」という「国是」

最近ではバブルはすべて「悪」というのが通り相場となっているが、株価の上昇と地価の上昇とでは、当時の世の中に受けとめ方の違いもみられた。株価の上昇は企業がエクイティ・ファイナンスによって(少なくとも見かけ上は)低い資本コストで資金調達を行うことを可能としたし、個人投資家には株式の値上がりで利益がもたらされたし、証券会社も活発な商いによって好業績を享受することができたから、株高はある意味では「三方一両得」という面があった。

これに対し、地価の上昇は2つの点で大きな社会問題を惹き起こすこととなった。ひとつは、地価高騰によって住宅取得の困難化が生じたことである。当時、東京の都心に通勤する平均的なサラリーマンが戸建ての家に住もうとすれば、1時間半以上の通勤を覚悟して郊外に物件を求めなくてはならなかった。当時の「サラリーマン川柳」(第一生命)に「マイホーム いつか訪ねた 行楽地」というのがあるが、これはまさに「通勤快速河口湖行き」の世界である。

地価高騰によって惹き起こされたもうひとつの問題は「地上げ」である。地上げによって長年住み慣れた場所を離れなくてはならなくなった老夫婦のエピソードや、立ち退きに反対する住民の家に地上げ屋がダンプカーでつっこんだという事件は、地価高騰のマイナスのイメージを増幅させる要因となった。

こうしたもとで、新聞は連日、土地問題の深刻さを伝え、NHKは「緊急土地改革・地価は下げられる」をはじめとする特集番組を放送し、国会でも地価高騰の問題が繰り返しとりあげられて、地価抑制は次第に「国是」となっていった。

お祭りすんで日が暮れて

「土地無策」との批判の声にせかされるかのように、政府は国土利用計画法を改正して投機的な土地取引に対する規制を強化し(89年12月)、不動産融資の総量規制を導入するとともに(90年4月)、91年度の税制改正で地価税の創設と譲渡益課税の強化を行った。これらの政策が発動された影響もあって、「バブルの物語」は転機を迎える。

もっとも、地価の動きに変調が生じた当初は、地価の安定は庶民のマイホームの夢を実現に近づける、よい変化として好意的に受けとめられた。地価と株価の適度な調整は、景気の過熱を抑え、好況を持続的なものとするうえで望ましいものであるとの意見もあった。たしかに実体経済は好調だった。クリスマスが近づくと、都心のホテルは予約で一杯になり、デパートにはティファニーのオープンハートを買い求める男女の行列ができ、終電が終わった直後に六本木でタクシーの空車を見つけることはほとんど不可能に近かった。平成景気は21世紀まで続くかのように思われた。

だが、東京ラブストーリーが最終回を迎え、オールナイトフジの放送が終了したあたりから(1991年3月)、世の中の潮目が変わり始める。1991年6月、野村証券が大口顧客に損失補てんを行なっていたことが明らかになり、8月には東洋信用金庫の架空預金証書による不正融資事件で料亭「恵川」の女将、尾上縫が逮捕された。10月には一連の金融不祥事の責任をとって橋本蔵相が辞任した。

「いったい俺たちはノッペリとした都会の空に いくつのしゃぼん玉を打ち上げるのだろう?」。橋本蔵相の辞任から2週間後にリリースされた新曲「しゃぼん玉」の中で長渕剛はこう歌ったが、「平成バブル」というしゃぼん玉は、このときすでに壊れて消えかかっていたのである。(文中敬称略)

プロフィール

中里透マクロ経済学・財政運営

1965年生まれ。1988年東京大学経済学部卒業。日本開発銀行(現日本政策投資銀行)設備投資研究所、東京大学経済学部助手を経て、現在、上智大学経済学部准教授、一橋大学国際・公共政策大学院客員准教授。専門はマクロ経済学・財政運営。最近は消費増税後の消費動向などについて分析を行っている。最近の論文に「デフレ脱却と財政健全化」(原田泰・齊藤誠編『徹底分析 アベノミクス』所収)、「出生率の決定要因 都道府県別データによる分析」(『日本経済研究』第75号、日本経済研究センター)など。

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