2012.11.05

荻上 安田さんは『日本の難題をかたづけよう』(SYNODOS編、光文社新書)の一章で、「マーケットデザイン」の可能性について書かれています。そこでは新しい経済学的な思考法が、今後の日本の社会問題を解決するために非常に重要なものだと論じています(付記:この後、ハーバード大のアルビン・ロス教授とカリフォルニア大のロイド・シャプリー名誉教授がノーベル経済学賞を受賞し、マーケットデザイン理論はますます注目を集めています)。

今日は、現在の経済学、特に安田さんが専門とされているミクロ経済学が持っている可能性、あるいはすでに実践されている現場の知恵についてお話いただくと同時に、今後必要な経済学の活用法といったものを伺いたいと思います。まずは簡単に、マーケットデザインとは何かについて、ご説明いただけますか。

マーケットデザインとは何か

安田 『日本の難題をかたづけよう』というとても意欲的なタイトルがついていますが、今の日本の経済問題を解決してくれるものすごい知恵が書かれているのかと期待して、実際に本書を手にとっていただいた方はちょっとガッカリするかもしれません(笑)。でも、このことがある意味、今の経済学の状況を表しているように思います。

「日本経済はこう立て直せ」だとか、「金融危機はこう解決しろ」といった経済書が、書店にはあふれています。あるいは、日々の報道などでもそうした意見を多々、目にします。ところが、そこにはあまり意見の一致が見られないし、劇的な処方箋もあるようには思えない。逆にいうと、もしも多くの専門家が勧める有効な処方箋があれば、ここまで状況は深刻にはなりません。

複雑なマクロ経済現象に対して、これをやれば必ずうまくいく、こうすれば景気は良くなる、といったバラ色のストーリーが描けるほど、経済学の理解は進んでいません。まだまだ分からないことがたくさんある。一方で、もう少し細かな問題を切り取って分析するミクロ経済学の分野では、この二十年ぐらいでいろんなことが分かってきているんですね。僕が担当した一章で取り上げたマーケットデザインは、そうした領域の最前線の学問です。

マーケットデザインというのは、ゲーム理論を用いた、従来とは違う新しい経済学のアプローチで、具体的な制度設計や政策提言につなげていく分野です。日本ではまだほとんど認知されていませんが、研究が最も積極的に行われているアメリカですら、一部の専門家の間でしか詳しくは知られていません(付記:ノーベル賞の発表直後はさすがに認知度が急上昇しました。これが一過性のブームに終わらずに、続いていくことを願っています)。

腎臓交換メカニズム、制度の抜け穴

荻上 マーケットデザインの実践例として、具体的にどのようなものがありますか。

安田 規模の大きい応用例は今のところ次の四つがあります。「周波数帯オークション」「研修医マッチング」「腎臓交換メカニズム」「学校選択制」。その中で「腎臓交換メカニズム」に、最近ちょっと動きがあったので、書籍に取り上げていない部分をお話します。

本を読んでいない方のために、まずは「腎臓交換メカニズム」とは何かを簡単に説明します。生体間で移植が行われる腎臓の臓器移植ですが、腎臓病を患うと自分のパートナーや家族から臓器提供を受けようとする場合が多いです。そこで問題になってくるのが、血液型に代表される適合性です。患者と臓器が適合条件に合致しないと、拒絶反応を示してしまって移植自体ができなくなります。

すると、「移植をしたいのに提供できない」「移植を受けたいのにできない」というミスマッチが発生する。実際に、世の中にはそうした不幸な事例がたくさん存在します。そこで経済学者たちが不幸なペアを集めて適合条件が合うよう組み合わせを換え、腎臓移植を円滑に行うための制度設計を考えたわけです。

現実にこの仕組みが、アメリカの病院で取り入れられはじめているのですが、いざ制度を走らせてみると困った事態も生じているようです。先日オーストラリアの学会で、この腎臓交換メカニズムをデザインしたハーバード大学のロス教授の講演を聞いたのですが、こういった臓器交換メカニズムを使うと一見うまくいきそうに見えるものの、各病院の参加や協力を強制できないことから、次のような問題が発生してしまったらしいのです。

個々の病院は、自分たちだけで簡単に臓器移植ができるような患者に関しては、この便利な仕組みを使わなくても済む。その一方で、自分たちではなかなか臓器提供者を見つけられない場合に、こういうメカニズムを積極的に利用しようとする。結果的に何が起こったかというと、移植が難しい患者とドナーのペアばかりがロス教授たちの作った制度に集まってしまったんですね。そうすると、せっかくの交換メカニズムを使っても、なかなかうまくマッチングを組ませることができなくなってくる。ある種、モラルハザードのようなことが起こっちゃったんです。

今の段階ではまだ失敗には至っていないのですが、法律的な対応を含めてもう少し巧妙なメカニズム設計をしないと、なかなか移植の連鎖が起こらないというのが現状のようです。病院が自発的にメカニズムに参加するかどうかを決める、というところまで考えたうえで、いかにメカニズムを設計するか。そこまで広く考えて制度の抜け穴を詰めていかないと、こうしたモラルハザードが出てきてしまう、という教訓になっています。

安田洋祐氏(右)
安田洋祐氏(右)

実践行動経済学

荻上 リチャード・セイラー、キャス・サンスティーンの『実践行動経済学』(日経BP社、2009)という本があります。この本では、人々の行動を統計的に把握したうえで、最適なメカニズムの設計に近づけていこうというような議論が書かれていますね。

例えば、「交通事故を減らす」という課題があったとします。そのときに、多くの人の議論はどうしても、個人のマナーを底上げしようという発想になりがちです。それに対して、道路の設計が間違っているから交通事故が起きやすいという発想もありえます。実際、各地方自治体や省庁のウェブサイトに行くと、この道路を云円で工事をしました、この工事をしたことによって年間何件事故が減りました、といったようなデータが載っている。

道路工学、交通工学の知見に基づき、カーブミラーをどこに付けましたとか、道路の真ん中の白線を取り払うことで、ドライバーが注意しながら運転するようにしましたとか。あるいは事故が起きやすいところは衝材をより多めに置くことで、死亡者数は減りましたとか、そういう試みは日常的に、当たり前に行われています。このように人間心理の反応を組み込んだかたちでの外部環境への介入によって、不幸なケースを具体的に減らすことができる。

行動経済学だけに限らず、統計を駆使したり、ゲーム理論的な発想で問題解決に取り組むミクロ経済学の応用可能性を、安田さんは多く紹介してくれています。

安田 そうですね。心理学で得られるような、従来の経済学とは違ったタイプの研究成果や知見を活かして、それを経済分析に応用させようというものを広く「行動経済学」と呼びます。心理学者はかなり泥臭い人間像を昔から扱っていて、その中でシステマティックに観察されるような思考や発想のパターンを、経済分析に当てはめようというものですね。

いまチキさんのおっしゃった道路交通問題に関して、例えば、下り坂が始まる前に「これから下り坂が始まります」という看板を置いておくと、実際にブレーキを踏んでもらいやすいというような、一定の行動パターンが心理学の研究で分かっています。それを政策に反映してあげると、低いコストで大きな効果が期待できる。

行動経済学の本はたくさん出ていますが、その多くは、伝統的な経済学では分からなかったことが分かったとか、古典的な経済学は使えない、といった宣伝文句をうたっています。しかし、実際に学問分野の最先端で行われている行動経済学の研究は、対象となる人間像を拡張しながらも、従来の経済学と非常に近いことをやっています。

従来の経済学は消費や金銭的なリターンといった、狭い行動原理に従って動いている人間像をしばしば分析してきました。行動経済学はそれを少し拡張して、自分のことだけでなく相手の状況に応じて満足感が変化したり、自分と相手の取り分ができるだけ均等化しているほうがハッピーになったり、という具合に個々人の行動原理あるいはモチベーションを広げているわけです。その上で、より幅広い経済現象を分析しようとしています。

『実践行動経済学』の原題は『Nudge』で「小突く」という意味なんですが、心理学から得られた知見を活かすことで、ちょこっと人々を小突いてあげる。そうすることで社会的に望ましい意思決定をさせる実践例がたくさん載っているんですね。ただし、この手の行動経済学の実践にもろ手を挙げて賛成できるかといえば、そのあたりは微妙です。一橋大学の齊藤誠さんのように、この本のアイデアに共感して、行動経済学の知見は制度設計に使えると強く主張される方がいる一方で、(僕も含めて)やや慎重な経済学者も多くいます。

どういうことか、もう少し具体的にお話しましょう。Nudgeの一つの実践例として、何か選択肢が与えられたときに、そもそも選ばれているデフォルトオプションを人は選びやすい、という傾向が知られています。例えば「二つの選択肢AとBのうち、あなたはどちらがいいですか?」というアンケートがあったときに、すでにAに丸が付いていて、それを変えるとBに、そのまま変えないでいると自動的にAになる、という聞き方になっていると、何も変えずにAを選ぶ人が統計的にかなり増えるのです。

そうしたデフォルトオプションの癖を知っていると何ができるかというと、例えばAを選ばせたいときには、あらかじめAに丸を付けておくんですね。変えたい人は変えなさい、変えたくない人はそのままにしておきなさい、というふうにする。参加者はいちおう選択の権限を与えられているから選んだ気にはなるんだけれども、じつは知らず知らずのうちに、制度設計者によって彼らの思い描いた結果へと誘導されているわけです。

これは「リバタリアン・パターナリズム」と呼ばれています。当事者は選んだ気分になっていますが、実は行動の癖を見抜かれていて、それを巧みに利用した制度設計になっている。ちょっと恐い話のような気はしますが、それを著者のセイラーとサスティーンは、積極的に活用する道があるという風にポジティブに捉えています。

逆にネガティブ、あるいは慎重に捉えている人は、選択肢AとBを与えられたときに、AをデフォルトオプションにするとAをたくさん選び、BをデフォルトオプションにするとBを選ぶことが分かっているとすると、真にその個人が選びたい選択肢がどちらなのか、少なくとも当人の選択行動からはよく分からない、ということを心配します。そもそも社会がなぜAを選ばせようとするのか、という理由や根拠を、個々のメンバーたちの好みと直接結び付けて議論することができなくなる。にも関わらず、勝手にAを選ばせてしまって良いのか、という点が気になってくるわけです。

荻上 リバタリアン・パターナリズムは、外部の価値観のようなものとも関係してきます。だから、「限定されているが、だからこそ良心的な選択肢」になっているかどうかというのが、どうしても重要になりますね。

本当に人は自由に行動しているのかといったときに、やっぱり舗装道路をつくればみんなそこを通りたがるだろうと想定している。あぜ道を通りたいってやつもなかにはいるのかもしれないけど、あぜ道を通らないほうがだいたいの人がハッピーになるし、実は完全自由の状況よりも、それぞれの人の幸福度や満足度が上がる。だから、そうした設計を事前に作り、人々の利便性を今よりも上げることによって、ある種の正義が確保できるんだって話になっているんですね。

ただ他方で、いまおっしゃっていただいたように、それはすごく環境にコミットメントする思想だったりするので、個人の意識はすべて括弧に括ったうえで、ある種のモデルに押し込めた人間観になってしまうんじゃないかというような議論は、どうしても出てくる。だけど、それをさらに批判するためには、そもそも行動経済学とか統計的手法というのが何なのかということを知っておいて、「こっちのメニューのほうがいいだろう」という提示で応答しなくてはならない。なので、まずはその方法論みたいなものをシェアすることからじゃないと、議論がそもそも始まらないということにはなってしまいますし、リバタリアン・パターナリズムを否定することはできないでしょう。

行動経済学のアノマリー

安田 もう一つ、意思決定のくせやゆがみのようなものに関連して、非常に単純な例を挙げたいと思います。いま、オプションAとBのどちらかを選ぶと、それぞれに書かれた金額を皆さんが受け取ることができると考えてください。オプションAは四九×九四円。オプションBは五八×八五円。あっ、計算しちゃダメですよ。どっちがいいですか? Aがいいと思う人、手を挙げてください。

荻上 一〇分の三ぐらいですかね。

安田 Bがいいと思う人、手を挙げてください。

荻上 一〇分の七ぐらい。

安田 これ、計算すると明らかですが、Bのほうが金額は高くなっています(ちなみに、四九×九四=四六〇六、五八×八五=四九三〇)。いったい何が言いたいかというと、こういった例は行動経済学のアノマリー(変則的事実)として出てくるのですが、このようにパッと質問をしたときに、計算するとBの金額が高いにもかかわらず、Aと答える人がいる。今も三割ほどいました。

重要なのはこの結果の解釈です。いまAに手を挙げた人たちが、あえて少ない金額を望んでそうしたのかというと、おそらく違うわけです。パッと選択肢を出されると、計算が難しいのでAとBのどっちが大きい値なのか分からない。どうせもらえるんだったら金額が高いほうがいいと思っているにもかかわらず、結果的にAを選んでしまうということは起こりうるわけですね。

問題が複雑で十分に考える時間がないと、この例のように、本来高い金額をもらいたいと思っていても、少ない金額を選ぶということは起こります。ところが、選択行動だけをそのまま追ってしまうと、金銭価値を最大化しない、つまり標準的な経済学研究の行動仮説に反しているように見えてくるわけです。

荻上 事前に、あるいはシミュレーションしていれば選ばれていたはずの答えが選ばれないと。

安田 そうです。そうした点を踏まえると、行動経済学の一部の研究はちょっと気をつけて解釈しなきゃいけない。従来の経済学は間違っている、と言ったときに何が間違っているのかをもう少し慎重に考える必要があるでしょう。もちろん、人は必ずしも金銭価値だけを最大化するとは限りません。そういった反証もたくさんあがっています。ただ、さきほどの例のような場合には、きちんと計算する時間や環境さえ与えられれば、ほとんどの人がAではなくBを選ぶでしょう。

他にも、家を買うタイミングをどうするか、将来設計をどうするか、というような何か重大な経済問題を考えるときに、いま皆さんに聞いたような聞き方で結論を問うかというと、普通そんなことはないですよね。ものすごくじっくり考えたうえで、AにするかBにするかを多くの方が考えるはずです。そうなってくると、意思決定をパッといったときに出てくるようなアノマリーは、それ自体はおもしろい現象なんですけれども、はたして重要な経済問題を分析するうえでそこまで深刻視するほどの話なのか、と。

行動経済学の成果には、一般の人が聞いてもすぐに理解できる面白いストーリーやアノマリーがたくさんあるんだけれども、それが経済学をがらりと変えるとか、すぐに制度設計に活かせる話かというと、ちょっとあやしいのではと考えている経済学者もまだ多いのではないかと思います。

荻上 なるほど。そのあたりの道具の使い方で、すべてバラ色という話ではもちろんない。手法的に本当に実行できるのかというようなレベルのものもあるけれども、時として、それが非倫理的なアウトプットにつながるような可能性もあるんだということも、どこか知っておかないといけない。

「この思考法が出てきました。ということは社会がより前進していきます」というような方法につくすとある種のSF的な、もちろん管理社会的なものにつながりうるかもしれない。そうじゃない、もっとベタッとした、何か差別主義的な政策的なアウトプットにもつながる可能性というのは、やっぱりあるわけですよね。

先ほどのAかBかの選択、電卓で計算してみるとAが四六〇六円で、Bが四九三〇円となります。値段で書かれていると、みんなBのほうにパッと手が挙がると思うんですけど、そうではなくてあえて計算で書くような仕方でごまかされるような、わかりづらいようなかたちで設計されていると、けっこう多くの人たちが本当に欲望している答えとは違うところにいざなわれてしまうかもしれない。

つまり、今のデザインは最適でないかもしれない、そのデザインは常に間違っているかもしれない、ということを隠蔽するようなデザインであってはいけないというような部分も、一つの論点として出てくるのかなというような気はしますね。すべての社会システムは、完成しつくされたものではない。だけど、今の社会システムをいじることがタブーであるかのように、社会問題が設計されてしまっている部分もあるわけです。

例えば、いじめ問題でも、現在の学校制度という自明のものの中で改善しようとする。そして、生徒なり教師なり親なり教育委員会なり、人を鍛えるというマインドの発想ばかりがでてくる。どういう環境づくりが必要かという議論もまた、リテラシーとして共有することが重要になると思います。

開発経済学とランダム化対象試行

安田 行動経済学は最近の経済学を代表する新しい潮流で、しかもそこで得られた知見が実際の制度設計に役立てられている分野です。他に重要な成果を上げている分野に「開発経済学」があり、そこでは自然科学分野の手法であるランダム化対照試行(Randomized Controlled Trial)が取り入れられています。

ランダム化対照試行は、何か因果関係を導きたいときに特定の要因をコントロールする便利な手法です。例えば肥料を撒いてどれくらい収穫高に影響を与えるかを調べるとすると、耕作地の中を順番に区切ってランダムに肥料を与える場所と与えない場所を作る。そして、肥料に応じて実際の収穫高がどれくらい変わるかをみるわけです。

しかし、経済学の場合は、こうした自然科学と同じような実験をやることが非常に難しい。仮に可能であっても、倫理的に抵抗があったり、莫大な予算がないとできない、といった足かせが出てきます。ところが、最近その壁が徐々に取り払われつつある分野があって、それが「開発経済学」なんですね。この分野のフロンティアを伝える代表的な一冊が、今年出た『貧乏人の経済学』(みすず書房、2012)。これ、タイトルがちょっといまいちな気もするんですけど、もともと英語で “Poor Economics” という本です。

荻上 安田さんなら何て訳します?

安田 うーん、難しい問題ですね(笑)。まあ、それはさておき、著者はマサチューセッツ工科大学のバナジーとデュフロ。二人とも今をときめく開発経済学の専門家です。開発分野なので、扱っている対象は途上国になるわけですが、途上国の場合は先進国と比べると非常に低コストでダイナミックな社会実験ができてしまいます。

例えば似たような村が二つあって、ランダムに選んだ片方の村には道路を作り、もう一方の村には作らないということをやって、どれくらい道路に経済的な効果があるかを調べる。日本人の感覚からすると、そんなことやっていいのかという気はしますが、倫理的な問題には目をつぶるとすると、これをやることの強みは、因果関係がかなり正確に特定できることです。さすがに村が二つだけだと結果の信頼性は低いですが、実際には似たような村をたくさんピックアップしてランダムに二つのグループに分けることで対処しています。今まで禁じ手(!?)だったランダム化対照試行を経済学の分野にも持ちこんで、確たる科学的な証拠を出す道筋を切り拓いたというのが、彼らのいちばんの貢献になります。

本書の中にはランダム化実験によって得られたさまざまな知見が書かれています(以下は有名な研究ですが『貧乏人の経済学』の中では非常に簡単にしか触れられていませんのでご注意ください)。例えば、ケニアの山奥の子どもたちを学校に通わせるために何をすればいいか、いくつかの実験を行っています。結果的に分かったのは、いちばん安上がりでたくさんの子どもたちを学校に通わせるためには、きちんと虫下しを配ってお腹の病気をなくせばいいということでした。深刻な症状だと学校には通えなくなりますし休みがちになると勉強についていけなくなる。そうすると最終的に通うことをやめてしまう。

こういう教育問題を考えるときに、専門家が真っ先に頭に思い浮かべるのは、例えば教師にやる気がないとか、親がきちんと通わせていないとか、金銭的に余裕がないから通えない、といった問題です。そうすると、お金を配ったら通うようになるんじゃないかとか、教科書を配ったら勉強するようになるんじゃないかとか、教師に特別レクチャーをしてトレーニングすれば改善するんじゃないかなどと、いろんなことを考えます。でも、それらのオーソドックスな方法はすごいがコストかかるわりには、あまり成果がでなかった。

ところが、薬を配ったら少ないコストで目に見えて子供たちが通うようになるという結果が出たというのは、これはもうほんとにランダム化実験の強みです。ある意味でマーケットデザインと似ていますね。小さなミクロのレベルで、きちんとした科学的実験に基づく成果を一歩一歩積み重ねていくことが大きい前進につながるんだ、ということを著者たちも強調しています。

ところで、開発の分野には、さっくり言うと二つの相対立する見方が今までにありました。一つは、途上国がなかなか成長軌道にテイクオフできないのは、文化的な問題やインフラの問題があるからで、そこを改善させるために、莫大な予算をつけてビッグプッシュによって支援していこうというもの。

代表的な論者が、コロンビア大学の経済学者、ジェフリー・サックスで、日本にも何度も来ています。彼が提唱するのは、とにかく援助が足りなくて、少ない金額でやってもまたもとに戻っちゃうから、劇的に状況を改善するぐらいのビッグプッシュを与えなければいけない、というものです。

一方でその対極にあるのが、援助というのは基本的に地元の人たちの手助けにならないばかりか、むしろマイナスに働いているという見方。いわゆる援助漬けですね。よそからお金が入ってくると、それを期待して自分たちで投資も行わないので産業が育っていかないし、政治的にも腐敗を招きやすい。結局、お金を垂れ流すだけで成長を阻害してしまう、というわけです。この主張の代表的な論者が、『傲慢な援助』(東洋経済新報社、2009)を書いたニューヨーク大学のウィリアム・イースタリーです。

純粋な理論レベルでは、どちらの見方も正当化できてしまうので、白黒はつかない。これらふたつの対立するスタンスに対して、サックスやイースタリーのように大上段に構えてマクロ的な見方で開発問題をぶった斬るのではなくて、ミクロレベルの地道な証拠に基づいて、一つずつ着実にステップアップしていこうというのがバナジーとデュフロです。

荻上 『傲慢な援助』を読むと、こんなに失敗しましたってケースが膨大に書かれていて、けっこうえぐられるんですよね。よかれと思ってマラリア防止のために蚊帳を配ってみたら、地元の漁師の網に使われていたとか、無料で配っても、必要な人には届かなかったとか。本当に必要なものを必要な人に届けるためには、ちゃんとそれをお金を持っている人に売るというやり方がいちばん効率的なんですね。では、今度はどこで売ればいいのかという新たな悩みが出てくる。そうしているうちに、どうやって「機能する市場」を作り出すかという問いに戻っていく。

そうしたなかで、「こうすれば効くんだよ」という事例を出していくことが重要なんですね。仮説があって失敗があって、それに対して適切な疫学的処方箋が提示するというサイクルが前進していく。それは社会問題を解決するうえで非常に重要です。大きな物語を語ることも重要ですが、一つひとつの細かな事例や失敗学を蓄積していくことで前進する。そうしたミクロ経済学の強みがうまく活きている分野の一つに開発経済学があるんですね。

オランダ病について

荻上 ちなみに安田さんは、「マイクロファイナンス」についてはどうお考えですか。

安田 ご存知の方も多いと思うんですけれども、「マイクロファイナンス」とは、ムハマド・ユヌスさんがノーベル平和賞を受賞して注目を集めた小口金融のことで、彼はバングラディシュで、貧困な人々でも少額の融資を受けられる仕組みを作って成功しました。

どういうかたちでお金を出せば、最も効率的な使われ方がされるかを考えた結果、彼は例えば男性ではなく女性に貸す、というビジネスモデルを導き出した。それは、直接的に経済学の知見を活かしたわけではないかもしれませんが、ある種、借り手のインセンティブをきちんと把握したファイナンスの仕組みになっているわけですね。

あと、さきほどの援助漬けに少し関連する話題として、「オランダ病」という言葉を聞いたことありますか? オランダ自体は途上国ではないんですけれども、天然ガスがとれるようになってから、産業構造の変化や為替レートの調整によって工業が衰退してしまった。天然資源が突然手に入った場合、一見するとその国は得するような気がしますが、長期的に見ると経済発展を押し下げるかもしれない、ということを意味する用語です。

途上国の場合には、例えばアフリカでダイヤモンドが悲劇を生んでいるという話が映画にもなりましたね。なまじ天然資源が採れると、それが原因で国内の資源配分が歪みます。自分たちで産業を興して食い扶持を作らなくても、とりあえずその天然資源にぶら下がっていけば食べていける。天然資源の輸出だけを行うような産業構造だと、往々にして人的資本の蓄積が進まないわけです。

「オランダ病」が意味するのは、先進国においてもこれと同じことがいえるということ。日本は元来天然資源が少ないといわれていますが、最近、日本海近海が天然資源の宝庫かもしれないというニュースが報じられています。

荻上 新たなニュースが入ってくるたびに、けっこうワクワクしますけどね。

安田 海底油田が見つかったり、レアメタルがたくさん出てきたり、あるいはメタンハイドレートが使えるようになったりすると、日本が資源大国になるかもしれない。でも、万が一オランダ病にかかってしまうと、日本の成長にとってマイナスになってしまいます。おそらく多くの人は、天然資源はあるだけあったほうがいいと思っているでしょう。でも、実はそんなに単純な話ではなくて、あればあったで人々のインセンティブや他の市場の経済状況が変わってしまう可能性があるんですね。

僕自身は、だから日本は天然資源の利権を拒否するべきだ、とまでは言いません。ただ、こういった視点に立つと、仮に利権が手に入らなかったとしても、そこまで実際には大きな損失ではないかもしれない、という新しい見方はできるようになります。

荻上 資源を手にしたときに、あらかじめオランダ病を避けるための方法みたいなものが出てくるかもしれないですよね。

安田 そうですね。

荻上 例えば原発利益地域が、それがあることによって短期的には潤うけれども、長期的には財政が元に戻っていくという指摘もあります。補助金が年々減っていくなかで、はたして短期的にブーストを獲得していった地域が、長期的にも発展を保てるのか。今後、経済学や政治学の知識を持った人が検証していく作業になると思います。

これは単なる政治的な批判ではなくて、どういった発展モデルがよりベターなのかということを、その地域に合わせたかたちでチューニングしていくためにも、検証が非常に重要になってくると思います。

幸福の経済学

安田 最近「幸福の経済学」とか「幸福度研究」といったものが、ちょっとしたブームになっています。

荻上 世界一国民の幸福度が高いといわれるブータンの王子様が来日して、一時期話題になりましたね。

安田 はい。ブータンは国家レベルで幸福指標を出しています。「あなたはどれくらいハッピーですか」と聞き、年齢、収入、子どもの有無など属性別に分析すると、いろんな要因によって幸福度が変わってくることがわかります。そうしたデータを国別にみていくと、いろんな発見が出てくるわけですね。

例えば国全体の所得レベルが上がると、多くの場合、それに比例して幸福度は上がっていきますが、一定の水準に達すると、所得を増やしてもほとんど幸福度は上がらなくなることが知られています。僕たちが漠然とイメージしている「お金で必ずしも幸せは買えない」ということを裏付けていて、単純に所得を増やしても幸せにならないというのは、このようにデータからも立証できるわけです。

他にも、幸福度研究についてはいろいろとおもしろい分析がされていて、最近出た翻訳書でも『幸福の計算式』(阪急コミュニケーションズ、2012)があります。このへんの話は、大阪大学の大竹文雄さんなんかが好きで、ご自身が出演しているテレビ番組でもよく取り上げられています。例えば「結婚すると、その金銭的な価値はいくら?」というやつです。べつに結婚の価値が直接お金で測れるというわけではないんですけれども、もしも他の要因が全部同じだった場合に、既婚者と未婚者では幸福度に違いが出てくる。にもかかわらず強引に幸福度を同じ水準に揃えようとすると、未婚者には余計にお金を支払う必要があるわけですね。このロジックで結婚初年度の幸福の値段を計算すると、二五〇〇万円という風に答えが出てくる。

荻上 それは結婚したほうがいいということですか?

安田 少なくとも、いま言ったような意味で金銭換算できるだけの価値はあるということですね。でも一方で、独りでいることのメリットを強く感じている方もいらっしゃると思うので、個人差はあると思います。

荻上 夫婦によっても、いろいろありますからね(笑)。

安田 もう一冊ご紹介したいのが、『幸せのための経済学』(岩波ジュニア新書、2011)。

荻上 表紙がかわいいですね。

安田 著者は一橋大学の蓼沼宏一さんで、中高校生向けに書かれています。とはいえ、実は大人が読んでもおいそれと理解できない内容なんですが…(苦笑)。経済学がどういったかたちで福祉や厚生を捉えているのか、捉えなければいけないのか、ということを深くさぐっていく良書です。

流行りのサンデルの本なんかを読むと、ちょっと賢くなった気がするんだけど、実はかなり浅いことしか言っていないんですね(彼のファンのみなさま、すいません…)。社会やグループにおける意思決定の問題を研究する分野を社会選択理論と呼びますが、本書はこの分野の深い考察に基づいた代表的な研究が何を明らかにしてきたのかを、意欲的な中高生であれば(かろうじて?)理解できるように丁寧に解説しています。

特にアマルティア・センの一連の研究がかなり紹介されていて、注目したいところです。センはインド人で、アジア人としてはじめてノーベル経済学賞を受賞しました。彼はハードコアな理論家であるとともにもともとインド出身なので、インドの貧困をどういうふうに解決するか、また貧困問題をどういうアプローチで捉えればいいのかをライフワークにしている研究者です。そのセンの著作やそのエッセンスに触れつつ、貧困問題や福祉問題をどう考えていけばいいのか、経済学的な視点で捉えています。

ほかに、最近出た本で『意思決定理論入門』(NTT出版、2012)もおすすめです。先ほど行動経済学と伝統的な経済学がどの程度違うのかという話をしました。その点に関して、この本では、伝統的な意思決定の経済学である「意思決定理論」のなかで、行動経済学がどのように捉えられるかということを、初心者にも分かりやすく説明しています。

若手論壇の経済知のなさ

荻上 「自分はどれほど倫理的な人間なんだろう」と考えさせられるような本も大事ですが、そうした倫理性を社会に実装していくうえで、やっぱり工学的な知は必要で、また、その知の外部にあるものは一体どういう意味を持つんだろうと、哲学分野を逆照射することも必要となりますね。そのような議論の進め方が、社会問題を考えていくうえで大事だと思うわけですね。

ただ、あまりに文明論的な抽象論が多いのがこれまでの論壇事情としてありまして。憲法談義でも、立憲主義を知らなそうな人たちがわんさかいて、そういう人こそ大声で改正論議をぶったりしている。

安田 なるほど。最近の若手の識者たちが様々なメディアで関心を集めている現状を頼もしく思う一方で、残念なのは、彼らの手持ちのフレームワークに経済学がほとんど入っていないことです。たとえば、社会全体の意志決定はどうあるべきかという問いについては、古くはケネス・アローというアメリカの大経済学者が「社会選択理論」というものを半世紀以上も前に打ち立てていて、研究実績がかなり蓄積されています。先ほどご紹介した蓼沼さんのジュニア新書もそのラインですね。でも、社会問題を語る若手論者たちに、そのへんの理解が見られない。

もちろん、そういった理論を抑えたからといって、いまの日本に対して建設的な提案ができるかというとそれは別問題です。ただ、最低限押さえておくべきポイントや、共有すれば使えるかもしれない学術的な資源はたくさんあって、それがなかなか浸透していないというのは、経済学者のサイドから見るとちょっと歯がゆいところです。

荻上 いやむしろ、年長の「論者」な人から、「若者は経済偏重だ」みたいな批判がきたりするので、頭を抱えたりするんです(笑)。経済学の分野から社会に応答する人が徐々に出てきているし、相互批判もこれから行われていくでしょう。「当てずっぽうではない議論」が盛り上がるためには、もっと経済学者サイドも、他の分野からでも、「応答」の機会を増やしてほしいなと思いますね。

トップ・トレーディング・サイクルメカニズム

安田 最後に紹介するのは、「トップ・トレーディング・サイクルメカニズム」と呼ばれるもの。名前だけ聞くと難しそうですが、非常にシンプルなメカニズムです。お金を使わずに、いかにお互いにとってハッピーなかたちでモノを交換するか。そういった問題に使える機械的な作業手順になります。

例えば、単純なシチュエーションとして、五人ぐらいの人が集まって、自分が読み終わった本を他のメンバーが読み終わった本と交換するとしましょう。一冊ずつお互いに読み終わった本を持ち寄り、できるだけお互いが満足するかたちで交換するには、どうすればいいのか?

ここでトップ・トレーディング・サイクルを使うと、次のように交換を行うことになります。非常に単純なので、いきなり具体的なプロセスをご説明しましょう。まず、五人がそれぞれいちばん欲しい本を「いっせいのせ!」で指さす。そのときに、もしも他の人たちが持ちよった四冊に比べて自分の持ってきた本がいちばんいい、つまり交換したくない、という人は、自分自身の本をさしても構いません。

このように一斉に指をさしたときに何が起こるかというと、必ず最低でも一つは輪っかができるんですね。指さしで繋がったサイクルが発生する。二人の間でお互いにさしあう場合もあるかもしれないし、三人でぐるっと輪っかができるかもしれません。自分自身をさした場合は最小のサイクルになります。とにかく、全体で一つは必ず輪っかができます。

で、このような輪っかができたところに関しては、指をさした人がさされた人の本をもらうような形で交換をして、そのプールから出ていきます。このステップを順番にやっていくと、毎回出来上がった輪っかのメンバーの間で交換が行われるので、何回かで必ず終わります。そして、運が悪いと自分の本をそのまま持って帰ることもありますが、必ず誰かの本と交換できます。

このメカニズムの利点は、まず一つは、順番に指をさしていくときに、各ステップで嘘をついても得できない。つまり、いちばん欲しいわけではない、二番目や三番目に欲しい本を指さしても、絶対に得できないような仕組みになっている。各ステップで自分がいちばん欲しい本を正直に指さすことが、全員にとって最適な戦略になるのです。

もう一つの望ましい点は何かというと、自分が持ちよった本よりも悪い本を受け取るリスクがまったくない、ということです。自分よりも欲しい本があれば指をさしつづけて、それがなくなったら自分を指さして、メカニズムから出ていくことができるので、悪いものを掴まされることがないわけですね。こういう望ましい性質を持っています。

さらに言うと、いま言ったトップ・トレーディング・サイクルを使って交換を行ったあとに、例えばAさんとBさんの間でさらに交換をして得ができるかというと、いっさい得ができないような仕組みになっています。この意味において、最も効率的な交換を簡単な方法で実現することができるような仕組みになっています。

重要なポイントは、経済の問題はお金を使って物事を解決する場合が多いと思うんですけれども、実際には、お金を使わなくても、ある程度望ましい交換ができるということです。トップ・トレーディング・サイクルメカニズムが役に立ちそうな身近な状況としては、例えば、読み終わった本や聞き終わったCDで自分が持っていてもあんまり価値がないものを、職場や友達の間でお互いに持ち寄って試してみる。順番に指を差しあっていくと、金銭のやりとりなしで、望ましいかたちで交換ができます。

もう少し大きな応用先としては、災害時の救援物資の交換が考えらえるかもしれません。例えば、避難所に救援物資が届けられたときに、多くの場合、その救援物資は中身や内容の細かい違いは考えずに、被災者にランダムで配られるでしょう。すると、届けられた物資の中で、自分が欲しい種類のものを手に入れられないような被災者も出てきます。

そういうときに何人かで集まって、さきほどのメカニズムを使ってお互いに交換をすると、お金を使わなくても、安全にお互いにとって必ず得なかたちで交換ができるのです。どんなに戦略的な思考をする参加者がいても損することがないし、自分が最初に持っていたものよりも悪いものを受け取るはめにもならない。つまり、安心して参加できるわけですね。にも関わらず、効率的な交換結果が実現できる、という非常に優れた仕組みです。

荻上 被災地の物資のマッチングに関しては、実際に避難所や仮設住宅において、最適な配り方をするためにはどうしたらいいのか様々な工夫がなされています。本人たちが意識しないなかにも、ミクロ経済学の応用編といいますか、フィードバックできる知見みたいなものが潜んでいる可能性もあるわけですね。

これまでいろいろなケースを見てきました。「へぇー」と感心させられるような話がたくさんありました。応用事例を羅列するだけでも、前に進める点はたくさんあると痛感しております。

安田さんと話していていつも思うことは、小さな前進を称揚するタイプが、やはりこれからは必要になってくるんじゃないかということです。「この社会、こうなったらいいな」みたいな理念型はもちろん重要なんですけれども、それと同時に、具体的な環境改善を行い、いま少なくともこれだけの成果が得られるということをとにかく可視化していくことが大事だと思います。低いコストですぐにできるものはやっていったほうがいい。

修正主義だ教条主義だと対立するのではなく、両輪として進めていくことが重要なんじゃないかなと、改めて思いました。本日はありがとうございました。

(2012年7月30日三省堂書店神保町本店 『日本の難題をかたづけよう』刊行イベント収録)

プロフィール

荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

この執筆者の記事

安田洋祐経済学 / ゲーム理論

1980年東京生まれ。政策研究大学院大学助教授。2002年東京大学経済学部卒。2007年米プリンストン大学よりPh.D.(経済学)取得。同年8月より現職。専門はゲーム理論、産業組織論、マーケットデザイン。編著書に『学校選択制のデザインゲーム理論アプローチ』(NTT出版、2010)。学術論文多数。『東洋経済』(10/15発売号)新連載「学問の現場から2012」「インセンティブの作法」開始 。

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