2015.12.04

鉛筆が苦手ならキーボードを使えばいい――読み書きの困難な子どものICT利用

近藤武夫 特別支援教育、発達神経心理学

教育 #DO IT Japan#印刷物障害

障害があるから学べないのではなく、彼らなりの学び方が必要なだけです――鉛筆で文字が書けない、紙の教科書やテストの問題を読めない「印刷物障害」の子どもたちは、たとえ勉強にやる気があっても、知的に高い水準であったとしても、教育のメインストリームから疎外されやすい状況にありました。しかし、パソコンで仕事をしている人が多い現在、それは「障害」といえるのでしょうか。読み書きの困難な子どものICT利用について、東大先端研の近藤武夫氏に話を伺いました(聞き手・構成/山本菜々子)

障害は社会の中にある?

――「読み書きの困難な子ども」は学習でどんな難しさを抱えているのですか?

まず、読み書きの障害といって思い浮かぶのが、学習障害(Learning Disabilities、 LD)、その中でも読字障害(ディスレクシア)と書字障害(ディスグラフィア)です。文科省の調査では、通常の学級に在籍する生徒の4.5%にLDがある可能性があり、読み書きだけに大きな困難のある生徒に絞っても、2.4%はいる可能性があると言われています。

他にも、視覚障害があったり、肢体不自由があり、ページめくりが難しい生徒にも、場面によっては「読むことの困難」が生じることがあります。それは「印刷物しかない状況だと障害が生じる」ということです。

障害種別で分けるのではなく、「印刷物しかない状況だと障害が生じる」という共通項でまとめた、「プリントディスアビリティ」という言葉があります。日本語では「印刷物障害」と訳されることがあります。

これまでの日本の通常学級で行われる教科の教育では、紙と鉛筆で読み書きができることが、その生徒が授業に参加する上での前提になってきました。そのため、通常学級で「印刷物障害」がある生徒に配慮されることはほとんどありませんでした。

だから勉強にやる気があったり、知的に高い水準であったとしても、鉛筆で文字が書けなかったり、紙の教科書やテストの問題を読めなかったりすると、学習意欲や能力の評価がきちんと行えません。

さらに、進路を大きく左右する高校入試や大学入試のほとんどは紙と鉛筆を利用したものです。大学のAO入試を選ぶ障害のある学生も出てきてはいますが、「障害があるならAO入試を選べばいいじゃないか」という考え方はフェアではないなと思います。

そもそも競争的な大学では、紙と鉛筆の学力試験を受けないと進学できないところが一般的です。例えば「東大にいきたい」と思っても、東大はAO入試がありません。

高校入試も、進学校であれば一般的には紙と鉛筆の試験をうける必要があります。そうなると、多くの人が学力評価を経て所属することになる通常の学級に在籍することが難しくなります。結果として、障害があると、学力が本当はあったとしても、多数派の人とは違う場所に行かざるを得なくなってしまう。障害があると、進路選択の幅が狭まってしまう、という状況が残されてきました。

「教育」から「権利」へ

――印刷物が苦手な生徒は学習から疎外されていたのですね。

これまで印刷物障害を持つ子どもに対して、学校では追加的な学習指導をすることで対応していました。紙と鉛筆の扱いが障害により難しい状況にある子どもを、他の子どもたちと同じような方法で紙と鉛筆を扱うことができるように「訓練」することが主流でした。

「障害によりできないことを、みんなと同じようにできるようにならなければならない」と考えることはすごく苦しいことです。「鉛筆で書けない」ことは、ワープロの利用などの代替手段を視野に入れれば、本当の意味で「書けない」ことではありません。でもそれを「自分は能力のない人間だ」と思い込んで自尊心が傷ついていくと、学校にも行きたくなくなるでしょう。先生に「書きなさい」と指導されて書くけど、書くことはつらい。書いたけど字は汚くて読めない。そんなことをずっと続けないといけないわけです。

「障害」とは、治療や訓練によって、状況は変わるけれども、基本的にはその困難さが残り続けることを意味しています。自分がコントロールできない環境で、苦しいことをずっと強要される。書けないと「ダメな子」「進学は難しい」なんて言われ続けると、だれだって学校には行きたくなくなるのではないかと思います。

とはいえ、ここ10年ほどで特別支援教育が小学校や中学校で広まり、状況はだいぶ変わってきました。それでも読み書きが困難な子は教室に居場所がなく、非行に走ったり、不登校になったりといった状況につながる子どもも、決して少なくありません。そうした子どもたちの中には、印刷物障害のある子どももたくさんいると思われます。

――出来ないものを努力でどうにかしろと言われるんですね。それはつらいな……。

岐阜県の特別支援学校の先生をされている方に、私がとても尊敬している先生がおられます。その先生にはディスレクシアがあります。

教室では紙の教科書や試験問題がうまく読めないので、自分は勉強が全然できないと考えていたそうです。ところが、自衛隊に入った途端に「よくできる」と評価されて、自信がついたそうです。自衛隊だと口頭で指示が出され実技で評価されるので実力を発揮できた。

その経験から、「同じような子どもは大勢いるはずだ」と思って教師を目指されたそうです。当時はデジカメもICレコーダーもないし、使い捨てカメラで黒板の写真をとって記録して、テープレコーダーで授業を全部録音して、一生懸命勉強して学校の先生になった。

――すごい努力ですね。

その先生は、道具を使った工夫をこらして学ばれたところが素晴らしいと思います。でも、それを「すごく頑張った」と美談にする必要があるのだろうかと考えます。これからは当たり前のことになってもおかしくない。

よく考えて欲しいのですが、印刷物障害があっても、その人たちは印刷物以外の形で情報に触れられるとする。ならば、もはやそれは障害とは言えないでしょう。字が書けないならキーボードを使えばいいし、読みづらいなら拡大機能や音声読み上げを使えばいい。実際、大学に進学したり、就職したら、誰だってみんなキーボードをメインに使うんです。

障害による困難があったとしても、それが技術でカバーできるとすれば、あえて技術を使わずにほかの人と同じ方法でできるようにという「努力」って本当に必要なのでしょうか。

ですから、印刷物障害については、「教育」ではなく、情報にアクセスできる「権利保障」の問題だと考える転換が必要だと考えています。情報にアクセスする権利が保障されていないと、入試を経て得られる教育の機会や、資格試験や採用試験を経て得られる就労の機会など、いろいろな機会から排除されることがあります。その状況がそのままだと、社会のメインストリームの中に存在することが難しくなってしまいます。

――「教育」ではなく、情報を手に入れる「権利」だということですね。具体的にその「情報」とはどのようなものなのでしょうか。

まずは、教科書や教材へのアクセス保障が第一歩です。ぼくたち東京大学先端科学技術研究センター人間支援工学分野がやっている「アクセスリーディング」というオンライン図書館では、障害のある生徒たちに、教科書の電子データをepub形式やdocx形式で配信しています。

それだと、字を拡大することもできますし、本より簡単にページめくりができます。それにパソコンやタブレットの「音声読み上げ」機能を使って、耳で聞いて読むこともできます。

音で読む最大の問題点は斜め読みが出来ないので、時間がかかってしまうことです。でも、コンピューターによる音声読み上げでしたら、何倍速にでも速度を上げられます。時々漢字を読み間違えることがあるのですが、その時は、辞書機能で調べたり、自分でルビをふるとそちらの方を優先して読み上げてくれる機能もあるので、修正もできます。

「読み間違えるような不確かなものは与えられない」と言われる先生もいらっしゃいますが、完璧に整えられたものが与えられるのを待っている間に、子どもはどんどん年を重ねてしまいます。それに音声読み上げを使えば、誰かが用意した録音音声や、誰かが音読してくれる教材だけではなく、自分で読みたい、知りたいと思ったことを読み上げることができます。文字データにさえなっていれば何でも読み上げますから。

コンピューターで読み上げて内容を理解する方法を身につけたり、タイピングでしっかりした文章をつくることができたり、わからない漢字の読み方や意味を効果的に調べる方法を知っていることは、彼らが情報を得ていく上でとても大切な力です。一生懸命読めない文字を読んだり書いたりすることを重視しすぎるのではなく、テクノロジーを活用して情報の内容を捉えたり、内容のある情報を出力できるようになることが、彼らにとって必要なリテラシーだと考えています。

もちろん、紙と鉛筆を否定するものではないし、そちらのほうが便利だと感じる子どもはそちらを使えばいい。

でもテクノロジーを使えるか使えないかを、自分以外の人に勝手に決められてしまい、紙や鉛筆以外の道を選ぶという選択肢が用意されていないのは、本当におかしなことです。そこに自己決定がない。決められたひとつの方法しか選択肢がない状況をそのままにしていると、学びから排除される子どもたちはいつまでも残り続けます。

障害があるからといって学べないのではなくて、彼らなりの学び方が必要なだけなのです。だったらそれも提供すればいい。「ワープロを導入すると不登校の数が激減する!」なんていうのは、十分に考えられることじゃないかとぼくたちは考えています。

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写真:近藤氏

本質はどこにある?

――先ほど、入学試験の話が出ましたが、先生は障害の子どもに対する受験での配慮についても研究されていますよね。

はい。ぼくは障害のある生徒に受験の配慮を行う上で、「合理的配慮(reasonable accommodation)」という観点から、障害のある本人や、試験を実施する学校機関の担当者など、関係者間で合意形成をしていくプロセスについて、テクノロジー利用を切り口に研究しています。

考えなければならないポイントは、「公平性の意味」と「本質的な能力の評価」だと思います。

例えば、大学入試センター試験などには「一定の基準以上の聴覚障害のある受験者には、英語のリスニングを免除する」という受験上の配慮があります。でも、免除はある意味で、誰もが得られる「能力評価を受ける機会を失うこと」ともいえるかもしれません。

じゃあ、どうしたらいいの、と思うかもしれませんが、その人にとって「リスニング試験」とはなんでしょうか。「耳で音声を聞いて理解する力」を入学試験で評価することの意味は何でしょう?

「誰もが同じ取扱いをされることが公平なのだ」と考えると、「皆と同じようにリスニングを受けるべきだ」となってしまいますが、そうしてしまうと、そもそも紙や鉛筆の試験、聴覚で音を聞かないと参加できない試験には、障害のある人は参加できないことになります。

たしかに、大学に進学すると、授業で英語の音声を聞いて、内容を理解しなければならない場面が数多くあります。しかしそこでの本質的な能力は、「音声を耳で聞く」よりも、そこで提示されている英語のメッセージを「適切に理解する」また「英語を理解する人とコミュニケーションする」ことが本質的な能力のはずです。

たとえば、聴覚障害のある学生が大学の授業を受ける場合には、「文字通訳」といって、教員が音声言語で喋っている内容を、文字通訳者がキーボードでタイプして、聴覚障害のある学生はその文字を読んで講義内容を理解する、という支援が一般的に行われます。もちろん手話言語を使う生徒であれば、講義に手話通訳をつけます。

そのように社会の中で情報保障が進んでいくことを考えると、「リスニング」の試験も配慮があることを前提とした評価に合わせていけばよいと思います。配慮のあるその状態が、その人の能力と考えてしかるべきですし、その配慮は仕事をしている時も、学んでいるときも、必要なことでしょう。

もちろん、質の高い手話通訳者がいないとか、色んな問題はあるでしょう、しかし、障害のある人もない人も共に生きていく社会では、「配慮があること」を「本来ありえない特別なこと」と考えるべきではありません。配慮は、障害者に対して、他の人よりも評価の基準を低めたり、免除することではありません。

いわゆる健常者だけが参加することを暗黙のうちに前提としていて、障害のある人も参加することを想定していない試験が存在するのはありうることです。しかし、そこに適切な配慮をする際に、本質の部分まで変えてしまったり、そもそもどんな能力を図りたい試験だったのかがわからなくなってしまっては、公平なチャンスとはいいがたい。

――そうなると、そもそもこのテストは何の目的でやるのか、提供する側も考えつくす必要があると。

ある書字障害のある生徒の通信簿をみると「書く力、2」なんて書かれています。この「書く力」ってなんだろう?といつも思います。現在の教育だと、「鉛筆で文字を書く力」になっている。でも、鉛筆ではひらがなも満足に書くことができなくても、キーボードを使えばとても良い文章を書く生徒がいます。

ただ、キーボードを使うと、漢字の「書き順」や、フォントの種類によって違ってくる「とめはね」で×をつけるような書き取り問題で、点数の差異をつけるという序列化の方法論と衝突します。

しかしそこで、一般的な評価方法に沿わせることができないから、障害により手書きが難しい人は参加できなくても仕方ない、と考えてしまうと、手書きの障害のある人は教育機会から排除されてしまう。

そもそもなぜ、その形式の能力評価を用意したのかを考えなくてはなりません。障害のある人もない人も、出来る限り公平な機会を得られるように合意形成の落とし所を探っていく営みが不可欠です。それが多数派だけではなく、少数でも多様な人に、共に学ぶ機会を用意するということなのだと思います。

あと、センター試験は点字での受験が認められていますが、一般的に使われている点字には漢字がありません。ですから、漢文は全部ひらがなの書き下し文のようなものなんですね。

しかし、視覚障害のある人も、実は同音異義語の区別はできます。音声読み上げを組み合わせて、「詳細読み」という機能を使います。たとえば、同じ「しょうがい」という音であっても、感じになると「障害」や「渉外」のように、意味の異なる熟語があります。詳細読み機能を使うと、「障害」は「さしさわるのショウ、がいどくのガイ」と読み、「渉外」は「わたるのショウ、そとのガイ」と音声で読み上げます。とすれば、ひょっとすると音声読み上げと点字を組み合わせて、漢文のより深い理解に繋がる学習方法がありえるかもしれません。

点字だけを使うことを単なる「免除」と考えるべきか、詳細よみを組みわせることや前述の聴覚障害のある人のリスニング免除の別の形を考えてみた例のように、配慮があることを前提として、能力評価のあり方を探る取り組みの過程であると捉えるのかで、 試験の配慮における公平性の捉えられ方は大きく違ってくると考えています。

テストに限らず、障害のある子もない子も同じ場所で学ぶことが当たり前のことになれば、何を子どもたちに教えようとしているのか、その教えようとしていたことの本質とはなんなのかを考えざるを得なくなるんです。

アセスメントの重要性

まず教育現場で必要なのは、生徒に読み書きの障害に基づく困難があるかどうか、しっかり検査・評価をする。つまりアセスメントすることだと考えています。

検査といっても専門的なものである必要はありません。ぼくらがやっているのも、すごく簡単な検査です。例えば、URAWSSというアセスメントでは、生徒に対して、一定時間、お手本の文章を手書きで書き写してもらい、書字の速度を測ります。もう一つ、一定の長さの文章を読んで、その際の読みの速度を測ります。それらを小学校の各学年での、書く速度や読む速度の標準と比較すると、その生徒の読書速度が何年生程度に位置づけられるのかがわかります。実際の学年の速度から大きく逸脱していたら、一斉指導の中で、配慮や支援なしに板書や指導についていくのは大変なことだとわかります。

また、ぼくたちの場合は、さらに同じことを、キーボードや音声読み上げを使って生徒にやってもらいます。すると、手書きでは標準から逸脱していたのが、ずっと標準に近づいたり、場合によっては標準より早くなることもありえます。ということは、テクノロジー利用の配慮があれば、他の生徒と同じ環境で学ぶ可能性も見えてくることになります。

他にも、標準読書力検査というアセスメントでは、50~200字くらいの短い文からなる読解の問題を40問くらい解いてもらいます。こういった検査を特別支援学級とかでやるんですけど、まずは問題を印刷物で渡して解いてもらう。すると、できない子は5問くらいしかできない。そこで次は、音声で読み上げてものを聞いて解いてもらうんです。すると一番差があった場合で、印刷物で5問しか解答できなかった子が、音声でやると35問できた。それはもう、「障害」じゃないですよね。むしろ、印刷だから先に進めなかっただけだったんです。

教師からしても、そうした評価をしないことが通例になっている環境では、その生徒の持っている力が見えてこないんです。

きっちりとしたアセスメントにこだわらなくても、紙の試験を自分で読むのと音声で聞いて解くのと両方でやってみて、大きな乖離のある生徒がいたなら、「音声読み上げとか使ってみる?」って、提案してもらえたら。それでできるようになる子はかなりいるはず。

こういう読み上げやキーボードなんかのテクノロジー利用を考慮に入れたアセスメントをしていなくて、知能検査で得られるIQだけに基づいて、知的障害と判断されているケース、そのために本当はもっと学びの機会が広がる可能性があるのに、そこに至れていないケースが多いと考えています。

今、いろんな学校に検査をやらせてください、と呼びかけているところです。呼びかけをした学校の先生の中に「(知的障害としての対応をしているが)本当はLDの子もいると思います」とおっしゃる方も少なくありません。

知的障害の特別支援学校などでは、中学生でも教材としては小学校2、3年生くらいの水準のものを使って、音読したり、なぞり書きをしたりしています。でも、もし、早い段階で音声読み上げや、キーボードで学習できるとしたら、実際の学齢と同じ教材や、それに少しでも近い教材に触れられるチャンスが広がります。

その生徒のニーズに基づいた教育支援をどんどん進めていけば、ひょっとすると生身では読み書きができなくても、テクノロジーを使えば東大などの難関校に受かることが当たり前になる時代がくるかもしれない。ぼくらはテクノロジーを使って、「こういう方法もあるんだ!」となるようなきっかけを作りたいと思っています。

世界を変える、フロンティアを応援する『DO-IT Japan』

東大先端研では、全国の障害のある子どもたちを毎年選抜して、様々なセミナーやワークショップ、オンラインメンタリングなどのプログラムに参加してもらう『DO-IT Japan』を2007年から続けています。DO-IT Japanでは参加者の障害種別を問わないので、色んな障害の方が参加していて、読み書きの障害のある生徒もたくさんいます。

今年の選抜では、中学生が3人、高校生が7人、大学生が3人選ばれました。ぼくたちは選抜された生徒たちを「スカラー」と呼んでいます。彼らは年間を通じたプログラムに参加することができます。リソースの関係もあって、スカラーはたくさんはとれないんです。でも、例えば夏休みに数日間にわたって行う夏季プログラムの一部だけに参加したり、メールマガジンなどを通じた情報提供が得られる『DO-IT Kids』というアウトリーチ・プログラムもあって、そちらには今年だけで400名弱の登録がありました。

ぼくたちは、DO-IT Japanを、障害のある人を助けるためのプログラムとは考えていません。誰かに助けられる存在ではなく、独特の価値や主張を持っている存在で、その視点から一緒に世の中を変えていく……多様な人が参加できる社会のあり方を問いかけたり、作り上げていくような、社会のリーダーとなっていく人を育てるプログラムだと考えています。

DO-IT Japanのプログラムでは、音声読み上げやキーボード等、テクノロジーを利用した様々な学習方法を教えて、参加者は自分たちなりの学びの方法を知ります。自分なりのやり方があるんだ、この方法なら自分は学んでいけると実感したり、そういう方法で学んでいる仲間たちの存在を知ると、ガラッと変わる子どもたちがいます。本人が実感する前に親や支援者などの外部が求めるのではなくて、学校でも「ぼくはこのやり方で勉強したい」と自分で訴えるようになります。

先生からしてみれば、「またそういう努力しない方法を身につけてしまった。でも本当は頑張ればできるようになるはずだ……」という考えが拭えないのかもしれません。

でも、最初から「学校の配慮がない」「社会の理解がない」と言ってばかりでもしょうがない。「まずあなたがフロンティアになりなさい」と応援をしていまず。実際、一度前例ができると、日本ではその後はすんなり使用許可が通ったりするようになったりもします。

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(C) 青木遥香

――どのような「前例」をつくってきたのですか。

今年初めて、大学入試センター試験を音声(代読)で受けたのも『DO-IT Japan』のスカラーです。視力に障害はありませんが、ディスレクシアという印刷された文字を読むことに障害のある生徒でした。その生徒は中学校、高校と、テクノロジーを使って学んできたのですが、その経緯が評価されてのことといえます。

ただ、実は視覚障害のある人では、音声でセンター試験を受けたことのある人はまだいないようなんです。今年DO-IT Japanに参加したスカラーに、視野欠損という視覚障害のあるスカラーがいます。

彼はもともとある国立大学の医学部で勉強していて、医学部在学中に網膜の病気が発症して中心視野が見えなくなりました。周辺視野は残存しているので、その残った視力を活用して、歩きまわったりといったことはできるんです。でも文字を認識するのに必要な中心視野が欠けているので、印刷された文字は読めない。普段は音声読み上げを使っています。彼はまた医学部に入って学びを再開したいと言っていて、ぼくらも応援しているところです。

――点字のテストはあったのに、音声読み上げは無かったんですね。

そうなんです。視覚障害者のうちで点字が読める人は1割程度と言われています。中途失明者にとって、特に大人になってからの点字の習得は、非常に困難であると言われています。点字を本当の意味で活用できるように習熟するのはとても大変です。十分に習得できない点字を使ってしかテストを受けられないのはフェアではないと思います。音声を利用して受験する機会も得られるべきでしょう。

また、今年もう一つブレークスルーがありました。『DO-IT Japan』のスカラーで、すごく勉強が好きで高校に行きたいのだけど、発達性の書字障害があり、鉛筆で字を書くことがとても困難だった。その生徒が、進学校である神奈川県立弥栄高等学校に、教科試験でキーボードを使って受験することが認められて合格したんです。

彼も中学時代から、学校の支援を得てキーボード使って学んできた生徒でした。神奈川県の教育委員会の方たちが彼のニーズとその経緯を認めてくれての実現だったと思います。ワープロを使って学力試験をやるなんてありえない、ってみんな思っていたけど、それができた。

理解力や読解力が高くても、文字を書くことだけが困難な人って相当数いるんです。でもそういう人は、文字や言語の理解能力が低いとか、勉強が向いてないとか、そういう誤解をされることも多い。なかなか進学まで結びつかないケースが多かったんですけど、やっとこういう人たちが出てきました。

さらに、今年、書字の障害がある『DO-IT Japan』のスカラーが、東京大学に進学しました。前例がなくワープロは認められなかったのですが、書字の困難が認められ時間延長の配慮が提供されたのです。

『DO IT Japan』のスカラーたちが少しずつ風穴を開けようとしています。

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(C) 青木遥香

フェアじゃないのは好きじゃない

――先生はもともと心理学が専門ですよね。どうしてこの研究を始められたのですか。

心理学の研究の傍ら教護院(現在の児童自立支援施設)に、夜間に家庭教師として勉強を教えに行っていました。そこには中学校くらいまでの、いわゆる非行少年・少女が暮らしていました。

彼らの中で、勉強に対してすごく熱意があるし、話す内容もしっかりしているし、「俺、高校行って人生やり直したい」と言うのに、長い文章を呼んだり算数の文章題を解いたりするとどうしても理解できない部分がある。そのころは学習障害という言葉自体も広くは知られていなかったし、勉強ができない奴は頭が悪い、仕方がないと素朴に言われていた時代でした。

実はぼくも同じように思っていたんですけど、ある時、心理学の海外の文献を読んでいたら、「Learning disability」という単語がありました。なんだそれは?って疑問に思って調べてみると、「全体的な知的能力は高くても、ある特定の部分、読む力・書く力・計算する力がカタンと落ちている」という意味でした。ぼくが教護院で出会った子たちの顔がどんどん浮かんできました。

人間は平均的な力を持っていることを暗黙の前提としています。読むことが非常に流暢なに出会えば、書くことも流暢だろうと素朴に想像してしまう。読み書きがとても得意な人に出会えば、計算もそつなくこなすだろうと想像してしまう。能力のどこか一部分だけ極端にできないなんて、あまり想像できないんですよね。

むしろ、どこか特定の部分に極端な苦手さのある人に出会うと、能力全体が低い人だろうと暗黙のうちに想定してしまう。そんな間違った信念を思わず持ってしまうことが多いのが人間です。

けれども、そうした能力のデコボコのある人はむしろ当然のように存在しているという構えを持っていれば、そうした人に出会った時の理解のあり方は変わってくる。LDのように能力のデコボコのある子ども達が相当数存在していると当時から国際的にも言われていて、日本にもその概念が入ってきはじめていた頃でした。

そこで海外では音声読み上げなどテクノロジーを使って学んだり、社会参加しているということを知って、大変驚きました。それからテクノロジーを利用して何かやろうと考え始めたわけです。

あなたがもし、鉛筆で読み書きすることそれに向いていない人に出会ったら「できないんだ。かわいそうだね。」「頑張ろうね」と考えてしまいませんか?しかし、もし、別のやり方を当然のこととして認めていけば、将来あなたよりずっと素晴らしい論文を書くかもしれないし、仕事の業績を上げるかもしれない。

テクノロジーは日々、発展しています。

それを利用したら障害がなくなるのであれば、うまく活用して、教育を受け機会のような基本的な権利は保障されてほしい。保障されないのであれば、フェアじゃないなって思います。

ぼくは障害のある人を助けたいというよりも、そういうフェアじゃないのが好きじゃないんです。

議論のテーブルに

――たとえば、印刷物障害がある子どもに、試験時間を長くする措置が取られたとして、そこに対して「不公平だ」なんて声が上がる可能性もあると思います。そこに対してはどうお考えですか。

教職員の前で講演をすることがあるのですが、「その一人の子だけを特別扱いできない」なんて声をいただくことは多々あります。

もちろん、障害のある人はニーズが千差万別なので、全部に完璧に対応するのは論理的に不可能です。

でも、ぼくは「機会の平等」のために議論のテーブルにつくことが大事だと思っています。あくまで「合理的な配慮」をすると。

例えば、ものすごくお金のある学校だったら「全員にタブレット配ってしまおう」となるかもしれませんが、お金がないから全員に平等には買えない。だったらタブレットの利用は全員平等に認めないようにしよう!じゃなくて、障害のある生徒が、紙と鉛筆が前提となっている環境で対等に学んでいくために、自分が普段使っているタブレットを持ってくることを認めることはできるかもしれない。

視覚障害の生徒のために、図書館の本の全部を点字対応にすることはできないかもしれませんが、その生徒が音声読み上げの機能のあるデバイスを学校で使うことを認めたり、その生徒が必要な文書だけは電子データでできるだけ用意するように配慮することはできかもしれない。

いきなり学校の建物全部をバリアフリーにしたり、全棟にエレベーターをつけるのが無理なら、車いすを使う生徒の教室を、エレベーターの要らない一階の教室にしてもらうなどならできるかもしれません。

どこまで出来るのかはケースバイケースでしょう。でも、学校などの機関が、障害のある個人にどこまで配慮できるかをポジティブに考える議論のテーブルにつくこと、それが当たり前になっていかなければ、少数のニーズは無視され、結果として障害のある人は社会から排除されていってしまいます。

それは仕方ないことなのでしょうか?実は、こうした障害を理由とした排除は特別な理由がない限り禁止したり、必要で適当な変更や調整は可能な範囲で行うように合意形成することを法的な義務にしていこうという動きが国際的に広まっています。国連の障害者権利条約という国際条約がそれにあたります。

日本も、この条約にもとづいて、障害者差別解消法などの法整備が進みました。2016年の4月から、学校や職場などでの障害があることを理由として排除することは禁止されますし、特に公的な場所では、合理的配慮(=過重な負担にならない範囲で、社会参加の障壁となることを除去するために、必要で適切な変更や調整を行うこと)を提供しないことが禁止されます。

学校によって対応に濃淡は出てくるでしょう。「あの生徒には配慮してこなかったから、この生徒にも不平等になるから配慮はできない」といわれることもあります。でも、その手の平等感に基づいたためらい方はしなくていい。

合理的配慮の定義の中に「個別の状況で、その障害のある人の個別のニーズに基づいて必要とされる適切な変更や調整を行う」という概念があります。個別のニーズに対応して構わない。だからこそ、その人とどういうニーズとそこへの対応があるのかを話し合っていくことが大事だし、あまりにも過剰な負担は合理的配慮とは認められないことになっている。

――これから、教育現場にICTの導入が進んでいくためには、どのような環境が必要なのでしょうか。

障害のある人のための、何か特別な機械が必要というわけではありません。いま、タブレットやスマートホンが普及していますが、書けない子どもは板書の撮影をOKにするだとか。読み上げ機能やキーボード入力を使うことを可能な範囲で認めて、そうした修学方法をとることが選べるような環境をつくることが重要でしょう。

でもそこに、人の心のバリアがあるのは事実。そこのバリアを超えることが最終的には教育のアクセシビリティ保障に繋がっていくのだと思います。

奇異の目で見られているものは、どこかにあるはずの特異点を越すと、当たり前のものになっていく。パソコンだって、携帯電話だってそうでしたよね。

昔は会議の場でもパソコン広げてたら「おい君、失礼だろう、閉じたまえ」って注意されていましたが、今だとどうでしょうか。会議室にパソコンを持ち込む人があからさまに奇異に見られるとは、特別な場合を除いては考えにくい。

教育の分野でも、障害のある生徒や学生がテクノロジーやその他の配慮を活用して参加することが、多くの人に知られるようになってくる。これからの時代を生きる子どもたちは、クラスメートにそういう学び方をする友達がいるわけですから。すると、これまで奇異の目で見られたり、容認出来ないといわれていたことが、だんだんと当たり前のこととして認められてくると思っています。

どこかで特異点を超える。ひいてはそれが、自分とは違っていても、多様な人の権利を認めて、公平にお互いの合意点を探ろうという態度だったり、多様な人を受け入れることができる社会につながっていくと考えています。

プロフィール

近藤武夫特別支援教育、発達神経心理学

専門は特別支援教育(支援技術)、発達神経心理学。東京大学先端科学技術研究センター人間支援工学分野 准教授。博士(心理学)。DO-IT Japanディレクター、米国ワシントン大学DO-IT Center連携研究員。一般社団法人日本LD学会理事、一般社団法人全国高等教育障害学生支援協議会理事・事務局長。文部科学省「障害者差別解消法に関する調査研究協力者会議」委員。広島大学教育学研究科助教、米国ワシントン大学計算機科学工学部客員研究員を経て現職。多様な障害、特にLDやADHD、自閉症スペクトラム、高次脳機能障害、精神障害等のある人々を対象に、就学や就労での支援に役立つテクノロジー活用や合理的配慮に関わる研究を行っている。著書に「知のバリアフリー(2014年、共著、京都大学出版会)」、「情報社会のユニバーサルデザイン(2014年、共著、放送大学教育振興会)」、「発達障害のある人の大学進学(2014年、共著、金子書房)」「発達障害の子を育てる本 ケータイ・パソコン活用編(2012年、監修、講談社)」、「バリアフリー・コンフリクト(2012年、共著、東京大学出版会)」等。

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