2022.06.23

教師はなぜ苦しい職業になってしまったのか――給特法の矛盾に迫る

『聖職と労働のあいだ』著者、髙橋哲氏インタビュー

教育

聖職と労働のあいだ 「教員の働き方改革」への法理論

髙橋哲

教育現場の厳しい状況や教師たちの疲弊が報道されるようになって久しい。また昨今、教師のなり手不足も懸念されている。こうした現状の原因として指摘されるのが、教師の給与に関して定めた「給特法」(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)である。本記事では新著『聖職と労働のあいだ――「教員の働き方改革」への法理論』で給特法の構造や矛盾、教師の労働条件の変遷等を論じた、埼玉大学の髙橋哲氏(教育法学)に、給特法の概要や問題、進行中の給特法を巡る教員超勤訴訟の論点を中心にお話を伺った。(聞き手・構成 大竹裕章(岩波書店))

教師の時間外労働を認めない「給特法」

――まず給特法とは、どういった内容の法律なのでしょうか。

給特法の要点は、公立学校の教員を対象に、労働基準法とは異なる時間外勤務に関する特殊ルールを定めた法律といえます。労働基準法上、1日8時間を超えた労働(時間外労働)があった場合、割増の超勤手当を支払う必要があります。しかし給特法では教員に超勤手当を支給せず、その代わりに給料月額4%相当の教職調整額を支払います。そのうえで、時間外勤務を命じられる職務範囲を、学校行事や職員会議などの4種類に限定します(通称「超勤4項目」)。

本来、先生たちの時間外労働はこの超勤4項目に限るとされています。ところが実際には、ここに含まれる時間外労働はごく一部です。先生たちの多くが過労死ラインを超えて働いていることは問題視されていますが、その大半は超勤4項目以外の業務です。

では、この超勤4項目以外の時間外労働がどのように扱われているのか。実は、厖大な長時間労働が発生しているのに、それは「労働時間ではない、教師が自発的に行っていることにすぎない」とみなされているのです。これが給特法をめぐる根本的問題といえます。

時間外労働は原則的には違法

給特法の構造に入る前に、大前提となる労働基準法(労基法)という法律を少しご説明しましょう。

国家公務員などの一部をのぞいて日本の労働者は、公立学校教員を含めて基本的にこの労基法の対象者です。この法律では、一日8時間・週40時間を労働時間の上限に定めており、それ以上働かせると、使用者が罰則の対象になります。

ただし、あらゆる時間外労働がすべて違法というわけではありません。労働者代表と使用者が労基法36条に定められた協定(いわゆる三六協定)を結んで労基署に提出すれば、使用者への罰則が免除され、時間外労働をさせることが可能になります。ただし、原則的として時間外労働はいけないものですから、使用者へのペナルティとして割増の超勤手当が支給されます。これが日本の労働者の最低基準となる条件です。

これに対して給特法は労基法の例外として、超勤手当ではなく一律で4%相当の教職調整額を支給するというしくみになっています。

「例外の例外」を常態化させる法律

労基法は基本立法といわれ、これを下回る条件を定めてはいけない、いわば「最低基準」の側面を持っています。労働条件が労基法に満たない場合は無効になり、その場合は労基法の基準が適用されることになります。

ところで、超勤手当を払わずに教職調整額で済ませるというのは、明らかに労基法の基準を下回る条件です。ゆえに注目したいのは、超勤手当を払わないという給特法が労基法のもとで、どうして正当性をもつのかです。

ここはかなり込み入っているため、詳しくは本書の第3章を読んで頂きたいのですが、今は要点だけ述べます。実は給特法が直接の根拠としているのは、労基法の33条3項「公務のために臨時の必要がある場合」に時間外労働を許容するという規定です。つまり、緊急事態で三六協定を結んでいては間に合わないので時間外労働を許容する、という考えに基づきます。

先程お話ししたように、労基法では原則的に時間外労働を禁止しており、それを例外的に許容するのが36条(三六協定の締結)です。そして、さらにそれが間に合わない場合を定めたのがこの33条3項の「臨時の必要がある場合」という規定で、これを根拠とする時間外労働は「例外の例外」ともいうべきものです。

そもそも33条3項は「臨時の必要がある場合」に三六協定を結んでいなくても時間外労働に従事させることができるため、労働法学界では至極評判の悪い規定です。それに、労基法の本文ではこの33条3項をもとに公立学校教員に時間外勤務をさせることはできないとされています。ところが、給特法はこの規定を「読み替え」るという手法を使って公立学校教員に適用し、この「例外の例外」の手段を用いて時間外労働をさせることができるとしているのです。まさに屋上屋を架す制度なのです。

さらに百歩ゆずって、この給特法の変則ルールを認めたとしても、この規定によって時間外労働をさせることができるのは、超勤4項目に該当する業務だけのはずです。ところが、実態としての教員の時間外労働は超勤4項目以外の業務で溢れています。にもかかわらず文部(科)省はこれまで、それは労働時間に該当せず、教員の「自発的行為」であり対価は必要ないもの、と解釈し運用してきたのです。この解釈と運用こそが、給特法問題の根源なのです。

制定当時と真逆の「教員の勤務の特殊性」

――なぜ、公立学校の教師だけにそのような特殊な条件が適用されたのでしょうか。  

話は第二次世界対戦後、教員の給与条件を決める際に遡ります。文部省(当時)は教員の給与について、時間外労働の超勤手当を支給するという労基法のルールではなく、本給に公務員以上の手当を上乗せして優遇し、その代わり時間外手当は払わず、超過分は時間調整で対応する、という運用を求めてきました。

その後制度の変更が続き、教員の本給の優遇が弱まっていきます。1960年代になると、「時間外労働に対価が支払われないのは労基法違反だ」という趣旨の訴訟が相次ぎます。こうした訴訟が最高裁に持ち込まれ違法判決が出ようとする1971年、この給特法という法律が制定されました(実際に1972年に最高裁より超勤手当の支給命令が出されています)。

どういった理由で、給特法の特殊ルールが正当化されたのでしょうか。当時の国会での議論は「教員は夏休みに長期休業期間等に自宅や学校外で自主的に研修を行うなど、勤務時間内に自由な時間が存在する。だから一般の労働者のような時間管理はなじまない」というもので、これが教員の「職務の特殊性」として説明されており、審議録にも残っています。

――いま論じられている「特殊性」のイメージは、「教師は時間外を含め自主的に働くものだから、時間管理はなじまない」というもので、真逆ですね。そしてこの議論からすると、先生たちは勤務時間に自由な裁量があることになります。

当時の先生たちは、勤務時間内に校外の自主研修に参加することが可能で、教員組合主催の勉強会なども盛んでした。夏休みに学校外で研修に励むというのは普通のことでしたし、東京都の例では教師が自宅や校外で研究・研鑽できる「研修日」もあったのです。

もっとも当時でさえ「昔と異なり夏休みの休暇というのは学校になくなってきているのが実態」という主張はありました。現在にいたっては、とてもそのような状況ではありません。

奪われた勤務時間の自由裁量

――なぜ大きく変わったのでしょうか。

最大の要因は、教員の自主的な研修に対する文部(科)省の対応の変化です。ある時期まで文部省は、学校外での研究・研鑽も職務と認めていました。ですが、日教組との対立等を経てこの見解は変わっていきます。決定的なのが2002年の文科省通知「夏季休業期間等における公立学校の教育職員の勤務管理について」です。これは、「夏休みであっても他の公務員と同じく、地域住民や保護者の疑念を抱かれないように出勤せよ、学校を離れて研修する場合には管理職が事前・事後の審査を行うように」という趣旨のものです。以後、事実上学校外での自主研修はできなくなりました。

この背景にあるのは、第一に、民間教育団体や組合の研修に参加するのは職務ではない、という文科省の見解の変化です。文科省の方針や学習指導要領と異なったりする可能性のある内容の研修を業務とするのは問題だと考えたのです。もう一つが、政治的な人気取りに用いられた側面です。公務員叩きは今も昔も人気取り政策として使われていますが、当時も「公務員である先生たちが勤務時間に学校にいないのはおかしい」という論理で用いられたわけです。

この時点で、給特法制定当時の「教員の勤務の特殊性」は失われます。そしてそれは労基法上大きな問題があります。先程言及したように、労基法は最低基準を定める法律であり、それを下回る労働条件は無効となります。給特法は、本来、労基法を上回る条件を保障することが必要であり、それが教員の勤務の特殊性、つまり研修・研鑽にあてる自由な時間の存在でした。その「上乗せ」分を文科省自ら否定したのですから、給特法は現在の状況では労基法を下廻る条件を教員に強いる法律なのです。つまり、給特法は労基法に反するものといえることになります。

――整理すると、超勤4項目については時間外労働の対象であるが、予め支給される教職調整額で対応される。それ以外の労働は、そもそも労働時間とみなされない。こうした給特法の条件は、教員の勤務の自由裁量が失われた現在、基本立法である労基法の労働基準を下廻っており労基法に反するものである、ということですね。

行事の引率や土日の部活動≒死刑執行や死体処理!?

やや横道にそれますが、超勤4項目のうち修学旅行など行事の引率には特殊勤務手当が支払われており、これも謎が深まります。というのは、この特殊勤務手当は土日の部活動等にも支払われているのです。

先に説明した通り、超勤4項目以外の仕事は「労働時間ではない」とみなされます。自発的に行っている地域の少年スポーツ団等と同じ扱いで、それは校長が監督するものでも、対価を出すものでもない、というロジックなのですが、土日に一定時間を超えて部活動の指導を行うと、労働時間ではないはずなのに、なぜか特殊勤務手当が払われる。

逆に言うと、特殊勤務手当を払う以上は業務であり、時間外勤務手当を払わないといけないはずで、文部(科)省の運用がおかしいのです。本書でも詳述するように、私自身は給特法自体に大きな矛盾があり、構造上も大変な問題をはらんでいると考えています。しかし、だからといって「給特法がなくなれば現在の教員の労働問題が解決する」とも思えないのです。まずは給特法の矛盾の根底にある、文科省による解釈と運用を是正しなければならないのではないでしょうか。

――ちなみに「特殊勤務手当」とは、そもそもどういう名目の手当なのでしょうか。

特殊勤務手当は、公務員の業務のうち著しく危険だったり苦痛を伴ったりする特殊な業務に対して支給されます。人事院規則では、死刑執行、死体処理、爆発物取り扱い作業といったものが例示されており、本給や時間外手当とは別に支払われます。

おわかりかと思いますが、日常的に行われる引率や部活動の指導といった業務に、この特殊勤務手当が支払われるのにまず無理があります。望まない部活動の指導に苦痛が伴う、長時間の労働で体力が奪われるといったことはあるにせよ、いま挙げたような業務とは明らかに異なるでしょう。

百歩ゆずってそれには目をつぶったとしても、この特殊勤務手当は本給や時間外手当とは別に支給されるもので、土日の部活動で時間外手当の代わりのように扱うのは問題です。神奈川県や東京都では、土日の部活動に出勤した教員に対して、時間調整または特殊勤務手当のいずれかを選択できるようになっています。ですが特殊勤務手当は、時間調整に加えて支払わなければいけないものです。そもそも特殊勤務手当を支給する時点で、それは「業務」であり、ますますおかしい。人件費を浮かせるための仕組みなのでしょうが、制度上も許されないことですし、矛盾と混迷をさらに深めています。

給特法を巡る裁判の新展開

――給特法を巡る問題は、現在注目を集める埼玉教員超勤訴訟でも中核的な論点となっています。この裁判ではなにが争点になっているのでしょうか。

この訴訟は、埼玉県内の公立小学校教員である田中まさおさん(仮名)が埼玉県を相手取って起こしたものです。注目すべき争点は大きく2つ。1つが労働時間上限についての労基法違反の主張です。労基法32条では1日8時間、週40時間という労働時間の上限が定められており、田中さんには超勤4項目以外で時間外労働が発生していたというものです。そしてもう1つが、この上限を超えた時間外労働に対する国家賠償請求です。

実は、これまでも給特法下での超勤に関する訴訟はありました。そこでの争点は、労基法37条(割増賃金の支給)に基づき、時間外勤務の対価として割増賃金を求めるものです。ただ、給特法上は教職調整額の代わりに時間外手当は払わないというロジックですから、この議論には苦しいところもある。結果、これまで裁判所では原告側の主張が却下されてきたのです。

今回がこれまでの訴訟と異なるのは、労基法の上限を超えた労働時間が労基法違反であるということ、そして、超勤4項目以外の業務は教師が勝手に行っている「自発的行為」ではなく、労働時間に該当すること、これらが争われる点にあります。

「教師は授業の空きコマに働いていない」という裁判所判断

――昨年10月には一審判決が出ており、現在は高裁での審理中です。どのような一審判決だったのでしょうか。

判決のポイントは、①教員の超勤4項目以外の時間外業務は「自発的行為」ではなく労働時間と認められるのか、② ①が労働時間と認められた場合、対価がどのように払われるか、です。ここではかなり端折った説明をしますので、詳しくは本書の第7章をご参照ください。

まず①について、判決では田中さんが主張した時間外労働のうち、377時間23分が労働時間にあたると認められました。「自発的行為」とされていたものが労働時間だと判断されたのは、これまでの給特法をめぐる裁判からの大きな進展といえます。

問題は②です。377時間23分の労働時間が認定されたわけですから、当然それに対する対価が支払わなければならない。ところがいくつかの理由から、支払いをしないという判断がなされました。

まず、「時間外労働は377時間程度あったものの、勤務中に働いていない時間があったのでそれを差し引く」という趣旨で、実質の法定時間外労働は約33時間程度だと認定しています。「働いていない時間」として、主に授業が入っていない時間、いわゆる空きコマを挙げています。授業をしていない=働いていない時間であり、その分を勤務時間外に働いていたとみなして相殺する、というロジックでした。

とんでもない話です。教師は授業のない時間も、授業準備や採点、行事準備、各種の事務、等々の多岐にわたる業務があり、「働いていない時間」とはとても考えられません。百歩ゆずって手が空いた状態があったとしても、打ち合わせに呼ばれる、別のクラスのサポートを頼まれるなど、急な対応が求められることはしょっちゅうです。こういう時間は「手待ち時間」と呼ばれ、民間の労働裁判では労働時間とされています。休憩時間のように労働時間にあたらない場合、その時間は一切業務に対応せず、学校外に買い物や食事に出たりしてもよいのですが、あきらかにそうではありません(さらに言うと、先生たちは本来必要な休憩時間すらまともに取れていないのです)。

――複数の空きコマがある先生が定時退勤した場合、3・4時間しか働いていないと言っているに等しいですよね。学校の実態に即した判断とはとても思えません。

本当にそうです。日本中の先生たちを愚弄するような話ですよ。そもそも、民間の労働裁判であれば、その時間外労働が労働にあたるかどうかだけを問うもので、「正規の勤務時間の中から差し引く」というような判断をすることはあり得ません。

もう1つ判決で問題なのが、こうした差し引きを経て残った約33時間について、損害賠償に値するほどの損害ではないといった理由で請求を認めなかったことです。しかし、食い逃げされたり盗んだりされたものが安価だったからといって、「大した損害でないので賠償は不要」と言われて、飲食店の方が納得するでしょうか。また、約33時間は4日分相当の労働時間で、それを大きな損害ではないというのもおかしい。そもそも時間の認定の仕方もおかしいですし、そうやって減らした時間から「損害が少ないので賠償には値しない」というのもおかしく、二重の問題があるのです。対価を発生させないという結論ありきの判決、と厳しく批判せざるをえません。

こうした一審判決に対して田中さん側は控訴し、現在は東京高裁で審理中、2022年8月25日に高裁判決が出る予定です。

日本中の学校に改善をもたらすための訴訟

――髙橋先生ご自身、この裁判には原告である田中さん側の鑑定意見書を書くなど支援をされていますが、どういった理由からでしょうか。

 

給特法を巡ってはこれまでも厳しい判決が出てきたなか、田中さんや代理人の若生弁護士が問題を提起し、そこに江夏弁護士や支援事務局を支える学生が加わり立ち向かっている、そのことに心動かされたというのが大きな理由です。

もう一つ、この裁判には大きな意義があることも挙げられます。裁判で直接的に争っているのは田中さん個人の未払い賃金ですが、同時に、日本中の学校に改善をもたらすための訴訟でもあるのです。2019年には給特法が改正され、評判の悪い一年単位の変形労働時間制や労働時間の上限指針等が示されます。これについては本書第4章でも言及しており、私も参加した『迷走する教員の働き方改革』というブックレットでも論じられていますが、要するに「予算をかけずに今のしくみが違法にならないようにする」ための辻褄合わせの改正にほかなりません。そうした現状に対して、もっと教師を大事にするために予算を投じるべき、と政策を変えていこうとする訴訟なのです。

加えて、この裁判を多様な人々が支えていることも重要です。従来、こうした労働問題は教員組合が主導してきましたが、今回は訴訟の支援に教員志望の学生や教員、あるいはそれ以外の市民の方々が多く関わっています。その意味で、訴訟「運動」としての新しい可能性も拓いているのです。

教師のゆとりなしに子どもの教育は良くならない

――こうした教員の働き方の改善によって、なにが変わるとお考えでしょうか。

最近、教職大学院の講義で「学校における働き方改革の目的は何か」というレポート課題を出したのですが、ある現職教員の院生から「働き方改革は教師と子どもが自由な時間を取り戻すために行なうべき」という主張のレポートがありました。質問へのお答えは、この説明に尽きます。

今はなんとか先生たちが頑張っていますが、勤務時間外に行われている膨大な教育活動を「教師が勝手にやっていること」と言われてしまう。その中で、どの先生たちも子どもたちにしっかり向き合い続けることができるのでしょうか。とても残酷な話です。長時間労働を止めるためには、まず対価が必要な時間外労働であることを認め、無定量になっている時間外労働に歯止めをかけることが必要です。

さらに言うと、今後働き方をどう改善していくかという議論においては、労基法に基づき超勤手当を支給する、時間外労働の常態化を是正するために教員の数を増やす、教職調整額を増やす、等の様々な論点、選択肢があるでしょう。そしてどの場合も、教育への予算を増やすことなしには実現することは難しい。人もお金も足りない現状に対し、教育にかける資源を増やすことが必要です。「もっと子どもたちのために丁寧に接したい」という先生たちが消耗し、健康を害している状況を変えるのが、この裁判の大きな目的ですし、私自身が目指すところでもあるのです。

――苦しい先生たちの環境をなんとかしたい、ということと同時に、それが結果的に教育のため、子どもたちのためにも重要なのだ、ということですね。

昨年急逝した、私の師匠のお一人である世取山洋介先生は、子どもが「ねぇねぇ」といったときに、「なぁに」と応えてくれる大人がそばにいること、それが子どもの成長・発達の権利を保障することだと論じています。学校はまさにそういう場であるべきですが、今、子どもが「ねえねぇ」と先生に問いかけても、「忙しいからあとにして!」「今度は何なの!?」と返されてしまうことすらあるでしょう。これは望ましい学校の姿からはほど遠いものの、教師がそうせざるをえないような限界状態にあることも確かなのです。ゆえに子どもの学習権のためにも、そうした応答関係をつくることができるように、教師の時間的なゆとりや権利を取り戻す方向に向かってほしいのです。

いま、学校に対するさまざまな不満を、保護者も、あるいは子どもも持っているかもしれません。私自身一人の保護者として、全く思うところがないといえば嘘になります。ですが、個々の先生や学校をおかしいと糾弾し、切って捨てるだけでは解決しません。なぜ先生たちが子どもたちと向き合えないのか――その背景にある、教師が置かれている状況を改善することから始めないといけません。本書がそうした問題を知ってもらい、議論してもらうきっかけになることを、心より願っています。

プロフィール

髙橋哲教育法学・教育行政学

「1978年生。埼玉大学教育学部准教授。日本学術振興会特別研究員、中央学院大学専任講師、コロンビア大学客員研究員(フルブライト研究員)等を経て現職。專門は教育法学・教育行政学。著書に『聖職と労働のあいだ――「教員の働き方改革」への法理論――』(岩波書店)、『現代米国の教員団体と教育労働法制改革――公立学校教員の労働基本権と専門職性をめぐる相克――』(風間書房)、分担執筆に佐久間亜紀・佐伯胖編『現代の教師論』(ミネルヴァ書房)、橋本鉱市編『専門職の質保証――初期研修をめぐるポリティクス――』(玉川大学出版会)他多数。」

 

この執筆者の記事