2014.11.28

日本美術の“ソムリエ”――美術はもっと多様に楽しめる

『京都で日本美術をみる 京都国立博物館』著者・橋本麻里氏インタビュー

情報 #新刊インタビュー#京都で日本美術をみる#日本の国宝100

今年9月、常設展示館である「平成知新館」がオープンし、例年以上の賑わいを見せていたこの秋の京都国立博物館。記念の展覧会となった「京(みやこ)へのいざない」(会期終了)は入場者数30万人をこえた。日本美術がブームと言われるようになってしばらく経つが、何がそれほど多くの日本人の心を引きつけるのだろうか。『京都で日本美術をみる 京都国立博物館』を上梓した橋本麻里さんにお話をうかがった。(聞き手・構成/長瀬千雅)

「京博のオールタイム・ベスト」

―― まさに先月、この本を持って京都国立博物館(京博)に行きました。朝いちばんに行ったのに、本館(明治古都館)で開かれていた「国宝 鳥獣戯画と高山寺」展で2時間ほど並ぶことになりまして。

そういう報告をたくさん聞きました(笑)。

―― この本では、鳥獣戯画展のような「特別展」ではなく、京博の「常設展示」で見ることのできる作品を紹介しているんですよね。まえがきに「通年開館、かつ全時代全ジャンルを網羅する常設展示こそ、館の基礎体力のバロメーター」と書かれていて、なるほどと思ったんです。

明治30年に開館した京博は、急激な欧化政策や廃仏毀釈によって危機にあった、京都の社寺の文化財保護という使命をもって作られました。ですから、京都中からたくさんの美術作品を寄託されていて、所蔵品と合わせて、非常に質の高い美術作品がたくさん集まっているんです。それが、ルーブル美術館やニューヨーク近代美術館に匹敵する「常設展示力」を可能にしています。

ただ、異なるのは、日本美術は紫外線や湿気に弱いものが多く、出しっ放しにしてはおけないものばかりなので、いつ行っても必ずそれが見られる、というわけではないんですね。

―― 日本美術は入れ替えが多いですもんね。

そうですね。ですが、この数年ずっと「常設展示」ということについては考えていました。たとえば、特別に美術ファンだという人でなくても、パリへ旅行すれば「ルーブル美術館には行っておこうかな」と思いますよね。ところが日本国内の美術館となると、常設展示に足を運ぶ人は途端に少なくなってしまいます。それで今回、所蔵作品・寄託作品をあわせた「京博のオールタイム・ベスト」のガイドブックが作れたらいいんじゃないか、と思ったんです。

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―― この本には115点の美術作品が図版で収められていますが、国宝や重要文化財、それこそ「伝源頼朝像」のように「教科書で見た!」というような有名な作品もたくさん載っていて、これもこれも京都にあるんだと、図版を見ているだけで楽しくなってしまいました。文章もすごく読みやすくて、おかしな言い方かもしれませんが、美術だけでなく、日本史を振り返っているような感じで読みました。

流れを重視して書いているので、そう思われたかもしれませんね。逆に、作品解説が少なすぎると言われることもあるんです。

―― そうなんですか?

作品の写真をできるだけ大きく見せたいということもあって、一つ一つの作品につく解説は最小限にしているんです。もちろん両立していればそれがいちばんいいのですが、どういう歴史的文脈の中からその作品が生まれてきたのかという流れの方を重視しました。

―― 京博の全所蔵作品ってどれぐらいあるんでしょう?

所蔵作品に限っても約6700点以上、寄託作品も含めると1万2000点を超えます。BRUTUSで「日本美術総まとめ。」という東京国立博物館の特集を作った時は、作品画像のデータベースの掲載分を1万点は見ました。

―― 1万点! 予想と桁が違いました……。

どこにあるかわかっている名品なら探すのに苦労はしないのですが、それだけでは、その時代の流れというのは語れないわけですよね。そのすきまを埋めていくものが必要になります。たとえば平安時代だったら定朝様式の仏像はないとダメだよな、ということがあるので、まずはデータベースにあるその時代の彫刻作品を全部見るんです。

ただし、寄託作品はデータベースには載っていません。超有名な寄託作品、たとえば「風神雷神図屏風」(俵屋宗達、京都・建仁寺蔵)などは京博に寄託されていることが広く知られているのでいいのですが、そうでなければわからないわけです。

―― そうすると、日常の中で情報収集するしかないわけですね。

そうですね。あの時あそこで展示されてたよなとか、ふすま絵としてお寺の中にあったけれど、最近京博に預けられたよねとか、そういうことを知っていないとどこからもたどれない情報があるんです。

日本美術がブームになったゼロ年代

―― コツコツとした積み重ねが必要なんですね。この10年ほどで日本美術を愛好する人がぐっと増えていて、橋本さんはその立役者の一人だと思うのですが、読者向けにちょっと橋本さんのこれまでのお仕事の一部をお見せしますと、たとえば、これ(「琳派って誰?」BRUTUS、2008年10/15号)とか、とても新鮮でした。

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―― そして、さっきもちょっと出た「日本美術総まとめ。」の号(2013年8/15号)も、すべての文を橋本さんが書かれているんですよね。これらの雑誌が日本美術に触れるきっかけになったという人は多いのではないかと思いますが、橋本さんご自身はどうして日本美術の世界に入っていかれたんですか。

美術はもちろん嫌いではなかったんですが、大学で美術史を学んだわけではなく、むしろ日本の文化や習慣、風俗に関心がありました。美術にかかわるようになったのはやっぱり、仕事を通じてです。就職した出版社が美術を扱っていたので。フリーランスになってからも、当初はコンテンポラリー・アートの記事を書いていました。

その頃、2000年だったと思いますが、BRUTUSで「唐招提寺が消えた!?」という特集があったんです。ちょうど、「平成の大修理」と呼ばれる金堂の解体修理が始まった年です(2009年11月落慶)。その特集を担当したのが、日本美術に深入りする直接のきっかけですね。

―― そこからずっと関わり続けているということは、きっとそれが相当面白かったんですね。

そうですね。面白かったですね。この時は歴史的な話だけではなくて、現代の写真家が鑑真和上像を撮るという企画があったんです。BRUTUSではなくTBSが主催した展覧会の企画だったんですが、荒木経惟さんや、ヴィム・ヴェンダースさんなど、世界的な写真家が10人ぐらい参加しました。植田正治さんも参加されることになっていたのですが、撮影日の直前ぐらいに亡くなられて。非常に残念でした。植田さんが撮られる鑑真和上像、見たかった……。

まあ、そんなふうに唐招提寺の特集があったその2年後に、今度は「日本美術×現代アート」という特集をやるんです。狩野山雪×村上隆とか、東洲斎写楽×森村泰昌のように、日本美術と現代の作家を対比させ、共通点を見つけて紹介するという特集で、山下裕二先生に監修していただきました。その時に、明治学院大学の山下先生の大学院のゼミに1年半ぐらい通ったんですよ。

―― その頃は日本美術がこれほど人を集めるとは思われてなかったですよね。

そうですね。2000年に京博で、伊藤若冲の没後200年を記念する展覧会が開かれていますが、その時の入場者数が9万人でしたから。

―― 今でしたらきっと数十万人にはなりますね。

はい。2009年に東博で「皇室の名宝」展が開かれた際には若冲の《動植綵絵》が出展されたのですが、この展覧会には約45万人が訪れました。

2009年は日本美術ブームが一つのピークを迎えた年で、世界中のすべての展覧会の入場者数のトップ3までを、日本で開催された日本美術の展覧会が占めたんです。2位がいまお話しした「皇室の名宝」展で、3位が正倉院展。1位が「阿修羅展」で、95万人を超えました。

―― たった10年でここまでというのは、どうしてだったんでしょう。

西洋美術の展覧会が数多く開催されてきた中で、観客の側が新鮮な目で見られたということが大きかったと思います。

《来迎図》に惹かれる理由

―― 橋本さんにとっては、この10年で美術との付き合い方に何か変化はありましたか?

現代美術と日本美術、両方を知って思うのは、日本美術を見るようになってある意味楽になりました。現代美術を見る時は、どう見るべきか、どう評価すべきかと、理屈で見てしまうところがあります。もちろん、理屈抜きで好きな作家や作品もあるのですが、やはり頭で見ているところがある。それが日本美術だと、何を見てもだいたい好きだと言える(笑)。

―― へえ! 面白い感覚です。じゃあ、たとえばこの本の中に100点あまりの日本美術が載っていますが、これはちょっとひいきしちゃうな、というものはありますか?

それはたくさんありますよ。

―― たとえば、一つあげていただくとしたら?

《阿弥陀二十五菩薩来迎図》ですね。

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改修される前の京博の常設展示館でのことなんですが、館内の一角に、特集展示というかたちで、数ある《来迎図》のうちのよいものだけを5点ほど集めた展示があったんです。今回この本を作るにあたって、その時見たものを再現したかったというぐらい、印象的な展示でした。そんなに来迎図ばかり出せませんと言われて、2点だけで諦めましたが。

―― (笑)。

どうしてそんなに来迎図が好きなのか自分でもよくわからないんですが(笑)。もう一つ大好きな阿弥陀来迎図があって、それは、京都の禅林寺所蔵の《山越阿弥陀図》です。折口信夫が、それを見て『死者の書』を書いたという絵です。

《山越阿弥陀図》は、西方極楽浄土から死者を迎えに阿弥陀仏がやってくる、そのイメージを、比叡山の向こうから昇ってくる月に重ねているんですね。そして、実際に京都では比叡山の向こうから昇ってくるんですよ、満月が。そういう風景を見ていると、そこにはもう時空の隔てはなくて、これを見ていた、この絵を書かせた平安の貴族たちと同じものを見ていると感じられる。

そしてまた、その絵を杉本博司さんがすごく好きで、阿弥陀如来の背後に見える水平線を「これはSeascapeだ」とおっしゃるわけです。「それは我田引水すぎじゃないですか?」って冗談を言うんですけど(笑)、でも、そういうふうに自分の好きな世界がこの絵には幾重にも重なっているんです。民俗学、文化人類学、文芸や和歌にも通じますし、そういうものが折りたたまれ、レイヤーとなってこの絵から感じられることがやはり楽しいんですよね。【次ページへつづく】

―― それをうかがって、私は「かぐや姫の物語」のラストシーンを思い出しました。

最後、月からの迎えのシーンですよね。まさに来迎図です。来迎の思想は平安時代からありましたが、こうした来迎図が盛んに作られていくのは、鎌倉時代のことです。

―― 《来迎図》という一つのモチーフみたいなものが、時代を経てつながっていくんですね。今までそういうふうに見たことはなかったですけど、たとえば何かテーマを決めて見ていくと面白そうだなと思いました。

その展覧会だけで完結すると思わなくてもいいんです。たとえば今なら、東博の「日本国宝展」に善財童子立像が出ています。こうやって、合掌して振り返っている像ですね。これは快慶が作った童子像なんですが、サントリー美術館で行われている「高野山の名宝展」には、運慶が作った八大童子像が出ているんです。同じ時代の同門の作家で、しかし作風の違う二人が表現している童子を見比べてみるのは、とても楽しいと思います。運慶・快慶って、なんとなくヤン坊マー坊みたいにセットにして考えられていますけど、だいぶ個性が違うということがわかったりするんですよ。

―― たしかにその二人、なんとなくセットにしてました(笑)。

本当はそういうふうに、せっかくその展覧会に行くのだったら、そのあとでこちらの展覧会を見るともっと面白いですよということを紹介できればと思っているんですけど。美術ソムリエというか美術コンシェルジュというか。

―― 美術ソムリエ、いいですね! この本はそれに近い感じだなと思いました。一つの絵を見ると、それに関連する絵のページに飛びたくなるんです。たとえば私は、狩野派について書かれているところを追うように、ページを飛びながら読みました。そのストーリーがすごく面白くて、絵の見え方がまた違ってくる感じがしたんです。

そうそう、大河ドラマの片鱗が見えますよね。

―― 永徳に継がせるために長子相続の慣例を破ったとか。お家騒動的な面白さがあって。

それがまさに狩野派をここまで栄えさせた一大転換点だったわけですよね。永徳が亡くなったあとも、天下がどこに行くかわからないという状況で、狩野派は家を3つに分けて、それぞれを豊臣家、徳川家康、宮廷につけて、どこか一つが生き残ればいいという3正面作戦をとるんです。2派が死に絶えても、一つが生き残って狩野の血が伝わればそれでいいという。

―― 武家みたいですね。

画壇もやっぱり戦国をやってるんですよ。

―― どれだけ気に入られるかを競うために、絢爛な絵になったりして。

その時代の権力者たちにとって「これだよ」と思える絵を描かなきゃいけないわけですからね。

作品と「何度も出会い直す」

―― 日本の美術も世俗的なものと密接に関係していて、すごく泥臭い面があるんだなってあらためて思いました。なんとなく、美術とか芸術って、そういうものから独立してあるように思い込んでいましたから。

この時代は、芸術なんて言葉はまだないですからね。いわゆるホワイトキューブの中で、他の文脈から切り離された状態で作品そのものを鑑賞するという見方をし始めたのは近代以降で、その歴史は実は短いんです。

―― なんとなく、自分を表現することがアートだ、みたいな思い込みもあって。この10年の日本美術の隆盛は、そういう見方にも変化があったってことなんでしょうか?

たとえば伊藤若冲は一つの大きな起爆剤になったと思うのですが、やはりみんなそこに「若冲の物語」を見てしまうんですね。ヘタレの青物問屋の若旦那で、人とうまく社交できないんだけど絵だけは好きでずっと描いていました、というような。ゴッホみたいに。絵は個性の表現だ、みたいな話になるわけです。

同時に、若冲をはじめとする江戸絵画は入り口になりやすかったという側面もあると思うんです。ある程度、背景となる知識が必要な水墨画と違って、「鶏の絵だ」って、そのまま見ればいいわけですから。上手いし、独特の“文体”を持っているので、何点か見ているうちにそれと知らされなくても若冲だとわかるようになって来る。それも見る側にとってはうれしいことの一つですから。

―― 見る方も、経験値が上がっていくと、見ることが上手になっていくんでしょうか。

絵画であれ、立体作品であれ、そのものから多くの情報を読み取れる人というのは確実にいます。たとえば山下裕二先生はそのタイプですが、あちらは500万画素の解像度で見えているのに、こちらは10万画素、という感じなんですよ。それぐらい、「見る」という行為のレベルが違う。私は、もともとそういう能力のある人や、訓練を積み重ねてきた人にはまったくおよびません。だからそれとは異なる見方をするしかない。

それが何かというと、政治、宗教、経済など、時代を動かしているさまざまなファクターが、それぞれどのように影響し合って作品が生まれてきたのかという、背景から理解する方法です。個人の才能や個性の発露ということではなく、その作品を生み出している時代感覚、時代の意識みたいなもの、あるいは政治的宗教的な文脈などから作品を叙述するという方向でしか、ものを見ることができないし、語ることもできないんです。

―― でも、そういう解説こそ私が欲しかったものだなと思います。たとえば、雪舟の水墨画とかは、国宝だからと見に行っても、すごいんだろうけど自分がこれが好きかどうかはよくわからない……と思っていたんです。でも橋本さんの『日本の国宝100』を読んで、雪舟のほんとの面白さがわかってなかったのかも、と思いました。

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見ているうちに、それが雪舟であっても誰であっても、「あ、いい絵ですね」って思えるようになる。自分の基準がはっきりしていればいいんだと思います。経験が蓄積していくうちに、好みが変わってきたり、以前はまったくいいと思わなかったけれど、時間を経て、さまざまな作品を見たあとに、あらためて見るといいなあと思ったり。私も、何度も出会い直している作品がありますから。昔は少しもいいと思えなかったけれど、今見るとしみじみいいなあとか。

―― たとえばどんなものがありますか?

そうですね……たとえば、書ですね。ある時から、書に通じる自分のドアが開いたというか、そういう感覚がありました。たとえ文章の意味が読み取れなくても、感じられるというか、好きか嫌いかが言えるようになった。去年、東博で開催された「和様の書」展、あれはものすごく楽しめました。

―― まだまだ深められるぞ、と。

ということなんでしょうね。書くとまた、呼吸がわかるようになったりすると思うので、本当は自分でも書いてみたいのですが。毛筆で署名をする機会が多いので、自分の字をなんとかしたいという、切実な事情もあります(笑)。

―― (笑)。それでは、自分もこれから日本美術を深めてみたいと思っている人に、ワンポイントアドバイスをいただけたら。

そうですね、展覧会は2周するといいかもしれません。

―― 2周ですか?

そう。頭から一つ一つすべて見ていこうとすると絶対に途中で挫折するので(笑)、1点か2点、自分にとってただならぬ、ぱっと見て終わりにできない作品を見つければそれでいいと思うんです。だから最初にざーっと回って、気になるのをいくつかチェックしておいて、2周目でゆっくり見る。その時に、解説文を読むとか、隣にあるものはたぶん関連のあるものなのでそれを見るとか。最初のうちはそれでいいと思います。もちろん、すごく好きで美術オタク的に見ている人は、どうぞお好きなように(笑)。自分が好きなように楽しむのがいちばんですから。

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プロフィール

橋本麻里ライター、編集者

1972年神奈川県生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。ライター、編集者。明治学院大学・立教大学非常勤講師(日本美術史)。『芸術新潮』『BRUTUS』『&Premium』『和樂』などへの寄稿のほか、高校美術教科書の編集・執筆も手がける。著書に『日本の国宝100』(幻冬舎新書)、『変り兜 戦国のCOOL DESIGN』(新潮社/とんぼの本)、共著に『浮世絵入門 恋する春画』『運慶 リアルを超えた天才仏師』(ともに新潮社/とんぼの本)など。

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