2015.10.29

五輪エンブレム問題――「パクリ」批判は正しいのか?

田中辰雄 計量経済学

情報 #五輪エンブレム#著作権侵害

エンブレム問題は佐野氏のエンブレムの取り下げをもって決着し、事態は収拾に向かっている。この事件はネット上の世論が現実世界を動かした点に特徴がある。しかし、著作権侵害あるいはパクリ・盗用についてのネット上の世論をそのまま世論として受け入れることには問題がある。本稿は著作権侵害についての簡単な解説を行い、この問題点を指摘する事を目的とする。

著作権を侵害しているのか

著作権侵害のハードルは高い

まず佐野氏のエンブレムは他作品の著作権を侵害しているのだろうか。これについて、多くの著作権専門家は著作権侵害には当たらないだろうとしている。(注)法律の専門家の説明は専門外の人にはわかりにくいところがあるので、法学者ではない強みあるいは弱みを生かして、以下私なりの解説を述べてみよう。正確さには欠けるが、できるだけわかりやすい説明を試みてみる。エンブレムが著作権侵害にならない直接の理由は、どれくらい似ていれば侵害になるのかのハードルが一般の人が考えるよりも高いためである。(文末注1)

(注)たとえば次のような例があげられる。

(1)「疑惑の五輪エンブレムは「著作権侵害」ではない? 骨董通り法律事務所 福井健策弁護士に聞く」福井健策弁護士

(2)「五輪エンブレム問題、仮にデザイン盗用でも「知らぬ存ぜぬ」で著作権侵害にならない?」木村佳生弁護士

(3)「2020年東京オリンピック・エンブレムは著作権侵害? 専門家の見方」神戸大学大学院法学研究科・教授 島並良

(4)2020東京五輪エンブレム著作権問題に関する3人の専門家のツイート 島並良神戸大学大学院法学研究科・教授、水野祐弁護士、奥邨弘司慶應義塾大学法科大学院教授

(5)「パクリと違法のあいだ―わかりやすい著作権法とオリンピックエンブレム問題」中田裕人弁護士

なお、デザイナーによる侵害ではないという説明は次の説明が詳しい。

よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?」深津貴之

図1はいくつかの裁判で侵害が争点になった判決例である。事例1は子供向けの学習本の表紙に使われた博士の絵が似ているかどうかが争点になった。(注1)左が訴えた原告で、右側が訴えられた被告である。見てわかるとおり素人目には非常に似ているように思えるが、判決はシロであり、著作権侵害ではないとされている。事例2は猫のぬいぐるみのデザインが似ているかが問われたもので、これもちょっと見るだけだと似ている印象をうけるが著作権侵害とはされていない。(注2)事例3は、マンションについて説明する読本に描かれた女性(右)が、一人暮らし女性向けの生活提案本にでる女性に似ているとされた事件である。(注3)これも一見するとかなり似ているように思えるが、やはり判決で侵害とはされていない。

図1 著作権侵害訴訟の判決事例

 

事例1 博士イラスト事件

左原告、右被告
左・原告  右・被告

事例2 猫のぬいぐるみ事件

左原告、右被告
左・原告  右・被告

事例3 マンション読本事件

左原告・一人暮らし女性向けの本、右被告・マンション読本
左・原告、一人暮らし女性向けの本  右・被告、マンション読本

(注1)東京地裁判決平成20.7.4 平成18年(ワ)16899「博士イラスト事件」

(注2)大阪地判平成22.2.25 平成21年(ワ)6411「猫のぬいぐるみ事件」

(注3)大阪地裁平成21.3.26平成19(ワ)7877「マンション読本事件」

このように素人目にはかなり似ていても著作権侵害にはならない例が多々ある。むろんこれらは裁判になったくらいなのでボーダーラインであり、似た程度の類似で侵害が認められた事件もある。特に博士イラスト事件は学者の間にも異論があるようで、おそらくは限界事例である。しかし、少なくともここまでの類似性がないとボーダーライン上にも乗らないのであり、少し似ているという程度では侵害にはならない。

これは似ている部分があっても、それがありふれたものであれば侵害にはならないためである。判決文では似ている部分があることは認めながらも、似ている部分はありふれたものであるので、著作権侵害ではないとしている。ありふれた部分はアイデアとされ、それを元に新たに創作をくわえていくことが許される。

著作権法がこのような運用をされているのは、次代の創作の機会と意欲を奪わないためと考えられる。創作のためには足場が必要である。無から有を生じる人は稀であり、ほとんどは元になったものに手を加えていく。文化の発展はその連鎖の上になりたっており、この創造の連鎖を断つことがないように侵害認定は慎重になっている。(文末注2)

 

具体的に見ていこう。たとえば事例1の博士イラスト事件の例でいえば、なるほど二つの絵は似ている。角帽もカイゼル髭も頭の脇の丸い髪型の2つの塊も同じである。しかし、判決ではこれらの特徴は博士の表現としてはありふれたもので、著作権で保護すべき「表現」ではないとされた。もし、ここで侵害を認めると、角帽、カイゼル髭、丸い髪型が、原告の独占物になり、他の人は許可なく使えなくなってしまう恐れがある。それは「博士」というものをさまざまに表現したいであろう後世のクリエイターの創作活動を大きく制約する。

別の言い方をすると、ここで帽子・髭・頭髪の形は、博士であることを見た人に伝えるための「アイデア」に属するとされたことになる。著作権法は表現は保護するが、アイデアは保護しない。似ているのがアイデア部分なら著作権保護の対象にはならず、侵害ではないことになる。(文末注3)

事例2の猫のぬいぐるみ事件では、似ている部分はその形状である。細身の猫が尾をたてて背をまるめている形状はそっくりである。しかし、判決は、猫が襲いかかるときにこのような姿勢をとることはよく知られており、体の細さも通常の表現の範囲内とされ、著作権保護の対象とはしなかった。原告の創作性はやさしくのんきな印象を与える顔の部分にあるとし、被告の猫にはそのような特徴がみられないので、侵害にはあたらないとしている。

言い換えれば、背を丸めて尾をたてて襲いかかろうとする猫の形状はアイデアに属するのであり、表現ではないと見なしたことになる。もし、ここで猫の形状に著作権を認めると、今後は背をまるめて襲いかかる格好をした猫のぬいぐるみは原告の独占物となり、原告の許可なしには作れなくなる。裁判所はそうなることを避けたと解釈できる。

事例3のマンション読本の事件では、登場する女性キャラは、なで肩、細身の体、上で丸めた髪型、△○等の簡単なシルエット、足先をハの字型に開いたポーズなどはよく似ている。しかし、判決ではこれらの特徴は単純化した人物描写ではよくあるもので、著作権保護の対象ではないとされた。

創作性があるのは顔部分で、原告の場合は、白眼で口元が一直線、表情も硬い等、一人暮らしの女性のクールな面を描いているのに対し、被告の場合では、目が黒眼で、口元が笑っており、ほほがややピンクで柔和な印象をうけるなど、30代の結婚した子供のある女性をイメージしている。両者の創作部分は顔で、その顔が表すイメージが異なる以上、侵害にはあたらないと裁判所は判断した。(文末注4)

このマンション読本事件では、被告側のイラストレータが訴訟前に原告に送ったメールのなかで、無断で作品を利用して申し訳なかった旨を述べており、依拠性が明らかであった。(文末注5)それにもかかわらず裁判所は侵害を認めなかった。細身、髪型などの体型はよくあるものでアイデアに属しており、この体型部分に著作権を認めると他のクリエイターが同じ体型の人物を描けなくなる。裁判所は、そうなることを避けたと理解できる。

このように、似ている部分があってもそれがよくあるアイデアにとどまっていれば著作権侵害にはならない。(文末注6)似ている部分をアイデアとしておけば、他の多くのクリエイターがそれを利用でき、創造の連鎖が維持される。著作権保護の対象とするということは、その人の独占物にするということで、他者が利用できなくなる。著作権保護は作者が生きている限り続き、死後も50年あるいは70年維持されるので、実質的な保護期間は100年にもわたる。いわば法が保証する独占が100年続き、創造の連鎖が100年もの長期間断たれることになる。この制約の損失は大きい。

著作権の目的は模倣の禁止ではなく、文化の発展にある。ここで、文化の発展とは、多くの作品が創造され、それが多くの人に享受されることであろう。著作権保護によって創作の制約が増え、創作活動がやせ細っては意味がない。それゆえ侵害のハードルは高くなっていると考えられる。

佐野作品の検討

このような著作権法の運用を踏まえると、ネット上でパクリあるいは盗用とされた佐野作品の事例の多くは著作権侵害とは言いにくい。エンブレムはすでに多くの人が検討しているので、ネット上であげられた他の例をあげてみる。図2はトートバッグの図案12の泳ぐ人の事例である。左がトートバッグの図案12で、右がネット上で元画像とされたものである。

図2 トートバッグ:泳ぐ人(文末注7)

左・トートバッグ(佐野)、右・Tシャツのデザイン
左・トートバッグ(佐野)  右・Tシャツのデザイン

ここで似ているのは、水着を着た女性が漂って、その影が下に写っているところである。確かにその部分は似ている。しかし、違いもある。元絵では腕がだらりとして女性は水面を漂っているが、トートバッグでは腕が伸びて泳いでいるように見える。影の配置が女性と離れており、水深が深い。水中におちた影の胸の部分に赤と黄色の魚が配置され、暗示的になっている。

また裏のサングラスと組み合わせて一つの作品と考えると、サングラスは彼女自身のまなざし、あるいは男性の目線ともとれ、ある種のメッセージ性を感じ取ることもできる。結局、似ている点は水着の女性が水面を漂い、その影が水底に写っているという部分だけである。この部分を表現として著作権保護の対象とすべきだろうか。それともアイデアと見て保護の対象外とすべきかが問題となる。

もし保護の対象とすると、今後は水着を着た女性の影が水底に写るという図案は、右のイラストの作者の独占物になり、100年間は許諾なしには使えなくなる恐れがある。しかし、泳ぐ人の影が水底に写るという図式は実写真でも見る構図であり、これまでになかったわけではないだろう。これを表現と見なして保護すれば、これから登場するさまざまのクリエイターが、“水底に影を落とす女性”を使っていろいろな趣向を凝らした作品を作ることを禁じてしまう恐れがある。文化の発展のためにそれが望ましいことかどうか。このように考えれば裁判で侵害ではないという判断が出る可能性は高くなる。水着の女性の描き方自体が似ている面もあるので一概には言えないが、明らかな著作権侵害とは言い難いだろう。

トートバッグは、佐野氏はアートディレクターという立場で直接デザインをしているわけではないとのことなので、直接のデザイン例も見てみよう。図3は豚のキャラクターのデザイン例である。左は佐野氏の作品でTBSのキャラ、右はアニメ「クレヨンしんちゃん」にでてくるキャラで、ネット上ではパクリの例としてあげられている。

図3 豚のキャラクター(文末注8)

左・TBSのキャラ(佐野デザイン)  右・「クレヨンしんちゃん」のキャラ
左・TBSのキャラ(佐野デザイン)  右・「クレヨンしんちゃん」のキャラ

しかし、両者は豚であることは同じだが、色も持ち物も服装も異なる。佐野作品は黒一色で、持ち物はなく、TBSと書かれた布を首から下げているように見える。しんちゃんのキャラはピンク色で、刀をさし、上半身裸でズボンをはいている。鼻の形も耳の形も異なる。両者に共通するのは豚であることと、眉毛が吊り上っている事くらいである。

ここで著作権侵害を認めると、眉毛が吊り上った豚はすべて侵害の対象になる恐れがある。眉毛の吊り上った豚を描きたい人は、今後100年間クレヨンしんちゃんの著作権者に許可を得なければならないことになれば、後の世のクリエイターには悪夢であろう。その結果、豚をえがいた作品が減ってしまえば、作品を享受する国民にとっての不利益である。

もうひとつ例をあげる。図4の左は佐野氏によるauのLISMOの宣伝ポスターである。右の上段はiPod+iTuneの広告図案、下段はカナダのブティックのロゴとされ、これらもネット上ではパクリの事例としてよくあげられている。

図4 LISMO(文末注9)

左・佐野氏デザイン  右上段・iPod+iTunesの宣伝ポスター、右下段・カナダのブティック
左・佐野氏デザイン  右上段・iPod+iTunesの宣伝ポスター、右下段・カナダのブティック

iPodの場合、似ているのは、背景が黄緑色の一色でシルエットが手にiPodを持ってイヤホンをしているという点である。しかし、背景を一色にしてシルエットを浮き上がらせるのは古くからある手法で新しいものではない。一方、違いとしては、シルエットの部分はリスと人で違っている。色も白と黒で、持っているデジタルプレイヤーの形も異なる。ポーズも異なっており、人の方は踊っているように見え、リスの方は歩いている。異なる部分は実に多い。似ている部分は背景が緑であることとデジタルプレイヤーを持ってイヤホンをしているという点であるが、これは表現ではなくアイデアに属するというべきだろう。

カナダのブティックのロゴは、時系列でみて佐野デザインより後との指摘もある。が、仮に時系列で前だったとしても、著作権を侵害しているかどうかは微妙である。両者は緑の背景に白いリスが浮き出る点が共通している。違いとしては、リスの形が佐野ではデフォルメされ、ブティックではリアルなまま、佐野では音楽を聴いていて、ブティックではものを食べているように見える点などがあげられる。共通する部分はリスが緑の背景に白地のシルエットで描かれている部分なので、侵害とするならばこの部分が保護の対象となる。

しかし、緑の背景に白のシルエットでリスを描くということに、独占させるほど創作性があるだろうか。動物をシルエットで描くのはよくあることである。これに保護を与えるなら、赤を背景にした馬のシルエット、黄色を背景にした蝶のシルエット等も保護の対象になりうるので、誰かがそれを描いてしまうと以後は、その人の独占物となり、許諾を得なければ使えなくなる。それは創造の連鎖にとって望ましくはないだろう。

むしろ、一色の背景に動物のシルエットというのはアイデアに属するとして保護の対象外としておき、そのうえで創作の工夫をしたほうが文化の発展のためにはよいのではないか。たとえば同じ緑の背景にシルエットでリスを描くとしても、宙返りさせたり、目だけ描いてにらませたり、忍者の格好をさせたり、いろいろのバリエーションが考えられる。著作権で保護すべきはこのように創意工夫された表現部分のほうではないか。このように考えるなら佐野作品もそのバリエーションの一例であり、著作権は侵害していないとしておいたほうがよいだろうということになる。

他にもネット上でパクリ・盗用とされた佐野氏自身の作品は、著作権侵害とは言いにくいものがほとんどであるように思える。たとえば、「トヨタReBORN」、「おしゃべりな表紙」、「寿司メモ」、「名古屋東山動物園シンボル」、「Camera GP JAPAN 2013ロゴ」、「サントリー「BOSS ゼロの頂点」」、「太田市美術館・図書館のロゴ」など10以上の作品がパクリとされているが、いずれも著作権侵害とは言い難い。(注1)(注2)

(注1)ネット上で挙げられたパクリ事例は次の二つのサイトがよくまとめている。「佐野研二郎氏のパクリ疑惑が止まらない・・・・・ネット民たちにより次々と暴かれる 」「【証拠画像】佐野研二郎パクり – Newscrap![ニュースクラップ]

(注2)このうち「名古屋東山動物園シンボル」、「太田市美術館・図書館のロゴ」については、侵害かどうかを検討した記事がある。河尻亨一「それでもあの五輪エンブレムは”パクリ”ではない!〜そもそもデザインとは何か?

佐野作品で著作権法から見て違反が明らかなのは、トートバッグでのBEACHと鳥の画像、ならびに説明資料でのエンブレム使用例写真など、他の人の作品を素材としてそのまま使った無許諾利用である。佐野氏は一連のトートバッグの無許諾利用についてはアートディレクターとして部下の監督責任を、エンブレム使用例写真については許諾をとらなかった違反を認め、謝罪した。(文末注10)この違反の罪の軽重、あるいは責任の取り方については議論がありうるだろう。

ただ軽重いずれの立場をとるにせよ、当人の手による他のほとんどの作品が著作権侵害に当たらない以上、佐野氏を盗用の常習者と見なすのは無理がある。ネット上では佐野氏を、STAP細胞事件の小保方氏、現代のベートーベン事件の佐村河内氏と同列に論じる図が出回っているが(注)、小保方氏・佐村河内氏の場合は、自身の手になる中心的な業績のすべてがまったくの虚偽で、かつ本人が意図的に不正を行っていた。それゆえ、社会的制裁をうけ、世の表舞台から退場することになってもしかたがなかった。佐野氏の事例はこれとは異なっており、同列に論じるべきではないだろう。(文末注11)

(注)たとえばこちら、あるいはこちらを参照。

しかし、このように著作権法侵害ではないと述べても攻撃者たちは納得しないだろう。実際、騒動の途中でエンブレムは著作権法上は問題ないという指摘が何度かなされたが、それで攻撃が収まることはなかった。攻撃者たちは暗黙に著作権法以上のことを主張していたことになる。(文末注12)本稿で問題にしたいのはこの暗黙の主張の妥当性である。

著作権保護を強化すべきか――似ていれば盗用とすべきか

その主張とは、著作権の侵害のハードルを下げ、より広い範囲の類似品を違法あるいはパクリ・盗用とすべきという考えと思われる。すなわち著作権の保護水準を一段強化せよという主張である。現行の著作権法は、似ていてもそれがありふれたアイデア部分であり、新しい創作性が加えられていれば侵害とされないが、これを改めて、似ていれば侵害すなわち盗用・パクリとせよという主張である。(文末注13)著作権の保護範囲を表現だけでなく、アイデア部分にまで広げよという主張と言い換えてもよい。

実際、ネット上には、表現ではなく発想がパクリだとの発言が見られる。(文末注14)法的には問題なくてもパクリはパクリだから叩くべきという意見もその例である。なお、著作権法を改正しなくても、佐野作品と同程度の類似作品を見つけるたびに皆で集中的に叩いて、そのクリエイターを市場から退場させていけば、法改正と同じ効果が得られる。今回、それに近いことが実際に行われた。

この主張は一つのそれなりの「意見」である。侵害のハードルをどこに設定するかは、アイデアと表現の線引きの問題とも言いかえられ、積年の論争テーマだからである。この主張に従うと、現在、普通に行われているもののかなりの部分をパクリ・盗用認定して一掃していくことになる。主張としては過激であり、移行過程で多くの混乱を伴うだろうが、論理的には可能な主張である。

はたして侵害のハードルを下げるべきだろうか。現状は、人の作品と似ていても、似た部分がありふれていればよく、そこに新たな創作性を加わえていくことができる。これを改め、似ていれば盗用と見なすように著作権保護を強化すべきだろうか。

侵害のハードルを下げ、似ていれば盗用とすると、すでに述べたように創造の機会と誘因が奪われるという問題が生じる。足場を使わずに岩山を登れというようもので、クリエイターの活動が制約される。博士にカイゼル髭と博士帽子をかぶせるにはAさんの許可がいる、背中を丸めた猫のぬいぐるみをつくるのはBさんの許可がいる、泳ぐ人の水底に影がある図柄を描くにはCさんの許可がいる、眉の吊り上った豚を描くにはDさんの許可がいる、というように、できないことが増えていくからである。

侵害を避けようとすれば、即ちすなわちパクリと言われない作品をつくろうとすれば、他のどの作品とも似ていない作品をつくらなければならない。1年に数えるほどしか作品をつくらない純粋芸術家や、水玉や蝶など基本モチーフを確立してそれを展開していくだけになった著名デザイナーなどはやっていけるだろう。しかし、そのようなクリエイターはごく一部に限られる。圧倒的に多くのクリエイターは世の中の需要に応じながら仕事をしており、自分の内側の衝動だけで作品をつくっているわけではない。そのような大多数のクリエイターは萎縮し、世の中に出る作品数は減ることになる。(注)それは創作にとって、あるいは作品を享受する国民にとってさびしい社会である。

(注)そのような危惧は何人かのクリエイターによって表明されている。たとえば次のような記事参照。「例の件で、勝手にダメージ受けてるヤツがいます」。「kon3。(このさん)の創作活動日誌ブログ

侵害の範囲を広げ、似ているものをすべてパクリとして批判する社会は、独創的なごく少数の作品しか存在を許さない。その代償として、多くの普通のクリエイターの創作の足かせを増やし、意欲をくじくおそれがある。佐野エンブレムの盗用疑惑が出たとき、少なからぬクリエイターが佐野擁護にまわったのはこのためと考えられる。直近の課題としては、五輪エンブレムの新規公募に応募するクリエイターが減るのではないかということが危惧される。(注)

(注)新聞報道としてはたとえば「五輪エンブレム再公募も デザイナー「怖くて応募できない」の声」、あるいは「再公募に優秀な作品が集まるか デザイナーには「佐野氏のような追及…尻込みする人いそう」との声も

むろん独創的であることは素晴らしい。しかし、独創的な作品はいわば山の頂点にあり、山のすそ野には先人の作品を元にした多くの作品が広がっている。似ているだけでパクリとして排除することは山のすそ野を切り崩し、山の頂点をも低くしてしまう恐れがある。著作権の目的は模倣の禁止ではなく、文化の発展である。文化の発展にとってそれが望ましいことかどうかを問う必要がある。

これに対し、そうはいってもネット時代には著作権保護は強化すべきであり、侵害のハードルを下げるべき、あるいは下げざるを得ないという意見もありうる。なぜなら、ネット時代にはコピペによる著作権侵害が蔓延している実態があり、かつ検索技術が驚異的にあがり、似た作品の検索が簡単になったからである。

今回の事件では、多数のネット民によってこの検索技術がふんだんに使われ、これまでは見つけられなかった類似作品が見つかるようになった。コピペが蔓延するネット時代に著作権を守ろうとするなら、検索で対抗して取り締まるのは自然の流れであり、現状は受け入れざるを得ないのではないか。また、クリエイター側も作品を作った際、それを画像検索にかけて似た作品が過去にないかどうか調べれば自らを防御できるではないか、と。

この意見には文化の発展と言う視点がほとんどないという問題がある。またクリエイター自身が検索で似た作品があるかどうか確認することが、創作活動にとって望ましいかどうかにも議論の余地がある。(文末注15)多数のネット民とたった一人のクリエイターでは検索能力に差がありすぎて十分に防御できないという技術的問題もあろう。(注)しかし、ここではより本質的な問題として、ネット時代であるからこそ、逆に著作権の保護を緩め、著作物の自由な利用を増やすべきという有力な主張があることを指摘しておきたい。

(注)東京都は2015年10月9日に東京オリンピックに向けて東京の良さをアピールするロゴ“&TOKYO”を発表した。五輪エンブレム事件の影響をうけて当初8月発表だったものを延期し、2か月かけて調査したとされているが、ネット民の手によって発表後1週間ですでに二つの類似ロゴが見つけられている

ネット時代の特徴は誰もがクリエイターになれることである。写真や動画を作成し、加工し、それをネットにアップして多くの人に観賞してもらうことができる。人類史上これははじめてのことであり、人間の創作活動にとって画期的で素晴らしい出来事であった。この潜在力を生かそうと思えば、著作権保護を強化するのではなくむしろ緩め、著作物を自由に利用できる余地を増やした方がよいという考えがある。

たとえばフランスパンの事例をとろう。今回トートバッグでは人が撮ったフランスパンの写真が使われたことが問題になった。(文末注16)これを問題視するならフランスパンの写真を使いたい人は自分で写真を撮ることになる。(文末注17)しかし、プロはともかく、フランスパンの写真を利用したい人がすべて自分で写真をとったほうがよいのだろうか。

ある人が自分の愛犬が口をあけて飛び上がるところを写真にとり、この犬にフランスパンをくわえさせてアップしたら面白いと思ったとしよう。しかし、フランスパンの写真を自分で撮らなければならないとなれば、止めてしまうだろう。世界中の100人の人がフランスパンを使ったアイデアを思いついたとして、自分で撮らなければならないとなれば、95人は止めてしまうかもしれない。その95個の作品の中には多くの人を喜ばす面白いアイデアがあったかもしれない。著作権侵害を理由に5人にしか作品を発表しない社会と、侵害をうるさく言わずに100人が作品を発表する社会では、どちらが文化を発展させるだろうか。このように考える時、著作物を自由に使える範囲をふやしたほうがよいのではないかという考えが出てくる。

実際、その方向への動きはいくつか起きている。フリー素材を供給する動きはそうである。クリエイティブ・コモンズも自由に使える著作物を増やそうという運動である。(注1)また、非営利である・原著作者に被害を与えないなど一定の条件下で、無許諾での著作物利用を認めるフェアユースも同じ方向にある。(注2)

(注1)クリエイティブ・コモンズとは、権利者が自分の作品を自由に利用してよいことを作品にマークCCをつけて明記する制度である。通常のコピーライトマークCは、その作品を無許可で利用してはならないという宣言であるが、クリエイティブ・コモンズのマークCCは、一定の条件のもとで、その作品を許可をとらずとも利用できることを宣言する。著作物の自由な利用を進めるためにレッシグ教授によって提唱され、広く世界に広まっている。詳しくはこちらを参照。解説は野口(2010)の第6章が明瞭である。

(注2)フェアユースとは一般的な条件のもとで著作物を無許諾・無償で利用できる制度である。一般的条件として重要なのは、非営利・公共性・変容的など社会的な有用性があり、かつ権利者に損害を与えないことである。具体的には、教育機関や図書館、あるいは福祉目的等での著作物の利用、さらにパロディをはじめとするさまざまの二次創作での利用が含まれる。 フェアユースについてはくわしくは上野(2007)、または野口(2010)参照。

フェアユースは元々アメリカの制度であるが、最近その有益性が認識され、台湾、フィリピン、韓国と採用国が広がりつつある。(文末注18)さらに、学者の中には、ネット上の作品については、権利者が登録などの手続きをしないかぎり、一定の条件のもとで自動的に利用可能にしてはどうかという意見すらある。(文末注19)侵害のハードルを高くして創造の連鎖を保つことと、フリー素材・クリエイティブコモン・フェアユースは同じことではないが、ともにネット上にあって自由に利用できる著作物を増やそうという点では同じ方向を向いている。

このようにネット時代だからといって、著作権の保護を強化し、検索技術を使って取り締まることが望ましいとは限らない。逆にネット時代だからこそ著作権の保護を緩め、人の作品を利用しやすくする方向に向かうべきという見解もまた有力なのである。ネット時代に著作権が向かうべき方向が一つに決まっているわけではない。議論は継続中であり、決着はついていない。

このように述べると学者の世界では決着はまだついていないのかもしれないが、今回のエンブレム問題で世論の判断は決まった。世論は佐野作品をパクリ・盗用と判断したのであり、決着は着いたと言う人がいるかもしれない。確かに、ネット上の世論は盗用・パクリ批判一色であり、佐野氏がエンブレムを取り下げて問題は収束した。しかし、だからといって、国民が佐野作品を盗用判定したとは限らない。なぜならネットが炎上するとき、炎上に参加しているのはごく一部の人にすぎないからである。

炎上は国民の意見か

炎上で書き込む人はごく一部

今回の事件の特徴は、ネット上の炎上が実世界に大きな影響を及ぼしたことである。エンブレム問題から発したパクリ批判は連日炎上を重ねて、それがマスコミに取り上げられ、大きな影響力を持った。しかし、炎上事件でのネット上の書き込みが国民の意見であるとは限らない。なぜなら炎上に参加し、自ら発言する人はネットユーザのごく一部だからである。

図5は筆者らが、2014年11月に行ったアンケート調査の結果である(田中(2015)より一部を抜粋)。モニターは調査会社のウエブモニター2万人弱で、彼らに対し過去に炎上事件に関わったかことがあるかを尋ねた。

図5

問:炎上事件とは、ある人の書き込みをきっかけに多数の人があつまってその人への批判・攻撃が行われる現象です。炎上事件についてあてはまるものをひとつ選んでください。出所:田中(2015)
問:炎上事件とは、ある人の書き込みをきっかけに多数の人があつまってその人への批判・攻撃が行われる現象です。炎上事件についてあてはまるものをひとつ選んでください。出所:田中(2015)

結果を見ると、炎上をニュース等で見たが実際の書き込みを見たことがないという人が75%。炎上事件を聞いたことがない人も8%いて、全体の83%が炎上での書き込みを直接見ていない。直接に書きこみを見た事のある人は(3)(4)あわせて16%程度である。そして、炎上事件に書きこんだ事のある人となると、(5)(6)をあわせて1.1%(=0.49%+0.63%)しかいない。

さらにこれは期間を限定していない過去の経験すべてである。数年前に1回だけ書き込んでいまは書き込んでいない人も含まれており、現在も炎上に書き込んでいるいわば「現役」の炎上参加者はさらに減る。現役の炎上参加者を見るために、ここで(5)(6)を選んだ人に、過去1年に書き込んだことがあるかを尋ねると、過去1年に間に書き込んだのは4割程度であった。これを1.1%に乗じると0.5%以下となる。すなわち、炎上に参加して書き込んでいる人はネットユーザの0.5%程度しかいない。

加えて、炎上事件は年に何回も起きている事に注意しよう。(注)書き込む人がすべての炎上事件に書き込んでいるとは考えにくいので、特定の炎上事件への書き込み者の数は、この数分の1のオーダーでさらに小さくなる。最後に、このアンケート調査はパソコンユーザがベースなので、ネットをやらない人は分母から除かれている。これらの人を分母に入れて全国民に占める比率を求めれば比率はさらに下がる。これらを勘案すると特定の炎上事件に対し、書き込む人は全国民のなかのおそらくは0.1%とか0.2%のオーダーと思われる。ツイッターや掲示板等でわずか一言でも書き込んだことにはなるので、活発に書き込みを行う確信的な攻撃者の数はさらにずっと少なくなる。

(注)炎上対策をビジネスにしているエルテス社は、炎上は年に200回程度発生しているとしている。この会社は炎上対策をビジネスにしているのでこの数字は過大カウントかもしれない。それでも、「炎上」でサーチすると月に2~3回は話題になる炎上事件があるので、年に20~30回は発生しているとみてよい。

炎上事件の主役がごく少数だというのは、実はネットの関係者には知られた事実である。2チャンネルの管理人のひろゆき氏は、2チャンネルで起きたほとんどの炎上事件の実行犯は5人以内であり、たった一人であることも珍しくないと述べたと言われる。(文末注20)ニコニコ動画を運営するドワンゴの社長の川上氏は、アクセス者のIPを見て、「荒らしって本当は少ないんです」と述べている。(文末注21)実際、ニコ動が炎上して画面が攻撃的書き込みで荒れているとき、わずか数人のコメントを消すだけで落ち着いた画面になってしまうと言われる。また、ジャーナリストの上杉隆は靖国問題について自身のブログが炎上したとき、3日で700ものコメントが着いたが、IPを見ると書いたのはたった4人だったと述べている。(注)

(注)上杉隆×ちきりん「なぜブログは炎上するのか? “嫌いな人が好き”の論理」 Business Media 誠

今回のエンブレムの炎上事件は規模がかなり大きいので、書き込み者の数は上記より多いだろうが、それでも数としてはごくわずかであろう。実数は不明であるが、著名ブロガーで自身も炎上経験のある山本一郎氏は、定期的に騒いでいるのは60人くらいではないかと述べている。(注1)また、群馬県太田市は佐野デザインの図書館ロゴの採用をやめるとき、市民から意見募集をしているが、そのときに集まった意見がメールと手紙合わせて217通だった。(注2)太田市の全人口が22万人なので、意見を寄せた人は単純計算で0.1%となる。全国規模で大きな話題になった事件にしてはこの数値は低い。なお、この数値は、先に示したアンケートでざっくり推計した炎上書き込み者の比率とオーダーが一致する。(文末注22)

(注1)山本一郎「『GQ』でボツになった「五輪エンブレム」佐野研二郎さんのネット炎上関連の原稿と経緯について

(注2)毎日新聞「おおたBITOロゴ:佐野氏デザイン、使用を断念 群馬・太田市の施設

 

このように炎上事件で活発に書き込みを行う攻撃者の数はきわめて少ない。一言、二言書き込むだけの参加者はその数十倍はいるが、それでも数はしれている。炎上事件ではネット中が非難コメントであふれ、ネットにいるすべての人から攻撃を受けているかのような印象になる。しかし、実は攻撃者はごく少数なのである。

炎上時のネット世論は一般ユーザの意見ではない

無論、そのわずかの攻撃者が、大多数のネットユーザの意見を代表しているなら、それは確かにネット上の世論である。しかし、今回の場合、一般のネットユーザが、書き込みをする攻撃者たちと同意見であったかどうかは疑わしい。

なぜなら、多くのネットユーザにとって、どこまで似ていれば侵害と見なすべきかは普段考えたこともない話題であり、判断するための情報をもちあわせていないと考えられるからである。アイデアと表現の分離、創造の連鎖を断つことのコストなど著作権上の論点は、具体例をあげて議論しなければ理解しにくい。本稿で述べた著作権法の運用のあり方、たとえば博士イラスト事件やマンション読本事件などの判決は、一般のネットユーザにはむしろ意外に思えるかもしれない。

国民的な議論の結果、もし著作権法の運用を変え、ネットで行われているように、似ていればパクリ認定して糾弾するということになるのなら、それはそれで一つの国民の意思決定である。しかし、現状はそのはるか以前にある。一般のネットユーザは侵害のハードルについて判断を下すだけの情報を持たず、議論も蓄積されていない。

たとえば、あるブロガーは佐野作品のパクリ批判にあわせて、自分で佐野作品の検証を行い、いったんはパクリだと述べた。が、その後デザイナーからこの程度の類似ではパクリとは言えないと指摘され、再考のうえで素人が簡単にパクリ認定してはいけないと考えを改めている。(注)

(注)神田敏晶「佐野研二郎さんのトレース疑惑を検証してみる

また、あるデザイナーはエンブレムが盗用ではないことを丁寧に説明した記事をヤフーに書いたが、そのコメント欄では、勉強になった、考えさせられたなど比較的冷静で学習的な議論が続いており、他の掲示板やツイッターでの議論のように一方的な非難ではない。(注)群馬県の太田市で、ロゴ使用の是非に意見を寄せたのが全市民の0.1%でしかなかったことも、多くの市民は著作権侵害について積極的な意見を持ち合わせてはいなかったことの傍証と解釈できる。

(注)深津貴之「よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?

これらの例が示すように、一般のネットユーザの著作権侵害についての見解は固まっていない。ブログで佐野批判をしているサイトはいくつかあるが、それらもトートバッグや説明資料での無断使用、あるいは組織委員会や佐野氏の会見時の対応や選考過程を論拠にしており、ネット民があげる数多くのパクリ・盗用事例を論拠としてはいない。(注)一般ユーザの平均的な意見をあえて推測すれば“盗用かどうかわからないが、これだけもめているのだからこのエンブレムは止めた方がよいのかも”というところではないかと思われる。騒動については懸念を持っているが、著作権侵害について一般ユーザが自ら判断しているとは思えない。

(注)たとえばつぎのような記事である。すべて佐野批判であるが、その論拠はコピペによる素材の無断使用と選考過程のまずさにあり、ネット民が数多く上げる盗用・パクリ事例ではない。「佐野研二郎氏のデザイン盗用・模倣問題、編集現場から考える」。

言い換えれば、今回の炎上事件で示されたパクリ・盗用なるものについての「ウエブ世論」の判断を、ネットユーザの総意と見なすべきではない。新しい五輪エンブレム審査委員会が、著作権侵害について炎上時の「ウエブ世論」におもねるならば、間違った道に迷い込む恐れがある。(文末注23)(文末注24)

今回の炎上が大きくなった理由

炎上はごく一部の人が起こしている。しかし、今回、その炎上が大きな力を持った。その理由は、ひとつにはマスコミが盗用疑惑として大きくとりあげたことが大きい。これまでも炎上事件は数多くあったが、多くはネット上にとどまり、実世界に大きな影響を及ぼすことはなかった。今回はオリンピックという皆が注目のイベントだったため大きくとりあげられ、かつその見出しが炎上ではなく盗用疑惑であった。炎上について普通のニュースでは、○○氏炎上中という見出しで報道される。○○氏炎上中の場合、どちらに非があるかははっきりしないため、ニュースを見る側のスタンスは中立的になる。しかし、盗用疑惑という見出しは、政治家の献金疑惑と同じで、それだけでマイナスイメージである。

そこに加えてトートバッグや説明資料での無断使用という明らかな著作権法違反が出たことで、イメージの悪化は決定的になった。エンブレムは皆が目にするオリンピックの顔なので、イメージの悪化は避けなければならない。ここまで問題が拡大した以上、佐野氏と組織委員会がエンブレムを取り上げたのは妥当な判断だっただろう。しかし、このことは、ネット上で行われた盗用・パクリ判定に国民が支持を与えた事を意味するわけではない。

今回の炎上が大きくなったもうひとつの背景として、著作権教育の偏りも考えられる。著作権教育は人の著作物を無断で使うことはいけないことだ、あるいは創った人の気持ちを尊重しよう、と著作物の保護の面を強調する傾向がある。しかし、著作権の最大の目的は著作物の保護自体ではなく、文化の発展にある。

文化の発展のためには著作物の保護もさることながら、同時に著作物が多くの人に利用されることが望ましい。利用とは、一つは観賞であり、もうひとつは次の創作のための利用、すなわち創造の連鎖である。しかし、著作権教育ではこの利用の面があまり語られないため、一部ではあるが著作権の保護を絶対の正義であるかのように考える人を生み出すことになった。今回の騒動の異常なほどの盛り上がりの背後には、正義の旗印をかかげて悪と戦おうとする人の姿が見え隠れする。

著作権法を支えるものは正義の観念とは遠いものだろう。著作権法での侵害・非侵害の境目は本稿でも見たように微妙である。また著作権法は数年おきに改正され、昨日まで違法だった行為が合法になったり、逆に合法だったものが違法になったりする。さらに著作権法は親告罪で権利者が訴えなければ罪に問われない。これらの特徴は著作権法を支える理念が正義とは言えないことを示している。(文末注25)著作権法は、正義というより、文化の発展のために我々が作り出したルールである。(文末注26)しかし、著作権教育は保護の面を強調するあまり、一部ではあるが著作権法をルールではなく正義ととらえる人を生みだし、それが事態を無用に混乱させているように思われる。

 

結語

本稿の目的は、エンブレム問題に関連してネット上で形成された著作権侵害に関する世論なるものをどう理解するのかについて、ひとつの見解を表明することにある。見解は次の3点にまとめられる。

(1)ネット上の盗用パクリ判定と、法律での著作権侵害判定とにはずれがある。法律での著作権侵害は似ていただけでは著作権侵害にはならないが、ネット上では似ているだけで盗用・パクリ判定している。

(2)似ているだけで著作権侵害とすると、創造の連鎖が止まり、クリエイターの活動が委縮するという問題が発生する。

(3)似ているだけで侵害とすべきかどうかについて国民の総意が得られているとは思えない。炎上時のネットの世論はごく一部の人の声であり、国民の多数の支持を受けているとはいえない。

■注

(注1)著作権侵害が成立するためには類似性に加えて依拠性、つまりその作品を見てつくったかどうかが争点になる。しかし、その作品を見たこと、あるいは逆に見なかったことは、いずれもよほどの偶然がないと立証が難しい。つまり、佐野氏がベルギーの博物館のエンブレムを見たこと、あるいは逆に見なかったことはいずれも立証困難である。今回の論争でも主たる論争点は依拠性より類似性にある。すなわち、佐野エンブレムがベルギーの劇場ロゴに“似ている”かどうかに論点が集中している。

(注2)判決文自体には、次代の創作の意欲を損なわないためとか、創造の連鎖を守るためというような言葉はない。しかし、実質的にはそのような配慮をしていると思われる。たとえば、ありふれた表現を保護しない理由について中山信弘は、「その実質的根拠は、そのようなものに独占権を認めると、後発の選択の可能性を著しく狭め、却って文化の発達の阻害要因となりかねないという点にある」と述べている(中山(2007)、p60)

(注3)博士イラスト事件については津幡(2009)が詳しい。

(注4)マンション読本事件については丁(2010)参照

(注5)なぜそのようなメールがあるのに裁判になったかと言えば、被告は、そのメールを送ったイラストレータではなく、彼女の属する企業であり、企業が侵害を認めず争ったためである。

(注6)猫のやさしい顔、女性のクールな印象がここでの「本質的特徴」である。別の例をあげれば、ドラえもんのキャラを使って作品を作った場合、どんなに変形させ、創作をくわえていても、それがドラえもんであることがわかるかぎりは侵害となる。ドラえもんはけしてありふれてはいない創作物で、まさに本質的特徴だからである。そしてこのような形で侵害を認めても、創造の連鎖に加える制約は微少である。ドラえもんとは異なる猫型キャラをつくるこはいくらでもできるからである。それでは著作権侵害はどのような時に成立するのか。他者の創作した(ありふれてはいない)部分がそのまま再現されている時に侵害が成立する。裁判では、このことを、原著作者の作品の“表現上の本質的な特徴を直接感得することができる”時に侵害と認めると述べている。難しい表現でわかりにくいが、猫のぬいぐるみの例で言えば、原告の猫のやさしくのんきな顔まで似ているとき、マンション読本の例でいえば、原告の女性のクールな印象まで含めて似ているときに、著作権侵害が成立すると考えられる。

(注7)右の画像はGeoff McFetridge氏のTシャツのデザインとされる。本稿でのこの画像の出所は「佐野研二郎氏のパクリ疑惑のサントリーオールフリートートバッグ比較とまとめ」である。

(注8)この図は次のサイトから引用した。

(注9)この写真は次のサイトより引用した。

(注10)トートバッグの件の謝罪はこちらを、取り下げ時の謝罪は こちらを参照

(注11)佐野氏へのパクリ批判は著作権侵害を問題にしているのではなく、佐野作品に創作的部分が少ない事を問題にしているのだという反論があるかもしれない。確かにそれなら正当である。もし、今回あげられた佐野氏の類似作品のようなものが見つかるのが佐野氏だけで、他の多くのクリエイターの作品には類似作品がほとんど見つからないという事実があれば、佐野氏への攻撃は(少々度が過ぎているとしても)論拠がある。しかし、そのような事実は検証されていない。

(注12)なお、騒動の途中からは選考過程の不透明さも批判の論点に加わった。公募自体が最初から佐野氏に決まっていた出来レースではなかったという批判である。ただ、ツイッターで佐野問題に関するツイートを見ると、騒動の後半になっても、ざっとみて7割程度のツイートはパクリを話題としており、攻撃側の主要論点は一貫して著作権問題である。また、選考過程の不透明さが問題なら責められるべきは佐野氏というより、選考過程を所管するオリンピックの組織委員会であろう。

(注13)攻撃側では著作権侵害、パクリ、盗用という言葉の意味を使い分ける人もいる。たとえば、侵害ではないけどパクリだという言明もある。ただ、意味の使い分けは論者によってばらばらで統一されていない。本稿では意味の違いにこだわる必要性は乏しいので、特に区別せず用いる。どのいずれの用語を使ってもも、含意するところが“他者の作品を真似ており、その真似の程度が市場から退場させるだけの強い非難に値する”という点では同じである。実際、トートバッグの例では、著作権侵害である鳥・BEACHと侵害とは言えない他の類似例(泳ぐ人等)が並列されており、攻撃側は両者を区別してみていない。

(注14)たとえば図4のLISMOの例で、さるネット上の掲示板では、背景色以外にどこが似ているのかとの問いに対し、「形状でなはく発想をパクってる(原文ママ)」という答えが出されている。

(注15)クリエイターとは本来は、そのような世俗の配慮とは無縁で、ひたすら作品の出来栄えに没頭する人であるべきだろう。

(注16)トートバッグ、図案18。なお、このフランスパンの写真の利用は著作権法上問題ないという見解もある。写真が著作物であるのは、そこに撮影者の思想・感情が現れる時であるが、今回のフランスパンの写真はあまりに単純で、撮影者の思想・感情がほとんど見られないからである。すなわちフランスパンの写真は著作物ではなく、ゆえに利用は問題ないという見解である。ただ、ここでは説明の都合上、仮にフランスパンの写真が著作物だとして説明を行う。

(注17)あるいは著作権者に許可をとるかである。手間としては自分で撮るのも許可をとるのも似たようなものであろう。以下の説明では単純化のために「自分で写真を撮る」に一本化して説明する。

(注18)誤解のないように付け加えると、これらの運動は主として非営利のアマの利用者を想定している事が多い。佐野氏はプロなので事情が異なってくるかもしれない。ここでは著作権保護を強化するか緩めるかの一般論として述べている。ただし、プロとアマの区別はネットの普及とともに次第に曖昧になってきており、将来的にあまり意味がなくなってくる可能性が高い。

(注19)たとえば田村(2009,p27)、水野(2015)。なお、水野の主張は本稿の論旨と極めて近い。

(注20)川上(2014a,p24)

(注21)川上(2014b)

(注22)なお、0.1%であっても全人口に乗じれば大きな人数になり、それは数人から数十人という数字と一致しないという疑問を持つ人もいるかもしれない。これは1日中はりついて書き込みを熱心に行う人が数十人程度おり、その周りにツイッターや掲示板などで一言突っ込みを入れたり、感想を書き込むだけの人が数千人~数万人単位でいるためである。

(注23)たとえば、パクリと言われないように、どの既存作品とも似ていない作品を選ぼうとすれば、結果として出来の良くないデザインを選んでしまうかもしれない。これまでのどのデザインとも似ていなくて、かつ優れたデザインというのは数年に一度世界のどこかで出るか出ないかという稀なことであるのに対し、どの既存デザインとも似ていなくて、かつ良くないデザインというのはいくらでも考えられるからである。

(注24)2015年10月17日付の報道によれは、新エンブレムの選定に国民の投票を反映させたい意向とのことである。「オリンピックエンブレムに国民投票を検討 「どれだけお金かけるの」の声も五輪新エンブレム、応募要項を発表 子どもも参加OKに」。しかし、国民投票はうまくいけば大成功になるが、失敗するとひどい失態になる危険があり、リスクが大きい。私見ではあまりよい方法とは思えない。

(注25)このことは、物財の窃盗や傷害と比較するとわかる。窃盗や傷害が違法である事は誰の目にも明らかでそこに境目のようなものはない。また、長年にわたって法改正されておらず違法であることにゆるぎはない。昨日まで傷害罪だった行為が今日から傷害罪ではなくなるということもない。非親告罪なので、被害者が訴えなくても警察が犯人をとらえて、検察が罪に問う。このように強い対応が容認されているのは、窃盗や傷害を放置することが正義に反するという素朴な気持ちが人々の心にあるからだと思われる。

(注26)正義とルールの違いはいろいろ議論できるが、ここでは正義は時代と場所を超えて主張される人類普遍の行動基準、一方、ルールは時代と場所によって異なり、かつ変化しうる行動基準という意味で用いている。正義はひとつしかないがルールは時代と場所により複数ありうると言ってもよい。例えば右側通行はルールであるが正義ではない。世界には左側通行の国もあるし、交通ルールは常に変化し、そもそも交通ルール自体のない国や時代もあるからである。これに対し、ゆえなく人を傷つけてはいけないということは、おそらくほとんどの人にとって正義であろう。たとえ、その国・時代のルールが人を傷つけることを容認していても、目の前でゆえなき人が傷つけられているのを見ればそれを正すべきという気持ちが誰の心にもわいてくる。これが正義である。正義は人類普遍の価値を志向するという良い面も持つが、一つの正しさしか認めず、正義に反すると判断したものをどこまでも排除しようとするので独善的・好戦的になりやすいという問題点がある。

■引用文献

上野達弘、2007、「著作権法における権利制限規定の再検討―日本版フェアユースの可能性―」コピライト560号, 2007

川上量生、2014a、「ネットがつくった文化圏」 川上量生監修『ネットが生んだ文化-誰もが表現者の時代』角川インターネット講座4 序章、角川書店

川上量生、2014b 、「テレビがなぜ進化したのか考えてみたらいい」GALAC, No.211, 2014年 12月号,放送批評懇談会、インタビュー記事

田中辰雄、2015、「炎上への対処‐牧歌時代の終わり‐」第32回情報通信学会報告、2015/6/20-21 at 青山学院大学

田村善之、2009、「デジタル時代の著作権制度」 知的財産法政策学研究  23(2009), pp1-28, 北海道大学

丁文杰, 2010, 「キャラクターの絵画的表現の保護範囲–マンション読本事件」知的財産法政策学研究 30(2010), pp.201-278、北海道大学

津幡笑,2009,「絵画的な表現の著作物の保護範囲‐博士イラスト事件‐」知的財産法政策研究 24(2009) pp.97-116、北海道大学

中山信弘、2007、『著作権法』有斐閣

野口祐子、2010、『デジタル時代の著作権』ちくま書房

水野祐 2015 「誰もが共有可能な「余白」を設計するとき、法はイノヴェイションを加速させる」Wired

プロフィール

田中辰雄計量経済学

東京大学経済学部大学院卒、コロンビア大学客員研究員を経て、現在慶應義塾大学経済学部准教授兼国際大学GLOCOM主幹研究員。

編著に『著作権保護期間―延長は文化を振興するか?』、「フェアユース導入はコンテンツ産業にプラスかマイナスか」、「クリエイター側は著作権保護をどうみているか―日米国際比較―」などがある。

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