2016.12.12

キュレーションサイト事件の背景

田中辰雄 計量経済学

情報 #DeNA#Welq#キュレーションサイト

構造を考える

DeNAの健康・医療キュレーションサイトWelqのスキャンダルは、DeNAの持つ他の8つのキュレーションサイトすべてを閉鎖する結果になった。さらにヤフーやリクルートなど他のキュレーションサイトも記事の見直しに動いていている。これだけ多くの企業がかかわっていたとなると、特定の企業あるいは担当者の固有の問題ではなく、構造的な問題があると考えた方が良いだろう。言い換えれば特定の個人・企業の「資質」が引き起こした事件ではなく、普通に行動していれば誰もが引き起こす「構造」のある事件だということである。本稿ではこの構造的な問題を考えてみよう。

指摘されている問題点は二つある。ひとつは質の悪い記事が量産され、それらが検索の上位を占めてしまっているという事である。もうひとつは他社の著作物の無許諾利用いわゆるパクリが行われているという事である。以下、順に検討する。

競争の単位が記事かメディアか

まず、信憑性の低い、質の悪い記事が量産されたのは検索エンジン対策のためと考えられる。検索エンジンで上位に来るためには、その時々の旬のキーワードに合わせて記事を素早く量産し、頻繁に更新する必要がある。そのためには少数の専門家にじっくり記事を書いてもらうのは費用的にも時間的にも引き合わず、多数のアマチュアライターを動員したほうが効率的である。かくしてその時々のキーワードを示し、ある程度マニュアル化して多数のアマチュアライターに素早く書かせるという策がとられることになる。その結果、記事の質が下がっていく(注1)。

(注1)検索エンジン最適化、ならびに記事の質がさがったことについては次を参照。井指啓吾 「DeNAの「WELQ」はどうやって問題記事を大量生産したか 現役社員、ライターが組織的関与を証言」BuzzFeed 2016/11/28

https://www.buzzfeed.com/keigoisashi/welq-03

「元welqライターからの告発」http://cwhihyou.exblog.jp/24972121/

このやり方について、記事の質についてメディアとしての責任感がないと批判する人が多い。確かに旧来の新聞・テレビ・雑誌などのメディアには、書かれた記事の質を担保する機能があった。その機能を放棄し、質については我関知せずの立場をとり、信頼性についてはすべてライターに丸投げする姿勢は、従来のメディアの立場から見ると無責任きわまりないように見える。

このような事態が生じた理由として、ウエブメディアのメディアとしてのモラルのなさ、利益優先の姿勢をあげる人がいる。それもあるであろうが、ここにはそれにはとどまらない構造的な理由がある。それはネット上では競争の単位が記事でありメディアではないことである。

従来型のメディアの場合、○○新聞、週刊××のような形で記事はパッケージ化されて売られているので、消費者は読む記事を選ぶ前にどのメディアを選ぶかの選択を行う。その場合、質の良い信用できる記事を載せているメディアを選ぼうとするので、企業が市場競争に勝って読者を得ようとすれば記事の質にこだわらざるを得ない。既存メディアの場合、市場競争のなかで読者を得ようとすれば自然と信用のおける質のよい記事を書くことになる。

これに対して、ネットでは検索で表示されるのは個々の記事でありメディアではない。ほとんどの読者は検索結果の1ページ目のタイトルを見て、気になった記事をクリックしていくのであり、どのサイトに載っているか、つまりメディアがどれかをあまり気にしない。ならば競争のなかで読者を得ようとすれば、質に目をつぶっても検索1ページ目に入る記事をつくることが最優先課題となる。既存メディアもウェブメディアも同じように読者を獲得する市場競争に「真摯に」まい進する。しかし、競争の単位が異なるため、結果として方向が異なってくる。

言い換えてみよう。新聞等の既存メディアの場合、仮に企業がモラルを喪失し、徹底的に利益追求したとしても、記事の信用性・質に配慮せざるを得ないメカニズムが競争自体に組み込まれている。記事を選ぶ前にメディアを選ぶ段階が入るためである。これに対し、ウエブメディアの場合にはそのメカニズムがなかった。ウエブメディアで記事の質に配慮させる力が仮にあるとすれば、個々の企業と個人のモラルだけである。そして圧倒的な利潤の前に常にモラルは弱いものである。

このように質を犠牲にしても検索エンジンの最適化が図られたのは、ネット上では評価の単位がメディア単位ではなく記事単位だったという違いがあるからと考えられる。

改善策:読者の見る目と検索エンジンの複数化

この状態を改善するにはどうすればよいか。素直に考えると競争の単位として記事だけでなくメディアも加えることが望ましい。まず、多くの人が述べるようにネット上のウエブメディアも記事の質の管理に乗り出すことである。実際そのような方向が報道されている。ただしこれに加えて、読者の側も記事単位ではなくメディア単位で見るようになる必要がある。検索結果にはURLのサイト表示があるので、読者がそのサイト名を見てクリック先を選ぶようになればよい。目端のきく人はすでにやっていることでもある。

ウエブメディアの質重視への方針変更を読者が感知し、クリック先の選択基準にどのメディアの記事かを加えれば好循環が生まれ、事態は望ましい方向に動いていく。しかし、読者が変化を感知せず、従来どおり記事のタイトルだけ見てクリックするなら事態は変わらず、市場競争の結果としてやがて元に戻ってしまうだろう。事態が改善されるかどうかはウエブメディア側の努力と読者側の反応が好循環を作り出せるかどうかにかかっており、それがこれから問われることになる(注2)。

(注2)読者の側の問題を指摘する記事としては、杉本りうこ「検索結果を疑わない人は、DeNAを笑えないー悪質サイト問題は「氷山の一角」だ」 東洋経済2016年12月05日、http://toyokeizai.net/articles/-/148032

より根本的な改善策は、検索エンジンが複数存在することである。現状では検索エンジンが実質的にひとつしかなく、その1ページ目になるかどうかで天と地の差が出ることが、今回の騒動の背景にある。検索エンジンが5つあって同じシェアをとり、それぞれ個性的な検索結果を出しているとしよう。5つのなかのどれかに載ればよいのであるから、検索エンジン対策もそのぶん緩和される。5つのサイトですべて1ページに載るのは難しく、そもそもある特定の検索エンジンの対策に全力をあげて1ページ目に来たとしても、5つのうちの一つに過ぎないのでその効果は1/5にとどまる。5つあれば、なかにはそもそも記事ではなく、メディア単位で検索結果を表示するエンジンも出てくるだろう。

Googleに対抗しうる検索エンジンなど出るわけがないという意見の人もいるかもしれないが、この点は検討の余地がある。一般にユーザ数が増えるほどユーザの便益が増える現象(ネットワーク外部性)があると独占が成立かつ維持されやすい。WindowsやAndroidなどのOS,WordとExcel、YouTubeやFacebookなどが典型で、いずれも新規参入は困難である。しかし検索エンジンの場合、ユーザ数が増えると広告主の便益は増えても、ユーザの便益は増えないのでネットワーク外部性はない。Googleの検索エンジンが独占に近くなっているのはネットワーク外部性によるではなく、規模の経済や技術蓄積など別の理由であり、その理由によっては新規参入が可能かもしれない。私見を述べさせてもらえれば、まだ望みはある。

著作権法とネットの実態の乖離

次に著作物の無許諾利用について考えてみよう。著作権違反が横行した一因は、第一の問題と同根である。とにかく安く大量のコンテンツを用意しようとすれば他者のコンテンツを使うことが手っ取り早いからである。しかし、ここにはそこにとどまらないネット上の著作権のあり方の問題が隠れている。ここではその点を掘り下げてみよう。

まず、文章と写真を分けて考える必要がある。文章の場合、記事のライターは自分で文章を書けるし、実際書いているのであるから、人の文章の無許諾利用すなわちコピペを行う必要はない。しかもこの場合のコピペは出典が明示されず当人の文章と区別されていないので単なる無許諾利用を超えて「剽窃」であり、論外である。一部にはリライトソフトを使うなどしてまったく自分で書いていない人もいるという指摘もあり、そうだとすればそもそも創作活動には値しない。この違反は排除すべきであるし、キュレーションサイト側は排除すべきだった。それをやらなかったのは単なる手抜きというほかはない。この点は対策がなされるだろうし、なされれば解決するだろう。

問題なのは写真のほうである。ライターは書くのが仕事で写真は本分ではないので、通常は他者の撮った写真を利用することになる。これは引用ではなく利用なので著作権法上は許諾が必要である。しかし、キュレーションサイトでは出典は示されていても許諾はとっていない例が多かったようである。出典表記があるので剽窃ではないが、無許諾利用なので著作権法違反となる。

ただ、このような状態が生じたのにもそれなりに理由がある。それはネットが普及して以来、そもそも無許諾利用が創作活動を支えてきたという事実である。ネットの普及はプロではない多くのアマチュアの創作活動を可能にした。創作のためには他者の作品を様々な形で利用する必要がある。プロの場合はそもそもの取引金額が大きいため契約をして許諾をとればよく、実際に許諾がとられている。しかし、アマチュアの場合は、金額がゼロか微小なため、許諾をとるためのコスト、すなわち取引費用の方が大きくて許諾を取るのは現実的ではない。もしすべて許諾を求めれば、創作活動自体が停止してしまう。では、どうすればよいか。

ここで時を同じくしてネットの普及とともに、許諾を取らなくても(法的には違法であるが)事実上は利用できる著作物が大量に現われるようになった。著作物は次の3つに分けられる。

Ⅰ 権利者が許諾権を行使し、報酬を要求する著作物

Ⅱ 権利者が権利は保持するが、利用は妨げない著作物

Ⅲ 権利者が権利行使に関心がない著作物

Ⅰは通常のプロがとる立場である。Ⅱで自由に利用させる理由は、宣伝になる、あるいは名声が得られる、単に利用されることが嬉しいなど様々である。利用してもよいから一言連絡してほしいという人や、とりあえず保留にしておくというような人もこのなかに含まれる。アマチュアのなかにはそのような人がおり、さらにプロの一部にもいないわけではない。Ⅲは、そもそも権利者が権利行使しようとしておらず、自分の作品の管理もしない場合で、この場合、作品の大半は作者不詳のいわゆる孤児作品(orphan works)となる。

ここでⅡとⅢの類型はネットが登場したからこそ利用可能になった著作物であることに注意しておく。ネット上のアマチュアの創作活動は、このⅡとⅢの類型の作品を無許諾で利用して行われることが多い。MADや同人活動、パロディ作品などはその典型である。キュレーションサイトでの写真の利用も、このようなネットのグレーな現状に追随して行われたと思われる。

ここで問題なのは、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの区別が容易につかないことである。区別がつかないのでⅠの領域の著作物を無許諾利用してトラブルとなる例が生じるのは避けがたい(注3)。3類型を分けて著作権法を柔軟に運用できればよいのであるが、現行の著作権制度はそうなっていない。著作権法をそのままあてはめるとⅠ、Ⅱ、Ⅲは区別せずすべて許諾が必要であり、無許諾利用は違反となる。しかし、すべて違反として一掃するとネット上の創作活動の息の根がとまってしまいかねない。まことに困った状況と言わなければならない。

(注3)特に写真の場合はトラブルが多い。先に述べたMAD・同人活動では暗黙の許諾で利用してよい領域がわかっており、比較的平和共存ができた。しかし、写真ではそのような暗黙の許諾領域が不明であり、著作権者の意図に反する無断利用行為がずっと多いという事情がある。

このような硬直した状況は著作権制度の不備、すなわち制度上のいわば傷であり、これをなんとかするべく法学者から改善提案もされている(注4)。しかし、実現にはまだまだ時間がかかる。著作権法とネットの実態には乖離があるのが現状で、キュレーションサイトは組織的に大規模に活動したがために、もともとあった乖離が傷としてあらわになってしまったと考えられる

(注4)たとえば、中山・金子編『しなやかな著作権制度にむけて』信山社(近刊)の中には、このような方向にむけての提案がいくつも示されている。この本の中にある、権利制限の一般規定、拡大許諾制度、孤児作品の裁定制度、著作権取引所、方式主義の復活提案などはいずれもⅡ、Ⅲに位置する著作物の利用促進を狙った制度提案である。

改善案:縮小均衡と拡大均衡

改善案はどこにあるだろうか。二つの方法が考えられる。ひとつはキュレーションサイトがライターにすべての写真に許諾をとるよう要求する案である。これで著作権法はクリアされ、権利侵害はなくなる。ただし、その結果キュレーションの活動は停滞するかもしれない。許諾を取るのは取引費用がかかるので、写真の許諾を取れと言われたライターの中には書くのをやめる人が出るだろう。写真の無い面白みのない記事や、写真がのっても素材サイトなどの同じ写真ばかりということも考えられる。肉ジャガの記事ではどのキュレーションサイトの記事でも同じ肉ジャガの写真が載っているというような貧しい事態であり、文化活動としてはいわば縮小均衡になる。ただし、著作権は厳格に守られる。

もう一つの方法は、キュレーションサイトが写真利用についてのネガティブリストあるいはポジティブリストを作る方法である。たとえばある写真家から無断使用の抗議があればすみやかに使用を取り下げ、使用料を払い、その作家のサイトからは今後無許諾利用はしないように全ライターに伝える。一方、宣伝にもなるのでURLを明示してもらえれば無償で利用してよいという写真家がいれば、リストしておいてライターに知らせる。前者がネガティブリスト、後者がポジティブリストになる。キュレーションサイト同士でこのリストをデータベース化して共有化しておけば、業界全体で権利侵害を防ぐことができる。権利者からすれば、一回どこかのサイトに意思表示すれば、すべてのキュレーションサイトで使うのをやめてくれる。これはいわば、上記のⅠ、Ⅱ、Ⅲ類型を見分けるデータベースを業界全体でつくることである。権利侵害を防ぎながら、作品を無償で利用してもらってもかまわない人の作品の利用を進めることができるので、いわば拡大均衡である。ただし、権利侵害を完全に防ぐことはできないので片足をグレーゾーンに突っ込むことになる。

どちらの方法をとるとかは企業次第である。安全策を取りたい企業は前者の著作権順守の策をとるのかもしれない。ただ、私見を述べれば、後者のⅠ、Ⅱ、Ⅲを見分けるリストづくりのほうが、長期的には文化の発展に寄与するだろう。その理由は長くなるので、中山・金子編の前掲書をご覧いただきたいが、あえて一言で要約すれば情報化社会のあるべき姿がこちらの方向にあると考えるからである、これからの情報化社会では、一握りのプロだけが創作をして他はそれを享受するのではなく、ほとんどの人が何らかの創作活動を行う世界になるだろう。ならばアマチュアの創作活動を最大限伸ばす方向に制度設計したほうが良い。

終りに:よりよきキュレーションのために

キュレーションサイトの抱える問題の背景には構造的な問題がある。検索エンジンが一つしかなく、その検索順位の競争は記事単位でメディア単位ではないこと、そしてアマチュアクリエイター達はネット上の作品の一部を無許諾で使うのが常態だったことである。いずれも問題をはらんでいたが、個人サイトにとどまっているかぎり問題は小さかった。

キュレーションサイトの設計者たちは、これらネットで普通に行われていることを徹底して行っただけという意識だったのかもしれない。確かに、検索エンジン対策も著作権上のグレーな行為も普通に行われていることで、キュレーションサイトの設計者たちはそれをあまりにも「素直」に徹底させただけと見ることもできる。しかしながら、そもそもの検索エンジンならび著作権のあり方には問題があり傷口があった。キュレーションサイトはその活動が組織的かつ大規模だったため、この傷口も大きく広がり、一挙に顕在化するにいたったと考えられる。今回の批判コメントの中に、個人がやるならいざ知らず、上場企業がやるのは許せない、というような発言が見られるのはこの点を指していると考えられる。

根本的な解決策は、すでに述べたように検索エンジンの複数化と著作権制度の柔軟化である。ただ、これらはすぐには望めない。しかし、キュレーションサイト側にも本文中ではいくつか示したように一定の対策はありうるだろう。ここに述べた以外にも対策はありうるかもしれない。立て直して出直していただきたいものである。

キュレーションサイトには需要がある。今回の事件を機にキュレーションサイト自体を否定的にとらえる意見も見られるが、キュレーションサイトあるいはそれに似た、まとめ・要約型のサイトは世の中に必要である。ネット上の記事はあまりに多く、多様かつ玉石混交であり、それをわかりやすくまとめてほしいという需要は常に存在する。なにより今回問題となったキュレーションサイトが短期間に数百万単位の多くの利用者あるいは会員を集めていたという事実が人々の間に需要があることを物語っている。アマチュアの力を使うというのも、記事の質の管理を行い妥当な報酬を払えば、方向としては間違っていないだろう。今回露見した問題点を克服した新たなキュレーションサイトが再登場することを期待したい。

プロフィール

田中辰雄計量経済学

東京大学経済学部大学院卒、コロンビア大学客員研究員を経て、現在横浜商科大学教授兼国際大学GLOCOM主幹研究員。著書に『ネット炎上の研究』(共著)勁草書房、『ネットは社会を分断しない』(共著)角川新書、がある。

 

この執筆者の記事