2017.03.30
カジノへの屈折した感情を解明する――能楽から考える「ギャンブルの哲学」
明治大学4年生の私、白石がいままでずっと気になっていた先生方にお話を聞きに行く、短期集中連載『高校生のための教養入門特別編』も、この第8弾でついに最終回。そんな最後のインタビューでは、私が通っている明治大学の学長・土屋恵一郎先生の素顔に迫ります。
法哲学が専門でありながら、能楽評論家でもあり、なおかつ能のプロデューサーでもある土屋先生は、いったい何者なのでしょうか? そして、大学のトップである学長の目には、いまの世界はどのように映っているのでしょうか? 法哲学、カジノ、同性愛、能、イノベーション……ありとあらゆるお話を聞き尽くしました。(聞き手・構成/白石圭)
もはや現実の事件は、法律だけの問題ではない
――法哲学とはどのような学問なのでしょうか。法学のなかでも異色のジャンルだと思うのですが。
まず、法律というのは学問ではないんです。これは法社会学者の川島武宜さんの言葉です。法律は民法であれば契約、刑法であれば犯罪など、非常に生々しくてリアルな出来事を扱います。また、最近であれば法律の問題であっても裁判を開かずに、弁護士を通じて当事者同士で解決することも多くあります。そのため数学や経済学のような、厳密な理論としての法律というのはなかなか成立しないんです。
現実の社会は法律が想定している範囲よりも遥かに広く、複雑です。裁判員制度はまさにそういった現実の動きを捉えるための制度ですね。法律の専門家ではない人が裁判に関わるわけですから。そこでは法律の知識ではなく、むしろ常識の範囲内でどのように判断するかが問題になります。
それはそれでとても大切なことなのですが、じゃあ逆に法律とは何なのかということも問題になりますよね。そこまで考えると、法律というのはその時々の問題を解決するための処方箋にすぎず、実は学問としての体系なんてものはない、とも言えるわけです。
当たり前ですが、法律というのはどの国・社会にもあり、それぞれまったく別の形で制定されています。また、時代によっても度々改正されていきますよね。つまり法律は普遍的なものではなく、その国や社会の文化や歴史の影響を受けて不定形なままに存在しているわけです。
そのため国際的な問題を解決する時には、不定形な法律同士が入り交じるなかで、なんとか共通点を探していかなければなりません。この共通点を探す作業というのは、実際には理論というよりも議論や交渉です。そういうことを指して、法律は学問ではないと川島武宜さんは言ったんですね。
――確かに法律って決まりきったルールのように考えがちですけど、制定する時も適用する時も議論が紛糾しますよね。
だからこそ法律は面白いんです。たとえば何十年も前からある議論ですが、コンピュータに事件の要点を入力すれば自動的に判決を下すことができるシステムも考えられるかもしれない。特に自動車事故などは、要件が非常に限定されていて判決もパターン化されているので、実はほとんど機械的に判決が決まっているんです。そのため交通裁判は必要ない、という人もいます。確かにAIが発達した現代であればありえないことではない。
でも実際には相手の心理や文化、歴史を読んだ上で交渉するのが法律であり裁判です。法律は理論だけではなく、人間全体を理解しないと分からない。そういう意味でとても哲学的なんです。有名な例だと脳死の判定や安楽死の是非などですね。ここまでくると死生観・宗教観まで関わってくる。もはや現実の事件は法律だけの問題ではないんです。
それから最近では同性愛の問題や中絶の是非も有名ですね。これはアメリカでも州によって認められていたり認められていなかったりするわけです。なぜある州は禁じ、ある州ではOKなのか。地域ごとの文化的価値観によって法律は屈折するんです。それは逆に言えば、法律を見ることで地域の歴史や文化が分かるということでもあります。
カジノ法案から考える「ギャンブルの哲学」とは?
――ではたとえば、日本とアメリカの間で法律が屈折している例はありますか?
カジノがそうです。カジノはアメリカではもちろん、海外ではおおむね認められています。日本では、昨年12月にカジノ設置を推進する法案が可決されたばかりで、今後カジノを本当に設置するかどうかが問題になっています。これも法律が屈折している例ですよね。なぜカジノが問題になるのか。それは日本人の価値観の問題なんです。もっと言うと、日本人の運命観の問題だと思うんです。ギャンブルはまさにチャンス、運の問題です。日本人が運命をどう考えるかが、日本のカジノへの抵抗感に表れていると思うんです。
――カジノの話から一気に哲学的な話になりましたが、どういうことでしょうか?
私は能楽をヨーロッパ演劇と比較した評論もしているのですが、ヨーロッパ演劇というのは運命の劇です。自分がどんな悲劇に見舞われようと、運命に対する愛情を感じる。そしてそれがプラスであってもマイナスであっても、自分が生きていくためのエネルギーとして感じる。中世の宗教劇では、最後に「デウス・エクス・マキナ」(機械仕掛けの神)が降臨して、運命的にストーリーを終わらせるという演出が典型になっています。つまり、すべては神が定めたことであり、それは人間の力ではどうすることもできない、ということを確認して終わるんですね。
一方で日本の演劇には、神が天から降臨してくるということはありません。能においては、神は人間の姿をして橋を渡ってやってきます。これを「シテ」というのですが、シテは過去の自分の苦しみ、もうすでに起きてしまったことをただ語って、帰っていくんですね。能における神はストーリーを終わらせません。そのため日本の場合は運命をあまり主題化してきませんでした。自分ではどうにもならないことを受け止める、ということを考えないのです。「しかたがない」とは思うけれども、「これは神が決めたことだから」という巨大なドラマとしては捉えない。
この世界観の違いが、ギャンブルに対する態度にも表れています。カジノに対して日本人が恐れを抱くのは、運命と向き合う姿勢がないからだと思うんです。運命が決まって、それを受け入れた上でどうやって生きていくのかという思想がないんですね。つまりヨーロッパのような、運命と戯れることの楽しみ、あるいはセンスのようなものが日本人には欠けているんです。日本でベンチャー企業やイノベーションが活発でない理由も、そこにあると思います。
そもそもギャンブルと言えばパチンコや競馬などは認められている。それなのにカジノは認めないというのはおかしいです。法哲学というのは、このように法律だけでは議論が行き詰まる問題を、人間が持っている複雑性のなかでもう一度考えるということなんです。そこで新しい解決方法や説得の方法が見えてくるかもしれない。
――ヨーロッパは神による運命を受け入れた上で頑張るけれども、日本は神による運命を受け入れるという世界観がないので、カジノも受け入れられないと。そうなると、やはり日本人も運命を受け入れるような考え方をしたほうがいいんでしょうか?
これは私の友人で人類学者の中沢新一さんが言っていたことですが、人間というのはニューロンの組み合わせによってつくられてきた。そしてこのニューロンの組み合わせというのは完全に確率の問題で、ギャンブルなんです。ほかにも男に生まれるか女に生まれるかというのもギャンブル。ホモ・サピエンスがここまで高度な知能をもったのも、たまたま運が良かったから。
もっと分かりやすく言えば顔つきだってギャンブルです。どんな容姿で生まれるかは自分では決められないですよね。でもそれは受け入れるしかないじゃないですか。受け入れた上で頑張るんですよ。人生とはそういうものです。そしてそれはカジノのギャンブルでも同じなんですよね。
私はギャンブルの哲学について考えたいんです。実は過去の哲学者もギャンブルについて語っています。フランスの哲学者のパスカルは『パンセ』という本のなかで、神を信じるか信じないかの賭け率のことを述べています。彼は、神が存在するかどうかはともかく、神はいると信じた方が得だと言っているんです。もし神がいなかったとしても特に失うものはないのだから、それであれば生きる意味を得るために神を信じたほうが期待値は大きい、という論理です。
つまりパスカルによれば信仰の問題もギャンブルであるわけです。神がいるかどうかは分からない。その上で信じるかどうかを決断しなければならない。そこで人間の意志が問われる。パスカルが面白いのは、神が存在するかどうかの話はしていないところです。神を信じるか信じないか、どちらを選択したほうが賭け率が高いかという話だけをしているんです。パスカルはギャンブルの哲学者ですよ。
たとえ世界中を敵に回したとしても、誰かを守るのが法律の役目
――なるほど。ギャンブルの話になってしまいましたが、先生は法律を学ぶ意義はなんだと思いますか?
法学の役割は単に条文を解釈するだけではありません。法律が人間の欲望や生活とどのような関わりのなかでつくられて、そして変化していったのかということを考えるのが法哲学の役割です。人類は長い歴史のなかで、法律という武器をつくりだしました。法律は人間が人間のためにつくったものなんです。
だからもし全人類から批判される人間がいた時に、その人の味方になることができるのは誰か。それは唯一、弁護士だけなんですよ。たとえ極悪非道と言われる人であろうと、弁護士はその人の横に立たなければならない。そしてその人を批判する人々の価値観を受け止めつつも、「いや、この人にも生きる価値がある」と言わなければならない。全人類に立ち向かって、たった一人で「彼を救え」と説得するわけです。それは言い換えれば、未来の価値を守るということなんですね。イエス・キリストは、大罪人として殺されているわけです。その横に弁護士がいたら、と考えてみてください。
――先生は哲学者であり法学者でもあるジェレミ・ベンサムについての本を書かれていましたが、ベンサムもそうですね。同性愛という、かつては異端視されていたものの価値を功利主義の立場から守ろうとして文章を書いていました。
そうですね。ベンサムはイギリスの人ですが、イギリスでは同性愛行為を行った者は1840年代までは死刑に処せられていました。それからは刑法が改正されて死刑ではなくなったけれども、犯罪ではあった。犯罪でなくなるのは1970年代です。つい最近ですよね。
なぜ同性愛は犯罪なのか。レズビアンは何も言われなかったのに、なぜゲイは激しい批判を受けたのか。これはいわゆる法律家には解明できない問題です。イギリスが形成してきた文化のなかでのセクシュアリティの問題を考えなければならない。これも法哲学が必要とされる領域です。
似たような話で言うと、同じイギリス出身でベンサムの功利主義の後継者であるジョン・スチュアート・ミルは、モルモン教という宗教を擁護しようとしていました。モルモン教は一夫多妻制で、当時は新興宗教ということもあり、19世紀に激しい迫害を受けました。また、イギリスからも多くの信者がアメリカに勧誘されており、イギリスからするととても注意すべき宗教でした。
でもミルはモルモン教を擁護した。なぜなら、なんら人の権利を侵害していないからです。一夫多妻制も、多くの人々からすればありえないことかもしれないけれども、彼らは自由意志でやっているから問題ないじゃないかと。そう言って擁護するんですね。これをミルは「他者危害の原則」と言っています。他者に危害を加えていなければ、どんなことでも認めるべきであると。たとえイギリス人全員が批判したとしても。
――なるほど。そう考えると、カジノも他者危害の原則から認めることができそうですね。ところで先生は法学部出身ということですが、法学部に入学する時からこのような哲学的なことを勉強しようと思っていたんですか?
いえ、入学した時は弁護士になろうと思っていました。映画でいうと『12人の怒れる男』、テレビだと『弁護士プレストン』『ペリー・メイスン』という作品があって、それに影響を受けました。法廷弁論に惹かれたんです。弁護士と検察が陪審員の前で言い合うでしょう?あれが格好良くて、自分も陪審員の前で喋りたいと思ったんですよ。しかし大学に入学して気がついたのは、日本には陪審員がいないということです(笑)。
それで結局弁護士の道は諦めてしまいました。そこでふつうであれば就職するかなと思うわけですが、私は絶対に就職できないと思った。朝起きられないからです(笑)。高校時代には朝、家を出て山手線を一周して学校に行かずに帰る、ということもよくやっていました。
弁護士も就職も向いていないと思ったので大学院に入学したわけですが、研究者として残れるとは思っていませんでした。当時、新宿御苑の前に私の親が経営している料理屋があったんですが、私はその近くでカレー屋をやろうと思っていたんです。親しいお客さんに「安く土地を貸すよ」と唆されて。そこで「新宿カレー」という名前まで考えて、新宿に50件ぐらいのチェーン店を華麗(カレー)に展開して、日本のカレー王になろうと思っていたんです(笑)。
――ものすごい人生設計ですね。
当時は研究よりもそっちのほうが楽しそうだと思ったんです。カレーは工場でレトルトを大量生産すれば同じ味を再現できるし、コストもかからない。「これは儲かる!」と思ったんですが、どういうわけかその矢先に明治大学のポストが空いたわけです(笑)。そういう意味で、学問の道に進んでいったことにあまり明確な理由はありませんでした。
「なぜ」法哲学者でありながら能楽評論家でもあるのか?
――先生は先ほど言っていたように法哲学以外に能楽の評論をされていますよね。先生の評論のなかで、能楽をセクシャリティの観点から語っているものがありました。そして先ほど法哲学とセクシャリティの話をしていただきましたが、もしかしたら法哲学と能を両方やっているのは、セクシャリティという一貫したテーマにもとづいているからなのかな、と思ったのですが。
それはよく聞かれるんですが、いつもこの話をします。多田富雄さんという免疫学者がいました。東京大学農学部の先生で、もう亡くなられたんですが、彼は鼓(つづみ)の名手でもあったんです。生前、「免疫学と能にどういう関係があるんですか」と聞いたら、彼は「関係ないからやるんだ」と言いました。逆に関係があるんだったらやらない、と。私も同じ考えです。法哲学と能をやっていることに理由なんかないんです。理由があるとしたら、面白いから。でもこれは学問も同じだと思うんですよね。学問も面白くやるべきだと思います。
私には「なぜ」という問いかけがないです。デイヴィッド・ヒュームという18世紀のスコットランドの哲学者がいるんですが、彼がフランスに出かけた時の記録が残っています。彼はこう思ったそうです。フランス人というのは、「なぜそれがあるのか」と理由を問うことはなかった。「いかにそれがあるのか」ということしか聞かない。
これは重要な問題なんですよ。18世紀以降の思想においては、根拠を問うことではなく、いまのあり方を問うことがテーマになっているわけです。我々がどのようにして生きているのかは分かる。しかしなぜ生きているのかと聞かれても、生まれてきたから生きているとしか答えようがないですよね。だから「いかにして」と聞くことこそが、フランスでは重要なテーマになっていた。フランスはヒュームの一歩先を行っていたわけです。
――なるほど。それでは先生は、能は「いかにして」あると思いますか?
本来私は能の評論家ではなくプロデューサーなんです。能をつくること、イベントをすることに関心があり、いままで100回以上の公演を国内外で行ってきました。能楽堂だけでなく、東京駅のなかや厳島神社など、いろいろなところで行いました。それは場所が変化していくことが面白かったからです。何にもない場所が、能を見る人が2000人ぐらい集まるだけで、ガラッと変わってしまう。全員が能のことを理解できているのかどうか分からないけれども、とにかくこれが日本の美なんだなということで皆興奮している。一種のお祭りですよね。それが面白い。
去年の10月末には、シンガポールで能をプロデュースしました。シンガポールと日本が国交樹立50周年で、その記念に企画したんです。しかし能をそのまま持ち込んでも面白くない。そこで3D映像を組み合わせることにしました。背景に鳥が飛んだり、滝が流れたりしているなかで能をやるんです。紙とフィルムだけでつくった3Dゴーグルを配って、現地の人に見てもらう。みんな「おおっ!」と驚きながら能を見ている。3Dというのは、滝が流れているとその水しぶきまで再現するんですよね。
3Dゴーグルを掛けると周囲の一切の感覚が消えるんです。3D映像と能しか見えなくなるんですね。幻覚のようにさえ感じられます。能楽堂で見る能とはまったく違うんですよ。まるで能の世界の横に自分がいるかのように感じられる。この話を先ほど紹介した中沢新一さんにしたら、「それね、ヨガの修行と同じ」と言うんです。
――ヨガですか?
ヨガって、目を真ん中に寄せるらしいんです。そうすると、風景が見えなくなる。そして自分がどこにいるのかが分からなくなり、浮遊感が出てくる、と中沢さんは言っていました。3D映像はそれと同じ効果があるんです。3D技術という新しいものと能という古いものを組み合わせることで、まったく新しい体験をすることができるようになったわけです。
私はそれこそが重要なことだと思うんです。シュンペーターという経済学者が、経済で重要なのは新しいものを発明することではなく、いまあるものをどう結び合わせて新しいものをいかにつくるか、と言っています。彼はそれを「新結合」と呼び、経営学者のピーター・ドラッカーはそれを「イノベーション」と呼びました。
そういう意味で言うと、日本はいつも新しいものを生み出そうと頑張っているけれども、いまあるものをどのようにして組み合わせるかという思考があまりないように思います。その一方で、能と3Dを組み合わせることでヨガのような感覚を生み出すことができる。だからこれからはヨガはやらないで、ゴーグルをつけたほうがいいんじゃないかな(笑)。日本でもアジアでも伝統的に座禅をやってきたけれども、要は身体感覚を変えるためにやっているわけですよね。それが簡単にできてしまうんですよ、3Dゴーグルで!(笑)
そういう面白いことを誰しもやっていきたいじゃないですか。その思いは学者も変わりません。もっと大学というのは新しいものを発見するところであってほしいですから。だからこそ否定から始まってはならない。この世界の全部を肯定してから、それらを組み合わせたい。それが日本のやるべきことだし、大学のやるべきことでもあると思うんです。
大学とはキャンプである
――そんな先生は、今後どのような研究をしていきますか?
ひとつは先ほども言ったギャンブルの哲学ですね。でも私は本当にいろいろなことをやっていて、自分でも分裂状態を収拾できないんです(笑)。私は能の本を一番多く書いています。つぎに法哲学。歌舞伎についても書いている。生け花についても書いている。ダンスについても書いている。
ちなみに歌舞伎と生け花とダンスについては1冊書いただけで、その後は書いていないんです。ふつうの人は書き続けるんですが。そういう意味で言うと私は行方知らずなんです。これから自分が何を書いていくのか、自分でも分からない。もしかしたらまったく別の6つ目のフィールドについて書くかもしれないです。
――いろいろな方向に関心をもっていくという生き様そのものが大学のようですね。最後に、高校生へのメッセージをお願いします。
大学というのはキャンプなんです。先ほど紹介したデイヴィッド・ヒュームは、「都市はキャンプである」と言いました。キャンパスとキャンプは英語では同じ意味です。いろいろな地方から集まってきた人間が暫定的に共同的に住む場所。これが都市であり、野営地であると。これは大学も同じですよね。いろんなところの出身者が、たまたま4年間暫定的にここで生活する。そこから旅行に行ったり留学に行ったりする。そして彼らが知見を交換しあって、新しい結びつきが生まれる。
明治大学の創立者の一人である岸本辰雄も、ヒュームと同じようなことを言っています。彼は100年以上前に、日本の官立学校はみな服従の教育だと言った。だから私立大学は自由放任で、学生の意志に任せる。教員はあくまで知識の蔵の鍵を渡すだけだと。すごい言葉ですよ。
高校生に伝えたいのは、大学に行くということはキャンプに行くということなんです。自分の生まれた場所からナップザック一つで来る。生まれたものから一回は切り離され、違う価値観の人達と会う。そこからさらに旅に出ることもできる。そういう気持ちの高ぶりや自由を感じてほしい。君たちは何でもすることができる。大学とは世界とのつながりを体験し、自らのなかにある可能性に気づく場所なのです。
高校生におすすめの3冊
簡単で読みやすい本です。バナナは日本ではほとんどつくられていません。我々が普段バナナを食べている時、生産国のフィリピンではいったい何が起きているのか。実はものすごくたくさんの問題を抱えるなかでバナナはつくられているんですね。アジアとの付き合い方を考えるための気づきをたくさん得ることができます。
世界22カ国を2年かけて、1日1ドルで回った旅行記です。私は旅行記が好きなんです。大学生になったら海外旅行に行ったり、留学したりしたいという人もいるでしょう。行く前にこの本を読めば、「何でも見てやろう」という気概が生まれると思います。
私が留学していたイギリスのものを紹介しましたが、どの国でもいいです。自分の興味のある国のものを読んでほしい。『地球の歩き方』は実は明治大学のOBがつくったんです。社内での否定的な意見も多かったと聞いていますが、それでもバックパックを背負い、自分で実地調査をしたんです。それがいまや旅行者の必需品ですよ。この国にはこんなものがあったんだと驚き、いつか自分も行ってみようと思う本です。大学をキャンプとして、そしてバックパッカーとして4年間を生きてください。
プロフィール
土屋恵一郎
1946年生まれ。明治大学法学部卒業、明治大学大学院法学研究科博士課程単位修得満期退学。明治大学法学部教授。2016年に明治大学長に就任。専門は法哲学。能楽評論家としても知られる。著書に『正義論/自由論―寛容の時代へ』(岩波書店)、『怪物ベンサム―快楽主義者の予言した社会』(講談社学術文庫)、『能、世阿弥の「現在」』(角川ソフィア文庫)など多数。