2018.11.05

西洋史=世界史をこえて――アジア史を基軸とした世界史を構想する

『世界史序説』著者、岡本隆司氏インタビュー

情報 #新刊インタビュー#アジア史#グローバル・ヒストリー

近年、新しい世界史やグローバル・ヒストリーと銘打った書物が数多く出版されている。そこではかつてのヨーロッパ中心の進歩史観から解放されて、18世紀以前の「豊かな」アジアにもしかるべき地位が与えられているように見える。しかしそれすらも、西洋史=世界史という枠組みにいまだ留まっているのだ。新しい世界史を構想するためには、アジア史を組み込まなければならないとする岡本隆司氏に話を伺った。(聞き手・構成/芹沢一也)

西洋史としての世界史を乗り越える

――『世界史序説 アジア史から一望する』(ちくま新書)では、東洋史を組み込んだ新しい世界史が提唱されています。

世界史ははじめ、西洋人「世界」の歴史でした。西洋人の目の及ぶところ、足を踏み入れたところ、大事だと考えたもの、その範囲の歴史しか、世界史ではなかったのです。それは歴史学という学問・思考を西洋人がつくりあげたことから、当初はやむをえなかったことです。

そんな世界史=西洋人「世界」の歴史に異議申し立てをしたのが、歴史学を採り入れた明治の日本人です。その具体的な表現としてつくりあげた歴史学の分野が、東洋史学でした。これを立ち上げることで、西洋人の世界史とは、西洋史にすぎないのだと論断したわけです。

そのためには、世界史=西洋史に比肩対置できる、具体的な中身のある東洋史学を構築する必要があります。今に至るまで、日本人をはじめ世界の人々が、その作業につとめてきました。

もちろんその一方では、西洋史の範囲にとどまらない、新しい世界史をつくりあげようという動きも一貫して続いていました。そこまではよいのです。

ですが、問題はその二つの動きがほとんど別個、無関係におこっていたことです。とくに後者の、世界史を刷新する動きのほうは、前者のとりくみとその成果をほとんど見ないまま、知らないままにすすみました。つまり、東洋史学の研究成果、史実とそのしくみが十分に生かされてこなかったのです。

――世界史=西洋史のなかからも近年、ヨーロッパ中心主義からの脱却を唱える潮流が現われてきましたが、それは新しい世界史とはいえないということですか?

はい。少し極端な言い方になりますが、東洋史学の知見が生かされていないという点では、戦前・戦後のマルクス史学の時代から、世界システム論をへて、グローバル・ヒストリー隆盛の現在まで、事実上ほとんどかわっていません。

世界システム論にしろ、グローバル・ヒストリーにしろ、それぞれ確かに論点や見方、概念は変化し、また進歩も著しく、「近世」や「近代」という時代区分・術語などは、従前と必ずしも同じではないでしょう。それでも、発展段階の観念など、根本にある視座・概念・方法は、当初の世界史=西洋史、西欧の枠組みをまったく引き継いできたものなのです。

――歴史を語る発展史観的な構造自体は変わらないわけですね。何が問題なのでしょうか?

たとえば「中世」という時代の内容が、東西で一致していない典型的な論点です。「中世」はキリスト教・領主制など、西欧独自の史実にもとづいてできた概念です。これを暗黒時代と措定することで、「開明」「進歩」「発展」の「近代」という考え方が生まれてきます。もちろん現在は暗黒時代という考え方はしませんが、「中世」と「近世」「近代」の区分・発展は、歴史学のベースとなった核心概念です。

ところが、西欧「中世」にみられるような史実がそろっていないアジアでは、そうした考え方はそのままでは通用しません。それを無理やり、アジアに適用すると、たとえば「進歩」「発展」の存在しない「未開」で「停滞的」な歴史と見えてしまうのです。それでは、東洋史の重要な事実・論点がみえてきません。

――中世からルネサンスを経て近代へといたるヨーロッパと対比される、いわゆるアジア的停滞という像ですね。

「停滞」そのものはずいぶん昔のことばになりますが、ことばが変わってきましても見方は同工異曲です。

世界史にしてもグローバル・ヒストリーにしても、そのことばの意味は、世界全体の歴史のはずです。もちろん世界全体をくまなく語ることは、物理的に不可能ですから、どうしても重要なところに焦点を当てるかたちになります。そこはやむをえないですし、拙著でもそうせざるをえませんでした。しかしこれまでの世界史の問題は、その射程に東洋・アジアが正確に入ってこないことにあります。

もちろん東洋・アジアが、世界全体の歴史のなかであまり重要性をもたないのなら、それでもかまいません。しかし現実には、ヨーロッパはじめ、ほかの地域よりもはるかに重大な位置を占めていましたし、少なくともそうした時代が過去にあったはずです。

ところが従前の世界史、グローバル・ヒストリーの視座・方法では、そこがキチンと測定できません。そのために当の西洋自身も世界全体も、正確な姿をあらわしてこなかったのが、世界史はじまって以来、これまでのいわゆる西洋中心史観の弊害です。

西洋が世界の中心である時代はたしかにありましたし、いま現在もおそらくそうなのでしょう。しかしそれは世界史のプロセス全体のなかでいえば、ごく一部のことにすぎません。その一地域の、一時期の知見・概念・指標だけで、世界の歴史すべてを割り切ろうというのが、西洋中心史観の根本的な謬見といってよいかと思います。

ところが、歴史学も含めた現代の学問・知性は、すべて西洋近代に起源を発するために、多くの場合そうした一部を全部にすりかえてしまうことに無頓着になってしまいます。

――しかし、かつてとちがってグローバル・ヒストリーでは、近代以前の「豊か」なアジアにしかるべき場所が与えられているのではないでしょうか?

一見、そう見えるかもしれません。しかし、いかに西洋以外の地域を重んじるようになっても、学問学術が西洋でできたため、そして今もその先頭を切って走っているがために、半ば無意識のうちに、西洋を中心にしてしまっているのです。

ご指摘いただいた現在のグローバル・ヒストリーはその典型です。その視角・概念やデータの集め方・使い方など、まったく西洋史の基準・方法そのままでして、それをほかの地域にも、そのまま拡げてしまっています。ほかの地域の事情を正確に考慮に入れない、ないしは入れられないのです。

「大分岐」説の誤謬

――なるほど、ヨーロッパの歴史のためにつくられた型紙をもって、必ずしもそれに合わない地域を裁断しようとしているわけですね。具体的にどのような問題が生ずるのでしょうか?

たとえば、「大分岐」という考え方があります。これはごく簡単にいいますと、18世紀まで均質だった東西・欧亜が、19世紀に「分岐」していって、西欧が優位に立つという考え方です。18世紀までのアジアの先進性をみとめたということで話題になりました。

しかし東洋史学では、アジアの先進性は「大分岐」説が出る前からすでにあたりまえでして、どのように先進的だったか、その社会に西洋とどのような異同があったのか、を問題にしていました。ところが「大分岐」は、そうしたこれまでの東洋史学の研究成果を無視し、数値的なデータだけで東西を「均質」としてすましております。こうした安易な手法は、やはり看過できません。

――近代以前のアジアの多様性を、ヨーロッパ的な豊かさという指標によって均質化してしまっていると。

はい。ただ、これには東洋史のほうにも非があります。東洋史学は全体として、アジアならではの難解な史料や史実を解読する作業が先行して、そこから立ち上げた独自の論点、理論や史観をひろく提示することをおろそかにしがちでした。

また同時に、そうした内情をほかの分野の歴史にわかりやすく説明する努力も、不足しています。そのため、隣接する他の分野との対話や議論が不足しています。東洋史学は後発の学問でしたから、それだけ未熟なのだ、といってもよいかと思います。

その裏返しとして、歴史理論やグランド・セオリーを自分の東洋史学の外からお手軽に援用する習癖もあります。たとえば戦後まもなく、東洋史学はマルクス史学・唯物史観にもとづく研究が主流になりました。唯物史観の発展段階論は標準モデルとなって、「世界史の基本法則」などと呼ばれました。

それは元来、アジアを停滞社会とみなす典型的な西洋中心史観だったはずなのですが、そこにみられる西欧型発展を中国や東アジアにも見いだそうと試みたわけでして、そこではマルクス理論への追従・適合が何より重視されました。

東洋史学は西洋中心史観を批判するために生まれてきたはずなのですが、かえってこのように、それを助長するような役割さえ担うこともありました。けっきょくそうした理論・概念は、中国史の史実に必ずしも合致しないことが判明して、いまに至っています。

――ぼくも東洋史学といえばマルクス史学のイメージが強いです。現在はどのような感じなのでしょうか?

過去の反省から、西洋中心史観の視座からいったん離れて、いよいよ豊富に、かつ難解になった根本史料をみなおしているのが現状です。実地の史料からセオリーを立ち上げていこうとしているわけですが、もちろんその取り扱いには、相応の専門的な知見や訓練・スキルが必要です。そのため、それぞれの専門に特化してしまって、なかなか門外漢には近づけなくなっています。

そのあたりは、拙著第Ⅰ章のはじめのほうに書いておりまして、たとえば中国史の漢語ですと、「佃戸(小作人?)」とか「胥吏(お役人?)」とか、安易に翻訳理解してはならないものが多いのです。

――「佃戸」や「胥吏」といわれても、「小作人」や「お役人」ということばに翻訳しないとなると、それが何だかまったくイメージできません。なるほど、西洋史の概念に頼らず、そこから歴史を組み立てなおすとなると大変な作業ですね。

しかも西洋中心史観に意識的に距離をとっているためでしょうか、とりわけ中国史では、「大分岐」やグローバル・ヒストリーにもあえて近づきません。そのため、そこにみられるアジアへの謬見・誤解に対しても、有効な反論もしないままになっています。その結果、「大分岐」は野放しになってしまった観もあるのです。

――東洋史学の専門家から見ると、「大分岐」説は野放しという言葉を使うほどの誤謬なんですね。

独断と偏見、言い過ぎかもしれません(笑)。世界史やグローバル・ヒストリーと銘打った書物は、かくて巷にあふれていますが、基本的に以上のような同じ方法・決まったパターンで書かれてきたのです。拙著はそうした現状に一石を投じたい、そんな一心から書いてみたものです。

アジア史を基軸とした世界史を構想する

――本書ではアジア史を語るうえで、「アジア的な舞台構成」が重要だとされています。簡単にご説明いただけますか。

アジア史的な舞台構成は何といっても、草原遊牧世界と農耕定住世界の二元性にあります。草原遊牧世界と農耕定住世界の間では、たがいに気候・生態系の著しい差違があり、したがって生活・習俗・文化もかけ離れています。ひいては、人々の世界観・人生観も異なる世界が、隣り合い、斬り結んできました。これは日本史にも、西洋史にもみられない特徴で、東西が「分岐」したとすれば、すでにそこからはじまっているともいえます。その点、拙著の枠組みの核心にもなっています。

こうした二元的な遊牧世界と農耕世界の共存・交流・相剋が、アジア史の動態構造・ダイナミズムをなしています。いわゆる古代文明もすべて、二元世界の境界地帯から生まれてきたものですし、以後の歴史の展開もそこが主軸になります。

たとえば中国史でいえば、紀元前の漢と匈奴のせめぎあい、4世紀から5世紀の五胡十六国や、10世紀の五代十国などのいわゆる分裂時代、あるいは統一王朝だった唐や宋の興亡、モンゴル帝国・明清時代、とあらゆる歴史的な局面に、こうした二元世界の交流・相剋が関わっている、といって過言ではありません。

そして、それはほかの文明圏、インドや西アジアでも、ひとしく見られることです。もちろん具体的な局面や史実の様相は、中国と必ずしも同じではありませんが、大づかみな歴史展開の動因・構成は、むしろ多く類似しているといえるでしょう。

――アジア史を基軸とした世界史を構想するにあたって、宮崎市定や梅棹忠夫の仕事が重視されていますね。

はい。いま述べたことは、東洋史・アジアの史実経過を跡づけていけば、ごく常識的にわかることですが、しかしそれをわかりやすく図式化して、世界全体に敷衍し、位置づけたのが、梅棹忠夫の「生態史観」モデルです。発表当初の段階はまだまだ粗いものでしたが、これはいまこそ活用すべきだと思いました。

これに動態的な交通・交渉の発展と景気の変動の意義を強調する宮崎市定の視座を加えれば、気候変動・民族移動で展開するアジア史、とりわけその前近代のデッサンが描けるわけです。そこは拙著の叙述で、ぜひ熟読玩味いただきたいところです。

――西洋の前近代とは、やはりだいぶ様相を異にしていますね。

はい。にもかかわらず、従前は西洋中心史観で世界史が書かれてきました。基準になる歴史の舞台と道具立ては、西欧です。ところが西欧には、アジア通有のこうした二元世界がありません。そのためにアジアの歴史を説明できる概念や視角をもたないのです。

そうなると、西欧の農耕一元的な世界観と分析概念で、むりやり二元的・多元的なアジア史を解釈することになりがちです。さきほど西洋中心史観のことを「一部を全部にすりかえる」といいましたが、具体的にはこのような事情になります。

ですので、それでうまく説明できないと、けっきょく「暴力的」「専制的」「停滞的」「従属的」など、薄っぺらいネガティヴなことばで片づけてしまうことになってしまうのです。従前の世界史にはつきものの叙述表現です。

――アジア史を基軸とする世界史と、従来の世界史とはどのような違いが生ずるのでしょうか?

歴史学のなかで研究がもっとも進んでいるのは、もとより西洋史です。西洋・欧米の範囲でなら、その学説は精緻で、鉄案というべきものがありますし、またきわめて参考になるものです。

ただ、その研究成果・所説をどう活用するか、アジア史の考察と世界史の叙述にどう生かすかは、また別の問題でして、なればこそ、相対するアジア史自体の研究を深めてゆくのは当然のことですが、さらに加えてその成果の上に立って、西洋史学に問題提起もしてゆく必要があるわけです。

たとえば、地中海世界を西洋中心史観から解放して、アジア史基軸の世界史のなかに位置づけてやるのが、本書の試みの一つでした。古代ギリシアをオリエントの辺境としてとらえる視角は、すでに従前の西洋史学にも存在していますが、本書はローマ・イタリア・地中海世界全体をそうした位置づけにしておりまして、このあたりは、どうも顰蹙を買っている点かもしれません(笑)。

――いえ、とても面白く読みました!

ありがとうございます。そうみることで、大航海時代と環大西洋革命・西洋近代という世界史的・グローバル的な転換の意味が、いっそうクッキリとわかると考えます。アジア史と西洋史・近代史をいかに結びつけるのか、そこが世界史構築のポイントだったわけです。

前近代の二元世界のアジア史を説いてきた「中央ユーラシア史」の研究・学説というのがあります。ユーラシア内陸におけるモンゴルなど、遊牧民・草原世界のプレゼンスを重視する視座で、従来の歴史学の不十分なところを補ってくれる学説です。わたしも多大な影響を受けておりまして、いよいよ勉強の必要を痛感しております。

しかし難点もあります。着眼点が内陸に偏って、農耕世界・海洋世界の史実経過やその意義に目配りが不十分になってしまい、近現代への転換をうまく説明できていないように感じます。それを地中海世界の位置づけをみなおしてアジア史につなげることで、一貫した世界史にしようとしたわけです。

新しい世界史における日本の位置づけ

――最後に、アジアを基軸とした世界史において、日本はどのように位置づけられるのか教えていただけますか。

日本列島はユーラシア圏のなかで、もっとも後進的なところです。東の果てですので、やむをえないところです。逆の西の果てはイギリスですが、こちらは大陸へのアクセスがずっと容易でして、その分、歴史も早く始まっています。それでも、ユーラシアで後進的な西欧の中でも、イギリスは最後進国でした。日本はさらにそこからはるかに遅れをとっていました。

気候・生態系でいえば、日本列島は湿潤モンスーン気候の農耕地域であり、しかも乾燥草原地域の遊牧世界とは無縁でした。つまりは二元世界ではない農耕一元世界ですので、その点で西欧に似ています。もちろん日欧はたがいにまったく異なる世界ですが、しかしアジア史とはそれぞれいっそう異質だという点で、両者は近似しているのです。

そのためか、日本史と西洋史はとてもよく似ています。日本人がすんなり西洋製の歴史学をとりいれることができたのも、その概念や方法を用いて違和感が少ないのも、そこに起因しているようです。

――正直、西洋の道具立てを用いず日本を見るのはとても難しいと思います。

そうです。逆に言いますと、日本人は西洋中心史観に親和しやすく、アジア史に疎いということになります。先にも申し上げましたように、日本人が手がけた東洋史が西洋史に似てしまう、西洋中心史観になってしまうのも、根本的な原因はそこにあるのでしょう。いよいよ意識してアジア史を構築していかなくてはなりません。

ともあれ、西洋史・西洋中心史観のモデルを使えば、だいたい日本史は説明できますし、そのような編成になっています。先に例をあげました「中世」も、日本史ではおおむねあてはまります。

それでいて、日本は東アジアに近接していますので、その相互影響は史上の大きな論点になります。とりわけ明治維新以後の近代史が重要でしょうか。

もちろんそれだけにとどまりません。日本列島と朝鮮半島・中国大陸の関係史は、あたかもヨーロッパ・オリエント間の密接な関係とパラレルになってくるわけで、両者を比較することも可能でしょう。その様相・内実の異同を精細に研究すれば、世界史の叙述に近づけるのではないでしょうか。われわれもかつてオスマン帝国と清朝でそのような取り組みをやってみたのですが、時代・地域ともにいろんな局面で、そうした試みがこれから重要になってくるのではないでしょうか。

プロフィール

岡本隆司東洋史、近代アジア史

1965年京都市生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院教授・京都府立大学名誉教授。専門は東洋史、近代アジア史。主な著書に、『近代中国と海関』(名古屋大学出版会、2000年大平正芳記念賞)『属国と自主のあいだ』(名古屋大学出版会、2005年サントリー学芸賞)、『李鴻章』(岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『中国の論理』(中公新書)、『中国の誕生』(名古屋大学出版会、2017年アジア・太平洋特別賞・樫山純三賞受賞)、『世界史序説』(ちくま新書)、『君主号の世界史』(新潮新書)、『「中国」の形成』(岩波新書)、『明代とは何か』(名古屋大学出版会)、『曾国藩』(岩波新書)、『悪党たちの中華帝国』(新潮選書)、『物語 江南の歴史』(中公新書)など多数。

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