2017.10.13

映画『ダンケルク』でも注目!史上最大の撤退作戦「ダンケルクの戦い」とは?

木畑洋一×大木毅×荻上チキ

国際 #荻上チキ Session-22#第二次世界大戦#ダンケルク#撤退

史上最大の撤退作戦とも言われるダンケルクの戦い。第二次世界大戦中、わずか9日間で30万を超えるイギリス兵が対ドイツ戦線から救出された。このダンケルクの戦いを、クリストファー・ノーラン監督が映画化し、今話題を呼んでいる。ダンケルクの戦いは、どのように引き起こされたのか。その政治的、軍事的背景に迫る。2017年9月14日放送TBSラジオ荻上チキ・Session22「映画『ダンケルク』でも注目!史上最大の撤退作戦『ダンケルクの戦い』とは?」より抄録。(構成/増田穂)

■ 荻上チキ・Session22とは

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誇り高い負け戦

荻上 本日のゲストをご紹介します。イギリス現代史がご専門の成城大学名誉教授、木畑洋一さんと、『ドイツ軍事史――その虚像と実像』などの著書がある現代史研究者の大木毅さんです。よろしくお願いいたします。

木畑・大木 よろしくお願いします。

荻上 今回映画になった「ダンケルクの戦い」ですが、イギリスではどのように受け止められているのでしょうか。

木畑 ダンケルクの戦いは、映画にも描かれているように、イギリス軍の壮大な撤退作戦でした。イギリスにとっては第二次世界大戦初期の負けを象徴する出来事だったと言えます。一方で、イギリス軍はこの負け戦である撤退作戦を非常にうまく行いました。民間船舶も大量に出動させ、数多くのイギリス人が大陸からの撤退に成功したのです。フランス軍兵士もまた救出しました。この出来事は多くのイギリス人が協力して成功させた、誇り高い勝利の物語にもなっているのです。

イギリスはその後ドイツ軍からの空襲にさらされますが、ダンケルクの成功がイギリス全体の連帯の象徴となり、彼らは攻撃を耐え抜きます。その精神はダンケルクスピリットと呼ばれました。そうした意味で、ダンケルクは負け戦でありながら、第二次世界大戦におけるイギリスの勝利への重要な段階と位置付けられていると思います。

荻上 ダンケルクに至るまでの背景にはどのようなストーリーがあったのでしょうか。

木畑 一般的に第二次世界大戦は1939年9月のナチスドイツのポーランド侵略を機に始まったとされています。この侵略に対し、イギリスやフランスがドイツに対して宣戦布告し、世界大戦になりました。

しかし、40年の4月、5月頃までは、「いかさま戦争」とか「奇妙な戦争」と言われ、戦闘らしい戦闘はほとんど起っていませんでした。ところがこの時期に、ナチスドイツが北欧とフランスに向けて軍事行動を起こします。これにより戦争が本格化しました。ダンケルクはちょうどこの頃の話、奇妙な戦争から本格的な戦争に変わってきた直後の話です。

荻上 ダンケルクは英仏海峡沿いのフランス北部の港ですが、そこでイギリス軍とドイツ軍が戦っていたと。

木畑 ダンケルクではイギリスとフランスがドイツと戦っていました。当時イギリスもフランスも広大な植民地を持っていましたので、例えばインドの兵隊など、帝国内の人々も動員されていましたが、基本的には、イギリス、フランスとドイツの間の戦いです。この頃はまだドイツとソ連との間には不可侵条約が締結されており、戦争はしていませんでしたので、当時の戦争はもっぱらヨーロッパの西のほうで戦われていたということになります。

荻上 ドイツはどうしてポーランドに侵攻し、戦線を拡大していったのでしょうか。

大木 英仏の介入を招き、世界大戦を引き起こしたポーランド侵略ですが、そもそもヒトラーは英仏と戦争をする気はありませんでした。それまでのヒトラーの動きとしては、最初に、ドイツ系国民の国家であるオーストリアを併合しました。そして同じくドイツ系住民が多く住んでいるチェコスロヴァキアのズデーテン地方を解放するという名目で、チェコスロバキアを解体します。そして今度はポーランドに侵攻、占領しようと思ったわけです

それまでドイツの動きを宥和的に見ていたイギリス、フランスですが、さすがに今度は黙っていませんでした。もしポーランドに攻め入ったならば参戦すると、ドイツに対して勧告をします。これを受けてヒトラーは、当初日本と同盟を組むことによって、英仏を牽制しようと試みます。英仏がドイツに対して攻撃をかければ、日本がアジアにある英仏の植民地を攻撃するぞ、という脅しをかけようとしたのです。

ところが、この交渉は日本側がなかなか、うんと言いません。そこでドイツは、イデオロギーからすれば不倶戴天の敵であるはずのソ連と手を結びました。独ソ不可侵条約です。今日では、これは不可侵条約だけでなく、東ヨーロッパを分割する秘密協定も含まれていたことがわかっています。

ヒトラーはソ連と条約を結べば、ナチスドイツがポーランドに侵攻してもイギリス・フランスは黙っているだろうと考えていました。しかし、1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻すると、2日後の9月3日には英仏がドイツに宣戦布告します。ヒトラーはその第一報を聞いて「これからどうなる?」と言ったそうです。英仏と戦争することを想定していなかったことが窺(うかが)えます。ヒトラーとしては、対ポーランドの戦争だけで限定できると思っていたのでしょう。

荻上 牽制のために結んだソ連との条約が、英仏にとってはそれほどの抑止にならなかったと。

大木 その通りです。

荻上 逆に、イギリス、フランスがここで宣戦を布告した背景には何があるのでしょうか。

木畑 1930年代、イギリスやフランスはドイツに対して宥和政策というかたちでその行動を認めていました。それによってドイツが行動を抑制するのではないかと期待していたのです。しかし、ポーランド侵攻でこの期待が完全に裏切られました。英仏としては、もうやらざるを得ない、という感じだったのだと思います。

一方で、9月1日にドイツがポーランドに侵攻して、実際にイギリスとフランスが宣戦布告するまでに2日間かかっています。宥和的政策の名残なのか、そこにはある種の逡巡があって、すぐには対応していないんです。本来は、39年3月にチェコスロバキアが解体された時点でヒトラーの約束が当てにならないことは、わかってきていました。英仏世論の中にも、戦争が仕方ないという雰囲気があったので、9月1日にすぐに宣戦してもおかしくはありません。にもかかわらず2日間の逡巡があったことは、重要ではないかと思っています。

英仏の裏をかく独軍

荻上 いよいよ事を構えることになったわけですが、ドイツ軍の準備はいかがだったのでしょうか。

大木 結果的にはドイツの大勝利でしたが、自信満々だったかといえばそんなことはありません。それまでドイツは無理に無理を重ねて軍備を拡張していました。ヒトラーはポーランドを征服後、すぐに西への侵攻作戦を実施したいと言ったのですが、軍人たちが止めています。

ドイツ軍の数を見ると大変強大な軍隊に見えます。事実、戦車や飛行機の数はありました。一方でそれを支える爆弾や砲弾の備蓄などが非常に浅かったんです。ドイツ軍によるポーランドの征服は1か月ほどで成し遂げられますが、ドイツ空軍はその時に爆弾の備蓄を使い果たしています。

事実、ポーランド征服後、ドイツはフランス・イギリスに和平を申し出ています。英仏としてはこれまでずっと宥和政策を裏切られ続けていて、もう信用ならんということで、この申し出は蹴られるのですが、こういった点から考えても、ドイツ側も積極的に戦争を望んでいたわけではないでしょうし、必ず勝てるという自信はなかったはずです。

荻上 そうした中でフランスに攻め入り、追い詰めていくわけですが、ドイツ軍はどのような作戦をとっていたのでしょうか。

大木 最初にドイツが考えたのは、ベルギーを通過して英仏海峡沿いに進み、ぐっと旋回して大陸にいる英仏連合軍を包囲するというものでした。これは第一次世界大戦時にドイツがとった作戦とほぼ同じです。当時は補給などの問題があり失敗に終わったのですが、第二次世界大戦においてその再現をしようとしたのです。今回は第一次世界大戦では避けたオランダへも侵略して、そこを突き進んでフランスに攻め入ろうと考えたわけです。

一方で、連合国もドイツのこの動きは予想していました。フランスとドイツの間には、第一次世界大戦以後建設された、マジノ線というフランスの大要塞がありました。ここを攻めても、ドイツ軍は大損害を受けるだけです。したがって、要塞線がなく突破しやすい中立国を抜けてくるだろうと読んでいたのです。

対策として連合国は、連合軍から見て左、ドイツ軍から見て右、英仏海峡寄りにイギリス遠征軍(British Expeditionary Force)とフランス軍の最精鋭の部隊を送り込んで守るということを考えていました。

しかしその英仏の読みの裏をかく人物が現れました。ドイツ国防軍最高の頭脳といわれているマンシュタインという人物です。マンシュタインはオランダ・ベルギー間ではなく、ベルギー南部のアルデンヌの森という大森林地帯に機甲部隊を集結して、ここを突き抜ける作戦を提案しました。この作戦をとると、ちょうど回転ドアのように、英仏海峡を連合軍が進み、その南をドイツ機甲部隊が進軍し、どんどん海峡沿いにオランダ・ベルギーに向かって進んでいく連合軍の南をかすめて、ドイツの機甲部隊がその背後に進出していく形になります。ドイツ機甲部隊はそのまま英仏海峡の港に行って、カレーやブローニュ、ダンケルクといった港を占領できる。そうするとイギリス遠征軍とフランスの最精鋭の部隊は補給を切られ、孤立し、殲滅されることになるだろう、というものでした。

しかしマンシュタインがいくら上申しても、陸軍の首脳部は聞いてくれませんでした。そこでマンシュタインはコネを使ってヒトラーとの朝食会を設けます。ベルリンで一緒に朝食をたべながら議論するというものです。1940年2月17日に実施されたこの朝食会で、マンシュタインは自身の作戦について、ヒトラーに直に提案します。ヒトラー自身も、第一次世界大戦の焼き直しのような作戦では失敗に終わるのではないかと不安を抱いていたものですから、マンシュタインの提案に賛成し、実行します。結果として連合軍の裏をかき、連合軍の大敗につながりました。

要は中央突破ですね。オランダ・ベルギーからフランス・ドイツ国境を通ってスイスに至る西部戦線真ん中の要塞のないところを抜けて、連合軍の最精鋭部隊を分断し、孤立させて全滅させる。そういう作戦です。その結果、イギリス遠征軍とフランス軍の一部は英仏海峡近くの地域に押し込められていって、万策尽きたイギリス軍としては唯一残った補給港であるダンケルクから海を通って撤退せざるを得なくなるわけです。

後の戦局を左右したダンケルク

荻上 そのダンケルクですが、一体どういった場所なのでしょうか。

木畑 イギリスにはドーバーという白い崖で有名な場所がありますが、ダンケルクは英仏海峡を挟んでその対岸にあたります。イギリスとフランスを隔てると同時につなぐ英仏海峡の補給港として、イギリスと大陸の間の接点のような土地と言えるでしょう。

荻上 ここで大規模な救出作戦が取られるわけですが、このダンケルクの戦い、どのような戦いだったのですか。

木畑 これまでの話にあったように、当時は英仏軍とドイツが本格的な戦争に入った直後であり、ドイツの巧妙な作戦によって、英仏軍が追い詰められた戦局でした。ここで撤退作戦をとり、軍隊を救うことになります。当時どれだけの人が救えるかは全くわからず、3万とも、5万でも救えればいい、と実施された撤退作戦でした。それが結果的には、30数万人を救うかたちになったのです。

荻上 撤退の判断は厳しいものだったと思いますが、どのような過程で決断されたのでしょうか。

木畑 最終的に決断を下したのは当時首相であったチャーチルですが、彼自身が撤退を望んだというよりは、イギリス社会に強くあった意見が撤退作戦として結実していったのだと思います。イギリス軍の最高指導部にもいろいろと意見はありましたが、こうした背景を踏まえて、これから先の戦争の方向性を見通した時に、この状況下では撤退以外ないと決断したのだということです。

荻上 戦略的に撤退しかなくて撤退するのと、兵士を救出するために撤退するのは少々意味合いが違うかと思いますが、撤退作戦の決断の上で、兵士の救出についての目的はどう認識されていたのでしょうか。

木畑 当時はまだフランスは戦っているわけですよね。いかにフランスと手を組みながら戦っていくかを考えていたチャーチルとしては、自国民の人命救助のためだけに撤退するというのは難しい選択だったと思います。軍事的に、進軍を続ける選択肢もなかったとは言いませんが、予想をはるかに超えるスピードでドイツ軍が侵攻してくるという、まさに驚天動地の状況で、それに反攻していく決断はなかなか難しかったんだろうと思います。

荻上 イギリスの撤退判断、大木さんはどうお感じになりますか?

大木 1940年5月10日にドイツ軍のフランスへ向けての攻撃作戦が始まるのですが、当時はチャーチルもイギリス軍指導部も「断固戦え」「頑張れ」と言っていました。しかし、中央を突破されてどんどん後方の無防備な地帯にドイツ軍が進出しています。これで補給を絶たれると、進軍先でいくら頑張っても、いずれ補給が切れてつぶれてしまいます。そこでイギリス遠征軍の司令官であったゴート卿は、独断専行でダンケルクに向かって撤退を決意しました。当初の撤退判断は、ロンドンではなく現場で行われたのです。当時陸軍大臣だったアンソニー・イーデンは部下から既成事実を押し付けられたわけですが、状況を踏まえてこの独断判断を追認しています。実は後方に回られるのはそれだけ軍事的にまずいことなんです。

ドイツ軍はこうした作戦で敵軍に混乱を巻き起こす戦略に長けていました。例えば、連合軍の戦線を突破しても、残っている部隊をつぶすようなことはせず、その代わりどんどん後ろに回り込んで、通信や補給の中心地を押さえていくのです。連合軍には確かに兵士や装備は残っています。しかし通信連絡や補給を絶たれた状態では、反撃をしようと思っても燃料や弾がなかったり、部隊間の連携が取れず、単独で反撃を行い失敗する、という事態が生じてきます。第一次世界大戦の時も、ドイツ軍のこうした戦術により、連合軍は劣勢に立たされました。ドイツ軍は今度はそれを機甲師団と戦車で行うようになっていたのです。

荻上 リスナーからの質問です。

「映画ではドイツ機甲部隊の活躍があまり見られませんでした。ダンケルクが港の最果てなことを考えると、機甲部隊で追撃すれば連合軍はひとたまりもなかったのではないかと思うのですが。」

大木 ご指摘の通りです。この点に関しては大きな謎なのですが、それまでにドイツ軍はダンケルクを包囲して、攻撃さえすれば大勝利、というところまで来ていました。しかしそうした状況の中、5月24日に、ヒトラーは機甲部隊の進軍中止を命じます。現場からは不満も出ましたが、実際軍隊は止まりました。

これは第二次世界大戦の謎の一つで、正確な理由はわかっていません。その日ダンケルクは雨だったそうなのですが、ある説では、雨が降る中の進軍は、地面がぬかるむので機甲部隊、つまり戦車での攻撃には向かないと考えたという話があります。あとはイギリス軍を壊滅させるために無茶をして損害を出すと、フランス残部の制圧に支障が出ると考えた、などの説がありますね。他にも、例えばドイツ軍もそれまでで手痛い反撃を受けています。後にフランス大統領になったド・ゴールは当時軍人としてフランス第四機甲師団を率いており、ドイツ軍の側面に反撃をかけていますし、イギリス軍も残った戦車部隊をかき集めて猛反撃をかけ、あわやというところまで押し返しています。ドイツ軍としては、ダンケルクを攻撃している間に別方向から反撃を受け大損害を受けることを警戒したという話もあります。一方で、ヒトラーの腹心であったヘルマン・ゲーリングが空軍だけで攻撃することにこだわった、とか。

荻上 確かに映画の中でも空からの攻撃は描かれていました。

大木 ええ。あとは、ヒトラーがイギリスとの関係を悪化させることに消極的だったという説ですね。実はヒトラーの最終的な政治目標は、広大なソ連の領地を制圧し、大ドイツ帝国をつくるもので、同じくゲルマン系民族であるアングロ・サクソンのイギリスとは友好関係、悪くても中立的な関係を築きたい。しかし、イギリス軍を壊滅させては後々その話が運びにくくなる、というものです。他にもいろいろ説があります。

最近は研究が進み、実際にはヒトラー単独の決断ではなく、現場の司令官たちもこれ以上は危ないのではないかと懸念していたという指摘もあります。後にこの司令官たちが捕虜になった際、自分たちドイツ参謀本部の面子を守るために、全ての責任を軍事素人であるヒトラーに押し付けた結果、ダンケルクでの決定ではヒトラーのみが責任を負う、ということになったそうです。

荻上 理由はわからないけれども、イギリスとしてはラッキーな判断だった。

木畑 ラッキーでしたね。やはりドイツがイギリスと手を結びたかったという政治的な判断は鍵だと思います。当時はイギリス国内でも、ドイツと交渉すべきという声が出ていて、実際、前首相だったチェンバレンはチャーチルにドイツとの交渉を進言しています。この提案をチャーチルは断固拒否しますが、そういう状況とドイツ軍の進軍停止が並行していたわけで、ヒトラー側の思惑とイギリス側の一部の思惑に重なり合うところがあったのではないかと思います。

英ナショナリズムの象徴

荻上 作戦は民間の船なども徴用して大規模に展開されました。

木畑 民間船も相当数の兵士を救出しています。中には渋々参加した民間人もいたようですが、逆に声がかからずとも船を出すような人もいたと聞いています。そういう意味では、イギリス人がナショナリズムを発揮させた場面だと言えます。これがダンケルクスピリットとしてイギリス国民の中に残っているのです。

ダンケルク作戦の50周年目のとき、当時出動した民間船を集めてデモンストレーションなども行われ、国民が熱狂したことがあるほどです。実際に救出した人数は駆逐艦の方が多いのですが、民間船の出動にはそうしたシンボリックな意味合いがあったのだと思います。

荻上 このダンケルク作戦、当時イギリスではどのように報じられたのですか。

木畑 とにかくうまく撤退してきた、という戦意を鼓舞するかたちでの報道ですね。

荻上 意識的にそうしたストーリーが作られた面はあるのでしょうか。

木畑 当時メディアは戦意を高揚させるためにいろいろやっていましたので、その一環だったと思います。そもそも誰も9日間という短期間で30万超える人が救出できるとは思ってなかったわけで、その意味では非常にセンセーショナル出来事だったのです。

大木 当時イギリスの桂冠詩人だったジョン・メイスフィールドが記者として従軍していたのですが、帰国後彼が出版した、詩とルポルタージュを載せた本はベストセラーになっています。そのタイトルが“The Nine Days Wonder”。『9日間の奇跡』です。

荻上 イギリスではそれだけ象徴的なこととして語られていたのですね。一方でドイツではダンケルクの戦いはどのように記憶されているのでしょうか。

大木 反省というか、敗北の種でしたよね。軍事力にはハードウェアとソフトウェアがあります。非常に簡単に言ってしまえば、戦車や戦闘機というのはまた作れます。しかし、小隊や中隊を指揮できる将校は、一人前になるまでに10年、さらに大規模な部隊を指揮できる能力となると20年はかかります。そういった将校、熟練した下士官、訓練を済ませた兵士、この人たちが無事にイギリスに戻ってきたことで、イギリス軍はすぐに再建ができたわけです。ドイツにしてみれば、ここでイギリス軍の中核をつぶしてしまえば、ソフトウェアと失ったイギリス軍の再建は遅れ、その後の戦争もどうにかなったと思うはずです。実際そう思っております。

面白い史料を持ってきました。1941年末に提出された日本の駐英陸軍武官補佐官の報告書「英国より見たる第二次欧州大戦の観察」です。以下、カナ書きをひらがなとし、旧字旧仮名遣いをそれぞれ新字新かなづかいに直して引用します。句読点も補っています。「英本土に生還し得たる陸兵は、西洋人の特質上喜色満面を装い、殊更に敗退の色を隠しあるがごときも、中には軍服を着用せざるもの、歩兵にして銃を持たざるもの、稀に軽機を認むるも一挺の重機なし。優良装備を以て誇りし英国機械化部隊も殆ど丸腰となり逃げ帰りし有様なり」と書かれている。ダンケルクから逃げ戻ったイギリス兵は、喜んでみせ、負けを隠してはいるものの、軍服を着ていなかったり、小銃を持っていなかったり、たまに軽機関銃を持っている者はいても、重機関銃はない。機甲部隊も、装備を捨てて逃れてきたのだという意味ですね。

ところが、そのあとに、こういう記述があります。「『ダンカーク』より撤退当時の英陸軍は完全装備のもの僅に二ヶ師と数ヶ連隊なりしも、爾来一ヶ月間異常なる努力の結果」、「遠征軍九ヶ師は戦時編成要員を充足し、完全に再編成され、本国軍各師団亦戦時兵力に到達せり」。つまり、ダンケルクから撤退してきたときには、完全装備の部隊は二個師団と数個連隊しかなかった。それが1か月後には、大損害を被った遠征軍九個師団が回復、国内師団も充足されたというのです。これこそ、ダンケルク撤退の成功がもたらした成果でした。人を救ったことが、速やかな戦力の回復につながったのです。

荻上 撤退を選んだイギリスの判断。改めて、どのような意味を持っているとお考えですか。

木畑 その後のイギリスのナショナリズムを駆り立てたことは確かです。現在の文脈でも、昨年イギリスはブレグジット、EUからの離脱を決めましたが、その方向を主導したイギリス独立党の党首のファラージがこの映画を絶賛しているんですね。つまり、イギリスは大陸とは違うところにあり、あくまで離れたところからその力を発揮するのだ、という、一つの象徴なのです。ノーラン監督が実際にどのよう意図を持ってこの作品を撮影したのかは別として、実際そのように解釈されることも起こっているということですね。

荻上 フランスとの協力の必要性といった点では解釈されないのでしょうか。

木畑 解釈しないですね。もちろん実際にはフランスとの協力の上で成立した作戦なわけですが、やはり根本としては英仏海峡を越えて戻っていく話なんですよ。

荻上 なるほど。こう見ても撤退をどう位置付けるのかというのは戦局だけでなくその後の語りなどにも影響してくるのですね。

大木 軍隊においてはとにかくヒューマンリソース、人間のほうが大事です。特にイギリスの場合、工業力はドイツよりもはるかに上ですし、アメリカからの供給も期待できるわけですから、とにかく人間を助けたかった。日本とは対照的ですね。

荻上 そういった点も含め、それぞれの国の国民感情が第二次世界大戦をどう振り返るのか。この映画を通してそのリアリティが今日に伝わればいいなと思います。木畑さん、大木さん、本日はありがとうございました。

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プロフィール

木畑洋一イギリス現代史

1946年岡山市に生れる。東京大学大学院博士課程中退。東京外国語大学、東京大学教養学部・大学院総合文化研究科、成城大学法学部で教職についた後、現在は東京大学・成城大学名誉教授。専門は国際関係史、イギリス帝国史で、とくにイギリス帝国の歴史とその解体過程がもたらした諸問題に関心をもっている。主な著書に、『支配の代償:英帝国の崩壊と「帝国意識」』(1987年)、『帝国のたそがれ:冷戦下のイギリスとアジア』(1996年)、『イギリス帝国と帝国主義:比較と関係の視座』(2008年)、『二〇世紀の歴史』(2014年)がある

この執筆者の記事

大木毅軍事史研究

1961年東京生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。千葉大学講師等を経て、現在著述業。2016年より、陸上自衛隊幹部学校講師。近著に『灰緑色の戦史――ドイツ国防軍の興亡』(作品社)、訳書に、ヘルマン・ホート『パンツァー・オペラツィオーネン 第三装甲集団司令官「バルバロッサ」作戦回顧録』(作品社)など。

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