2017.12.11

クーデターが勃発か? 欧米が”世界最悪の独裁”と呼んできたジンバブエ、その歴史的経緯と実態とは

白戸圭一×荻上チキ

国際 #荻上チキ Session-22#クーデター#ジンバブエ

ジンバブエの武装蜂起の背後には、いかなる歴史的経緯があったのか? 軍が排除しようとした「クリミナルズ」とは一体だれなのか? 「世界最悪の独裁者」と呼ばれたムガベ大統領の「真実」に迫る。2017年11月18日放送TBSラジオ・荻上チキ・Session-22「クーデターが勃発か?欧米が”世界最悪の独裁”と呼んできたジンバブエ、その歴史的経緯と実態とは」より抄録。(構成/芹沢一也)

■ 荻上チキ・Session22とは

TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。様々な形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。番組ホームページはこちら →https://www.tbsradio.jp/ss954/

2000年代にハイパーインフレを経験

荻上 本日のゲストをご紹介します。三井物産戦略研究所欧露・中東・アフリカ室長を務め、『ボコ・ハラム イスラーム国を超えた「史上最悪」のテロ組織』『日本人のためのアフリカ入門』などの著書がある白戸圭一さんです。よろしくお願いいたします。

白戸 よろしくお願いします。

荻上 ジンバブエにリサーチにいらしたのはいつ頃だったのでしょうか?

白戸 最初に行ったのは1993年ですから、もう24年前になります。その後、2004年から2008年にかけて、毎日新聞記者として、お隣の南アフリカ・ヨハネスブルグに駐在しました。プライベートで家族を連れて行ったことあります。ジンバブエはアフリカのなかでは、小さな子どもを連れていても、安心して快適な旅行ができる数少ない国ですね。

荻上 最初に訪れた93年頃のジンバブエはどのような雰囲気でしたか。

白戸 その頃のジンバブエは安定した裕福な国でした。ただよく知られているように、そのあとジンブバブエはハイパーインフレに襲われます。ぼくが最初に行った当時は、1アメリカドルが12ジンバブエドルだったのですが、2015年には年率2億パーセントのインフレになりました。2015年のレートだと、日本円の1円で300兆ジンバブエドルです。

荻上 300兆!

白戸 短期間の間に、そこまで経済が崩壊したんですね。

荻上 1万円を換金したら単位が京ですね。そんな状態ですと貨幣として使えないですね。

白戸 そうですね。90年代の後半くらいから、ジンバブエから南アフリカへの出稼ぎが増えます。正確な数字はわかりませんが、人口が1600万くらいの国で、300万人くらいの人が、南アフリカに出稼ぎに行っていたのではないかという推計もあります。

この出稼ぎ労働者たちが、南アフリカの通貨であるランドを持って帰り、それを使用して生活をするというふうになっていました。そうしたかたちで、経済が回っているといえば回っている。ハイパーインフレのもとでも、餓死者が相次いでいるといった状況ではなかったです。

荻上 ほかに生活上の変化は感じましたか?

白戸 2003、4年ころから、食料がなかなか手に入りにくくなりました。とくに主食のメイズ、日本でいうトウモロコシですね。といっても、日本人が食べる黄色いトウモロコシではなくて、粉にして茹でて食べる白いトウモロコシです。こういうものがなかなか手に入りにくくなりました。

それから通貨がこういう状況になってしまうと、輸入が困りますよね。あとはガソリンです。私も2004年に行ったときは、ガソリンを手に入れるのにかなり苦労しました。

クーデターは大統領夫人への不支持から?

荻上 それだけ経済的に不安定な状況になると、政治が腐敗したり、治安が乱れたりすると思うのですが。

白戸 もちろん犯罪はあります。けれどもジンバブエの場合は、1980年に旧イギリス領から独立を勝ち取った時点で、アフリカのなかでは相対的に規律ある軍を下敷きにした政権が成立しています。そのため、非常に軍の練度も高いし、規律意識も高いんですね。ですから、ガバナンスがどんどん崩壊し無政府状態に、ということは起こっていません。

日本人は今回のクーデター騒ぎ、というか武装蜂起を見て、野蛮な集団が暴力で政治を変えようとしているように思ってしまいがちです。しかしそうではなくて、国のなかでもっとも規律あるエリート集団である軍が、現状を見るに見かねて、なんとか国の混乱を軟着陸させたい、ということで、今回の蜂起に至っているんです。

荻上 たしかに自宅軟禁下にありながら、ムガベ大統領が表に出てきたりしていますね。

白戸 軍自身が最初の声明で、クーデターを否定しています。また、ムガベ大統領が安全であるということも言っています。大統領を殺害するとか、放逐するとかではないんですね。排除の対象は大統領本人ではなく、周辺のクリミナルズ、犯罪者たちだという言い方をしています。

名指しはしていませんが、おそらく大統領の41歳年下のグレース夫人を指しています。夫人とその取り巻きを排除する、と考えるのが一番自然です。最後は本人に、できればお辞めいただけませんでしょうか、ということで、クーデターを主導した軍の高官とムガベ大統領が、カメラの前で握手をしている写真まで公開されています。

荻上 今のご指摘ですと、ムガベ大統領個人というよりも、周辺の人物を含めた政権が問題だという意識があるのですか?

白戸 今回のクーデターというか武装蜂起、これが11月14日の深夜から11月15日の未明にかけて起きますが、少し前の11月6日に、第一副大統領のムナンガグワ(※)がムガベ大統領に解任されています。この第一副大統領、75歳の方なんですが、93歳になるムガベ氏の後継者とみられていました。かつこの方は、植民地解放闘争を戦い、独立後は国防大臣として軍を統括してきた人なんですね。

※このあと、ムガベ大統領の辞任を受け、ムナンガグワ前第一副大統領が24日、大統領に就任した。

彼が解任されたことによって、大統領夫人のグレースが、次期大統領の最有力候補として浮上したんです。ところが、グレース夫人はいろいろ問題のある方でして。あだ名が「グッチ」グレースなのですが、要するに全身高級ブランドでかためて、夫の権力を傘にやりたい放題。今年の8月には訪問先の南アフリカで、暴力沙汰、暴行事件を起こしたのですが、国家元首の妻の免責特権を主張して、本国へ帰ってしまいました。

ムガベ大統領には、独立前の時代から苦楽をともにしたサリーという夫人がいました。サリーさんは大統領夫人となってからも、国民からもとても敬愛された人だったのですが、1992年に病気でなくなったんですね。そのときにムガベ大統領の秘書をやっていたのが、今の夫人です。要するに愛人になるわけです。グレースさんには当時、夫がいたのですが、そのあと離婚して、ムガベ大統領の後妻になりました。それが1996年だったと思います。

ムガベ大統領とグレースさんが結婚したころから、ジンバブエの経済政策がうまくいかなくなっていきました。大統領が常軌を逸したことをしはじめ、欧米諸国も世界最悪の独裁者だと言うようになっていきます。これは欧米の勝手な言い分なのですが、ただそう言われても仕方のない、常軌を逸した政策を次々にとるようになっていきました。

今回の武装蜂起は、第一副大統領の解任と、その結果、次期大統領として浮上したグレースに反対して起こったものだと思います。これは私の推測ですが、かつて革命をムガベ大統領とともに戦った誇り高い軍人や、その後輩の若い軍人たち、あるいは退役軍人たちからすると、大統領にまともな判断を失わせた元凶のひとつは今の妻だ、という感覚があるのではないでしょうか。

その妻が、いよいよ93歳で先も長くないであろう大統領の後釜に、つまりジンバブエの革命政権の第二代大統領になるのは絶対に許せない。そういう感覚を持っている軍人、あるいは退役軍人は、かなりいるのではないかと思います。

ただし軍も、ムガベ氏をクーデターで打倒して新政権を樹立した、ということになるとよろしくない。国際社会、とくにアフリカ連合は、クーデターを認めません。どんなにひどい政権であっても、ちゃんと選挙で引きずり下ろせと。ムガベ大統領は6回選挙をやって、6回とも当選してきているわけです。

「英雄」から「史上最悪の独裁者」へ

荻上 国民が選挙で選んでいる。

白戸 もちろん不正はありますよ。野党に対する弾圧もあります。そういう意味では公正な選挙とはいえない。しかしそうはいっても、野党候補も30何パーセントくらいはとるような選挙ではあるので、それなりに国民も野党候補に投票することはできる。

ムガベ大統領というのは、そういう状況下においても、60何パーセントの票をとって再選されてきている人なんです。国民を脅して、不正に不正をかためた挙句に当選しているのではありません。外国人の目には非合理に見える選択かもしれませんが、国民の一定の支持を得てここまで来ていることも事実なんですね。

荻上 民意に支えられ、長い歴史のあいだ大統領の座に就き続けてきた、正当性をもった人物だったわけですね。

白戸 アフリカのほかの国から見ても、少数の白人支配を打倒したムガベは、少なくともある時期までは、ネルソン・マンデラに次ぐような英雄でありました。

独立した時点でジンバブエには450万人くらい人口がいて、そのうち白人は10万人くらいでした。世帯数で言うと、白人の農家は6000世帯くらいだったんです。6000世帯しかないイギリス系の白人が、農地の45パーセントを支配していた。残りの450万の黒人というのは、それ以外の土地に押し込められていた。かつてはアパルトヘイト人種隔離時代の南アフリカのミニチュア版みたいなところだったんです。

それを打倒してきた人なので、やはりジンバブエ国民ならず、アフリカ大陸全体に、ムガベ大統領に対するとても強い尊敬の念があるんですよ。とくに高齢者世代のあいだでは、その念が強い。

それを否定してまで、つまり今回の武装蜂起では、彼のことを殺害してまで政権をとるというのは軍としては非常に厳しい選択です。ですから、名誉ある撤退というかたちで、「そろそろ大統領、お休みになられませんか」というふうに辞任を求めています。

荻上 グレースさんと結婚してからのムガベ大統領は、どのような政策をとるようになったのですか? さきほど、常軌を逸したとおっしゃっていましたが。

白戸 ジンバブエが直面していた問題のひとつは、農地でした。土地をどうするかという問題です。そこで土地収用法という法律をつくって、賠償金を払った上で白人の土地を収用し、それを黒人に再分配しようとしました。ですが、賠償金の財源がないので、うまくいかないんですね。

そこで財源を旧宗主国のイギリスに求めるのですが、それも承諾を得られない。そういうなかで、だんだん政策的に行き詰まっていく。2000年代に入るくらいから、白人農家から暴力でもって土地を取り上げるようになりました。黒人の武装勢力というか、いわゆる私兵集団に襲撃させて、土地を奪いとる。そういうことをやってくようになります。

荻上 そして、欧米からは史上最悪の独裁者という評価がなされていく。

白戸 とくにイギリス政府にしてみると、ジンバブエの白人はイギリス系の人々ですから、イギリス国内向けに世界最悪の大統領だと言わないとダメだというのがあります。そこにブッシュ政権が乗っかって、ムガベ大統領は圧政の拠点だと、イギリスに歩調を揃えるわけですね。これはイギリスに、アメリカのイラク戦争に協力してもらうのとバーターになっていたと思います。

英米が騒げば、日本メディアはそちらに引きずられますから、そうすると日本人もなんとなくよくわからないけど、ムガベ大統領は悪いやつだと思いはじめる。そのような国際世論が、西側で醸成されていったという経緯があります。

白人統治からの解放運動を牽引

荻上 歴史を少しさかのぼってお伺いしたいのですが、ムガベ大統領が大統領の座に就くいたる経緯はどのようなものだったのでしょうか?

白戸 100年以上の歴史を簡単にお話ししますと、もともと19世紀に、イギリスの国策会社であるイギリス南アフリカ会社が設立されます。アジアを支配したイギリス東インド会社の南部アフリカ版ですね。ここのトップであったセシル・ローズという人物が、現在の南アフリカを支配していました。

ローズが率いていた南アフリカ会社が、19世紀の末に、南アフリカから北へ北へと進軍します。そのとき治めた地域が、現在のジンバブエとその北側にあるザンビアという国です。この2つの地域を、イギリス南アフリカ会社が植民地にするわけです。そのときにセシル・ローズという名前からとって、「ローズの家」を意味するローデシアという国名をつけました。

第二次世界大戦が終わり、1950年代、60年代になると、アフリカの黒人たちの解放要求が強まっていきます。自分たちも自治に参加したい、国は自分たちのものなんだという意識が高まるんです。そこで黒人の意見も取り入れ、参政権を認めた上で独立しようとしたのが北ローデシアです。その地域だけが1964年に分離独立して、現在のザンビアという国になりました。

そのあと南ローデシアのほう、これがのちにジンバブエになるのですが、ここのイギリス系白人と本国イギリスとが対立を深めていくんですね。そして1965年に、イギリスの支配から出てくんだといって、ローデシアという白人支配の国を独立させてしまうんです。

荻上 白人のみで。

白戸 はい。黒人には一切参政権を与えませんでした。イギリス本国政府は独立を許さなかったのですが、許されなくてもいいと、本当に10万人くらいの白人だけで独立を宣言してしまう。イアン・スミスという白人がトップに立って、ローデシアを率いてくんですけれども、それに対して解放闘争を挑んだリーダー格の1人が、ロバート・ムガベ氏なんですね。

ムガベ氏率いる解放闘争によって、イアン・スミスのローデシアが追い詰められていくと、本国イギリスが仲裁に入って、1979年にイギリスのランカスターという街で会議を開きます。そこでランカスター協定という、独立に関する協定を結ぶんですね。そして1980年に、もともと住んでいたアフリカ人にも参政権を与えて、一応フェアな選挙が行われます。そのとき当選したのがムガベ氏です。

ただ当初は、イギリス連邦の一員としてジンバブエが独立したので、ムガベ氏は首相だったんです。独立後のジンバブエの国家元首は、1980年から87年までの7年間、イギリスのエリザベス女王でした。そして87年に共和制に移行して、つまり大統領制に移行して、ムガベ氏は大統領にそのまま就任します。そのあとは、5年に一度の大統領選に、6回ずっと当選を重ねます。

白戸氏
白戸氏

白人への差別的な政策へ

荻上 共和制になって、形式的にも実際的にも黒人リーダーが誕生したということになっていくわけですね。そこでこんなメールでの質問が来ております。

「ムガベ大統領はジンバブエを建国した当初、ローデシア時代から要職についていた白人をそのまま留任させ、黒人との融和を目指していたのに、なぜそのあとすぐに白人を事実上追放する政策に舵を切ったのでしょうか。」

白戸 これは先ほどお話しした経緯があります。

ローデシアは白人が経済の根幹を支配していました。ランカスター協定とそれに付随する協定で、白人の既得権益を認めるかたちで、ジンバブエは独立をしたんですね。それは現実的といえば現実的な政策で、白人の経済権益をすべて取り上げて、ビジネスや農業経験のない黒人に渡してもすぐには運営できないだろうという、ムガベ氏の建国当初の現実的な判断があったと思うんです。

ただそうした状況が長く続くと、当然、国民のあいだには不満がたまります。改革があまり進展してないじゃないかと、アフリカ人の側に不満が蓄積していく。そこでムガベ氏は92年くらいから、土地収用に力を入れはじめます。最初は賠償金を支払うかたちで国が土地を買って、黒人に再配分しようとしました。

先ほど申し上げましたが、そうなると当然財源が必要となりますが、イギリスに相談してもよい返事がもらえない。ムガベ氏にしてみれば、「あなたたちの植民地支配の後遺症として我々は今苦しんでいるのだから、その補償をしてくれよ」ということなのですが、イギリスにしてみれば補償義務はないという話になる。

ムガベ氏はだんだん追い詰められていく。そうしたなかで97年に、集会で彼の支持者であるアフリカ人になじり倒されるという出来事があったんです。それまで革命の英雄として、みながついてきていると信じていたムガベ氏にとって、この出来事は大きなショックだったと思います。

その前の年、96年に、グレース夫人と結婚しています。解放闘争の苦楽をともにした前の夫人が亡くなったのが92年ですね。土地政策をやろうとしたのも92年で、それが行き詰まったのが97年。こうしてみると、90年代のこの時期に、彼はいろいろな意味で辛かったと思うんですよね。プライベートでもご夫人を亡くすし、公的な政策もデッドロックしてしまう。支持者たちからも突き上げられた。

自分で考えたのか、あるいは妻の座に収まったグレース夫人が耳打ちしたかどうかはわかりませんが、国民の不満のはけ口とか、自分のやり場のない怒りをどこに向けてくかというときに、長年の問題の根幹をつくり出したと彼が考えたイギリス人に矛先を向けた。これまで人種差別をされてきた黒人の側が、今度は白人に対する人種差別をしはじめる。そういう隘路に陥っていったのが90年代なんです。

今後の民主化に注目

荻上 ムガベ氏は解放闘争の英雄だったわけですよね。彼はどのようなことをして英雄視されるようになったのでしょうか?

白戸 80年の独立まで、ムガベ氏は植民地解放闘争を率いるのですが、これはもちろん軍事闘争です。白人は10万人しかいないとはいえ、近代兵器で武装しています。それに対して、黒人の側の軍事力はきわめて貧弱です。しかも、白人のバックには南アフリカの白人政権がついていました。あとから分かったことですが、南アフリカは核兵器も保有していたわけです。

ムガベ氏は、強大な南アフリカ軍の支援を受けたローデシアの白人勢力と対峙せねばならなかった。当時の南部アフリカというのは、世界最大の白人帝国といわれていました。そうしたなかで、ジンバブエの東にあるモザンビークと西のアンゴラは、1975年にポルトガルの白人支配を脱しており、また当時、獄中にあったネルソン・マンデラが南アフリカの黒人解放勢力を率いていました。

そうした流れの中で、ムガベ氏は国際ネットワークとつながりながら、脆弱な軍事力でしかなかったけれど、強大な白人勢力を相手にゲリラ戦法を駆使しつつ、ローデシア政権と戦った。これがアフリカの人々のムガベ氏に対するリスペクトの背景にある歴史的な経緯です。ですから、今回の武装蜂起でも絶対に彼を殺すことはできないし、また侮辱するようなこともできない。

荻上 建国の父のような存在なんですね。ちなみにジンバブエと名前を変えたのはどのタイミングだったんですか。

白戸 独立のときです。ジンバブエはじつは観光資源が豊かな国で、グレートジンバブエという有名な遺跡があるんです。巨石でできた遺跡なのですが、ジンバブエという地域はイギリスに植民地にされるまで何も文明がなかったわけではなくて、モノモタパ王国という巨石文明があった地域なんですよ。西暦でいうと1000年代、日本でいう鎌倉時代の少し前くらいですね。

それをグレートジンバブエと現地の言葉で呼ぶのですが、その巨石文明からとった国名がジンバブエなんです。独立時に国名をどうしようかと考えたときに、自分たちのルーツであるもの、白人から、おまえたちは野蛮人で文明なんてなかったんだという不当な蔑まれ方をしていたけれども、そうではなくて、自分たちにはこんな立派な文明があるんだという意味を込めて、ジンバブエと名づけました。

荻上 ルーツなんですね。

白戸 そういう意味でも、ムガベ氏は、当初は哲学的にもきちんとしたものを持ってた人だと思うんです。

荻上 今後のジンバブエはどうなっていくのでしょうか?

白戸 もともと農業は足腰が強かったので、それをどこまで復活させることができるかですよね。それと、若干ではあるのですが、ジンバブエはダイヤモンドや金といった貴金属が出るんですね。

掘ったダイヤなどの代金が当然、国庫に入るのですが、その国庫に入るべき代金が消えているということを、野党の政治家が告発して騒ぎになったことがあるんです。本来なら国庫に入るべきお金が、おそらく与党の一部関係者、大統領とその周辺、あるいは夫人とその周辺に行ったのではないかといわれたわけです。これからはそうした腐敗したお金の流れを管理して、産業振興や国民の福祉にどう回していくかが課題になるでしょうね。

また、新たに大統領になったムナンガグワ氏は、ムガベ氏の大統領任期の残りを副大統領から昇格した形で務めているだけであり、国民に選ばれていません。今夏の政変はあくまでも与党内の権力闘争であり、野党勢力を含めたすべての国民の政治参加が今後の改題です。2018年6月~8月の間に実施される大統領選が公正に実施され、本当に民主的な政権が成立するかどうかに注目したいと思います。

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プロフィール

白戸圭一アフリカ研究

三井物産戦略研究所 欧露・中東・アフリカ室長。1970年生れ。95年立命館大学大学院国際関係研究科修士課程修了。同年毎日新聞社入社。鹿児島支局、福岡総局、外信部を経て、2004年から08年までヨハネスブルク特派員。ワシントン特派員を最後に2014年3月末で退社。著書に『ルポ 資源大陸アフリカ』(東洋経済新報社、日本ジャーナリスト会議賞受賞)など。

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荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

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