2017.12.25

ロシア革命から100年――現代への教訓を探る

池田嘉郎×荻上チキ

国際 #荻上チキ Session-22#ロシア革命#ボリシェビキ#レーニン

今から100年前の1917年、2月、10月とロシアは二回の革命を経験した。300年に渡る絶対的な帝政は終焉を迎え、世界初となる共産主義国が成立した。社会の仕組みそのものが根底から組み直された革命は、いかにして起こったのか。その契機と変遷に迫ります。2017年11月7日放送TBSラジオ・荻上チキ・Session-22「ロシア革命から100年〜そのとき何が起きていたのか?激しい経済格差、エリートと大衆の乖離、国際協調と国益…現代への教訓を探る」より抄録。(構成/芹沢一也)

■ 荻上チキ・Session22とは
TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。様々な形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。番組ホームページはこちら →https://www.tbsradio.jp/ss954/

第一次世界大戦により揺らぐ帝政

荻上 本日のゲストをご紹介いたします。東京大学准教授の池田嘉郎さんです。池田さんの専門分野は近現代ロシア史、著書に『革命ロシアの共和国とネイション』、編著に『第一次世界大戦と帝国の遺産』などがあり、今年1月に岩波新書から『ロシア革命 破局の8か月』を発売されました。よろしくお願いいたします。

池田 よろしくお願いします。

荻上 今日はロシア革命について伺っていきますが、最初に革命という言葉の定義について教えていただけますか。

池田 とても難しい問題です。ひとつだけ正しい定義があるわけではありません。権力者が変わるだけの政治革命もあれば、社会の仕組みそのものが変わることもあります。社会革命ですね。規模が小さければ政治革命だけで終わりますが、ロシアで起こった出来事は根底から社会の仕組みがひっくり返る、真の社会革命だったといえます。

荻上 ロシア革命がおこる1917年以前のロシアは、どのような状況にあったのでしょうか?

池田 当時、ロシアはとても古臭い体制をとっていました。皇帝の権力が非常に強かったんですね。国会はあったけれども、あまり機能していませんでした。憲法も同じく、うまく機能していなかった。

人々は身分によって分かたれていて、同じロシア市民でも、貴族に生まれれば特権がある、農民に生まれれば多額の税を払わなければならない。同時代のヨーロッパですと、お金があるかないかで格差が出てくるような階級社会はあったのですが、ロシアの場合は生まれによって法律上の立場として農民であるとか、貴族であるとかが決まってしまうわけです。フランス革命前の18世紀ヨーロッパのような、古臭い体制を保っていたのが革命前のロシアです。

ところが、1914年に第一次世界大戦が起こりますが、この戦争に参戦していく中で、ヨーロッパと同じような規模の動員をしなければいけなくなります。このことによって、古臭い社会が動揺するのです。

荻上 そもそもロシアは、なぜ第一次世界大戦に参戦したのでしょうか。

池田 中立を保つこともできたかもしれませんが、実際には難しかったのです。というのも、ロシア帝国というのは、皇帝が社会全体を束ねている世界なので、皇帝の権力や権威が絶対的なんですね。そうすると、皇帝の権威を保つためには、ロシアは強くなくてはいけない。そのため、偉大なロシアたるもの戦争をしないわけにはいかない、こうした発想が出てきます。

荻上 参戦ともなれば、人員も物資も戦争に投じられるわけですよね。その影響はロシアにどう現れたのでしょうか。

池田 ロシアは巨大な国ですが、弱点は流通なんです。戦争で兵隊や馬を運ぶうちに、貨車が壊れていきます。ところが直す余裕はない。そうすると、田舎では穀物を集めることはできても、穀物が運べなくなります。流通が滞っていく中で、都市の市民の生活に影響が出てきます。

荻上 そうなると政治も影響が出てきますね。

池田 皇帝とその周りの貴族たちが政治を牛耳っていて、一方で工場主であるとか、あるいは地方の民間のリーダー、彼らはエリート層ですね、この両者のあいだのギャップがとても大きいんですね。エリート層は、自分たちも政治に参加させてくれれば、もっと立派に戦争指導ができるはずだと考えている。そこに民衆の不満が乗っかって、軋轢が深まっていくという構図です。

ある種、三層構造のようになっていて、トップに皇帝と貴族グループ、そして政治参加を求めているエリート層、さらに政治からは完全に疎外されている大量の民衆たち。

じつは政治に参加させてくれと言っているエリートたちは、民衆のことをかなり恐れていました。民衆が一度立ち上がると、コントロールするのがきわめて困難となるからです。それもあって、自分たちエリートを政治に参加させることによって、そうした不安定な要因をなくそうと主張しているわけです。

池田氏
池田氏

食糧難から革命へ

荻上 そうした中、二月革命が起こります。二月革命とは何だったのでしょうか?

池田 二月革命は1917年の2月、我々の暦では3月ですが、皇帝とロマノフ朝が倒された出来事です。ペテルブルクで、当時はペトログラードと言いましたが、女性の労働者たちが立ち上がります。最初はパンを寄こせというところから始まりました。

先ほどお話しした流通の不備もあって、食料が不足しているので、何時間も並んでパンを買わなければならない。工場の労働が終わってから、子どもを面倒みながら、パンを買うために行列するわけです。この苦しみの中で、彼女たちは街頭で立ち上がりました。

荻上 みんなで「パンを」と叫びながら街を練り歩いた。

池田 仕事をストップして、外に出て来るわけですね。そして他の工場にみんなで行って、みんなもやめてくださいと。みんなで外に出ようと呼びかける。こうした動きがだんだんペテルブルク中に広がっていきます。

最初は労働者だけだったのですが、また労働者だけでしたら鎮圧することも可能だったと思うのですが、デモから4日後に兵士たちも反乱に加わるんです。労働者に発砲しろという命令を受けた兵士たちは、そんなことはできないと反乱したんです。これがかなり大きな転換点になりました。

荻上 そのように膨らんでいった民衆のエネルギーは、どういったかたちで二月革命に流れ着くのでしょうか?

池田 それはとても重要な問題です。結局、民衆は動き始めた。パンを寄こせというだけではなく、このような状況は嫌だということを言い始めた。ですが、具体的にそれをどういうかたちに持っていくかというのは、やはりなかなかわからない。それは難しいわけです。

そういうときに「自分たちには指導者が必要なんだ」ということを、民衆自らが言うようになります。そうすると、政治に参加させろと言っていたエリートたちの中から、民衆を指導して自分たちが権力をとろうという動きが出てきます。

彼らは国会議員たちなのですが、その中でもいわゆる自由主義者と呼ばれる人たちです。あるいは弁護士や、労働者に近い社会主義系の人々もいましたが、いずれにしても彼らは、「ここは我々が民衆を指導しなければならない」と、皇帝政府を倒すところまでいかなければ終わらないという風に、民衆に押されるかたちでなっていきます。

荻上 エリートたちは、もともとはどこまで考えていたのでしょうか?

池田 革命というものは、単一の勢力が動いて何かが変わるということではなくて、大量の民衆が動くことでつねに状況は流動化していきます。そこに方向性を与えるのは、民衆とは別のリーダーたちだったりするわけですよね。それでは、そのリーダーたちはどういうことを考えていたかというと、最初は自分たちだけが皇帝と組んで、新しい政府をつくればいいと思っていました。

最初は皇帝をやめさせて、幼い息子に変えれば、帝政の実態はなくなるだろうと考えていたのです。けれども、民衆はそれでは納得がいかないということで、だんだん路線が急進化していき、結局は共和国を目指すというかたちになっていきます。

荻上 そうしたエリートたちは党派にまとまっていたのですか?

池田 一番大きかった党派は立憲民主党、カデットというのですが、彼らは自由主義者です。イギリスやフランスを理想としていました。議会があって、言論の自由もあって、イギリスのように国王がいる場合でも、それはかたちだけの体制ですね。エリートたちが国会議員になって政治を指導していくような、ヨーロッパの先進国のようになりたいというのが、二月革命段階では重要な勢力でした。

それに対して、同じ国会議員の中でも社会主義者は、もっと労働者や農民よりの政策を強めていくべきだと言っていました。ただ2月革命の段階では、どちらかといえば方向性は立憲民主党、自由主義者のほうが中心でした。力関係は微妙でしたが、とにかくこの二つの勢力があったといえます。

荻上 ヨーロッパの普遍主義的な価値観に基づいて、市民の代表が政治を動かす体制を目指していたと。

池田 そうです。その点では社会主義者も同じです。社会主義者といっても、いきなり社会主義を目指すなどということは考えていませんでした。あとでお話できると思いますが、レーニンのボリシェビキ以外はそう急進的なことは考えていない。ですから、目指していたのは基本的にはヨーロッパ型の、イギリスやフランスのような議会政治を確立することです。

荻上 二月革命で倒されるロマノフ朝はどのくらい続いていたのですか?

池田 300年余りです。

荻上 300年の歴史があっても、崩壊するときはあっという間なんですね。

池田 ヨーロッパの王朝は19世紀の後半になってくると、神に与えられた権力だとか、特別な血統だとかいっているだけではもう正当性がないということに、だんだん気づき始めます。科学の時代ですからね。そうなると、これからは国民の国王なんだと。あくまで国民が主体であって、自分たちはそれに合わせる、というスタイルに徐々に移行していきます。

これはイギリスが典型ですけれども、ドイツなども同様でした。日本の天皇制も多かれ少なかれそういうところがあったわけですね。ところがロシアだけは、およそそういうことを考えずに、いつまでも自分は専制君主であると。神から与えられた絶対的な権力を持っているんだといい続けてきたものですから、何かの拍子に体制のバランスが崩れ始めると、非常にもろかったといえますね。

自由主義志向から社会主義志向へ

荻上 二月革命以降は、事態はどう推移したのでしょうか?

池田 最終的な決定は、じつは下っていません。ペンディングなんですね。なるべく早い時期に選挙をやって、憲法をつくるための議会、憲法制定会議を開いて、そこで最終的な体制は決めようということでした。ただそれまでのつなぎとして、臨時政府がつくられます。この臨時政府に全権が集中されました。

臨時政府に入っていたのは、多くは弁護士や医者といったエリートたち、自由主義者でした。それに対して、民衆の側では臨時政府をあまり信用していない。そこで、自分たち独自でいろいろな議論をする場である評議会、ロシア語でソビエトといいますけど、それぞれの街にソビエトができていきました。

荻上 臨時政府はソビエトを取り込もうとしたのでしょうか?

池田 そうした努力は大変なされました。臨時政府のエリートたちは、民衆が反乱を起こしたら大変だと自覚していましたから。ただ、自分たちはあまり人気がないというのはわかっているんですね。ですから、ソビエトの中で人気のある社会主義者を、臨時政府の中に取り込もうとします。そこでケレンスキーという、非常に人気のあった弁護士を司法大臣にしました。

5月以降になると、ソビエトの側のリーダーたちを大量に大臣に登用して、なんとか民衆の心をつなぎ止めながら、ロシアを安定した秩序に持っていこうとします。

荻上 こんな質問メールが来ております。「ロシア革命というとレーニン率いるボリシェビキの動向がクローズアップされがちですが、二月革命から十月革命までのあいだロシアを主導した立憲民主党やケレンスキーたちが、第一次世界大戦のさなかロシアをどのような形に導こうとしたのか、ご教授していただければ幸いです。」

池田 かなりフランスを意識していました。大統領と議会をおいて、という感じですね。ソビエトが各地にできていましたが、これは徐々に解消していって、通常の地方自治体に置き換えていこうと考えていました。要するに、ヨーロッパの普通の先進国に軟着陸できればいいということですね。

ところが、4月に亡命先のスイスから戻ってきたレーニンが、ソビエトこそが次の新しい政府の基礎になるんだということを、突然言い出します。「すべての権力をソビエトへ」と。ソビエトは自然に解消するのではなく、ソビエトこそが民衆の権力の真の母体になるという新しい発想を、レーニンが打ち出していくのです。

荻上 そもそもレーニンはどのような思想の持ち主だったのでしょうか?

池田 レーニンはバリバリの社会主義者でした。第一次世界大戦の勃発をみて、優れた先進国であるヨーロッパ同士が殺し合いをやっている。それはつまり、ヨーロッパあるいは資本主義というもの自体が限界にきている証拠であると考えます。それゆえ今こそ、資本主義の次の段階である社会主義に移らねばならない。そうして初めて戦争が終えられるんだ、というのが彼の考えですね。ですからレーニンの中では、戦争を終わらせることと、社会主義というより進んだ段階に移ることとがリンクしていました。

荻上 レーニンがソビエトに着目した理由は何でしょうか?

池田 レーニンはこれまでのような古い国家のあり方ではダメだと。国家というのは資本家が軍隊を使ったり、あるいは資本家に有利な法律を通じて、民衆を押さえつけるものであると、そう考えていましたから、国家なるものは徐々に廃絶しなければならないと考えていました。

国家をなくすと、いったい何が新しい政治の土台になるかといえば、もっと生活空間に根ざしたものなんだ、という考えは前からあったのですが、まさにそのようなものがロシアにできたと彼は考えたわけですね。実際にはソビエトというのは、二月革命の混乱の中で場当たり的にできてきたので、どこまで生命力があったのかは難しいですが、レーニンとしてはまさにこれこそが新しい国家、民衆の生活に立脚した国家の基盤になるものだと考えたわけです。

荻上 ソビエトの側はレーニンの呼びかけをどうとらえたのでしょうか?

池田 最初のうちはメンシェビキなどがリーダーシップをとります。彼らは立憲民主党と協力しながら、徐々にロシアをイギリス、フランスのような国家にしようと思っているわけですよね。ところが、戦争がなかなか終わらない。これが決定的でした。

二月革命をせっかくやったのに戦争が終わらないから、民衆の苦しみは変わらない。そうしたときに戦争をやめろ、戦争さえやめればすべて良くなるのだと、唯一いっているのがレーニンのグループだったのです。そうするとだんだん、レーニンの側につきたいというような人々が、ソビエトで増えていくわけです。

再び革命へ

荻上 そしてレーニン率いるボリシェビキが武装蜂起し、いよいよ十月革命が起こります。

池田 十月革命はレーニンを支持した水兵や兵士が主体となって起こされました。彼らは戦争をやめて故郷に帰りたいと思ってたんですね。10月25日、今の暦で11月7日に、冬の宮殿、エルミタージュ宮殿を襲撃、臨時政府の政治家を逮捕して、レーニンたちが主導する新しい社会主義の政府をつくったのが十月革命です。

荻上 それはどのような政治体制だったのでしょうか?

池田 まさにソビエトというものに立脚するというものです。各地域のソビエトが権力の源泉であって、それをソビエト大会が全体として束ねます。

荻上 立憲民主党やメンシェビキはどうなったのでしょうか?

池田 立憲民主党はかなり早い段階で人民の敵とされ、弾圧されていきます。他の社会主義者も、最初はある程度までソビエトで活動できたのですが、18年の半ばくらいからはどんどん活動を禁止されていきます。

レーニンは民衆への約束を守って戦争をやめたわけですが、しかし内戦が始まってしまう。さらにはシベリア出兵なんかが起こりますから、日本やアメリカが介入してきます。その中で共産党としては、他の政党に自由にさせる余裕はなくなっていく、ということです。

荻上 いま共産党という言葉が出ましたが、ボリシェビキが共産党になっていくわけですか?

池田 はい、そうです。それまではロシア社会民主労働党という名称でした。これはドイツやイギリス、フランスの社会主義政党と同じような名前なんですね。それに対して、自分たちは金持ちと協力して戦争をやっているような、他国のいい加減な社会主義者とは違うんだと。自分たちはまったく新しい世界に突入していくんだ、ということをはっきり全世界にアピールするために、共産党と名前をガラッと変えちゃうわけです。

荻上 民衆は共産党の動きを支持したのでしょうか?

池田 レーニンは政権をとって戦争をすぐにやめました。あるいは、地主の土地を奪って農民に与えるという政策もやったので、最初はかなり歓迎されたはずです。ところが、戦争は終わったけれども、経済の崩壊というのはそう簡単には止まらない。社会のエリート層であった立憲民主党の人たちを弾圧し始めるので、企業活動も滞っていく。そうすると、だんだん共産党に対する支持も弱まってはいきます。

荻上 ここでリスナーから質問が来ています。「ロシア革命が起きた結果、民衆の生活は楽になったのでしょうか?」

池田 これは大問題だと思うのですが、直接には楽になっていないですね。民衆の求めていることとレーニンが考えていることはまた別で、レーニンは民衆のエネルギーにうまく乗っかって権力をとるわけです。

もちろんレーニンは主観的には、自分たちのやり方でやれば民衆はもっとも幸せになるはずだと思っています。今は苦しい時期だけど耐えねばならないと。しかし結局、内戦に民衆は苦しめられる。言論の自由もなくなってきますし、経済も厳しい統制がなされます。レーニンからすると、それが社会主義なのだということなのですが。

荻上 共産主義体制というと監視社会といったイメージがありますが、そうしたイメージはどのくらいの段階から形成されたものなのでしょうか?

池田 17年の12月には政治警察、KGBの原点になるような組織ができていますから、そうした意味ではかなり早い時期から監視社会的な芽は現れていますね。

レーニンたちもいろいろな改善の努力はするのですが、根底のところで、自分たちの考えが正しいのだから、民衆はそれに従わねばならないと考えている。そうでなければ、それは革命の敵だという前提に立っています。そうなると、人々の自由も失われますので、創意工夫がなくなっていく。そういう社会が風通しが悪くなり停滞していくというのは、ある程度蓋然性が高いですね。

荻上 ロシア革命から100年ですが、あらためてロシア革命をどう評価しますか?

池田 これまで我々はロシア革命を、民衆が専制的な権力に向かって立ち上がったと、ロマンチックに考えてきたわけですけれども、やはり革命をやっている人たちはいろいろな人がいるわけです。いろいろな思いや考えが束ねられていったわけですから、本来であれば人民の敵だとか、反革命だとかと簡単にはレッテル貼りはできないはずです。

しかし、革命の中で人々が熱狂すると、そういうことが起こってしまうんですね。革命はロマンチックですが、実際には革命が起こると人が死にます。それは政治の問題だけではなく、流通の混乱なんかでも弱者が死にます。ですから、我々は革命を知ることで、混乱を避けるあり方というのを知ることができるのではないでしょうか。知恵を絞って、お互いに譲り合いながら考えることが、あらためて大事なのではないかと思います。

荻上 現在は大衆の不満の受け皿として、排外主義やポピュリズムが活性化していますよね。そうした点への教訓もありそうですね。

池田 極端に走るのは、あるいは、みんなで熱狂するのは楽しいですから、一時的にはそうなってしまうのですが、それで多くの人が不幸になっていくことはある。ロシア革命でも、自制を呼びかけた人もいますから、そうした点もあらためて見直す必要があるのではないかと思います。

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プロフィール

池田嘉郎ロシア近現代史

東京大学大学院人文社会系研究科西洋史学准教授。専門はロシア近現代史。新潟国際情報大学、東京理科大学をへて現職。著書に『革命ロシアの共和国とネイション』(山川出版社)、『ロシア革命 破局の8か月』(岩波新書)。編著に『第一次世界大戦と帝国の遺産』(山川出版社)、『国制史は躍動する――ヨーロッパとロシアの対話』(共編、刀水書房)、『世界戦争から革命へ(ロシア革命とソ連の世紀1)』(岩波書店)など。最近の仕事としてほかに ‘The homeland’s bountiful nature heals wounded soldiers: Nation building and Russian health resorts during the First World War,’ in Adele Lindenmeyr et al., eds., Russia’s Home Front in War and Revolution, 1914-1922. Book 2. The Experience of War and Revolution (Bloomington: Slavica, 2016)など。

この執筆者の記事

荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

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