2011.07.05

世界が新たな民主化の波に呑まれている。その意味で2011年は世界史に刻まれる年になるだろう。

すべては2010年12月18日、ブアジジというチュニジアの露天商が、無許可で商売していた廉で、当局から商売道具を接収されたときにはじまった。200米ドル余りの借金をすでに抱え、まだ26歳の彼は未来に絶望して、役所に抗議しに行ったその場で焼身自殺を図った。

民主化のドミノ

それまでにチュニジアのベン・アリ体制は汚職、縁故主義、抑圧の象徴として民衆の不満が高まり、民衆暴動が各地で広がっており、不満はすでに極致に達していた。革命は、何時の時代も些細な引き金で起こる。その引き金を引いたのがブアジジ氏の身を賭した抗議だった。年を挟んで数千人が瞬く間に首都を占拠、政府の融和策も功を奏さず、ベン・アリ大統領一族は亡命、こうして「ジャスミン革命」は完遂した。

抗議運動はさらに国境を超える。エジプトでもチュニジア大使館前の抗議から輪が広がり、1万人以上がムバラク大統領に反対する抗議集会を開き、首都カイロの名所、タヒリール広場に数千人が連夜座り込んだ。ここでも為政者の譲歩は耳を貸してもらえることはなく、30年以上つづいたムバラク体制はあっけなく終わった。露天商の抗議からはじまった革命は、瞬く間にモロッコ、イエメン、リビア、シリア、バーレーンを含むアラブ世界各地に飛び火し、民主化のドミノ現象が起きることで、大きな地殻変動が起きようとしているのである。

ことはアラブ世界に留まらない。2011年3月、中国では「中国ジャスミン集会」なる団体が一般市民に平和集会を呼びかけ、共産党支配の脱却を訴え、人々が人民広場に結集をする光景もみられた。

政治学者のハンティントンは、89年の冷戦崩壊とつづく東欧諸国の民主化を、19世紀前半、そして20世紀半ばのそれにつづく「民主化の第三の波」と形容した。その顰に習っていえば、いま世界で起きているのは「民主化の第四の波」のはじまりかもしれない。いうまでもなく、アラブ世界でも各国の環境は多様であり、十把一絡げに論じることはできない。エジプトのその後の指導体制の見通しも不明瞭だし、リビアはNATOの軍事介入にもかかわらず、カダフィ体制が崩壊する兆しはまだない。シリアにいたっては民衆に対する抑圧がさらに強まる結果になった。他方で、モロッコやレバノンのように、憲法改正によって為政者による改革がいまのところ受け入れられている国もあり、まだら模様であることは確かだ(橋本努「奇跡のエジプト革命?その下部構造を考える」参照)。

革命の条件と環境

しかし、歴史や地域を越えて、革命が生じる条件と環境にはいくつかの特徴がある。

人々の生活苦は直接的なきっかけとなる。世界的な原材料高とリーマンショックでの資金細りは、それまでグローバル化の恩恵を受けてきた新中間層の生活を暗転させた。現状と現状改善への期待値の落差は、そのまま改革要求の原動力となって表出する。フランス革命に代表的なように、経済変動はそのまま政治変動となってあらわれる。グローバル化が少しずつ始動しはじめていた70年代に南欧諸国が民主化をはじめ、東西での生活格差が冷戦終結に貢献することになったのも同じ構図である。

もうひとつは、体制の腐敗である。チュニジアのベン・アリ大統領は、もともと80年代後半に同国の自由化や民主化を進め、これが社会で自由を求める声を結果的に後押しすることになった。エジプトのムバラク大統領は、中東戦争の英雄であり、国内の不安定な情勢を掌握することのできる強いリーダーとして長年国民の尊敬を集めていた。しかし、長期政権は、権力を腐敗させる。ベン・アリ体制は、コネで運営され、大統領周辺は私財を貯めこんだ。そして、混乱を治めて繁栄をもたらすことを渇望されたリーダーが国民の期待に応えきれず追放される構図は、1848年のヨーロッパでの「諸国民の春」でも、同じだった。その引き金となったのは、やはり自由化を求める「改革宴会」のひとつを政府が中止命令を出したことにある。このとき、ウィーン体制は(やはりまだら模様を描きつつも)あっけなく崩壊したのである。

もうひとつは、反体制運動はイデオロギー闘争や階級闘争を錦の御旗にするのではなく、あくまでも国民意識を基盤にしていたことだ。チュニジアやエジプトで人々が掲げていたのは、赤旗でも黒旗でもなく、それぞれの国の国旗だった。自由や権利の尊重の主張を前に、イスラム原理主義的な価値観が入り込む余地はほとんどなかった。これは、ドイツ統一が「我々こそが民衆だ」という東西市民のかけ声のもと達成されたことが想起されよう。いうなれば、革命はナショナルなものの再構築であって、それゆえイデオロギーは無力なのである。

もちろん、情報手段の革新も指摘できよう。フェイスブックやツイッターは、反体制運動が連携し、国際社会の支援を受けるために重要な手段となった。後世は、アラブの春を「フェイスブック革命」や「ツイッター革命」と呼ぶようになるかもしれない。これも、革命がいつも通信手段の革新とともにあったことを考えれば納得がいく。1848年の「諸国民の春」のときには当時誕生したばかりの電報が国境を越えた情報の流通に大きな役割を果たしたし、1989年の東欧革命の際には、政府から相対的に自由なメディアだったラジオが市民の情報共有と動員に大きな役割を果たした。

ブッシュによる対テロ戦争がビンラーディン殺害によって収束しようとしている間、アラブ世界は、自らの力で民主化を完遂しようとしている。そればかりか、地中海を挟んだその反対側のスペイン、ポルトガル、ギリシャでは、若者たちを中心としてまったく同じ構図での民主化運動がはじまっている。その根底にあるのは、条件や環境は異なれども、現状に対する不満の蓄積とその現状を打破しなければならないという、切迫した信念である。どんなにシステムが完成しようとも、民主化のうねりが世界史をこれからも刻んでいくことは間違いない。

プロフィール

吉田徹ヨーロッパ比較政治

東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。

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