2021.12.08

「真珠湾」攻撃80周年をフィリピン日系人の視点から再考する

北田依利 歴史学

国際

2021年12月8日で、日本軍の「真珠湾」攻撃から80周年になる。日本軍が攻撃した米軍の海軍基地は、19世紀末に米国が武力を行使して併合したハワイに存在していた。「真珠湾」をハワイの先住民・カナカマオリの人々はハワイ語(ʻŌlelo Hawaiʻi)で、「ワイモミ(真珠の水域)」または「プウロア(長い丘)」と呼ぶ。この場所を、植民地宗主国である米国の視点・言語を優先し、「真珠湾(パールハーバー)」と呼び続けることに疑問を投げかけるため、カギカッコを付けている。

1941年のこの日、日本軍は当時米領であったハワイの他に、グアムやフィリピン、イギリス領の香港、シンガポール、マレーシアなどを攻撃し、英米に宣戦布告した。この出来事は、すでに中国で始まっていたアジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)を激化させ、欧米・日本帝国の本土の人々だけでなく、その植民地の人々をも巻き込んだ。また、当時米国などにコミュニティを築いていた日本人移民社会にも、強制収容という大きな打撃を与えた。

本稿は、第二次大戦前から米領フィリピンに存在していた日本人移民コミュニティ、とりわけ日本人の父親とフィリピン人の母親を持つ、フィリピン日系人の視点から、「12月8日」を検討することを目的としている。フィリピンの日本人移民コミュニティは、満州や朝鮮など、日本の植民地・占領地に存在した日本人コミュニティと同様に、戦争と引き揚げによって破壊されたが、フィリピン日系人家族の子どもと母親の多くはフィリピンに残り、独特の戦後を送ってきた(注1)。このフィリピン日系人の体験は、日本と米国という二つの祖国に挟まれた日系アメリカ人の経験と、欧米帝国や日本帝国によって植民地化された地域の人たちの経験が重なる、貴重な交差点ではないだろうか。

(注1)例えば、天野洋一『ダバオ国の末裔たち: フィリピン日系棄民』(名古屋:風媒社、1990年); 大野俊『ハポン: フィリピン日系人の長い戦後』(東京:第三書館、1991年); 司凍季『椰子の血: フィリピン・ダバオへ渡った日本人移民の栄華と落陽』(東京:原書房、2013年)。

米領フィリピンの日本人移民と日系フィリピン日系人家族

東南アジアの島嶼国家・フィリピンは、16世紀後半にスペインの、20世紀初頭には米国の植民地となり、そして1942年からは日本の占領を受けるという、複数の植民地化の経験を持つ国だ。日本が19世紀後半に開国して以降、沖縄・北海道・台湾など領土を拡大して帝国主義を発展させると、外交官・実業家・農民・セックスワーカーなど様々な職業の人々が南北アメリカ・ハワイ・サハリン・朝鮮半島などに移住、あるいは出稼ぎに出るようになった。フィリピンも、日本人の移民先の一つとなっていた。じじつ、戦前には植民地首都マニラに限らず、ルソン島北部のバギオ、ミンダナオ島のダバオなど、フィリピン中に日本人移民が家族・コミュニティを築き、自分たちの居住地を作っていた。こうした移民たちも日本の近代化や経済成長、帝国拡張を支えていた。

1900-40年代にかけて、フィリピン中に築かれた日本人移民コミュニティの中には、日本人の父親とフィリピン人の母親を持つ、フィリピン日系人家族が必ず存在していた。移民男性が現地の女性と家族を持つ、というのは特に珍しい現象ではなく、16世紀から20世紀まで、南北アメリカやフィリピンを含むアジア、アフリカなど広い地域で見られた。フィリピン人女性と結婚した日本人移民男性は、他の日本人と同様に、農業や建設業、商業などに従事し、日本人移民コミュニティの形成に重要な役割を果たした。かれらの妻であるフィリピン人女性もまた、フィリピンの日本人ビジネスの中心であった。

このフィリピン人の母親と混血の子どもたちは、日本人コミュニティの有力者や領事館からしばしば問題視されたが、それだけ注目を集めていたということでもある。この家族は日本人移民社会においても、そしてフィリピン社会においてもマイノリティであったが、日本人移民コミュニティと現地のフィリピン人コミュニティという二つの社会を繋ぐ、架け橋的な存在でもあった。

1941年12月8日、「真珠湾」攻撃の数時間後、日本海軍はバギオやアンヘレス(クラークフィールド)、ダバオなど、米領フィリピン内の複数の米軍基地を襲撃している。大日本帝国は、ワシントンDCのアメリカ連邦政府を脅かす目的でこうした地域を標的にしていた。しかし、バギオとダバオは、日本人移民がコミュニティを築いた場所でもあった。かれらの生活は、ハワイや米国本土に暮らしていた日系アメリカ人と同様に、アメリカ帝国と日本帝国の狭間にあった。

いっぽうで、フィリピン日系人家族を含むフィリピンの日本人移民の命運は、米国の日本人移民コミュニティとは随分違うものになった。そしてフィリピンの話はほとんど知られていない。日本軍による襲撃の後、フィリピンの日本人移民はすぐさまアメリカ人とフィリピン人によって収容された。1941年12月下旬、日本軍がフィリピンに到着し抑留された日本人を解放すると、かれらは日本軍を熱狂的に迎え入れた。翌年、大日本帝国によるフィリピンの占領が始まると、日本人移民コミュニティは日本帝国への忠誠・貢献を厭わなかったが、かれらの日常は戦争によって徐々に変わっていった。日本人移民男性やフィリピン日系人の息子たちが日本軍に現地徴収されるいっぽう、フィリピン日系人の中には米国・フィリピン側の軍隊で戦った息子たちもいた。日本人移民・フィリピン日系人女性たちも、看護師や地域の女性団体のメンバーとして戦争に動員されていった。

1945年の春、米国とフィリピンの連合軍隊が日本人移民の入植地に上陸し、激しい戦闘となると、日本人移民は日本兵とともに山間部に避難することを余儀なくされた。かれら民間人の死亡率は50%を超えるという、悲惨なものであった。さらに、フィリピンをめぐる日米帝国の衝突は、他の日本人移民以上に、フィリピン日系人家族に影響を与えた。

例えば、バギオの寺岡家は、アメリカとフィリピン、日本の3カ国に、家族を殺された。山口県出身の大工・寺岡宗雄とアントニーナ・バウティスタの夫妻は、1924年8月にマニラで結婚し、4人の息子と2人の娘に恵まれたが、戦争を生き延びたのは三男のカルロスと長女のマリエだけであった。母アントニーナと次女カタリーナ・四男エドワードは1945年の春、山間部に逃げる最中にアメリカ軍に殺された。長男のビクターはアメリカのタバコ(ラッキー・ストライク)を吸っていたという理由で日本の憲兵隊に殺され、次男のシクストは日本人の子どもだという理由でフィリピン人ゲリラに殺された。父・宗雄はすでに1941年8月に病気で亡くなっていたため、カルロスとマリエは孤児となった(注2)

(注2)冨田すみれ子「少年は戦争中、3カ国に家族を殺された。88歳になった今、伝えたいこと」BuzzFeed News, 2019年12月7日、https://www.buzzfeed.com/jp/sumirekotomita/carlos-teraoka-japan-philippines; Patricia O. Afable, Japanese Pioneers in the Northern Philippine Highlands: A Centennial Tribute, 1903-2003 (Baguio: Filipino-Japanese Foundation of Northern Luzon, Inc., 2004), 231-234.

フィリピン日系人家族は、日本人社会からもフィリピン人社会からも排斥されるとともに、双方の社会から暴力の標的となった。戦争でその多くが亡くなり、また家族の死に直面した。

周知の通り、日本人移民の祖国・日本は戦争に負けた。第二次大戦後、連合国はアジア太平洋中の日本の元植民地・占領地における日本人住民を日本に強制送還した(引き揚げ)。こうして、フィリピンの日本人移民コミュニティは、戦中および戦後直後に、日本帝国とともに消滅した。ただし日系フィリピン人家族の場合、父親が送還される一方、母子の多くがフィリピンに留まり、家族は離散させられることになった。

フィリピン日系人のいま

2021年4月、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)・フィリピンは、日系人を含むフィリピンの複数のコミュニティが、無国籍の危機に瀕していると報告した。この報告書は、日系人を19世紀後半から1945年にフィリピンに移住した日本人移民の子どもと定義し、この子どもたちのほとんどが日本人の父親とフィリピン人の母親の混血児であると説明する。つまり、フィリピン日系人家族の多くが、「真珠湾」攻撃から約80年を経た現在、無国籍の状況にあるのではないかと、UNHCRが警告したのである。報告書によると、1995年以来、3,800人以上が日系人であると確認されている。

なぜフィリピン日系人は、無国籍の危険にさらされているのだろうか。最大の原因は、日本政府がこの人々を日本人として認めることを拒否し続けているからだ。当時の日本の民法は、日本人を父親に持つ子どもは日本人であると規定していた。しかしながら、今日、かれらが父系血統を証明することはとても難しくなっている。父親が出生届を日本領事館に提出しそびれることも少なくなく、また第二次世界大戦中の混乱により、日本領事館の書類業務が中断され、多くの文書が失われた。混血の子どもたちが戸籍に記録されないことは、珍しくなかった。

戦後直後には、多くの家族がフィリピンの自治体や教会の書類、写真などの資料を所持しており、後に証拠として活用することもできたかもしれない。けれども、戦後のフィリピンにおける帝国日本に対する強い憎悪により、フィリピン日系人家族は、日本に関係するものをすべて処分し、父親から受け継いだ日本の名字もフィリピンのものに変更することを余儀なくされた。

こうした複雑な事情にもかかわらず、日本政府は、フィリピン日系人の多くが戸籍に記録されていないという理由で、根本的な解決に向かって動くことを拒んできたのである。ただし、この問題に取り組んできた諸団体によると、日本政府の怠慢は、日系フィリピン人が純血の日本人ではないという事実に由来している、とのことである。

フィリピン日系人たちは今、UNHCRが警鐘を鳴らす無国籍のリスクに直面するとともに、多くが人生の終わりを迎え、毎年・毎月複数が亡くなっている。かれらはこの状況に甘んじてきたわけではなく、1970年代以来、フィリピン中に日系人団体を組織し、解決策を積極的に求めてきた。この第二世・第三世による社会運動の結果、日本とフィリピンに拠点を置く多国籍NPOフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)が創設された。PNLSCは、日系フィリピン人たちの日本国籍回復を手伝い、戦争で離散した家族の再会を実現させてきた。

さらに、2020年の夏には、フィリピン日系人たちの今に焦点を当てるドキュメンタリー映画、『日本人の忘れもの:フィリピンと中国の残留邦人』(監督・小原浩靖、配給・Kプロジェクト)が公開された。この映画は、フィリピン日系人と日本占領下の満州の日本人の子ども(いわゆる「中国残留孤児」)を合わせて描いた力作である。複雑な歴史背景が丁寧に説明されており、また当事者の方たちの証言はとても迫力がある。DVDでの入手も可能だが、複数のオンデマンドサービスでも配信されている。

無国籍状態におかれているということは、パスポートが発行できず、現在いる国から出られないということである。多くが貧困状態に置かれているフィリピン日系人にとって、海外に行くことは金銭的に大きな負担だが、父の祖国を訪ねるのに、そもそも資格がないということを意味する。

映画のポスターに採用された写真の女性・赤星ハツエは、日本国籍を取得できた、幸運で数少ないフィリピン日系人だが、結局日本の土を踏むことが叶わなかった。彼女は、熊本出身の父・赤星實と先住民バゴボ族の母・アモン・アヤップの間に、1926年にダバオで生まれた。妹のサダコは、1928年に生まれた。戦争が激しくなってくると山に避難することになり、日本軍に徴用されていた父とはそれ以来会っていない。戦争が終わると、戦前家族で暮らしていたダバオのシブランに戻り、母娘でサツマイモやトウモロコシを育てて生計を立てた。ハツエは、親しくしていた、母と同じバゴボ族の一家の青年インゴ・アトスと1947年に結婚し、8人の子どもを授かった。アトス家は戦前、ハツエの父とも知り合いで、ハツエとサダコが日本人の子どもであることを承知していたが、姉妹は戦後日本人であることを隠して生きてきた(注3)

(注3)河合博之、猪俣典弘『ハポンを取り戻す:フィリピン残留日本人の戦争と国籍回復』(東京:ころから、2020年)、64-71頁。

赤星ハツエはフィリピン人として人生を過ごしながら、日本人の父が戦争で亡くなったのか、生きて日本に帰ったのか、ずっと気になっていた。日本によるフィリピン占領・日本軍によるフィリピン市民への暴力・そして悲惨な戦争により、「日本人である」と語ることを禁じられて生きてきた。だからこそ、自分のルーツを証明し公的な承認を得ることは、彼女にとって大変重要なことだ。

1990年頃になって友人のフィリピン日系人に日系人会の存在を教えてもらい、父の身元捜しがはじまった。しかし、父の記録が見つかったのは2010年、彼女が日本国籍を取得できたのが2013年で、すでに90歳近くになっており、日本へ旅行する体力がなかった。父は戦争を生き延びて日本に強制送還され、出身地・熊本で1960年代に亡くなっていたことがわかった。お墓参りをしたかったが、叶わなかった。

このように個人の記録を集めて日本国籍を回復するには、20年近くの長い時間と調査の労力がかかる。そして、戦前・戦中に生まれたかれらには、時間がない。だからこそ、フィリピン日系人たちは日本政府による一括救済を求めている。赤星ハツエは2020年の映画公開後に亡くなった。

筆者は、前述のPNLSCスタッフとともに関東圏内の大学で、この映画を視聴しながら講義をする機会をいただいた。学生さんたちの鋭い指摘や感想、率直な疑問を議論することで、歴史を学ぶことの大切さや、市井の人々が政策決定者の決めた戦争に巻き込まれる不条理を伝えていくことの意義を、ますます考えさせられた。明治学院大学、埼玉大学、桜美林大学、東京外国語大学の学生さんたちと先生方、そしてPNLSCのスタッフの方々に、深く感謝を申し上げたい。

むすびにかえて

本稿では、「真珠湾」攻撃80周年を迎えるにあたり、フィリピン日系人の視点から第二次世界大戦を振り返った。この戦争を日米の対立とだけ理解してしまうと、こぼれ落ちてしまうグループがたくさんある。

最後にもう一つだけ、フィリピン日系人の歴史を伝えるにあたり重要なグループに触れておきたい。日米間の戦争のために、フィリピンの人々も悲惨な状況に直面した。正確な死者数および行方不明者数の把握は不可能というのが現実だが、概算の統計から、植民地・フィリピンに課せられた計り知れない負担が伺える。

フィリピンにおける第二次大戦により、25,000人のアメリカ人と50万人の日本人(どちらも、ほとんどが軍人)が命を落とした一方、フィリピン人の死者は100万人にのぼり、そのほとんどが民間人であった。多くのフィリピン人が祖国フィリピンと植民地宗主国である米国のために従軍したが、米国は1990年まで、フィリピンの退役軍人の貢献を認めなかった。大戦で甚大な被害と犠牲を強いられながら、日米帝国の衝突という影に隠れて、フィリピンは第二次世界大戦の記憶から消去されてきたのではないだろうか。

フィリピン日系人の経験は、歴史教育や、今後の日本とフィリピン・東南アジア・アジア太平洋との関係を構築する上でも、貴重な視座をもたらしてくれるはずである。歴史を振り返り、かれらが現在求めている日本国籍回復という課題を、一緒に考えていただければ幸いである。

プロフィール

北田依利歴史学

米国ラトガーズ大学・歴史学研究科・博士課程在籍。歴史学、とくに米国内およびアジア太平洋地域のジェンダー/セクシュアリティ・人種と、脱植民地主義的な歴史叙述の方法論を勉強している。共著に『多様性を読み解くために』(エスニック・マイノリティ研究会編、2020年)、単著に“Japanese Mixed-Race Children in the Philippines, Then and Now!” (Immigration and Ethnic History Society Online, 2021)などがある。2021年12月7/8日同日、米ワシントンポスト紙でも論考を公表予定。

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