2022.05.19

臨界点に直面した韓国女性団体連合の「進歩性」

李順愛

国際

1.2020年、二つの事件

一昨年、韓国で「衝撃的」と評された事件が二つ起きた。一つは、5月の二度の記者会見を通して行われた、元「慰安婦」李容洙による「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連。旧「挺対協」)および、その運動の中心にいた尹美香(同年4月、国会議員に当選)への痛烈な批判と告発だ。

もう一つは7月、当時ソウル市長だった朴元淳が20代の女性秘書へのセクハラで提訴された事件である。この事件では、セクハラもさることながら、告訴の動きが事前に朴の知るところとなり、それを朴に漏洩したのが南仁順・与党「共に民主党」議員(前女性団体連合代表)、金英淳・女性団体連合常任代表(正義連理事)、林純伶・ソウル市ジェンダー特別補佐官(南仁順の前補佐官でもあった)ら女性運動関係者だった事実が12月に公となり、韓国社会を揺るがせた。

この立て続けに起きた二つの事件は一見、別個のもののように扱われているが、両事件の根っこに埋め込まれているのは、韓国を代表する女性団体である韓国女性団体連合(女連)の原初の基本路線であり問題意識である。

1990年11月、「慰安婦」問題に対処すべく結成された挺対協は、女連の強力な関与のもとに始まった。

「この運動[挺対協のこと]は女連の事業ではないが、女連と女連の中心的指導者たちが献身的に参与してなしとげた運動であるため、女連の運動史で必ず重要なものとして言及されなければならない。」(『韓国女性団体連合10年史』1998年)

韓国において、現在にいたる「慰安婦」問題への対処の基本枠を作り上げたのは、「女連と女連の中心的指導者たち」である。ただし今回、元「慰安婦」から名指しされている尹美香は女連の中心メンバーではなく、挺対協に幹事としてかかわっていた人物だった。

一方、セクハラ事件をおこしたソウル市長の朴元淳は、いわゆる進歩派を代表する政治家の一人で、2015年にはコロナへの積極的対応から「次期大統領候補選好度1位」に浮上したこともある。今回の事件がなかったならば、いずれ大統領になっていた可能性も小さくない。韓国社会に衝撃が走ったのも無理はないのである。私自身、この事件を知ったとき、「まさか」という驚きを禁じえなかった。

近年、安煕正・前忠清南道知事や呉巨敦・前釜山市長など、進歩派の現役政治家によるセクハラ事件が起きてはいたが、あの朴元淳がそういう類の事件をおこすとは想像もできないことだった。というのは、市長になる前、人権弁護士と呼ばれていた朴元淳は、フェミニズムへの理解が深いことで有名だったからだ。「私はフェミニスト」と自ら称してもいた。

例えば朴は1993年、韓国で初めてのセクハラ裁判となった「ソウル大学シン教授事件」の被害者の弁護を引き受け、6年間の攻防のすえに勝訴をかちとった。当時、韓国では、セクハラを罰する法的条項が存在せず、訴訟は不可能な状態だったといわれていた。しかしこの勝訴以後、韓国社会でセクハラは「人間の尊厳を毀損する明白な犯罪」(『女性新聞』)となった。朴はこの時の功績によって1998年、女連の「今年の女性運動賞」を男性として授与されることになる。

かつて軍事独裁政権下の1986年、権仁淑性拷問事件の弁護団の一員だったことも、朴の業績として欠かせない。さらに朴は「慰安婦」問題にも深く関わった。1995年に日本側が提示した「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を挺対協が拒否した際、その理由が述べられた文書「やはり基金の提案は受けいれられない」は4人の連名で日本の雑誌『世界』(1995年11月号)に発表されたが、その4人のうちの一人が朴元淳である。

2000年に東京で開催された、日本軍による性暴力を裁くための「女性国際戦犯法廷」で、韓国側検事をつとめたのも朴だった。2017年7月5日、『韓国女性団体連合30年の歴史』出版記念会に招待された朴は、「私は韓国女性民友会の雇用平等推進本部共同代表を務めたが、振り返ってみれば実にアメージングなストーリーだった。儒教社会の国家体制のもとで女性活動家の方々、その中心だった女性連合がなかったなら、韓国社会が今ほど平等で人間的な社会になっていただろうか」(『女性新聞』2017年7月6日)と発言している。韓国女性民友会は女連傘下にあって、その中心をなすような団体の一つである。

尹美香事件と朴元淳事件では、ともに自殺者が出ており、ことは簡単ではない。尹美香事件では、正義連が運営する元「慰安婦」のための憩いの場とされる「平和のわが家」のソン所長が6月6日、自宅で自殺しているのが発見された。前月の21日、「平和のわが家」に検察が家宅捜査に入っていた。朴元淳事件では7月10日、朴自身が山中で自殺している。

2.二つの事件の簡単な経緯

①李容洙の告発

それは突然の記者会見だった。そのため韓国で進歩派の新聞として知られるハンギョレ新聞は当日、記事を書かなかった。「突然に出てきた驚くべき発言であるため、事情をもう少し調べて」(『ハンギョレ新聞』2020年5月19日)みる必要があると判断したようだ。「『30年間の慰安婦人権運動』の正当性を破壊しうる事案であるため慎重に対応した」とも記されている。

「17日まで一週間以上、ハンギョレは他のマスコミが提起した疑惑を一歩後ろから確認していった。」(同前)

そして17日以降、ハンギョレは、それまでとは一転するかのような記事も掲載し始めた。当時私も新聞を見ていて、色合いが微妙に変わったことにすぐ気づいた。17日、尹美香へのインタビューとともに、「社説・正義連の『ヒーリングセンター疑惑』は遺憾、透明に釈明せよ」を掲載、翌18日には「正義連『尹美香 一人体制』が問題を大きくした」、19日にも「社説・尹美香氏、率直な釈明と相応の責任を」を載せ、その中で「尹美香氏はすべての疑惑について公開の場で真摯に説明しなければならない。記者会見を開き、口座の内訳など納得できる根拠を提示する必要がある」と書くとともに、「尹美香の個人口座4口座に10件の募金 使った内訳をなぜ公開できないのか」、「尹美香疑惑、どこから問題だったのか?」というタイトルの記事を載せた。

17日以前には、「社説・『尹美香事件』を口実に『慰安婦人権運動』を揺るがすな」(5月11日)、「社説・水曜デモ、『初心』を記憶し前に進まなければ」(5月13日)というような論調が目についていたのである。そうしたハンギョレ新聞の変化を誘発したと思われる「ヒーリングセンター疑惑」は、他でも同様に言及されている。

「検察の迅速な対応[正義連への家宅捜査を指す]の背景の一つは、背を向けた国民世論だろう。京畿道安城ヒーリングセンターの疑惑は決定的契機だった。(略)運動圏の人脈でからまった者どうしで、団体に寄付されたお金で理解しがたい不動産取り引きをしたことを疑いなしにながめている人はどれくらいいるだろうか。」(金ミナ、『ハンギョレ21』6月17日号)

元「慰安婦」の李容洙は2回の記者会見以外にも、行事等の場、新聞や雑誌のインタビューや手記等を通して、「水曜集会をなくさなければならない。参加した学生たちが出した寄付金がどこに使われているのか知らない」、「寄付金を元『慰安婦』たちのために使ったことがない」、「挺対協が慰安婦を利用したことは到底許せない」、「慰安婦被害者を売って募金した」、「尹美香は国会議員になってはならない」などと語った。

韓恵仁(アジアの平和と歴史研究所・研究委員)は、「私たちが李容洙さんの証言に大きな衝撃を受けたのは、彼女が発した言葉の凄絶さのためだった」(『ハンギョレ新聞』2020年6月5日)と書いているが、李容洙の言葉の背後でうごめく現実こそが「凄絶」だったであろうことは想像に難くない。たとえば、李容洙の次の証言の中にそれは顔を見せている。

「尹美香氏から求められて、刑務所にいた尹氏の夫の嘆願書を提出したと明かした。(略)李容洙さんは『尹美香の夫が刑務所にいる時、嘆願書も書いて面会にも行った』と話した。(略)『してほしいと言うから・・・私たちは分からないじゃないか、そういうことは』と答えた。また、『元「慰安婦」のおばあさん4人か5人が一緒に大田刑務所まで行って嘆願書を出して慰労もしてあげた』と言い、『尹美香がそうしてほしいと言った』と話した。」(『中央日報』2020年5月14日)

ある政治的問題で大田刑務所にいる自分の夫のために、その事件の意味するところも十分に納得させないまま、元「慰安婦」たちを私的に動員するというのは公私混同もはなはだしい。尹の夫はその後、自分が発行するインターネット媒体『水原市民新聞』で李容洙について次のように書いた。

「李容洙氏が突然、態度を変えた理由は子孫にまとまったお金を譲り渡したくて始まったことではないか。社会運動家と被害者の観点は異なりうるが、その隙間に、保守言論と李容洙氏の横にくっついている怪しい傀儡団体が入り込んだようだ。」(金三石「安倍が最も憎む国会議員・尹美香」、『ウーマンタイムズ』2020年5月14日から引用)

この記事が問題になるやすぐに削除されたという。

李容洙の一回目の記者会見の直後、5月11日に正義連が開いた記者会見において、正義連理事長の李娜栄は「30年間この運動を共にしてきて家族のようにすごしたハルモニ[李容洙のこと]の空しさ、不安、怒りを謙虚に受け入れる」などと発言しているが、李容洙の「怒り」を「空しさ、不安」というような心情レベルの表現と同列のものに落とし込もうとするのは違っていると思われる。李容洙の告発は急に思いたった衝動的なものではなく、「記者会見を開くまで一年間悩んだ」(『月刊中央』2020年5月)すえの覚悟の行為だったからだ。

また、この李娜栄の発言も典型的だが、運動の関係者が元「慰安婦」と「家族のようにすごしてきた」と話すのを活字等を通して何度か見てきたが、何のためにそういう話をするのかいつも不思議だった。良いことだと思って話しているのだろうが、運動のあり方としてどうなのか。実際に家族のようになることもあるだろうが、外部に向かって話すような事柄ではないだろう。家族主義的な色合いを醸し出す運動というのはナショナリズムと近しい。

先にハンギョレ新聞が書いていた「他のマスコミが提起した疑惑」というのは、保守派のそれを指している。李容洙の記者会見の直後から、保守系の代表的新聞(朝鮮日報、中央日報、東亜日報)が、尹美香や正義連の疑惑と思われるものを充分な証拠も明示しないまま連日、書きたてた。後に正義連はいくつかの記事を言論仲裁委員会に訴え、訂正や削除などが行われたが、韓国社会の保守派と進歩派の対立のまがまがしさが直截に出ていた。

義務的に読んでいても胸が悪くなるような感じがしてきて、私自身しばし読むのをやめたほどだった。しかし、ここで指摘しなければならないのは、保守派の報道にいかに重大な問題があるにせよ、尹美香や正義連が李容洙の批判に真摯に向き合わないまま(これは今現在も続いていると私は考えている)、まず保守派の言論にその矛先を集中させたことである。『女性新聞』にコラムを連載している金亨俊(明知大教授)は次のように書いている。

「最近、今回の事で本質から離れた『親日フレーム』の攻防が展開されている。尹美香は『正義連と私に対する攻撃は保守言論と野党<未来統合党>が作った謀略劇以上でも以下でもない』と主張した。(略)正義連と尹美香は今回の事について誰かのせいにする前に、自分たち自身をまず振り返り、何よりも寄付金について詳細な内訳を公開しなければならない。(略)慰安婦ハルモニたちの苦難が正義という名で利用されてはならない。」(「彼らが記憶する正義とは何なのか?」『女性新聞』2020年5月14日)

まっとうな指摘である。もちろん正義連は7日の李容洙の発言をうけて、翌8日に「李容洙さんの記者会見に対する正義連の立場」を発表したり、前述したように記者会見をしたりしている。その中で、これまで募金などで集まったお金を元「慰安婦」たちに伝達してきたとして李容洙のサインがある領収証などを公開し、李容洙の主張は「事実と異なる」のだと次のように話してもいる。

「募金の使用内訳については定期的な会計監査を通して検証を受け、公示の手続きを通して公開されています。(略)29年間、時には同志として、娘として、行動を共にしてきた尹美香前代表がさる3月20日、代表職を辞任して国会議員比例代表として出馬するようになった時、長い間活動してきた被害者たちが一人また一人と亡くなられていくことに心を痛めていた李容洙さんは、尹美香前代表に対するお祝いの気持ちとともに、当然、家族を見送るさびしさや名残惜しさを感じられたでしょう。」(「李容洙さんの記者会見に対する正義連の立場」2020年5月8日)

正義連はここでも家族主義的な形容を持ち出し、李容洙の批判を心情レベルで説明しようとしていることが見てとれる。

そしてその後も、「国庫補助金と支援金に関連したずさんな会計問題」(『ハンギョレ新聞』2020年5月19日)について、「運用に問題はない」「個人的な資金横領や不正流用は絶対にない」等と発言するものの、「正義連と挺対協は国庫補助金を支給されたにもかかわらず、関連内容を国税庁にきちんと公示せずに物議をかもし」(同前、5月16日)たり、「国外活動のために募金した一部の後援金の場合、オンライン上に公開された執行内訳と募金の内訳がそれぞれ異なっていて波紋が広がっている」(同前、5月19日)などの状況もあったりしたのだろう、5月15日、正義連は外部監査を受けることを表明するに至る。

一方、こうして騒ぎになっているにもかかわらず、当の尹美香が自身の釈明会見を開くのは、国会議員として不逮捕特権の資格を得る5月30日の前日、5月29日のことだった。韓国を代表する市民団体の一つである経実連(経済正義実践連合)は、5月27日付の声明「尹美香氏はあふれ出てくる疑惑を堂々と弁明し、過ちがあるなら責任を負わなければならない」で次のように書いた。

「尹美香氏は自分に提起された疑惑を堂々と釈明せず、親日フレームや陣営論理に頼って回避しつつ不信を育て疑惑を増幅させてきた。(略)尹美香氏のこれまでの説明はその真実の如何を離れて、責任ある団体の指導力が発揮されたものとは認めがたい。したがって、これまで提起された疑惑に対して、迅速に、堂々と、真実を直接釈明し、過ちがあるなら責任を負わなければならない。尹氏が回避したからといって、解決されたり、その責任が免除されたりする事案でもない。もし第21代国会開会後に、国会議員の身分で特権の後ろに隠れようとする心があるのなら捨てるべきだ。」

また、女連と並んで韓国を代表する女性団体である韓国女性団体協議会(女協)も経実連と同じ5月27日に声明を出した。

「提起された疑惑に対する正確な説明資料を提示できないなら、21代国会が開かれる前に去就を明確にし、良心にしたがって賢明な選択をすることを求める。(略)尹美香はなぜはっきりとした説明をせず、言論との接触を避けて沈黙しているのか。」

ここで言及されている「説明資料」については、コラムニストの金ソヒも、「尹美香は『正義連と私に対する攻撃は慰安婦真相究明と謝罪、賠償の要求、平和人権運動に冷や水をあびせようとする謀略』だと言った。(略)しかしその後、新たに提起された、本人だけが明らかにできる疑惑については口を閉ざした。(略)根拠だけ正確に示せば何もないのに、である」(『ハンギョレ21』2020年5月22日)と、誰もが抱く素朴な疑問を述べている。

さきの女協より先に、5月12日、女連はいち早く声明「最初のmeeto 運動だった日本軍『慰安婦』問題解決のための我々の運動は継続しなければならない」を出しているのだが、尹美香や正義連と同じく、もっぱら保守派の攻勢を意識したものだった。 

「われわれは国内最初のmetoo運動だった日本軍『慰安婦』運動を分裂させ毀損しようとする動きに強い憂慮を表明する。政府と市民社会は日本軍性奴隷制問題の正義の解決のために各自の責任をはたさなければならない。」

保守派のマスコミが疑惑を書き立てたので、まずそれに対抗せざるをえなかったのだろうが、これが女連の最初の声明だと思うと違和感をぬぐえない。声明に李容洙の名前は出てこないのである。タイトルに「運動は継続しなければならない」とあるが、元「慰安婦」の必死の問題提起よりも、運動の「継続」が優先課題になるというのはおかしくないか。

結局、9月14日、韓国検察はさまざまな疑惑のうち、募金横領、準詐欺罪等8つの容疑で尹美香および正義連理事一人を不拘束起訴する。「募金横領」というのは、「複数の個人口座を利用して日本軍元『慰安婦』たちの海外旅行の経費などを募金した後、5755万ウォンを個人的に使った疑い」(『ハンギョレ新聞』2020年9月14日)であり、「準詐欺罪」というのは、「認知症を患っている元『慰安婦』の吉元玉さんが受け取った女性人権賞の賞金の一部などを正義連に寄付させた容疑」(同前)である。前述した「安城ヒーリングセンター」については、「相場よりも高い7億5千万ウォンで買い入れた行為についても業務上背任容疑が適用された」(同前)。

起訴された尹美香は「立場表明」を発表して、裁判で潔白を証明していくと言い、「今日の検察発表が旧日本軍慰安婦問題解決運動30年の歴史と大義をうちこわすことはできません」と述べている。正義連のほうは、「人生を日本軍『慰安婦』問題解決の運動にささげ、法令と団体の内部規定等が定めた手続きに従って正当な活動を展開してきた活動家を補助金管理に関する法律違反などで起訴したことは到底、理解しがたい」(「検察捜査結果発表に対する正義連の立場」)とコメントした。

尹美香は事件を筋違いの話にもっていっているし、正義連も「活動家」という存在についてなにか勘違いをしているようだ。「人生を運動にささげ」ようとささげまいと、それはどこまでも自己の責任において孤独に決定する事であって、他から評価されてしかるべきだなどと考えているとしたら、なんと軽々しい運動観であることか。

起訴から二日後の16日、「共に民主党」は尹美香議員の党職・党員権停止を発表し、女性家族部は25日、元「慰安婦」支援事業の正義連への委託を来年から打ち切ると発表した。

「女性家族部は、より安定的で信頼できる『日本軍<慰安婦>被害者支援事業』を推進するために来年から現在の民間中心から『政府中心』に事業遂行体系を全面改編する一方、今年の事業については補助金の不正受給などの憂慮をなくすため補助事業者の管理監督を大幅に強化すると明らかにした。」(『女性消費者新聞』2020年9月28日) 

正義連は女性家族部から、元「慰安婦」の生活支援などの名目で2019~20年には約9億ウォン(約8500万円)の補助金を受け取っていた(『読売新聞』2021年2月4日)。

その後、2021年6月22日、不動産取引をめぐる違法行為の疑いがあるという別件で、尹は他の11名とともに党から除名されたが、11月に疑いが晴れた。しかし11名は復党したものの尹の復党は保留にされた。「共に民主党」はマスコミの取材に、「尹議員は不動産問題だけでなく他の問題がある。裁判中の問題を総合的に検討した後に決定する」と答えている(『日曜時事』2021年11月15日)。

今回、この尹美香事件にまつわって多くの論評が書かれている。その中で、私が読んで特に印象に残ったものが三つある。

一つは、期待して読んでがっかりした文章。「挺対協を作った者たち」と記され、尹貞玉、李効再をはじめとする12人の連名で、つまり韓国女性運動を一線で担ってきたようなメンバーが5月20日に出した「立場表明」がそれである。一読後、何のために書かれたのだろうかというのがまずの感想だった。尹美香や正義連を擁護したい気持ちだけは伝わってくるが、「どうか被害者の人権と30年間の挺対協の活動を考えて下さい。」(『女性新聞』2020年5月20日))では意味が分からない。ここでも不思議なことに李容洙への言及は一切ない。元東洋大学教授の陳重権はこう書いている。

「女性団体は一斉に尹美香とつるみ、それによって問題の解決ではなくその一部になってしまった。・・この運動の長老たちの名前まで食い物にしたため、誰か権威をもってこの事態に介入する人物も残らなくなってしまった。」(『朝鮮日報』日本語版2020年5月26日、[一部日本語に手を加えた])

おそらく陳重権は「挺対協を作った者たち」の「立場表明」を読んだのだろう。もう一人、今の文在寅政権を支える市民団体の一つである参与連帯に、20年以上所属し、執行委員長をつとめた会計士の金経率(「経済民主主義21」代表。過去の参与連帯だけでなく、今も大小15の市民団体の会計を引き受けている。現在、大統領選ともからんで大問題となっている城南市大庄洞特恵疑惑を公論化した人物)は、次のように話している。

「昨年、ある市民団体で数千万ウォンの横領事故が発生した。市民社会側の元老の一人が実態調査を要請した。市民社会が正常に運営されていれば、正義連事態が浮上すれば元老の誰かが私を呼んで当時のように実態調査から要請したはずだ。ところが今回は正反対のことが生じた。調査を要請すべき人たちが『尹氏は潔白だ』と保証人になってしまった。」(『中央日報』日本語版、2020年5月29日)

「経済民主主義21」は5月26日、尹美香の即時辞退を求めている。

二つ目の文献は、「挺対協を作った者たち」の一人で、さきの「立場表明」にも名前を出している申恵秀へのインタビュー記事「30年の慰安婦運動の成果、尹美香個人の成果に帰着させるのは遺憾」(『東亜日報』2020年6月10日)である。「立場表明」よりも、申のここでの発言のほうが数倍、意味ある証言となっている。申恵秀はかつて挺対協共同代表をつとめていた。自身が活動していたときのことをこう回想している。

「私が代表でいた時までは考えることもできないことだ。・・財務担当が毎月、事務所で領収証や通帳を対照した。・・挺対協出帆後2007年まで、政府支援金は金大中政府の時に受けた2000万ウォンが全てだ。・・共同代表が無報酬で自分のお金を出しながら運動していた時代だ。」

ここで証言されているように、「財務担当が毎月、事務所で領収証や通帳を対照」する作業がその後も続けられていれば、今回のようなドタバタは起きなかったのではないか。「領収証や通帳の対照」は、寄付をもらっている運動体なら常識レベルの作業だ。何故それが中断されたのだろうか。挺対協に入ってくるお金は莫大な金額にふくれ上がっていたにもかかわらず。正義連が言うような人手不足は言い訳にならない。

申恵秀は尹美香が国会議員になったことについてはこう述べている。

「尹美香が国会に行くのは正しいことなのか。その問いかけから始めなければならない。『慰安婦運動=尹美香』と思われている状況だが、運動の成果をすべて自分が持って特定政党に『選抜』されること、それが慰安婦運動と団体にどういう影響を与えるのかを考えずに行くことが正しいことだったのか。30年の運動の成果が個人の成果に帰着していて遺憾だ。」

こうした「問いかけ」はしかし申恵秀一人のものではない。たとえば、前民主労総副委員長の許栄九は、「被害者の痛みと傷はそのままなのに、誰かはその痛みと共にしたという理由で権力と名誉を得る事、それは被害者たちにまた別の傷となりえる。(略)保守言論のせいにする前に、自分自身をまず振り返ってみよ」(「慰安婦問題の解決、国会議員が最善なのか?」『読書新聞』2020年5月14日)と述べている。

申恵秀のあの率直な個人的発言がなければ、「挺対協を作った者たち」への私の懐疑はもっとふくらんでいたと思う。申恵秀ははっきり述べている。  

「正義連にも誤りがあれば責任をとれと言わなければならない。それができないということが問題だ。」

日本で李容洙の記者会見が初めて報じられた時、日本のマスコミは韓国における挺対協の位置について、「最後の聖域」「タブー」「神聖化された組織」「不可侵な存在」「サンクチュアリ」等々の単語を使った。バカバカしい、という言葉が思わず私の口からついて出た。それでは正義連が批判してやまない日本の天皇制と同じではないか。

三つ目の文献は、『京郷新聞』(2020年6月23日)に載った鄭柚鎮の「『正義連の領収証』と『ハルモニ[元「慰安婦」]の遺言状』の意味・・問題は『彼ら』ではなく『われわれ』だ」という文章。

「30年続いた市民運動への礼儀をわきまえろと言って被害者の歴史性をたたきつける与党。被害者の言葉はファクトではないと言って領収証を公開した正義連。国民基金[日本のアジア女性基金]をめぐる脈絡を省いたまま、元「慰安婦」の故沈美子氏の遺言状を正義連への非難のカードとして取り出した野党。これを自己解釈することなく消費する言論。領収証と遺言状の召喚が被害者に対するもう一つの暴力であることを感知できない市民社会。私はこの五つの交錯状態が被害者の苦痛を加重させていると思う。」

ここで鄭柚鎮は李容洙の「苦痛を加重させている」要素として、与党、正義連、野党、言論、市民社会をあげている。「われわれ」の正体。しかしここで「われわれ」を言うのであれば、「正義連」よりも、挺対協の生みの親である「女連と女連の中心的指導者たち」をあげるべきではないか。尹美香も正義連もその延長線上にいるだけのように私には見える。基本路線は変わっていないのである。

鄭柚鎮の文章の中で強く心に残った一語がある。

「李容洙氏は『信じられるのは韓日の学生たちだけだ』としばしば語った。私にはこの言葉は、被害者に対する差別を喝破した証人が送る『だから今この国はだめなんだ』というメッセージに聞こえる。」

鄭柚鎮は唐突に、ぽつんと「差別」とだけ書いていて、その内実を説明していない。しかし私は久しい前から「蔑視」だと考えてきた。それは元「慰安婦」をふくんだ、もっと広く、自分の身体を売らざるをえないような最底辺の女たちへの無自覚の「蔑視」である。お金をもらったもらわないは問題ではない。元「慰安婦」のなかに、「女連の中心的指導者たち」のようなエリートなどいない。

「挺対協を作った者たち」の先頭走者だった尹貞玉のアジア女性基金にまつわっての有名な一節、「罪を認めない同情金を受け取ったら、被害者は志願して出て行った公娼になる」。すでに一部で問題にされて久しいが、実はこれは尹貞玉だけの認識ではなく、挺対協の内部で共有されていた可能性がある。慶煕大教授のチェ・ジンウォンによる次のような記述がある。

「尹美香は『ナヌム消息誌』(98年3月)掲載の『解決運動の過程と展望』で、『罪を認めない同情金を受け取れば、被害者は日本の政治家たちや右翼がこの間、言い捨てたように『志願して行った公娼』になるのであり、日本は免罪符を得る結果を招くようになるだろう』と言及した。尹美香のこうした主張は、『反日民族主義』で武装した運動組織の論理のために女性を純潔と貞操の対象とみなす『家父長主義的女性観』の典型と思われる。」(「『運動』に警鐘を鳴らす李容洙の絶叫」『プレシアン』2020年6月1日)

尹美香はあっさり見透かされているが、ここに浮き彫りになっているのも、「志願して行った公娼」に対する自覚なき蔑視である。そして私は別のところでも、同じような視線を感じたことがこれまで何度かあった。

たとえば、2004年9月23日に「性売買防止法」(「性売買特別法」)が施行された時のことだった。当の「売春」女性たちが防止法に反対し、生存権の補償を求めて大規模集会や激しいデモを敢行した。それは「誰も容易に想像できなかった。予測できなかった」(呉金スギ「ジェンダー・労働フレームと女/性労働者の再現」)事態だった。防止法の成立を牽引したのは、当時女性部長官だった池銀姫(「挺対協を作った者たち」の一人。女連の元共同代表。「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶財団」初代理事長)である。

池は、あるインタビューの中で、デモに参加した「売春」女性たちは業者によって「動員された人たち」であり「ストックホルム症候群」に陥っているのだと公言した(「『性売買特別法』制定の産婆役、池銀姫女性部長官」『新東亜』2004年11月号)。つまり池は、デモに参加した「売春」女性を「業者の操り人形」(鄭喜鎭「性売買をめぐる『差異』の政治学」『黄海文化』2005年3月)とみなした。日本の右派や『反日種族主義』の共著者である朱益鍾が「元慰安婦たちは運動家に『操縦』されていた」(『文春オンライン』2020年5月31日)と発言しているのと同じ発想、同じ論法であることに、女連も池銀姫も気づいていないようだ。デモを実行した「売春」女性の代表が女性部長官に面談を申し入れた時、池銀姫はそれを拒絶した。

「直接会って対話をしようという彼女たち[「売春」女性]の要求を女性部はついに聞き入れず、これによって彼女たちは『女性部解体』を要求するにいたる。」(朴李ウンシル「女性/左派政治の再模索」『進歩評論』2008年6月)

「志願して行った公娼」や「私は被害者ではない」と主張する「売春」女性のありようを、否定的にしかとらえられないところからくる蔑み。「慰安婦」問題にひきよせていうと、日本のアジア女性基金の「償い金」を受け取った元「慰安婦」は60名もいる。にもかかわらず、「挺対協を作った者たち」はアジア女性基金を、「法的賠償の回避のために作られた」として全否定している。そうすると、「償い金」を受け取った60名の元「慰安婦」たちはどういうことになるのか。池銀姫はこう話す。    

「[日本政府は]アジア女性のための平和基金[女性のためのアジア平和国民基金]を作って、折衷の形態で元『慰安婦』たちに4000万ウォン程度の慰労金[原文通り]を与えて適当に終わらせようとしたのです。挺対協は日本政府が公的な責任を回避しようとする手段だと結論づけましたが、元『慰安婦』の中には生活が苦しくてそれをもらいたいという方たちもいらしたのです。ですが、多数が受け取れば日本政府に公的責任を追及する運動を続けることが難しくなります。それで韓国政府が同じ金額を一時払いであげて、毎月の生活費を支給してくれという法律を作って請願しました。(略)被害者たちと運動を一緒にするのは本当に大変です。あまりに生活が苦しいので、正義の具現よりも金銭的な利害に陥る傾向があります。」(『新東亜』同前)

ここで「慰労金」(「償い金」のこと)という意図的誤訳(アジア女性基金への批判は自由だが、これは基金への賛否以前の問題だ)を女性部長官たる人間が口にしていることにも驚かされるが、元「慰安婦」たちへの上から目線がおおっぴらに表出されている。自分より年長の元「慰安婦」たちに失礼だと感じないのだろうか。「正義の具現よりも金銭的な利害に陥る傾向」を非難する何の資格が池銀姫にあるのか。韓国社会にあるのか。

②朴元淳のセクハラ事件

李容洙の告発から二ヶ月たった頃、2020年7月9日夜、日本でもネットやテレビに速報が流れた。「ソウル市長が行方不明、娘が通報=警察が捜索中」というものだった。

「朴元淳市長の娘が9日午後5時すぎ、『4~5時間前に父親が遺言のような言葉を残して家を出た。携帯電話も切っている』と警察に通報した。警察は朴市長の行方を捜している。」(連合ニュース)

日本経済新聞はこの段階で、「朴氏の元秘書が朴氏からセクハラを受けたと最近警察に訴え出ていた」ことを伝えていた。それから数時間後の7月10日未明、「ソウル市長 遺体で発見 自殺か」という速報が出た。

有力な大統領候補と目された人物の突然の失踪と自殺、そのうえセクハラ容疑となれば、それがどれほどのインパクトだったかは説明するまでもないだろう。

「朴元淳市長へのセクハラ告訴とその死によって、韓国社会は文字通り『衝撃と混乱』に陥った。」(『ハンギョレ新聞』2020年7月22日)

この日から、さまざまな問題が吹き出した。

朴元淳が遺体で発見された後、ソウル市は早々と「ソウル特別市葬」として、五日間の葬儀を取り計らうと発表した。その決定は「政府儀典便覧」によるとされ、「公共性が強い葬礼儀式」なのだという(同前、7月10日)。しかし発表から15時間後、ソウル特別市葬に反対し「静かに家族葬で執り行え」という青瓦台への国民請願は、30万人以上の同意を得(同前)、その後、50万人をゆうに超えた。

その一方で、一部の与党支持者によって、朴元淳を告訴した前秘書への二次加害が同時進行する事態も起こっていた。

「朴市長の死を被害者の責任にして、甚だしくは『身元暴き』をする二次加害まで発生し、被害者を保護しなければならないという声が女性界を中心に大きくなっている。」(同前、2020年7月10日)

「民主社会のための弁護士会」女性人権委員会は、7月14日に出した声明で次のように訴えかけた。

「朴市長の支持者、朴市長が所属する政党の人々、朴市長のいわゆる『側近』と呼ばれる人々は、自分たちが守ろうとしている朴市長の名誉は市長の行動の美化や被害者に対する非難の中にはないということを反芻し、二次被害を発生させうる全ての行為を即刻中止しなければならない。」(『Views&News』同年7月14日)

しかし二次加害は止まなかった。

「最近では、親与党の傾向がある、ある大学教授が、被害者が朴元淳前市長あてに書いた手紙だとして、被害者の実名を露出させたまま3通の手紙の写真を自分のフェイスブックに載せた。これは明白な『二次加害』行為だ。」(金亨俊、『女性新聞』同年12月31日)

同年12月29日の警察発表では、二次加害に関連して15人を起訴、6人を検察に送検、「告訴状」と題された文書の流布に加担した5人には「性暴行処罰法違反容疑」を適用したという(『中央日報』12月30日)。2021年9月にも、被害者の身元をSNSに公開した女性が裁判にかけられている。

さきの7月13日の告別式はオンラインで生中継され、朴の所属政党である「共に民主党」は「故朴元淳市長の安息を祈ります。あなたの意志を記憶します」と書かれた垂れ幕をソウルのあちこちに掲げた。被害者の存在は眼中にないかのような行為であり、当然のように批判が起きた。

「青瓦台、女性家族部、法務部はなぜ朴元淳ミートゥ疑惑に沈黙するのか」(『ウーマンタイムズ』2020年7月13日)

「被害者の苦痛を無視して街頭ごとに追慕の垂れ幕をかかげ、コロナの時局であるにもかかわらず巨大な葬礼をすすめて50万人の請願を軽く無視できるのが韓国の政治権力だ。」(ジェンダー政治研究所、同年7月15日)

その後も朴元淳死去の余波はさまざまに続いていく。

野党「正義党」の女性本部長・裵福珠は事件について、インタビューで次のように話している。裵は2018年、前忠清南道知事の性暴力事件に対処した「安煕正性暴力共同対策委員会」で、数年にわたり活動した弁護士である。

「被害者の訴えによれば、4年間、被害を経験し、ソウル市側に何度か助けを求めたり異動を要請したりしたというが、その要請がどういうラインで、どのように黙殺され被害が続くことになったのか、その過程と背景、直接連結している関係者が誰なのかを正確に明らかにすることが重要だ。(略)告訴当日の8日から朴市長が亡くなった10日までのタイムラインも具体的に明らかにされるべきだ。誰が、どのように、朴市長に告訴の事実を知らせ、どんな対話がなされたのか、死に至るまでの具体的な過程が示され、誰かが責任を負うべき部分があるなら責任を問わなければならない。特に告訴状の流出がどのように行われたのかについては必ず明らかにされなければならない。」(『ハンギョレ新聞』2020年7月22日)

本稿で取り上げようとしているのは、裵福珠が語っている中の「誰が、どのように、朴市長に告訴の事実を知らせ」たのかにまつわる事態である。

「今回の事件で特異な点は、元女性秘書が警察に告発した翌日に朴市長が死去するという急展開をたどったことだ。(略)元女性秘書を支援する社団法人『韓国性暴力相談所』の李ミギョン所長は13日の記者会見で、告訴と同時に朴市長に伝えられた疑惑を提起した上で『誰がこの状況で国家システムを信じて性暴行被害を訴えることができるのか』と訴えた。」(『読売新聞』2020年7月15日)

告訴の情報がほとんどリアルタイムで朴元淳に漏れていた経緯が最終的に明らかになったのは、2020年12月30日の検察発表においてだった。

被害者の弁護士である金在蓮は7月7日、中央地検に告訴状の件で電話した後、午後に韓国性暴力相談所の李ミギョンに告訴予定を告げるとともに、被害者の支援を要請した。要請を受けた李ミギョンは、韓国女性団体連合共同代表の金閔ムンジョン等に電話し、共同対応を提案した。翌8日、金閔ムンジョンは女連の常任代表である金英淳に電話した。金英淳はその「わずか10余分後の10時31分」、国会議員の南仁順に連絡する。南は「10時33分」にソウル市ジェンダー特補の林純伶に電話し、「朴元淳市長に関連して芳しくない話が出回っているようだが何かあったのか」と聞いた。

林純伶はすぐさま李ミギョンに電話し、「記者会見をするのか、法的な措置をとるのか、教えてくれないか」など内容を確かめようとしたが、李ミギョンは「どこで知ったのか」と問い返すだけで関連内容は話さなかった。このような電話が三度あったという。林純伶は正午頃、女連常任代表の金英淳と通話し、「秘書室職員の弁護士である金在蓮が女性団体と接触している」ことを聞き出し、午後3時頃、朴元淳市長に単独で面談して、「芳しくない話が出回っているが思い当たることがあるか」とたずねた。

その時、朴元淳は「そんなものはない」と答えたが、夜の11時頃、林純伶や秘書室長、企画秘書官等を公館に呼び出し、「被害者と4月の事件以前にメールをやりとりした事があるが問題となる素地がある」と話した。金在蓮らがソウル地方警察庁に告訴状を提出したのは午後4時30分。午後7時頃、警察庁は告訴の受理を青瓦台に報告した。

翌9日午前9時15分、朴元淳は秘書室長と会い、「被害者が女性団体といっしょに何かしようとしているようだ。公開されれば市長職を辞して対処する予定だ。告発が予想されるが、早ければ今日か明日にはマスコミに公開されるのではないかと思う」と話した。10時44分、「すべての方に申し訳ない」というメモを机の上に残して、朴は公館を出た。午後1時24分、林純伶あてに「どうやらこの波を私が超えるのは難しいようだ」というメッセージを送った。(以上の経過は『プレシアン』2020年12月31日、『連合ニュース』12月31日等によった。)

この検察発表により、「この間きちんと公開され整理され認定されなかった朴元淳前市長の死亡動機と経緯が解明された。これをもって被害者が明らかにしようとしていた被害が現実に存在したことが確認された」(「ソウル北部地方検察庁発表に対するソウル市長威力性暴力事件共同行動の立場」2020年12月30日)のである。 

告訴にまつわる被害者側の動きを、関係者ともいえるような人間がそれを加害者側に知らせる行為が不当なものであることは言うまでもない。『プレシアン』はこう書いている。

「林純伶は当時ソウル市長の特補だったが、以前は韓国性暴力相談所、韓国性暴力問題研究所などの女性団体で活動し、南仁順議員の補佐官もしていた。朴市長への『ミートゥ』暴露が準備されていることが推測される状況で、被害者側の動向を調べて朴市長に伝達したり伝達しようと試みたことは、ソウル市特補としてはさておくとしても、女性運動家出身としては不適切という指摘を受けてしかるべきだ。」

ソウル市ジェンダー特別補佐官というのは、ソウル市の女性政策を総括し補佐するものとして、朴元淳が2018年に新たに設置したポストだった。

記事は続けて次のように指摘する。

「しかし最も大きな非難は南仁順議員に集まっている。林特補への電話は『何かあったのか』とたずねるためだったと善意に解釈したとしても、林特補が現在ソウル市庁所属の公務員であることを勘案すれば、結果的に被害者側の動向を『加害者側』に伝達したことになる。南議員は現在、記者たちの電話をとらずにいる。」

また、女連の常任代表・金英淳にも、批判の目が向けられている。

「[南仁順議員は]朴前市長とは市民運動の時から近い間柄で『朴元淳系』とも評されている。その南議員に電話をしたのは、はたして被害者支援活動を手伝ってもらいたいという純粋な意図だったのかが疑われる。金英淳代表もマスコミの取材要請に応じずにいるようだ。」

289個の団体で組織された「ソウル市長威力性暴力事件共同行動」は、「女性団体代表が自分とつきあいのある国会議員に『金弁護士が李ミギョン所長に支援を要請した』ことを伝えた可能性を確認し即座にその団体を排除、それ以降、連絡を中断」(『連合ニュース』同前)させた。7月13日、告別式最終日に開かれた被害者側の初めての記者会見において、「告訴当日、警察の捜査状況が、ある種の経路で朴元淳側に伝えられていた」と話されているのをみると、女連は初発の段階で「共同行動」から排除されたようだ。前代未聞の出来事である。

3.二つの事件に通底するもの

2020年12月30日の検察発表から、5日後の2021年1月4日午前、女連の事務室が入っている「女性未来センター」ビルの玄関ドアに、大きな張り紙二枚がはられた。タイトルは「私は生きたい」。書き手は自分のことを女性団体で働いている「一番年下の活動家」と称している。

「内部で問題を提起することが不可能な権威的態度、位階秩序に対する問題意識を持てない代表者、職員たちをぞんざいに扱う行為が何なのかも知らない代表者、被害者に対する二次加害を行使する団体、はなはだしくは性認知感受性が完璧に不在の代表者まで、垂直的な位階秩序によって問題提起ができない雰囲気は女性団体連合が『朴元淳告訴』流出事態を招いた根本的な原因だ。(略)今の状況はあなた方の運動の行きつく果てがどこにあるのかを露わにしている瞬間だ。(略)同僚の活動家たちのように目が見えなくなってしまった状態でこの道を歩むとしても、その道は私が歩こうとしていた道になりうるだろうか。『先輩』活動家なのだと、その間さまざまな位階の中で後輩の声を封じたあなた方は、後輩たちの目を自ら見えなくさせた。」(『MKニュース』2021年1月4日)

「一番年下の活動家」は『女性新聞』の書面インタビューでは、金ジヨンと名乗っている。張り紙の全文を読むと、女性運動を志した者として押さえきれない怒りとやるせなさが吐露されている。権威に向かって手書きの張り紙を一人で貼り付けるこの行動力こそ、韓国の女性運動がいまだ底力をたたえていることの証左である。しかしそれはまた、韓国の運動が、ある不条理を抱え込んでいることを裏書きする。金ジヨンはこう続ける。

「既存の女性運動界は、女性運動界を持続的に批判してきた20~30代のラディカルフェミニストたちに烙印を押し歪曲してきた。女性運動界の人士たちはいまや女性運動界が運動を主導し引っぱっていく時代は過ぎたということを記憶し、20~30代の女性たちの批判の前に自己省察すべきだ。」(『女性新聞』2021年1月6日)

ここに書かれているように、女連へのさまざまな批判はこれまでにも出ていた。それは昨今の年若いフェミニストに限らない。たとえば鄭喜鎭は今から15年前の2006年、女連共同代表だった鄭鉉栢(後の女性家族部長官)へのインタビューの中でさりげなく、しかし毅然と述べている。

「女連の活動家たちのジェンダー意識に点検が必要ではないかと思います。」(「インタビュー・女性運動の中心に疑問符を付ける」『創作と批評』2006年秋号)

私は外から韓国を見ながら、90年代以降、女連に対するラジカルな批判が出てくるのは必然だと思っていた。その胎動がいつ始まるかに注目していた。しかし、これまで現れた大小の批判に対して、女連は自分たちの問題として深く受け止めようとはしてこなかった。断続的に現れる女連批判はいつも単発で終わってしまう。というよりも、単発的なものにさせられてしまっていた。広く議論にならないのである。つまり論理ではなく、文字通りの力関係だ。女連は権力というものに親和的である。制度を変えるには政治力が欠かせないことを知っているからだ。とはいえ、問題はその先にこそある。

今回の朴元淳事件については保守陣営を筆頭に、南仁順らが「陣営の論理で動いた」という批判が目につく。

「彼女たちは女性より陣営が大事だった。」(ユ・チャンソン「金英淳・南仁順・林純伶、朴元淳と同じ陣営で複雑にからみあう関係」『時事ジャーナル』2021年1月12日)

この「女性より陣営」という批判は直近では、2018年のミートゥ運動の際にも出ていた議論である。同じことが繰り返されているだけだ。金ジヨンは「政治圏との結託のない運動を」と言い、若い女性中心の「韓国女性政治ネットワーク」は論評を出して、「この20余年間の膠着した民主党と女性団体との間の利害関係の環に対する根本的な省察がなければ、女性団体活動や女性団体出身政治家の輩出がいかに活発であろうと、民主党と男性権力のアリバイになるだけ」(「親交と権力ではなく女性の人権の側に立つ団体への刷新を期待する」2020年12月31日)と主張する。「社会進歩連帯」(2021年1月8日)も次のように論じた。

「朴元淳市長告訴の事実の流出は、女性運動と権力の結託に対する憂慮がいつでも現実となりうることを示している。(略)女性運動の履歴を足がかりにして政治圏に進出する慣行、女性運動が政権の下位パートナー化する傾向と断絶すべきである。」

事態の推移に沿った批判だが、問題はその「政治圏との結託」なるものの、その淵源がどこにあるかである。

女連が結成されたのは、韓国が民主化される以前の1987年2月18日のことだった。軍事独裁政権下にあった彼女たちは、「全体変革運動と女性運動の関係をどのように設定すべきかについて悩んで」(『韓国女性団体連合10年史』[以後『10年史』と記す])きた。光州で人々を虐殺して成立した反民主的政権や、労働者を搾取する資本主義、南北分断の現実を不問にしたまま女性運動ができるのか、ということだ。そして、女連を含む民族民主運動(これが「陣営」と称されるものである)は、次のような結論にいたる。

「韓国社会の変革の課題を自主化、民主化、統一と定め、こうした政治的立場を共にする汎民主勢力で全体運動を組織することにした。そして労働者、農民、女性、青年等、各集団の運動は部門運動と規定し、全体運動に服務しつつ自分たちの独自的課題を日常活動のなかで大衆運動として展開すると整理された。」(同前)

以後、女性運動は「民族民主運動の一つの部門」というフレーズが繰り返されることになる。

「正しい評価をするためには個々の活動に対する具体的な評価とともに、全体運動の一つの部門運動としての女性運動という観点から評価が下されなければならない。」(女連機関誌『民主女性』1987年9月)

「87年以後、女性運動は変革的社会運動の部分運動として定立された」(李承姫「韓国社会における女性問題の展開と性格」1990年3月。李は女連の元政策室長)

しかしこのフレームは、いっとき挫折を余儀なくされる。冷戦が崩壊したからだ。「全体」と信じられていたものが解体した。こうして「女性問題の核心を階級に置き、女性運動を全体社会運動の部門運動」(張ミギョン『韓国女性運動とジェンダー政治』)と位置づけた女連は徐々に「方向転換」しはじめる。

「1992年以後、全体としての民族民主運動の組織体である『民主主義民族統一全国連合』には加入せず、一時的に非常に具体的な事案で組織された共同闘争体にのみ加入した。」(『10年史』)

すなわち「女連の市民運動への方向転換」(韓国女神学者協議会『女神協20年の話』)である。しかし『10年史』では注意深くこう表現される。

「1990年代に女連は民族民主運動の課題を遂行したが、やり方は圧力団体あるいは市民運動的方式をとった。」 

「全体としての民族民主運動」から離脱はしていない、という含意である。ここでいう「民族民主運動の課題」というのは南北統一を指す。「自主化、民主化、統一」のなかで、1987年の民主化達成後の韓国社会で急浮上したテーマが南北統一だった。そしてその「課題を遂行した」として挙げられているのが、「南北女性交流」と「日本軍慰安婦問題」である。

「民族民主運動論が方向性で揺らいでいる1990年代に、女連は新たに開かれた制度政治の空間において(略)南北女性交流と日本軍慰安婦問題の提起という大きな歴史的事件を作りあげた。」(同前)

「南北女性交流」というのは、女連初代会長の李愚貞が、日本婦人会議の清水澄子に働きかける形で端緒が開かれた、「アジアの平和と女性の役割」という一連のシンポジウムのことである。東京で開催された第一回会合に、北朝鮮と韓国の女性代表が分断後はじめて同席し、その後、ソウル、平壌、東京と、計4回開催された。女連元共同代表の韓明淑(女性家族部初代長官、初の女性国務総理)はこう書いている。

「この二つの討論会を通した南北女性の歴史的な出会いは南と北の女性たちが暖かい姉妹愛と統一運動における女性の役割の重要性を全ての人の脳裏に深く刻みつける契機となり、韓国女性の統一・平和運動の貴重な踏み石となった。」(同前)

韓明淑はここで「この二つの討論会」と書いている。『10年史』(1998年)に収録されている「女連沿革」でも、東京での二度のシンポジウムは省かれている。2000年代前半、当時の女性部[現在の女性家族部]のホームページに載せられていた年表でも、二度の東京開催は省かれていて、私はそれを見た時ひどく驚いたことを鮮明に覚えている。シンポジウムは清水澄子をはじめ、日本の女性たちの朝鮮民族への贖罪の思いと真摯な協力なくして成立しえなかった。軽くみるべきではないだろう。

故李効再が次のように語っているのは、韓国側のそうした「情緒」の一端をかいま見せているようにも思われる。とはいえ、日本人たちもよく分かっていたと思われる。

「離婚した人が再結合する時に仲立ちする人が必要なように、自分たちがその役割をすると言いました。問題は、私達どうしで会わなければなりません。日本の役割も重要ですが、私たちだけで会って、本当に統一のために、民族和解のために、女性たちがどんな役割をはたすべきなのか、今後議論しなければなりません。」(「北韓訪問、女性代表たちとの出会い」『哲学と現実』1992年12月)

1992年9月1日から始まった平壌での第三回シンポジウムで、北と南は「従軍慰安婦問題への共同対処に合意」(『韓国日報』1992年9月14日)し、それは「歴史的正義の樹立」をめざすものとされた(『女性新聞』同前)。シンポジウムで発言された北朝鮮側の意見は次のようなものだった。

「日本当局と南朝鮮当局は、基金という言葉を持ち出して、事実を覆い隠し葬ろうとしています。私たちはこれに対して警戒心を高めなくてはいけないと思います。(略)女性たちは日本に謝罪と補償をさせる行動をとらなくてはいけないと思います。」(金日成総合大学講座長・崔今春、『ピョンヤンセミナー報告集』) 

つまり「慰安婦」問題については、北朝鮮側と韓国の女性運動団体は同じ見解を持っていた。「歴史的正義の樹立」という金科玉条。だからこその「共同対処の合意」であり、その「合意」が破棄されないかぎり、挺対協であれ正義連であれ、その言動は「共同対処」の枠内での動きとなるだろう。次の第四回東京シンポジウムは「挺身隊問題に集中した」ものとなった(李美卿「南北女性交流の現況と展望」『女性と社会』4号、1993年4月)。 

結論的に言えば、統一運動という範疇の中に「日本軍慰安婦問題」が位置づけられてしまったところに、運動が迷走する一つの原因がある。アジア女性基金から償い金を受け取った60人の元「慰安婦」たち、2015年の日韓合意に基づく「和解・癒やし財団」からの支援金を受け取った35人の元「慰安婦」たちを、平気で無視、否定する韓国サイドの態度はここから出てくるのではないか。

そうでなければ、当時、生存する47人のうちの35人が「合意」を受け入れ、遺族71人が受給を希望した(『朝日新聞』2019年6月9日)にもかかわらず、尹美香が青瓦台に連れてきた8人の元「慰安婦」にむかって、文在寅大統領が「おばあさんたちの意思に反する合意で申し訳ない」(『日本経済新聞』2018年1月4日)と謝罪し、「被害者の意見を十分聴かないまま合意した」として日韓合意を全否定する不合理は理解できない。

「女性は日本を許せないとしつつ、日韓合意について『安倍首相が(責任を)認定し、間違っていたと語り、お金を出すと言っている。私は良かったと思う』と、お金を受け取って残る人生を平穏に過ごしたいと語った。」(「日韓合意を評価する元慰安婦も」『東京新聞』2016年8月15日)

どうしてこういう元「慰安婦」を、韓国社会は受けとめることができないのだろうか。鄭柚鎮が言うように、「韓国社会が被害者の言葉を聞く準備ができていない」と考えざるをえないのだが、しかし一方でそれは徐々に整いつつあるのかもしれない。

「異なる意見を表明した被害当事者たちを運動から疎外し分裂させることによって、運動の主体として成長させられなかったという批判から免れない。被害生存者たちである『むくげの会』の会員たちの声を意図的に排除し、生存者たちの独自の路線を認めなかった。被害生存者たちの当事者性を無視して議題を独占し、彼女たちを『内部植民地化』しなかったか反省すべきだ。」(ソウル障碍者父母連帯前代表・朴イニョン「李容洙活動家の『苦痛の証言』その意味を再考する」『プレシアン』2020年6月3日)

「少女像のような単一のイメージに閉じ込めず、『慰安婦』生存者の多様な声に光をあてる言論が必要だ。(略)慰安婦問題を研究してきたある専門家は、今回のことを契機に『主要団体と異なる声をあげている被害者の発言を同等な位置で受容し討論する必要がある』と述べた。」(「顔をそむけ歪曲する韓国最初の『ミートゥ』」『ハンギョレ21』2020年6月26日)

「女性家族部で働いている時、主要業務の一つが慰安婦被害者の支援だった。在職している間、週末などを利用して、生存しておられる元慰安婦の皆さんにお会いした。(略)会って感じたのは、おばあさんたちは慰安所に引っ張られて行く時はもちろんのこと、数十年がすぎた今も国家や社会からきちんと保護されず、陣営の論理によって利用されているということだった。関連部処の公務員たちは皆、慰安婦問題は『うまくいかない時には損をする』と考えて取り組もうとはせず、市民団体は聖域化されて誰も問題提起できなかった。」(金在蓮、『朝鮮日報』2021年4月17日)

最後に引用したのは、朴元淳事件の被害者の弁護士・金在蓮の証言である。金在蓮は女性家族部にいた時の関連から、2015年の「日韓合意」により設立された「和解・癒やし財団」の理事をつとめた。その履歴ゆえに、金は2018年のmetoo運動を触発した徐志賢検事(検察内のセクハラを暴露)の弁護士を一週間で辞退せざるをえなくなったという。金と徐志賢は同じ大学の同期だった。

女連の、あの80年代的問題意識からひも解けば、「全体」とは「南北統一」であり「部分」は「日本軍慰安婦問題」となる。

「鄭鉉栢[元女連共同代表]も、分断克服と統一の課題のためにも軍慰安婦問題において民族主義に対する考慮は必須だと見ている。」(呉張ミギョン「韓国女性運動と女性内部の差異」『進歩評論』2004年夏)

1995年、女連主催の座談会に出席した尹美香は、肩書は「韓国挺身隊問題対策協議会事務室長」となっているが、文中では「平和統一運動で先頭に立って活動してきた女性活動家」の一人と紹介されている(「朝鮮半島の平和定着と統一のための女性運動の役割と課題」『民主女性』1995年4月)。さらに2013年には、金大中元大統領も受賞した「民族の和解と統一に貢献した人物に授与される」というヌッポン統一賞を受賞している。受賞理由は、「何よりも南北関係が厳しい時に民族共同の利益を掲げて連帯に進み出たことを高く評価した」(『ネイル新聞』2013年4月1日)と説明されている。

「挺対協が慰安婦を利用したことは絶対に許せない」(『朝日新聞』2020年5月25日)、「何の権利があって慰安婦被害者を利用するのか」(『女性新聞』5月25日)、「私たちをなぜ売り飛ばしたのか」(『ハンギョレ新聞』6月6日)という李容洙の叫びは、元「慰安婦」を「部分」とみなし「全体に服務」すべしと勝手に位置づけられたことへの抗い、と私は読んだ。

4.女連と正義連の「刷新」の試み

①正義連の「刷新」

2020年5月7日の李容洙による最初の告発から四日後、正義連は「運動の方向と関係を再設定する機会を設ける」(『ハンギョレ新聞』5月11日)と、すばやい対応を見せた。元「慰安婦」たちが高齢になってきていたことから、今後の運動のあり方への模索はすでに始められていて、場面の転換に、ある程度の見通しを持っていたのではないかと思われる。

「国内の市民社会団体や研究者は、日本軍『慰安婦』被害者たちが亡くなった後の慰安婦運動と歴史研究を準備している。」(「被害者のいない『慰安婦運動』の時代がくる」『京郷新聞』2019年3月5日)

翌6月、正義連は「省察とビジョン委員会」を組織し、「運動の過程でいたらなかった部分を省みながら運動初期の精神を継承するための努力を行っている」と話したことが報じられた(『連合ニュース』2020年8月5日)。8月12日、公表された『委員会報告』は短く、4回開かれたという会合でどういうやり取りがあったのか等はいっさい分からない。基本的に、自分たちのやってきたことは正しかったというのが基調である。

「議論の過程で、水曜デモを始めた時に提示した『日本政府の犯罪認定、真相究明、公式謝罪、法的賠償、責任者処罰、追悼碑と資料館の設立、教科書への記載と歴史教育』という7つの課題は依然として未解決の状態で残っていることを確認しました。また日本軍『慰安婦』問題を日本帝国主義の植民地支配責任、戦時性暴力、武力紛争と軍事主義、日常の性搾取問題、女性の人権や平和の重要性と結びつけようとした正義連の問題意識も正当だったことを改めて確認しました。被害者たちの尊厳と名誉を根こそぎ揺るがす反歴史的、反人権的な行動が容赦なく続いているため、この運動の意味が毀損されてはならないという事実も再度、確認しました。」

「正義連の問題意識も正当だった」とサラッと書いているが、それでは何のための「省察」なのか。言うまでもないことだが、「この運動の意味が毀損されてはならない」という大義名分が、自己正当化につながるようなことはあってはならないだろう。

『報告』に李容洙の名前が出てくるのは一か所。

「歴史をただすために未来世代の教育にもっと関心を向けなければならないという李容洙さんの心配と苦言を深くかみしめています。」

そしてこの後すぐ、「以上のような診断を前提に」議論をしていくとあり、五つの「具体的目標」が掲げられる。日本政府批判を続ける、未来世代のための教育コンテンツを作る、後援会の構造を改善する、世界的な女性平和運動に発展させる、全国を巡回する傾聴懇談会を開催する、というものである。一瞬、強行突破という単語が私の頭をよぎった。

「省察とビジョン委員会」の最終的な『活動結果報告』が発表されたのは2021年2月3日。最初の『委員会報告』と同じ趣旨のものだと言える。メインの主張としては、「世界市民とともに日本軍性奴隷問題と紛争下の女性人権侵害および性搾取問題を解決し記憶するうえで先頭に立つ、女性、人権、平和運動の国際的プラットホームになることを提案」したというところかと思われたが、これはその大枠の構想が鄭鉉栢や金昌録らによってすでに提唱されてきた。「提案」と書かれているが、13人の委員のうち、李娜栄を含む正義連の現・元の役職者が少なくとも4人いる。

正義連に「省察」を促すことになった李容洙は『活動結果報告』について問われこう答えている。

「話だけ聞いて、直接見たりはしなかった。」(『京郷新聞』2021年2月16日)

この『活動結果報告』に対する韓国社会の反応はほとんどないに等しく、それが何を意味しているのかは分からない。さほど長文でもない『活動結果報告』はきれいにパッケージされているが、李容洙のあの複雑に屈曲した問いかけや、今回のことをきっかけに表面化したさまざまな批判はスルーされている。

その批判について、尹美香らはもっぱら「親日、反人権、反平和勢力の不当な攻勢」などと言っているが、事実認識が偏っている。「進歩派」からの厳しい批判が無視できないほど存在するのを知らないはずがない。

それにしても、こういうやり方、元「慰安婦」の必死の異議申し立てをほとんどはぐらかすような形で、韓国の市民運動というものが移ろっていくことへの違和感にはぬぐいがたいものがある。李娜栄は「尹美香前理事長個人のことと正義連は分けて対応する」(『朝日新聞』2020年9月24日)と言うが、正義連は自分たちの運動に「正義」というまがまがしい単語をかざしていることに、もう少し繊細であるべきではないか。

私は正義連のこうした処理のしかたを見ながら、ある胸騒ぎ、ある既視感を覚えた。自分たちに批判が向けられた時の女連の処し方を彷彿とさせるのである。金ジヨンが貼り紙に書きつけた「問題を提起することが不可能な権威的態度」。 

それから半年後、韓国政府制定の国家記念日「日本軍『慰安婦』被害者をたたえる日」の前日、正義連主管の「金学順公開証言30周年記念国際学術大会」が開かれている最中に突然、李娜栄のインタビュー記事が『産経新聞』(8月13日)に掲載された。その中で2015年「日韓合意」についてこう話している。

「謝罪内容が不透明で法的責任を認めず、奇襲のように大臣同士で会見を行ったことが問題だった。(略)正直に言えば、被害者の立場で考えれば加害者の誠意ある謝罪が、(加害者処罰や金銭的賠償などの)法的手続きよりも重要ではないか。」

「誠意ある謝罪が法的手続きよりも重要」という、これまでの正義連の主張を180度くつがえすような発言である。この「日韓合意」について、李ユミ(「社会進歩連帯」事務処長)は、李容洙の告発を注視しつつ、「慰安婦問題と正義連運動の争点」(『社会進歩連帯』2020年9月)で次のように指摘する。

「慰安婦問題において、被害者たちの苦しみや苦痛を治癒することよりも『民族の被害を補償する』脈絡を優先し、『法的責任』という謝罪・補償の形式に執着するようになった。しかし現実的に日本に法的責任を強いる経路が不在である。正義連は『女性のためのアジア平和国民基金』よりも進展した側面がある2015年の韓日合意を、法的責任を認めていないという理由で無効を主張する。他の対案を提示できないなら、それは無責任な態度と言わざるをえない。また『法的』形式だけが被害者を治癒するものではなく、謝罪・補償の形式に対する被害者たちの立場は一致していないという点を考慮せざるをえない。」

正義連の認識を俯瞰するこうした視点が韓国に存在することは注目される。そしてこの地点で、和田春樹、内田雅敏、岡本厚ら、日本の知識人たちが発信した声明(2021年8月14日)が思い起こされる。

「2015年日韓合意の核心は、日本国総理大臣が『政府の責任をみとめて謝罪』したこと、謝罪のしるしとして『政府予算により、すべての元慰安婦の方々の心の傷を癒す措置を講じる』ことでした。(略)菅総理は、日韓合意を尊重、継承するというなら、日本の総理大臣の謝罪の手紙を慰安婦被害者に届けることを、今からでもやるべきです。」(「2021年夏、日韓関係の現状についての私たちの見解」)

文在寅大統領は同年1月の新年記者会見で、2015年合意を正式な「政府間合意」と認め、続いて発表された韓国政府見解では、次のように述べられている。

「韓国政府は、日本に対して政府レベルでいかなる追加請求もしない方針だが、被害当事者たちの問題提起を止める権利や権限を持っていない。慰安婦被害者らと相談して円満な解決に向けて、最後まで努力するが、日本も自ら表明した責任痛感と謝罪・反省の精神に基づいて、被害者たちの名誉・尊厳の回復と心の傷の治癒に向けた真の努力を見せなければならない。」(『毎日新聞』2021年1月30日)

すなわち日韓の間には、今なお、「双方の努力で合意の精神を高めていく可能性」(和田春樹らの声明)が存在している。

ここまで書いてきて、状況が動き始めた。本年2022年1月25日、与党「共に民主党」が大統領選挙を前に、党の刷新案として、「尹美香の国会議員除名」を進めると発表したからだ。世論を意識せざるをえなかったのだろう。それに対して正義連などが反発し、2月2日には「挺対協第一世代の先輩たち」18名が声明「尹美香国会議員に対する国会除名の推進をただちに止めて下さい」を発表したりしている。

さきの「挺対協を作った者たち」の声明(2020年5月)と比べると、最初の声明には加わっていなかった李美卿の名が見える。女連と慰安婦問題について語ろうとすれば、かつて挺対協広報委員長、女連共同代表をつとめていた李美卿は外せない人物であり、最初の声明に李の名前がないことはすぐに気づいていたがあえて言及しなかった。李は現在「共に民主党」議員であり、2021年1月に出帆した国会議長傘下の性平等諮問委員会委員長である。

一方、本稿で印象に残った発言者の一人として紹介した申恵秀の名前はない。

5.女連の「刷新」

朴元淳が自死した2020年7月10日、女連は短い声明を出した。

「女性たちの勇気ある証言が性平等な世の中に向かう変化と省察を作ってきました。(略)韓国女性団体連合は自らの被害の経験をあらわにした被害者の勇気を応援し、その道を共に進みます。」

これまでの女連の調子とは明らかに違っており、朴元淳事件に女連幹部が関係したことをこの時点で知っていたことがうかがえる。

同年12月29日、ソウル地方警察庁は朴元淳に関連する捜査結果を発表した。

朴市長は死去により公訴権が消滅、セクハラほう助の疑いがあった副市長や秘書室長ら7人は証拠不十分で不起訴。これに対して「ソウル市長威力性暴力事件共同行動」は、「警察は初めから予想されていた『公訴権がない』ということを繰り返し、混線を増大させ、結局、隠蔽・回避を望んでいる勢力が思い通りに歪曲して話ができる素地を提供した」(「立場表明」)など批判を前面に出した。

翌30日にはソウル北部地方検察庁が、告訴事実流出疑惑の捜査結果を発表した。「共同行動」は「沈黙し隠蔽した巨大な不正義」への怒りとともに、次のように書いた。

「われわれが明確に確認できたのは、朴元淳市長は自ら知っていたということである。被害者が誰なのかを彼は知っていた。問題となる行動を自ら思い出した。該当行為の時点も認知した。該当行為が性暴力でありうることを知っていた。市長職を投げ出さなければならない事であることを知っていた。対処しようとしたが対処できず、越えがたい波高であると判断した。」(「立場表明」)

前述したように、この検察発表により、女連幹部が告訴事実の流出に関与したことが公的に明らかにされた。女連は同日、「韓国女性団体連合の立場」を発表した。

「今日、発表された検察の捜査結果において言及された女性団体代表Dは韓国女性団体連合常任代表であり、彼女によって『事件の把握関連の約束日程』が外部に伝えられました。これは反性暴力運動において非常に重大な問題です。女性連合は、被害者との十分な信頼関係の中でともに事件を解釈し活動を展開しなければならない団体としての責務をはたせなかったことについて、責任を痛感しています。」

そうして「責任をはたすための手続きを進めて」いるとし、それは翌年1月14日の女連定期総会で明らかにされた。金英淳常任代表の不信任と「女連革新委員会」の構成が議決されたのである。

「女性連合は今回の事件に対する原因と背景を徹底的に診断し、女性連合運動に対する総体的な点検と評価、省察を通して革新しようと思います。(略)今後、女性連合は、活動及び組織に対する身をけずる省察と革新をとおして、持続可能な性平等社会の実現という女性連合の使命に符合する組織に生まれ変わります。」(「第35次韓国女性団体連合定期総会開催結果」)

私が本稿を書こうと思ったのは、このペーパーを見た時だった。女連の内部から変化の可能性が出てきた今、書かなければ意味がないと思った。

1月25日、韓国の独立機関である国家人権委員会は、前年7月から進めてきた調査結果を発表し、朴元淳事件について「セクハラに該当する」と認定した。

「通常、市長室の女性秘書は整った外見で未婚、経歴が短く花のような女性公務員たちが担当した。・・誰が見ても、若い女性たちが雰囲気を漂わせる事務室の花の役割を担うことを期待する構造であることは否定できない。業務の処理を中心に考えると納得しがたいこの人員配置は故朴元淳市長の在任中ずっと続いた。もちろんそれ以前から始まっていたからだ。(ソウル市長威力性暴力事件共同行動の出帆記者会見で代読されたソウル市公務員の発言)」(『ハンギョレ新聞』同年1月26日)

『ハンギョレ新聞』は同日の社説のタイトルを、「人権委員会も『朴元淳セクハラ』、いまや『消耗的議論』」とした。セクハラかどうかをめぐる議論はもう結論が出たということである。ところが、同じ日の紙面に、今度は革新系野党・正義党の金鍾鉄代表が、強制猥褻で役職を解除されたことが報じられた。

3月8日、毎年女連主催で行われていた「国際女性デー」の行事は中止され、声明で「革新委員会」が出帆することが告げられた。共同委員長は権金炫伶(女性学研究者)と権スヒョン(ジェンダー政治研究所代表)の40代の二人。二人について『報道資料』では「この間、女性連合の活動に批判的意見を堅持してきた人物」と説明されているが、『女性新聞』(3月8日)では「『ヤングフェミニスト代表体制』の革新委員会」、「革新のキーを握った40代ヤングフェミニスト」と報じられた。その他の16名の委員の分布も「位階秩序」とは無縁なものになっている。女連はヤングフェミニストに座を譲り渡したようだ。

5か月後の7月29日、「革新案」が発表された。女連の新たな出発を強く印象づけたのは事件の命名力である。

「金英淳女性連合代表―南仁順国会議員(女性連合前代表)の性暴力被害者支援情報流出事件」

曖昧にしようと思えばいくらでもできたはずだが「事件の性格を明確に規定」しようとした。金英淳は「正義連」理事でもあったが、すでに全ての公職から退いている。二人の共同委員長はこう説明した。

「事件の命名に関連者の名前を含ませるかどうかで論争があった。間違いを犯した人の名前を明示することは必要だという話があり、情報を流出した人だけでなく情報を受けた南仁順議員を併記することについても議論がゆきかった。南議員は『被害を訴えている人』という表現を使う等、事件直後の態度が不適切で、先輩女性運動家としてかなり失望する行動をした。そのため、二人の名前をともに明示し女性連合代表と表記して事件の構造的な連結性を現わすべく意見をまとめた。」(『女性新聞』8月8日)

そして、二つの文書「ソウル市長威力性暴力の被害者に謝罪いたします」「地域女性連合・会員団体に謝罪いたします」および、事件の再発防止のために組織の構造を変える(3人共同代表制から13人の共同代表団制への変更等)など、革新案の骨子が示された。

8月22日、二人の委員長へのインタビューが『京郷新聞』に載った。これを読むと、40代のこの二人が「ヤングフェミニスト」と称される所以が分かる。女連を担ってきた上の世代とは言葉の文法が違う。別の表現をすれば、80年代の民主化闘争やあの時代の雰囲気を直接には知らない世代なのだということが了解できる。南仁順議員に対する批判は手厳しい。

「南議員は『共に民主党』ジェンダー暴力根絶対策TF団長であったにもかかわらずその役割をはたせなかっただけでなく、党内の支持者たちが使った『被害を訴えている人』という言葉を通して、事実上、二次加害を幇助する結果になったと評価しました。(略)決定的瞬間に女性運動の共同資産をゆがめてしまった点で絶望的でした。」

しかし、このインタビューで注目されるのは、次の発言である。

「国家の政策というものが『強制的な異性愛制度』になりました。女性が出産する身体でないなら差別してもかまわないということを露骨に国家政策として話しているじゃないですか。性平等についてきちんとした声を出さなかった結果、わたしたち皆がこんな扱われ方をするんです。」

これまで女連は存在したが「性平等についてきちんとした声を出さなかった」と話している。「革新委員会」が「女性運動理論と方法論の革新」を課題の第一にあげた背景にある観点だといえる。

ヤングフェミニストたちが女連を批判しはじめたのは、90年代半ばからだった。もう25年以上も前になる。その時、若い女性たちは次のような現実に気づいた。

「『進歩』を標榜する社会運動が実際は非常に家父長的」(チョン・ヒギョン、『延世女性研究』6号、2000年)

なかでも、前述した「女性運動は全体運動の部分運動」という女連の定立にヤングフェミニストは反発した。

「わたしたちは依然として『基本矛盾/副次的矛盾』『中心運動/周辺部運動』『全体運動/部門運動』という、これまでの位階的関係枠を受け入れなければならないのか?」(同前)

「こうした運動の位階の中で、女性運動は周辺化されるだけでなく、『全体運動のために服務しなければならない義務に忠実なときにだけその重要性が認められる』従属的状況に置かれるようになる。」(全希景『オッパは必要ない』)

こうした批判は「事実」ではあるが、「全体/部分」という考え方に私がこだわるのは、ヤングフェミニストたちとは別の角度からだった。自分でその問題を追っているうちに、ヤングフェミニストの問題意識の存在を知ったというのが順序だった。

「民族民主運動の部門運動」という問題意識は、あの軍事独裁の時代に生まれた。軍事独裁を正当化することはほとんど不可能だったなかで、女性運動を「部分」と位置づけることを、批判することはできても否定することはできない。政権批判をするためには命をかけることを覚悟しなければならなかったあの暴力の時代に、80年代韓国のフェミニズム思想だけで闘うことは可能だったのか。そして、それはまた有効でありえただろうか。

問題は、民主化達成後、冷戦崩壊後の90年代にある。マルクス主義が席巻した80年代韓国の運動圏のなかにあって、冷戦崩壊をへてなお女連の中心部は深い挫折を免れた。いったいそれは何を意味するのか。女連は80年代的問題意識を象徴する「全体と部分」に代わって、90年代に入ると「共に、また別に」というフレーズを使うようになった。しかし「ある時は一緒に、ある時は別に運動する」というありかたは、女連の前史ともいえる女性平友会(1983年結成)の初めからの路線だったはずだ。そうでなければ進歩をかかげる女性団体を独自に作った意味がない。冷戦崩壊後に「部門運動」というフレーズは女連の表向きの言説からは消えた。しかし消え方がおかしい。女連は原初の問題意識を放置したまま今日まできている。 

以前、韓国の図書館で、80年代末頃に女子学生が書いた修論や博士論文を読んでいて、学生運動のなかで性的暴力をうけたという事をなにげに潜ませて書かれていることに気づき、一瞬、息をのんだ。そうした論文は1つだけではなかった。梨花女子大教授の趙順慶・金恵淑が「民族民主運動と家父長制」を、1995年に初めて書いた背景にはそういうこともあったのではないかと私は推察している。

しかしこの時も女連は動かない。「部分」を主張していた女連には、「全体」だと規定した「民族民主運動の家父長制」に責任を感じなければならないはずだ。しかしこの論文に敏感に反応したのは、女連ではなく趙韓恵浄だった。

女連を乗り越えようとするとき、フェミニズム的観点の弱さ、不十分さの指摘だけでは届かない。女連の第一世代は、韓国のフェミニズムの土台を文字通り作り上げてきた人々であり、いわば確信犯なのである。運動圏のなかで性的暴力が存在していたこと、「韓国進歩派の家父長制」など知らないはずがない。1984年に発足した民主化運動青年連合の女性部が、課題として最後に「民主化運動勢力の内部にも温存されている女性差別の現実を打開するために絶えず努力する」(「女性部発足に付して」)を掲げたのもそのためだった。

80年代における韓国女性運動の勃興は、第一世界のフェミニズムを批判することから始まった。鄭鉉栢はこう書いている。

「しかし西欧の新しい女性運動は微視権力に対する批判と日常の対案的実践にとらわれ、政治的影響力は弱化したと批判された。小さい組織を通した活動や私的世界の改革に夢中になって、国家による巨視的改革のパートナーになれなかった」(「再びフェミニズムの歴史を書く」『女性新聞』2017年1月23日)

ここで言われている「西欧の新しい女性運動」というのは、「1968年に学生運動の大激変の中から新しく登場した運動」のことであり、日本でいえばウーマンリブを指す。それらを失敗した運動とみなしたのである。そういうこともあって、80年代に書かれた女性運動関連の文章には、日本語文献はまったくといっていいほど引用されていない。進歩的女性運動がシンパシーを示したのは、第三世界の女性運動だった。けれども、80年代に韓国経済が成長をとげ、第三世界といわれる国々に、今度は韓国企業が進出しはじめ、現地で問題になったりした時、女連はほとんど何も言わなかった。

前述した女連の90年代初頭の「方向転換」については、『韓国女性団体連合10年史』では少し触れられているが、『30年史』では記述そのものがない。当時、「方向転換」をするにあたっては二年をかけて内部で話し合われたという。この歴史に中途半端に蓋をしたままで「女連の革新」は成立するだろうか。

*      *      * 

朴元淳の自死に、「ある時代の終わり」を感じとった人が多いように思われる。時事評論家のユ・チャンソンは、「一つの時代が、一つの世代が、去りつつある」(『オーマイニュース』2020年7月15日)と書き、李ジンソン(市民運動家)は「朴元淳の悲劇的な退場に接し、一つの時代の終末を見る」(ハンギョレ新聞、2020年8月4日)と書いた。千政煥(成均館大学教授)は次のように語っている。

「故朴元淳市長は、いわゆる『民衆から市民へ』の時代、90年代以後の中産層/市民/運動を象徴する存在でした。実に多くの業績と同志を持っていた朴元淳自身にとって、残った者たちにとって、あまりに辛く無責任なあの自殺は明らかに、ある象徴です。あの死は廃墟、いや、粉になったも同然の『進歩』と『(市民)運動』の象徴そのもの、あるいはそれを増幅するようで心配されます。『チョ・グッ事態』から正義連をへて今日まで、あの『市民』と、あの『民主化』は、もう引き返すことができない臨界点を迎えたように見えますが、この危機の後をどんな運動と主体が埋めるのかはよく見えません。」(『redian「アーカイブ」』2020年7月16日から再引用)

本稿のタイトルに使った「臨界点」という言葉は、もとより千政煥のこの文章を見る前につけていた。

プロフィール

李順愛

1953年生まれの在日朝鮮人二世。2000~2005年、富山国際大学人文社会学部助教授。現在は早稲田大学朝鮮語非常勤講師。著書に、『戦後世代の戦争責任論』(岩波ブックレット、1998年)、『二世の起源と「戦後思想」』(平凡社、2000年)。編訳書に、『分断時代の韓国女性運動』(御茶ノ水書房、1987年)、『分断克服と韓国女性解放運動』(御茶ノ水書房、1989年)、『白楽晴評論選集』(同時代社、1992年)等。

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