2022.05.24

大草原の収容所における反乱事件――ソ連収容所群島の終焉

味方俊介 国際

国際

はじめに

2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻開始から24日で3ヵ月となる。ウクライナ軍の激しい抵抗を受け戦争は長期化の様相を呈しており、ウクライナ南東部マリウーポリのアゾフスターリ製鉄所では多くのウクライナ人が立てこもり、圧倒的な火力のロシア軍に対して80日にわたり絶望的とも思える抵抗を続けた。このマリウーポリでの目を覆いたくなるようなロシア軍の攻撃の様子と、それに対しても祖国と自由のため頑強に戦うウクライナ人の姿を見て、68年前にカザフスタンで起こったある反乱事件が思い起こされた。

カザフスタンはウクライナ同様、かつてソ連を構成する共和国の1つだった。ソ連はロシアやウクライナ、カザフなど全土に多くの強制収容所(ロシア語でラーゲリ)を設置し、日本人やドイツ人など敵国の戦争捕虜や民間抑留者のみならず、自国のロシア人やカザフ人、ウクライナ人、バルト人など多くの政治犯を強制収容していた。そのソ連の収容所群島の1つ、カザフ中部の広大なステップに置かれたある収容所でも、ウクライナ人は自由のため連帯してソ連当局の抑圧に抵抗し、圧倒的な火力を持つソ連軍と戦ったのである。

私はカザフスタンにおける日本人抑留問題を研究していた過程で、2010年にその事件の現場となった収容所跡を調査し、幸運にも事件の生存者の方を取材する機会に恵まれた。当時はあくまで日本人抑留問題の調査が目的だったが、現在ウクライナで繰り広げられている、外敵から自由を守ろうとするウクライナ人の闘争を理解する上での一助になればと考え、当時聞き取りをした事件生存者の証言やその他複数の生存者の手記、公文書などの記録をもとに、その反乱事件について書き記そうと思う。

カザフスタン中部のケンギル(現在のジェスカズガン市)

ケンギル収容所

1953年、全ソ連で圧政を振るった独裁者ヨシフ・スターリンは既に亡く、ソ連による過酷な「シベリア抑留」を生き抜いた日本人抑留者たちの多くが祖国の地を踏んでいた頃、一部の日本人抑留者たちはまだ他国の捕虜や囚人たちとともに強制収容所に留め置かれていた(特務機関員や憲兵隊員、情報将校などスパイ罪で裁かれた抑留者が多かった)。

カザフスタン中部のステップに置かれた「Steplag」と呼ばれる収容所群島には、30人の日本人抑留者のほか、ドイツ人捕虜や、ロシア人、カザフ人、バルト人、さらには中国人、米国人など様々な国籍の政治犯が収容されていた。最も多かったのが主にウクライナ西部から送られてきたウクライナ人で、Steplagの約21,000人の囚人の約半数を占めていた。

Steplag収容所群島の第3収容分所は、ケンギル(現在のジェスカズガン市)のステップに設置され、その広さは東西に約800メートル、南北に約1,000メートル。その周囲は高さ約4~5メートルの煉瓦塀の外壁に囲まれていた。収容所内は4つの居住区画に分けられており、そこに男女合わせて約7,000~8,000人の囚人が収容されていた(第1収容区画は女性の囚人用、第2・第3収容区画は男性の囚人用、もう1つの区画は特別監房)。

ケンギル収容所の囚人たちは、市内(現在のジェスカズガン市)の住宅建設や、煉瓦・木材などの工場建設、工場内作業、採石・選鉱、鉱石の運搬、発電所の建設などの強制労働に携わっていた(ジェスカズガン市郊外にある火力発電所の巨大な煙突は現在も市内から見ることが出来る)。しかし、労働の過酷さと食事量の少なさに加え、囚人たちに対する当局の監視兵からの日常的な抑圧があり、当局に対する囚人たちの不満は高かった。

ケンギル収容所の全体図(ジェスカズガン歴史考古学資料館蔵)

1953年5月15日

そんな中、第1の事件が起こった。その日、第3収容区画から選鉱工場に労働に出ていたウクライナ人の老囚人が、当局の若い監視兵と口論になり、大勢の囚人たちの目の前で自動小銃を乱射され死亡。老囚人を含め16人の囚人が死傷するという大惨事となった。

この事件をきっかけに、第3収容区画の囚人たちは一斉に蜂起。大規模なストライキを決行し、当局に対して事件を起こした監視兵の処罰と、囚人に対する待遇改善を求めた。このとき、隣接する第2収容区画の囚人たちもこれに同調し労働拒否に参加したが、当局の口車に乗せられ僅か1日で終息する結果になり、踏ん張っていた第3収容区画の囚人たちの労働拒否も、押しかけた当局の将校たちの手により6日間で強制排除されてしまった。

1954年2月19日

翌年になり、今度は隣の第2収容区画で事件が起こった。収容所内にあった木材工場で、ロシア北部のノリリスク収容所から転入してきたロシア人牧師が、望楼にいた監視兵に対して反抗的な態度をとったという理由でその場で射殺され、かつその遺体を弔おうとする囚人たちの手から当局が遺体を強引に奪い去るという事件が起こった。

尊敬を集めていた牧師が理不尽に射殺されるという事件を受け、第2収容区画の囚人たちは第1・第3収容区画の囚人たちと連携し、翌朝から大規模なストライキに突入した。囚人たちはウクライナ人リーダーの指導のもと頑として労働拒否、座り込みを続けたが、当局の応援要請を受けてカラガンダ支部から軍用機で駆け付けてきた収容地区の支部長とその配下の将校たちの手によって、僅か3日間で強制排除されてしまった。

1954年5月上旬

そうして二度のストライキが大きな成果なく終わり1954年の5月を迎えた頃、突如として約500~600人の刑事犯がケンギル収容所の第3収容区画に転入してきた。通常、収容所では政治犯と刑事犯を一緒に収容することはまずなかったが、これは不満の高まるケンギル収容所の政治犯たちの団結を内部から分断しようとする当局の狙いだったという。

主に反ソ行為(ソ連刑法58条、いわゆるスパイ罪)で逮捕された政治犯と異なり、殺人や強盗など凶悪犯罪で逮捕された刑事犯には荒くれ者が多く、ケンギル収容所に転入してきた当初、彼らは当局の思惑どおり政治犯の獄舎にまで入り込み、散々に狼藉を働いた。

ところが、勇気ある政治犯のリーダーたちは、ある日刑事犯の獄舎に乗り込み、荒くれ者の刑事犯のリーダーたちと膝を突き合わせての直談判を行った。政治犯たちはこれまでの彼らと当局との闘争の経緯について真摯に説明。刑事犯たちから「政治犯に対して乱暴狼藉は働かない」という約束を取りつけ、刑事犯たちとの協力関係を築くことに成功した。

こうして、結果的には当局の思惑とは裏腹に、政治犯たちの持つ智謀知略と荒くれ者の刑事犯たちの持つ大胆さ・勇敢さが融合していったことで、ケンギル収容所の囚人たちはやがて訪れるであろう当局との闘争に向け、むしろその力を増大させていったのである。

政治犯に知恵付けられた刑事犯たちは、さっそく収容所内のバラックに取りつけられていた鍵を破壊し、窓にはめられていた鉄格子も取り外していった。当局の規則ではこれらの設備は政治犯の収容に対しては必要とされていたのだが、これは刑事犯の収容に対しては当てはまらない規則であり、ゆえに刑事犯たちにとっては正当な主張に基づく行為であった。そのため当局も、一方的に彼らを取り押さえることが出来なかったのである。

勇敢な刑事犯たちはやがて、第2・第3収容区画の間だけでなく、女囚が収容されている第1収容区画との間の柵をも乗り越え、自由に行き来するようになった。刑事犯たちは女囚たちとの交流を通じて、彼女たちがいかに理不尽な理由でソ連の囚人となりケンギル収容所に送られてきたのかという話に触れ、彼女たちの置かれている苦境を知った。

そして、その第1収容区画でも事件が起こった。17歳の少女が洗濯物を取りに収容所内の物干場に近づいた際、突然監視兵に射殺されたのである。女囚たちの当局に対する不満も限界まで高まっていた。このような状況で血の気の多い刑事犯たちが入り込み女囚たちと苦悩や憎悪を共有することになり、当局に対する囚人たちの不満の炎に油を注ぐ事態となった。そして、ケンギル収容所の囚人たちは待遇改善を求め、実力行使に打って出た。

1954年5月16日

その日は、日曜日だった。朝の点呼が終わると同時に、第3収容区画の刑事犯約300人は第2収容区画との間の塀を乗り越え、あるいは作業用の鍬や鶴嘴で壁に穴を開け、大挙して第2収容区画に押し寄せた。非常事態を悟った当局の警備兵約70~80人が駆け付けたため刑事犯たちはいったん引き返すが、夕方になり再び第2収容区画になだれ込んだ。

今度は刑事犯だけでなく政治犯約200人もこれに加わり、第2・第3収容区画の囚人約500人は、女囚たちのいる第1収容区画を目指して、第1・第2収容区画の間に設けられた倉庫地帯(ロシア語でホズドヴォールと呼ばれていた)に侵入。さらに囚人たちは第1収容区画の壁まで進み、長い時間をかけて第1収容区画の壁に穴を開けることに成功した。

そのときの感動を、事件の生存者の1人、弥益五郎氏は次のように書き残している。

「ついに幅四十センチ、高さ五十センチの、楕円形の穴が、ぽっかり開いた。そのときの昂奮!私はこのときのことを永久に忘れない。穴が開いた瞬間、何ともいいようのないどよめきが、男の側からも、女の側からも湧き起った。腹の底からこみ上げて来る感動の、それは呻き声であった。(中略)

人々は狂気のように熱中して、子の名を呼ぶ者。親の名を呼ぶ者。夫の名をうわづった声で口にするもの、力強く妻の名を呼ぶ者、等々の叫喚で騒然と混乱している。無理もない、と思う。無理矢理に暴力にも等しい方法で、仲を裂かれた人々である。(中略)

穴は開いた。だが幅四十センチ、縦五十センチの穴からでは、一人づつしか通ることができない。誰しも早く第一収容所に入りたい。また女性の方も呼び入れたい。混乱はなかったが、当然人々は犇めいて、人間の渦ができていた。接吻の雨と、気狂のような歓声に迎えられて、なかばはにかみながら、男性は一人一人と、穴に吸込まれてゆく。泣く声。甲高い笑い声。穴を通して、また塀を越して、男性を迎え入れた、昂奮に渦巻く第一収容所の状況が、この二つの音声に、集約されて聞える。」(弥益五郎著『ソ連政治犯収容所の大暴動』より、原文ママ)

そうして第1収容区画の壁に開けられた小さな穴から1人、また1人と第1収容区画の中に入っていき、ようやく200人ほどの囚人が第1収容区画内に入り込んだとき、緊急配備の指示を受けて駆け付けてきた約100人の当局の武装兵たちが、倉庫地帯に残っていた囚人たちに対して自動小銃や拳銃を発砲。抵抗する囚人たちに容赦なく棍棒を振るった。多くの負傷者や逮捕者を出しながらも、倉庫地帯の囚人たちは抵抗を続け、第2収容区画の鉄門をこじ開けると、そこから一斉に退却していった。

既に第1収容区画の中に入り込んでいた約200人の囚人たちは、幸運にも難を逃れた。彼らは女囚たちと一夜を過ごした翌朝、堂々と当局と交渉を行い、第1収容区画の正門からではなく昨夜自分たちが開けた穴を潜り、倉庫地帯を横切り、元の収容区画に帰還した。

1954年5月17日

翌日、第2・第3収容区画の囚人たちと当局との交渉が開催された。当局は囚人たちの要望を一部認め、今後は夕方の作業終了から午後10時までの間、第1収容区画を含む各収容区画間の自由な往来を認めた。囚人たちはこれを受けて労働を再開した。

しかし当局は、狡猾にも周到な手を打っていた。囚人たちが労働に出たその日のうちに収容所間の壁に開けられた穴を塞ぎ、収容所内の塀際に立入禁止地帯を設け、有刺鉄線で柵を築き、囚人たちが各収容区画間を行き来できないようにしてしまった。夕方になり、囚人たちが労働から戻ってくるや否や、当局から立入禁止地帯の設定と各収容区画間の往来の禁止が一方的に伝えられた。当局の突然の方針転換に囚人たちは騒然となり、またしても当局に騙されたことを知った。そして、再び実力行使に出ることを決意した。

その夜、第3収容区画の約500人の囚人たちは望楼の監視兵から銃撃を受けながらも、食堂のテーブルなどを盾にし、また道具にして、立入禁止地帯の鉄条網を突破。再び第2収容区画になだれ込んだ。第2収容区画と倉庫地帯の間は鉄の扉で塞がれていたが、石を満載した輜重車を扉に叩き付け、あるいは電柱用の丸太を叩き付け、これを破壊した。

倉庫地帯に進んだ囚人たちは、独ソ戦での実戦経験を持つ元・工兵少佐の発案で、水洗便所用の土管を弾除けとして敷き並べ、また積み重ね、望楼の監視兵からの激しい銃撃を防ぎながら、何とか第1収容区画の壁までたどり着いた。今度は第1収容区画の女囚たちも呼応して、壁の内側からも鍬や鉄棒で壁を壊し始め、幅60センチ、高さ1メートルの穴を短時間で開けることに成功した。そして、囚人たちは再び第1収容区画に入り始めた。

しかし、そのときまたしても武装した当局の警備兵たちと増援の内務省兵の部隊が倉庫地帯に侵入し、囚人たちに対して一斉に自動小銃や拳銃を発砲した。自動小銃の銃弾を浴び、至近距離から拳銃で撃たれ、銃剣で突き刺され、倉庫地帯に残っていた囚人たちに多くの死傷者が出た。辛うじて生き残った囚人たちは、再び第2収容区画に退却していった。

夜中になり、第3収容区画の囚人たちは、第3収容区画の隣に設置されていた特別監房を破壊。1954年2月頃、当局によってSteplagの第1収容分所(ルドニク収容所)から第3収容分所(ケンギル収容所)に転送され極秘裏に特別監房に収監されていたロシア人の元・赤軍大佐カピトン・クズネツォフほか約250人の囚人を解放し、彼らを同志に迎え入れた。

カピトン・クズネツォフ

このカピトン・クズネツォフの素性や経歴については残された資料が少なく謎が多いが、事件の生存者の証言によると、スモレンスクの戦いほか独ソ戦で戦車隊を率いて功績を挙げ、赤軍の政治部員も務めた人物だったという。戦後はロシアのロストフで農学者となっていたが、独ソ戦においてドイツ軍の捕虜になったことを地区の党委員会で密告され、1948年に「反ソ連行為」(ソ連刑法58条、いわゆるスパイ罪)で逮捕。1953年にSteplagに送られたとされている。40代で背が高く、堂々とした男だったという。

1954年5月18日

早朝になり、武装した内務省兵たちは、第1収容区画への攻撃を開始。前夜に第2・第3収容区画から入り込んだ男性の囚人たちを逮捕すべく、第1収容区画内に侵攻し、囚人たちが匿われているバラックへの一斉射撃を行った。第1収容区画の女囚たちは、負傷者を出しながらも、裸同然の姿で内務省兵たちの銃口の前に立ちはだかった。

そのときの状況を、前述の弥益五郎氏は次のように書き残している。

「女囚たちは次々と裸体に等しい恰好で戸外に出て、四列横隊にならんで内務省兵に向い、前進を開始しだした。銃声は止んだ。女囚と兵は睨み合ったまま、一方が前進し、一方が退いた。予め待機していたらしい消防車が、これを見て前え出はじめた。女囚の四列横隊の人垣にかくれるように、男囚がバラックを出て来て、隊列に加わった。隊列の長さは横に約十メートルもあらうか。それが三組並び、最後列にあった女囚が、男囚と入れ交わって、五列目をつくった。背後からの襲撃に、男を守ろうとする心構えだ。(中略)

全員が腕を胸に組んで、眦を決している。その不動の隊列に、消防自動車はざあーっと、水をかけはじめた。老いも、若きも、その奔騰する水の中で、微動だにしない。何というシンの強さを女はもっているのだろうか。ついにどの消防車にも水が無くなった。すると女囚はまた前進を開始しだした。あわてて消防車が後退する。隊列を整えて自動小銃を構えていた兵が、消防車と入れ交わった。女囚は素手である。全く身に寸鉄もおびていない。彼女らの武器はただ一つ、火のような憎しみの心だけであった。『射て!』ついに命令が下った。自動小銃が一斉に、タ、タ、タ、タッと火を噴く。女囚の隊列のなかから、たちまち倒れる者が出た。だが彼女らはそれに眼もくれない。倒れた者を跨ぎ越して、伍を組み列を正して前進する。その重厚な圧迫感!兵の隊列が乱れ、また後進をはじめた。裸の人間を射つことは、殊にこういう際、できないことであるらしい。(中略)

消防車は後退したきり、二度と姿を見せない。兵がまた発砲した。だがどの兵の顔も蒼白である。女囚がバタバタと倒れてゆく。倒れても、倒れても、隊列もその前進も崩れない。前進の足並みも乱れない。徹底した静かな攻撃力だ。ついに兵たちが総崩れとなった。彼らは争って門から所外に逃れ出る。そのどの兵も異状な恐怖に、歯の根もあわずふるえていた。一兵も、もはや所内にいないことを確めると、初めて女囚たちは負傷者の収容、介抱をはじめた。落ついてもの静かな、確りした態度であった。」(弥益五郎著『ソ連政治犯収容所の大暴動』より、原文ママ)

第1収容区画から聞こえてくる銃声と悲鳴に気を揉みながらも、第2・第3収容区画の囚人たちは、独ソ戦の実戦経験を持つ代表者たちによる協議を行い、作戦を練っていた。特別監房から解放されたばかりの元・赤軍大佐カピトン・クズネツォフもこれに加わった。当局は既に17~18挺の軽機関銃と十数人の狙撃兵を収容所の壁に沿って倉庫地帯に配置しており、まずは囚人たちの手でこれらをどう制圧するかということが最大の論点となった。

協議の結果、まず政治犯たちが大規模な陽動作戦をとり、その間に刑事犯たちが軽機関銃と狙撃兵たちを急襲するという作戦が当初決定された。しかし、犠牲を最小限に抑えるため、実戦経験、政治経験とも豊富なクズネツォフらが囚人たちの代表として、まず当局との停戦交渉に赴くということになった。

クズネツォフらは衛兵所に乗り込み、当局との交渉を開始した。智謀に長けたこの元・赤軍大佐が一体どのような交渉を行ったのか明らかではないが、間もなく収容所内に配置されていた軽機関銃と狙撃兵たちは撤収を開始した。脅威となっていた軽機関銃と狙撃兵が撤収した後、クズネツォフは第2・第3収容区画にいた反乱参加者全員を第2収容区画の広場に集め、これから自分たちが為すべきことについて力強く演説を行った。

すなわち、これまでの当局の非道な行為を非難するとともに、内務省の責任ある立場の高官をモスクワから呼ぶこと、事件で死亡した囚人たちを丁重に埋葬し、負傷した囚人たちを病院に入院させ治療すること、囚人に対して憲法に基づいた扱いをすること、などを当局に対して要求していくことを宣言したのである。これ以降、クズネツォフの圧倒的なリーダーシップのもと、ケンギル収容所の囚人たちは当局との闘争における大義を共有し、ケンギルの反乱はより組織化されたものになっていった。

ソ連側の記録によると、この1954年5月17日から翌18日にかけての2日間で、男女合わせて13人の囚人が死亡。59人が重軽傷を負ったとされている。

1954年5月19日

反乱を起こしたケンギル収容所の囚人たちは直ちに選挙を実施し、当局との交渉と収容所内の自治を確立するための委員会を組織した。自治委員会は各収容区画から2人ずつ、男女計6人の委員によって当初構成された。

第1収容区画からはリュボフ・ベルシャトスカヤ(ウクライナ人、元・バレリーナで在モスクワ米国大使館職員)とマリヤ・シマンスカヤ(ロシア人、元・経済学者)、第2収容区画からはバトヤン・ヴァガルシャク(アルメニア人、元・科学者)とセミョン・チンチラゼ(グルジア人、元・グルジア・パルチザン)、第3収容区画からはアレクセイ・マケエフ(ロシア人、元・赤軍少佐)と前述のカピトン・クズネツォフが選出され、リーダーにはクズネツォフが選ばれた。自治委員会は、その後12人に拡大された。

自治委員会は、当局との交渉と収容所内の自治に必要な6つの部門を設置した。すなわち内部保安部、扇動宣伝部、軍事部、技術部、食糧部、生活経済部の6つである。内部保安部長エンゲルス・スルチェンコフは独ソ戦でドイツ軍の捕虜となり、その後アンドレイ・ヴラーソフ将軍率いるロシア解放軍(ROA)の中尉としてソ連軍と戦ったロシア人。扇動宣伝部長ユリイ・クノプムスはソ連出身ながら、ドイツ軍の憲兵隊としてソ連軍と戦ったドイツ人。そして軍事部長ゲルシュ・ケラーはウクライナ・パルチザン(UPA)としてドイツ・ソ連の双方と戦ったユダヤ系ウクライナ人。いずれも歴戦の猛者たちであった。

エンゲルス・スルチェンコフ
ユリイ・クノプムス
ゲルシュ・ケラー

自治委員会は、5月17日から翌18日にかけての当局の囚人に対する残虐行為への抗議文と、囚人に対する労働条件の改善、ソ連内務大臣との会談実現などの要求書を作成し、衛兵所を通じてケンギル収容所の管理局長に提出した。これらの書簡の内容は、管理局から直ちにソ連内務省の収容所管理本部の次官ヴィクトル・ボチコフ少将に報告された。

1954年5月20日

報告を受けたヴィクトル・ボチコフ少将は、カザフ社会主義共和国内務大臣ヴラディーミル・グービン少将、ソ連最高検察官サムソノフなどを伴い急遽ケンギル収容所に来訪。第2収容区画の衛兵所に到着した。

ボチコフ少将を始めとする当局の代表と、カピトン・クズネツォフを始めとする自治委員会の代表との会談は、収容所内の広場に食堂の長机を2つ並べて対面で行われた。当局は自治委員会に対し労働の即時再開を要求したが、自治委員会はあくまで5月17日から翌18日にかけての当局の残虐行為の調査とソ連内務大臣との会談実現を要求。これらが実現されるまでの労働拒否を主張し、会談は決裂した。

1954年5月25日

ヴィクトル・ボチコフ少将はモスクワにこの状況を報告し、反乱鎮圧のための権限付与と援軍の派遣を要請した。翌26日にはモスクワからソ連内務大臣代理セルゲイ・エゴロフ中将、ソ連内務省の収容所管理本部長イヴァン・ドルギフ中将、ソ連最高検察総長代理アファナシイ・ヴァヴィロフ中将がケンギルに到着。反乱鎮圧の指揮を執ることになった。

1954年5月27日

セルゲイ・エゴロフ中将ら新たな当局の代表がケンギル収容所の衛兵所に到着。第3収容区画の食堂で、自治委員会の代表との交渉を開始した。自治委員会からの要求はこれまでと同様、5月17日から18日にかけての当局の残虐行為の調査とソ連内務大臣との会談実現および囚人に対する待遇改善、また事件中に当局に逮捕されその後行方不明となっている囚人たちの即時返還であった。

ここで1日も早くストライキを収束させたい当局が譲歩。事件中に逮捕した囚人約100人を釈放し、ケンギル収容所内に返還した。また、自治委員会の代表者が当局の監視兵とともに事件で殺害された囚人たちの埋葬地を訪れ、掘り起こした遺体の確認、死因の検証に立ち会うことを認めた。

そのときに、セミョン・チンチラゼとともに自治委員会の代表として検視に立ち会ったヴァガルシャク・バトヤンは、後年次のように証言している。

「10~12キロ走り、車は朽ち捨てられた牧場の真ん中に止まった。私たちが車から降りると、すぐに死体の強い腐敗臭が漂ってきた。(中略)

かつては数百頭の牛が繋がれていたであろう広々とした建物の床に、数十体の裸の死体が横たわっていた。死体にはそれぞれ黒い塗料で囚人番号が記されていた。(中略)

セミョンは恐怖に震えていた。彼は頭を低く垂れ、目には涙を浮かべていた。私も辛うじて涙を堪えた。私はゴム手袋を受け取り、検視に向かった。

死体の中にかつて私の班長だったミハイロフを見つけた。ミハイロフは元・ソ連軍の将校で、ファシストの侵略者たちと勇敢に戦ったが、捕虜になったため終戦後に逮捕され、国家反逆罪で強制収容所に送られた人物だった。彼の胸には銃創が3つあった。首には何か重いもので強く殴られた跡があり、頭部には大きな隆起が2つ出来ていた。

また、ミハイロフの死体の近くにはグリツコの死体が横たわっていた。彼の頭部は打ち砕かれ、胸には銃創があった。片方の手と指は何か重いもので殴られ変形してしまっていた。グリツコは西ウクライナ出身で、当局から逃れるため身を潜めていた父親のもとに食料を運んでいたところを逮捕され、収容所に送られた若者だった。

その隣には、かつて懲監房で私にマフラーと角砂糖をくれた親切な囚人の死体も横たわっていた。彼の死体にも殴られた跡があった。

多くの死体の間には、切断された腕や脚が血まみれの包帯に巻かれ、散乱していた。多くの死体が、もはや認識できないほど変わり果てていた。

私たちは絶望とともに建屋から出た。無防備な人々への不当な虐殺があり、負傷者は残酷に処分されていたことが明らかになった。」(ヴァガルシャク・バトヤンの証言より)

自治委員会は現場の写真を撮影するように当局に要求したものの、当局は頑なにこれを拒否した。そしてこの検視の結果は、立ち会った委員たちによってケンギル収容所の囚人たちに悲しみと怒りをもって報告された。

1954年6月上旬

自治委員会は、囚人以外のケンギル収容所への立ち入りを禁止した。収容所の出入口は24時間体制で数人の刑事犯たちによって警備され、当局の人間が入所する際は受付で申請書への記入、提出が必要になった。入所申請はカピトン・クズネツォフによって決裁され、収容所内で行動している間は常に囚人の監視員が張り付き、用件以外の行動を禁止した。

一方当局は、武力行使の口実を作ろうと悪知恵を働かせた。ある日セルゲイ・エゴロフ中将らが交渉のためケンギル収容所に入所する際、塀から梯子を下ろして血まみれの衣服を着た兵士を収容所内に侵入させ、広場で死体のふりをさせるという出来事が起こった。当局の兵士が、収容所内で囚人に殺害されたことにしようとしたのである(モスクワからは囚人が当局の兵士を襲撃した場合に限り武器使用が認められていた)。幸いこの作戦は囚人たちによって見破られ未然に防ぐことが出来たが、その後も軍用犬を囚人たちにけしかけるなど、当局の挑発行為は続いた。

自治委員会も策を練り、実戦経験の豊富な元・赤軍工兵や元・パルチザン兵士らの指導により、収容所の外壁の内側に高さ1メートル半ほどの三段構えの防御壁を築いた。また、軍事部の元・旋盤工や元・化学技師らが、手製のナイフや長槍、拳銃やパイプ爆弾を製造し、当局の攻撃に備えた。

さらに、ウクライナ人技師アナトリー・コストリツキーの設計により文化活動用の映写機とバケツから放送機器とスピーカーを製作し、電力確保のため収容所内に簡易的な水力発電所も建設した。自治委員会は、この放送機器とスピーカーを使用して、収容所外にいる当局の兵士たちに対し原隊への帰還を呼びかけたり、日曜日にダンスパーティーを開いたり、ドイツ人などの演奏で「運命」などクラシックの演奏会を開いたりもした。

1954年6月中旬

自治委員会は、もはやセルゲイ・エゴロフ中将らの代表団ではなくモスクワの中央委員会との直接交渉を希望していたが、一向に実現しなかったためケンギル村の住民を通じて中央委員会に訴えかけるという方法を考えた。しかし、収容所内の放送機器とスピーカーではケンギル村の住民に連帯を呼びかけるだけの出力が不足していたため、自治委員会は日本人抑留者の協力により凧や気球を製作。空高く揚げた凧からビラを散布したり、また中央委員会との直接交渉を求める旨のスローガンを気球にぶら下げたりした(この気球は旧日本軍の風船爆弾の構造を参考に製作されたものだったという)。

自治委員会が作成したスローガン

しかしケンギル村では、既に当局を通じて「ケンギル収容所はウクライナやバルト諸国の民族主義者に先導され暴徒化した囚人たちといかがわしい売春婦たちによって占拠されており、罪のない人々が虐待されている」というデマが蔓延しており、そのためケンギル村の住民の協力を得ることは出来なかった。

一方、当局へはモスクワのソ連内務省軍からの援軍が続々とケンギルに到着し、ケンギル収容所への攻撃態勢を整えていた。そして6月24日、モスクワの内務大臣セルゲイ・クルグロフ大将からケンギルのセルゲイ・エゴロフ中将に対し、武力制圧の命令が下った。

1954年6月26日

5月16日に囚人たちが蜂起してから40日が過ぎた6月26日午前3時30分頃、第1・第2・第3の各収容区画の上空に突如赤色の照明弾が打ち上げられ、ケンギルの空を赤く染めた。当局の部隊を率いるセルゲイ・エゴロフ中将はラジオを通じて、依然としてケンギル収容所に立てこもる約5400人の囚人たちに対し最後通告を行い、即時投降を命じた。

約30分間の最後通告の後、今度は青白い照明弾がひっきりなしに打ち上げられ、各収容区画の正門からT-34中型戦車5台(4台あるいは6台という証言もあれば、より大型のKV型戦車という証言もある)および熱湯を満載した放水車3台、そしてその後方から武装した兵士約1,600人、軍用犬約100頭がケンギル収容所内への突入を開始した。

戦車の砲撃や突進によって、囚人たちが事前に築いていた防御壁や鉄条網は易々と打ち破られ、囚人たちが立てこもる建屋やバラックへ容赦なく砲撃を繰り返した。逃げ惑い、バラックに身を潜めていた囚人たちは、武装した兵士たちの銃撃を受け倒れていった(当局の戦車兵や武装兵たちは、恐怖を抑えるため事前に酒を飲み酔っていたという)。

第1収容区画では、女囚たちが無抵抗の抵抗を続けていた。十数人の女囚たちは裸同然の姿でバラックの外に飛び出し、勇敢にも戦車の前に立ちはだかり必死の抗議を行ったが、そのまま戦車に轢き殺され、また辛うじて生き残った女囚も兵士たちによって撃ち殺され、あるいは銃剣で刺し殺されていった。

その状況を、前述の弥益五郎氏は次のように書き残している。

「もの凄い悲鳴が、ひき倒されてゆく女囚の唇からもれる。戦車にはねられたり、または、どこかをひかれた女囚が、苦痛にのたうちながら呻いている。それを戦車の後から来た兵たちが一人一人銃剣で刺し殺したり、ピストルを頭に射ち込んだり、自動小銃で全身を蜂の巣のようにしたりして殺戮してゆく。まさに地獄絵図だ。

あまりのことに、たまりかねたのであろう。別の女囚の一団が、兵たちに躍りかかっていった。シュミーズ一枚、あるいはズロース一つで、恐れ気もなく、死に突入していく、凄じいソ連女性の気魄!今考えても身の毛のよだつ、それは女の凄さだった。

当然兵たちとの間に、激しい格斗が始まった。豊かな若い女のあらわな胸に、ズブリ!と刺し込まれる剣。ところ構わず銃の台尻で殴りつける兵。自動小銃の乱射の前に、虚空をつかんでのけぞり倒れる女。負傷して苦しみもがく女を、嬲るようにピストルで止めを刺してまわる将校。悲惨とも、無慙とも、それは形容のしかたがない光景の連続であった。」(弥益五郎著『ソ連政治犯収容所の大暴動』より、原文ママ)

元・リトアニア・パルチザン(TAR)のアルフォンサス・ウルバナスは、戦車に轢き殺される寸前のところを間一髪でウクライナ人の女囚によって突き飛ばされ、彼女の犠牲と引き換えにその命を助けられた。また、自治委員会のリュボフ・ベルシャドスカヤは、長年収容所で苦楽をともにして生きてきた友人が当局の戦車によって轢き殺され、その脳と内臓がバラックの壁に飛び散る様を目の当たりにした衝撃を、手記に書き残している。

バラック内にいた囚人たちは、バラック内に催涙弾を打ち込まれ、たまらず目を押さえて外にあぶり出されたところを、兵士たちに銃口を突きつけられ両手を上げさせられた。しかし、痛む目を押さえようとその姿勢から少しでも手を下げてしまった者は、その場で兵士に撃ち殺されたという。そうして投降した囚人たちは、武器を隠し持っていないか厳しく身体検査された後、ひとまとめにされ収容所外に連行されていった。

一方、第2・第3収容区画では、男性の囚人たちによる激しい抵抗が続けられていた。主に女囚を収容していた第1収容区画と異なり、第2・第3収容区画には実戦経験の豊富な各国の元・軍人や元・パルチザンなどの政治犯たちに加えて、屈強な刑事犯たちも収容されていたため、手製のナイフやパイプ爆弾を武器に戦い続けていた。しかし、圧倒的火力の当局の戦車部隊や武装兵を相手に次第に追いやられ、夜が明ける頃には革命歌の大合唱と万歳のかけ声とともに最後の突撃を敢行し、やがて完全に鎮圧された。

ウクライナの画家で事件の生存者、ユリイ・フェレンチュクの作品『ケンギルの血』

戦いを終えて

降伏し収容所外に連行された囚人たちは、所外のステップで整列させられ、地面に腹這いになるよう命じられた。反乱が完全に鎮圧された後、囚人たちは収容区画ごと、班ごとに集められ、武装兵の監視のもと炎天下で3日間にわたり草地に座り続けさせられた。その間に、当局の懲罰部隊は制圧した収容所内を徹底的に捜査し、死亡した囚人の遺体を収容所外の草原の地中にまとめて埋めていった(証言によると負傷して身動きが取れないまま生き埋めにされた囚人もいたという)。また、生き残った囚人たちのリストを作成し、事件への関与度合いを調査。反乱者たちに対する処分を決定していった。

ケンギル収容所の自治委員会の責任者のうち、内部保安部長エンゲルス・スルチェンコフ、軍事部長ゲルシュ・ケラー、扇動宣伝部長ユリイ・クノプムスの3名は、事件の翌年1955年8月にカザフ社会主義共和国の裁判所によって「行政秩序違反」(ソ連刑法59条、いわゆる反乱罪)の罪により銃殺刑の判決を受け、1956年9月に刑が執行された。

そして、自治委員会のリーダーとして囚人たちを率いて戦った元・赤軍大佐カピトン・クズネツォフも、1955年8月にカザフ社会主義共和国の裁判所により銃殺刑の判決を受けたが、その後懲役25年に減刑。1960年3月にソ連の最高裁判所によって釈放が決定している。釈放後は、ロシアのクラスノダール地方アナパで余生を過ごしたとされている。

かくして、1954年5月16日の蜂起から6月26日の鎮圧まで40日にわたるケンギル収容所の反乱事件は、自由を求める囚人たちの声をソ連の戦車部隊が武力で押し潰すという悲劇的な形で幕を閉じた。ケンギル反乱事件の犠牲者数は、生存者の証言や残された文献によって開きがあるものの、少なくとも200人以上の囚人が死亡、約400〜500人の囚人が重軽傷を負ったとされる(当局の記録では46人が死亡となっており大きな開きがある)。しかし、正確な数字は現在もわかっていない。

生き残った囚人たちは集合させられ、当局の特務将校たちによって要注意人物とそうでない者に選別された。要注意人物と判断された囚人たち(男女合わせて約1,000人とされる)は、そのまま「黒いカラス」と呼ばれる護送車に乗せられ、囚人輸送用の貨車に詰め込まれ、ロシア極東のマガダン地区(コルイマ鉱山)や東シベリアのタイシェトなど、他の収容所に転送された。そうでない者は、元の収容所に戻ることを許された。

黒いカラス

事件の影響

悲劇的な結末に終わったケンギル反乱事件だが、事件直後の1954年7月にケンギル収容所を含むSteplag特殊収容所群島は一般収容所に変更され、1956年4月には閉鎖された。事件以降、ソ連は収容所群島の政策変更の必要性を迫られ、巨大な収容所群島にいた囚人の多くが釈放されていった。ケンギル反乱事件は、前年に発生したノリリスク反乱事件、ヴォルクタ反乱事件と並び、ソ連の収容所群島の終焉の象徴の1つといわれている。

このケンギル反乱事件で特筆すべきは、わずか40日とはいえ囚人たちが自治を勝ち取ったということは勿論、蜂起した約5,400人の囚人のうち4割にあたる約2,300人が女性で、自治委員会の中にも複数の女性が代表として参加していたこと、様々な国籍の男女の政治犯や荒くれ者の刑事犯など多様な囚人が入り交じる中で、闘争期間中も収容所内の秩序が保たれていたこと、囚人同士の結婚や民族的な衣装の着用、ウクライナ人たちによる賛美歌の作曲・斉唱など、囚人とはいえ人間的な活動が営まれていたことなどであろう。

このケンギル反乱事件については、日本国内でも囚人として事件に参加した元・抑留者の弥益五郎氏と黒澤嘉明氏が帰国後にそれぞれ手記を残しているが、世界的にその名が知れわたるようになったのは、やはり1970年にノーベル文学賞を受賞したロシア人作家アレクサンドル・ソルジェニーツィン氏の著書「収容所群島」であろう。彼自身はケンギル収容所ではなくカザフ国内の別の収容所にいたため体験者ではないが、事件について他の囚人を通じて聞き取った内容をまとめ、著書「収容所群島」の中で「ケンギルの40日」としてこの事件を紹介したのである(但し、内容の正確さについては一部疑わしい点もある)。

また、カザフスタン国内でも、カラガンダの強制収容所で生まれたラトビア系カザフスタン人の映画監督ゲンナジー・ゼメル氏によって、ウクライナ人俳優ヴォロディミル・タラシコの主演で映画化されるなど(1991年公開のカザフスタン映画”Lyudoed”)、ケンギル反乱事件はソ連収容所群島における最も悲劇的で、最も英雄的な物語の1つとして、いまもなおカザフスタンの歴史の中に名を刻んでいる。

Lyudoed

おわりに                        

私が調査のためケンギルを訪れたのは、ケンギル反乱事件から半世紀以上が経過した2010年のことだった。地元の資料館と新聞社で情報を収集し、地図を頼りにケンギル収容所の遺構と事件犠牲者の集団埋葬地に建てられた慰霊碑にたどり着いた(慰霊碑は反乱事件から50年後の2004年に、ウクライナの文化センターにより建立されたもの)。

収容所はSteplagの名にふさわしく見渡す限りのステップの中にあったが荒廃し、長年放置されていた様子ではあったが、近年カザフスタンの政府系機関やNGO、Kazakhmysなど地元の民間企業の協力による収容所の遺構や壁画の保存活動が進められており、ソ連時代の抑圧の歴史を伝えるための記念施設の開設も検討されているという。

しかし、今般のロシアによるウクライナ侵攻が、ようやく動き始めたこれらの保存活動やソ連時代の人民抑圧の歴史研究などに今後どのような影響を及ぼすのか、まったく予測もつかない。カザフスタンの広大なステップに置かれた1つの収容所で起こったこの悲劇的な事件が、再び歴史の闇に葬り去られてしまわないように、そして同じような悲劇が今回の戦争で再び繰り返されないよう、願ってやまない。

ケンギル反乱事件の生存者で、詩人・芸術家だったユリイ・グルーニン氏を偲んで(2010年8月に取材、2014年4月にジェスカズガン市にて逝去、享年92)。

ケンギル収容所跡
ケンギル収容所跡
ケンギル収容所跡
ケンギル収容所跡
犠牲者の集団埋葬地に建てられた慰霊碑

参考文献

『ソ連政治犯収容所の大暴動』(日刊労働通信社、弥益五郎著)

『禿鷹よ、心して舞え』(彩流社、黒澤嘉幸著)

『収容所群島』(ブッキング社、アレクサンドル・ソルジェニーツィン著、木村浩訳)

『1954 in Kazakhstan』(Books LLC社)

『Спина Земли』(Алем社、Юрий Грунин著)

『Растоптанные Жизни』(Пять Континентов社、Любовь Бершадская著)

『История ГУЛАГа』(Политическая Энциклопедия社、Галина Михайловна著)

参考URL

Сахаровский Центр ( https://www.sakharov-center.ru/ )

Музей Истории ГУЛАГа ( https://gmig.ru/ )

Викичтение ( https://document.wikireading.ru/ )

Ukrainian Institute of National Memory ( https://uinp.gov.ua/ )

Ministry of Foreign Affairs of the Republic of Lithuania ( https://www.urm.lt/ )

プロフィール

味方俊介国際

1981年生まれ。2003年中央大学法学部卒。2005年カザフ国立大学準備学部ロシア語課程修了。日本中央アジア学会会員。著書に『カザフスタンにおける日本人抑留者』(東洋書店、2008年)、『カザフスタンを知るための60章(共著)』(明石書店、2015年)。

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