2023.10.03

UNRWAと戦後日本の歩み:日本政府によるパレスチナ難民支援の源流を求めて

鈴木啓之 中東地域研究

国際

1953年に、日本政府はパレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)への資金提供を決定した。以来、70年にわたって日本はパレスチナ難民への支援を続けている。なぜ戦後間もない日本が、遠く離れた中東で発生した難民支援に乗り出したのか――、この問いを「宿題」として私に投げかけてきたのは、UNRWA保健局長の清田明宏医師だった。WhatsAppでの軽妙な誘いに乗った私は、外務省外交史料館を訪ねることになる。そこで僅かながら目にした当時の資料から、戦後日本の国際社会への復帰の通過点に、UNRWAへの資金拠出があった可能性が浮かび上がってきた。

UNRWAヨルダン事務所 2014年3月・筆者撮影

国連からのアプローチと日本政府の対応

UNRWAについてまとめられた最も古いファイルは、『国際連合総会補助機関関係雑件:パレスタイン難民救済機関関係』である。このファイルには、1952年から59年にかけての外交資料が綴じられていた。そのなかで、UNRWAへの拠出を決定した際の資料は、閣議了解について扱う1953年12月23日付けのものである。同日の閣議了解により、日本政府はUNRWAへの1万米ドルの拠出を決定する。外務大臣岡崎(おかざき)勝男かつお)が署名した首相吉田茂宛の説明文書には、次のような文言が記載されていた。

本件は国際連合予算外基金商議委員会委員長発在ニューヨーク国際連合日本政府代表あて1953年8月21日付書簡による拠出要請に対し措置するものである。

近東パレスタイン難民救済計画〔引用者註:UNRWA〕については、昨年初頭以来再三拠出方要請があったところ、政府はこれに応じなかったが、本計画に対してはアラブ諸国は深い関心を示しており、且つ西欧側の国連非加盟国も本年以降に拠出するようになったので、国連協力の意志を表明する見地から、又、アラブ諸国との友好関係維持及び国連におけるその支持を確保する見地よりわが国も相当額の拠出を行うものである。

この資料が示す通り、国連からUNRWAへの資金拠出を求める書簡は、すでに前年の1952年に発信されていた。1952年1月28日付けで、「国連予算外基金商議委員会」(Negotiating Committee for Extra-Budgetary Funds)議長代理から、次年度(52年6月30日開始)のUNRWA運営予算が1000万ドル不足しているため、日本政府にも拠出を検討願いたいという内容である。これに対して、省内での議論を伝える資料もファイルには綴じられている。そこに書かれていたのは、戦後間もない日本政府として、遠隔地のパレスチナで発生した難民支援に踏み出せない事情であった。

①国連の事業に協力することは、わが国の基本政策であり、かつ本計画は政治的利害を超えた世界的な人道的計画ではあるが、パレスタインは地域的にもわが国より遠隔の地にあり、また、アラブ民族、ユダヤ人双方に対して、政治上、宗教上関係は薄い。

②連合諸国に対する賠償支払いもなお決定しておらず、この上わが国の経済状態は関係の薄いパレスタイン避難民に対し慈善行為をなす余裕はない。

③昨年1月の本計画に対する第1回拠金約束取付の成績は、英米二国以外の諸国については不良であったため、この後事務総長は再度拠金の要請を行った。〔中略〕加盟国の大半はなお拠金の申出をなしておらない。

この三点、つまり「①地理的遠さ、②日本の経済状態、③他国の拠出実績の無さ」は、他の文書でも繰り返し指摘され、この年の拠出は見送られることになった。国連予算外基金商議委員会議長からは、1952年3月6日付けで改めて書簡が送付された様子が確認できるが、その余白には「本信には回答しないこととしたい」と手書きで記されている。その後も、会議室と日時を指定して日本政府関係者との会合を希望する書簡が国連側から送付されたものの、出席できない旨が外務省から返信されていた。

ニューヨークからの報せと国際社会復帰への歩み

外交史料館に残されている文書を見る限りで、明らかに議論のトーンを変えたのは、在ニューヨーク国連日本政府代表(国連代表部公使)の武内龍次から外務大臣岡崎に宛てた一報である。1953年3月9日付けのこの資料では、UNRWAへの拠出を「アラブ・ブロック」が注視していること、米国が各国による拠出を期待していること、こうした事情に鑑みて朝鮮戦争のさなかにありながら韓国が少額拠出を始めているといった諸点を挙げて、「本年度追加予算にたとえ『トークン』額(前回の商議委員会に於て米国代表は『トークン』でも差支ない旨述べている)でも加えられるよう御配慮されては如何かと存ずる」と結んでいる。ここで唐突に出てくる片仮名「トークン」とは、「象徴的な」(token)という意味であろう。これはすでに1952年10月の国連商議委員会発の書簡でも確認され、こちらではより直裁的に「even though it be only of a symbolic character」(たとえ象徴的な性格〔の拠出〕でも構わない)と示されていた。

武内が示した国連内部での事情は、後任の澤田廉三にも強く認識されていたようである。6月10日に外務大臣岡崎に宛てた通信で、澤田は商議委員会委員長(当時は代表がレバノン国に切り替わっていた)から、「日本が技術援助計画及びユニセフには拠金しつつ、パレスタイン難民救済にのみ拠金不可能として差別せらるる事情につき、アラブ諸国民は了解困難な事情もあり、アラブ諸国に対する日本の友好感情のシンボルとしても可及的速やかに拠金を得たき旨縷縷(るる)訴えたり」という働きかけがあったことを報告している。

一方で、日本国内での変化が、国連で活動する澤田の危機感を煽った様子も観察される。それが国連の朝鮮復興計画に対する日本政府からの拠出である。拠出の可能性について外務大臣岡崎が国会答弁で前向きな姿勢を示したことを挙げ、澤田は「もし朝鮮復興計画の拠金のみが実現し、パレスタイン難民救済計画に対する拠金なきときは国連予算外商議委員会の四事業〔引用者註:ユニセフ、経済開発技術援助、「朝鮮復興計画」、UNRWA〕のうちパレスタイン難民救済計画のみ差別待遇した外観を愈々(いよいよ)顕著にし、国連内部においてアラブ諸国の我国に対する同情支援を減少することは必至」(6月24日発)、「朝鮮復興計画として大蔵当局の認めている5万$のうち一部(1万$見当)をパレスタイン難民計画の方へ廻すよう」(9月18日発)と岡崎に訴えた。

このニューヨークからの訴えは、外務省内で共有され、ついには12月11日に大蔵省主計局に対して、資金拠出のための伺いが発信されるに至る。その結果が、冒頭に挙げた12月23日の閣議決定であった。翌1954年2月11日に第一回送金(1万ドル)がニューヨークの国連本部に向けて実施され、同年5月28日には次年度分の予算として第二回送金(1万ドル)が実施された。これは、UNRWAが活動を開始してからわずか3年後のことであり、一方で日本が国連に加盟するより3年前の出来事である。

敗戦後から国連復帰までのあいだ、日本はユニセフや途上国への経済開発技術援助など、ごく限られた事例ながら、国連の事業に物資や資金を提供していた。その背景には、戦後日本の国際社会への復帰、より端的に言えば国連への加盟という目的が透けて見える。UNRWAへの資金拠出は、こうした戦後日本の歩みの一幕として実施されたと考えることが妥当だろう。

初めての拠出からの70

1954年6月11日、UNRWA局長代理レスリー・カーバーから国連代表部公使宛てに礼状が発送された。そこには次のような文言がある。

Will you please convey to your Government my warm appreciation of this evidence of their support to our humanitarian cause.
(日本政府に対して我々の人道的事業に対する支援への感謝を伝えられたし)

日本側の事情はさておき、日本政府からUNRWAへの資金拠出は、少額ながら人道支援への貢献として位置づけられ、評価を受けた。以来、日本からUNRWAへの資金拠出は細々とだが続けられていくことになる。日本がUNRWAへの拠出額を増大させ、UNRWAの予算で存在感を示し始めるのは、オイルショックの発生を経た1974年を待たなければならない(1974年に日本はUNRWAに500万ドルを拠出したが、これは過去20年間の拠出総額を上回る金額だった)。こうした日本の対パレスチナ外交の変遷については、『パレスチナを知るための60章』(明石書店、2016年)で紹介しているので、ぜひ参照をして欲しい。

2023年現在、UNRWAには清田局長を含めて15名近くの日本人職員が在籍している。UNRWAの事業は、難民家庭の教育、保健、就業の各分野にまたがり、シリアやガザ地区を典型として緊急支援も実施している。雇用される職員の大半が難民家庭出身者であることも、大きな特徴だろう。UNRWAへの長年にわたる貢献は、ともすれば各国の利害関係に左右されがちな国際情勢のなかで、連綿と続いてきた日本の人道支援として改めて評価されている。

プロフィール

鈴木啓之中東地域研究

東京大学大学院総合文化研究科スルタン・カブース・グローバル中東研究寄付講座特任准教授。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員PD(日本女子大学)、日本学術振興会海外特別研究員(ヘブライ大学ハリー・S・トルーマン平和研究所)を経て、2019年9月より現職。著書に『蜂起〈インティファーダ〉:占領下のパレスチナ1967–1993』(東京大学出版会、2020年)、共編著に『パレスチナを知るための60章』(明石書店、2016年)。

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