2013.02.09

アフリカの風

佐藤慧 ジャーナリスト

国際

アフリカとの出会い

2007年の春、初めてアフリカの地を踏みしめた。どこまでも青く透き通る空、赤土の匂い、力強い緑。ぼくはバックパックを背負い、ケニア、タンザニアを1ヶ月間歩きまわった。

もともと世界のあちこちに興味があり、アジアやヨーロッパを旅することが多かった。しかしアフリカ大陸は、当時のぼくにとっては非常に遠い場所に感じられた。そもそもアフリカ大陸にいくつの独立国家があるか知らなかったし、歴史的背景も、奴隷貿易やアパルトヘイトといった、ごくわずかな例を除きほとんど知らなかった。

この旅の後、ぼくは渡米し、南部アフリカ各国の地域開発、支援を行なっているNGOへ所属することにした。旅人として訪れた土地を、少しでも「生活する人間の側」から見てみたかったのだ。半年の研修を経て、ザンビア共和国への派遣が決まった。電気も水も安定しない田舎町へと向かい、HIVエイズやマラリアなどの予防、啓発活動や、初等教育の拡充などといった仕事を行なっていた。

任期が終わり、米国へ帰国する頃になると、なんともいえない消化不良の思いが胸の内に積もっていた。地域開発の任を背負い、先進国から来た人間として、少しでも地元の人々の役に立ちたいと思ってこの地へ来た。しかし、ぼくの行なってきたことは本当に彼らのためになっていたのだろうか。ぼくはどこか、エイズやマラリアで簡単に命を落とす、この貧しい地域の人々を「可哀想」だという目で見てなかっただろうか。先進国で生まれ育ったというだけで、この人たちよりも優れた人間であるという傲慢はなかっただろうか。

こんな事件があった。

ぼくが遠出からオフィスに帰ってくると、何やら騒ぎが起きている。どうやら、スタッフ全員が出払っている隙に泥棒が侵入したらしい。ぼくの部屋も物色された跡があり、電子機器やお金がいくらかなくなっていた。

近所の人の目撃証言により、近所に住んでいた少年が犯人であることが判明した。少年は、盗んだお金で中古の携帯電話を買っていた。盗まれたiPodも少年の家から見つかった。同年代に、携帯電話を持っている友人などいない少年にとって、携帯電話は通信のツールではなく、自らの物欲を満たすステータスだった。充電することさえできない携帯電話を、なぜ少年はそんなに痛烈に欲しいと思ったのだろう。

この少年の犯罪には、ぼく自身、大きな責任を感じている。電気もままならない地域で、ぼくの持っていたPCやカメラ、iPodといった電子機器は、さぞかし魅力的なものに思えただろう。少年がそれまで感じることのなかった物欲を、ぼくがその地域に赴任したということで刺激してしまったのだ。

結局少年は、小さな村のあちこちで「泥棒少年」だというレッテルを貼られ、社会のつま弾き者になってしまった。ほどなく、彼は遠く離れた親戚の家に引き取られた。傲慢にも「アフリカの貧しい人々を助けたい」と思っていたぼくは、結局のところひとりの少年を犯罪へと駆り立て、その人生をまるっきり変えてしまったのだ。

もちろん、これはぼくだけの責任ではないということは理解している。さまざまな要因が重なった結果、このような事態が生じてしまったのだ。しかし、良かれと思ってやっていたことが、自分の想像の及ばぬ所で人々に害を与える可能性があるのだということに対し、ぼくが無自覚だったことはたしかだった。

アフリカの現状を問題提起するために

その後米国へ戻り、米国や中米で後輩を教育する仕事に就いた。09年にはザンビアへ戻り、学校建設などにも携わった。そういった生活のなかで、現代社会の抱える多くのひずみにも、自然と目が向くようになっていった。

ザンビア共和国は、アフリカ大陸南部に位置する内陸国だ。周辺諸国には不安定な国も多く、とくに北のコンゴ民主共和国では、終わることなき内戦の火が常に燻っていた。ザンビア国内での経済格差も、みるみる内に広がっていった。首都のルサカは人口140万人ほどの中規模の都市だが、近年海外からの投資が急増し、大規模なショッピングモールなどが次々と建設されている。中間所得層も増え、休日には家族で映画を見たり、ショッピングに興じたりといった光景も見られるようになっていった。

しかし、それと反比例するように増えたのが圧倒的貧困層の人々だった。経済が集中し、発展していく段階の都市には、その富を求めて多くの流入者がやってくる。より勢いを増した社会のなかで、一般市民のなかからも富を掴むものが現れてきた。経済競争は加熱し、都市における価値判断基準は金銭の多寡がモノを言うようになってくる。

そうなると排除されていくのが、経済的価値を生み出し難い人々だ。貧困層の子ども、老人、障がい者といった社会的弱者は、経済の流れに取り残されるようにして排除されていく。100USドル以上もするようなシャツに身を包む若者がいる一方、明日を生きるための胃袋を満たせず、自らの命の尊厳を切り売りし、路上で果てる子どもたちが大勢いた。

世界中から支援の手が差し伸ばされ、国際機関からも多大なる援助を受けている国が、なぜこうも歪んだ経済を生み出してしまうのだろう。

ほんのわずかなお金で助かる命が、ゴミのように捨てられていく。石油や、特殊な鉱物資源の採掘可能な土地では、周囲の住民の環境を無視した開発が行われ、その利益の多くは、一部の特権階級や海外の企業、国々へと流れていく。万単位で住民の虐殺が行われても、その問題が世界規模で論じられることは少なく、極東の島国、日本のメディアでは「価値の低いニュース」として捨てられてしまう。

沢山の人々の草の根の活動は、たしかに人々の生活を変え、人々を取り巻くシステムにも影響を与えていたが、あまりにも微力だった。目の前の事態に応急処置を施す対症療法だけでは、このひずみを治療することは困難に思えた。まずは、問題を広く認知してもらわなければ。この問題が、アフリカの特別な場所の問題などではなく、社会的動物である人間全体の問題であるということを提起しなければ。そんな思いが募っていった。写真や言葉を駆使した「報道」という手段が、ぼくにとって最善の道に思えた。

ザンビアの孤児たちの現状

ひとりの人間がすべての物事に対処することはできない以上、必要とされるのはさまざまな役割分担だった。問題を調査、取材する人がいて、それらを伝える人がいる。その情報を受け取り、思索、議論し、行動へと移す人々がいる。最前線での活動から、その人々を支える後方支援を担当する人々まで、その活動の幅はさまざまだ。そのどれが欠けていても、問題の本質たる根本原因の治療には行き着かないのではないかと思っている。

直に現場で人々と触れ、その痛みも喜びも感じ取りたい、その風を体で感じたいと思う自分にとって、カメラとペンを携え現場に向かう仕事は天職とも思える仕事だった。早速ザンビアに戻り、首都の経済格差についての取材を始めた。

街のあちこちで、路上生活を行なっている孤児に話を聞いた。彼らは毎日、日銭を稼ぐためにあらゆることをやっていた。ゴミ拾いから車の窓拭き、窃盗、売春。それでも、彼らが明日を生き延びられる保障はどこにもなかった。

日本円にしてわずか10円足らずでトルエンを買い、布に染み込ませる。その香りを嗅ぐことで空腹を紛らわし、日々にしがみついている少年たちがいた。瞳はうつろで、呂律が回っていない。歯茎が溶け、手先が震えている。「これを嗅いでいると空腹を忘れられるんだ」、そう呟いた少年の目には、異国から来たアジア人ジャーナリストはどんな存在に映ったのだろう。取材を終えホテルに帰り、温かい食事を胃袋につめ込む自分に矛盾を感じた。

トルエンを吸い、空腹を紛らわせる少年

本当に幸せになれる社会とは?

街外れのゴミ山で生活する男性を追った。ゴミのなかから食べられるものを探し口に含むと、残りの時間を寝て過ごしていた。胸の詰まるような悪臭と、じめじめとべたつく湿気のなか、なんとか男性と話をしたいと思い、数日共に過ごした。

男性はぼくの方など見向きもせず、淡々と毎日を暮らしていた。その男性は日に数度、ある決まった動作を行うのだった。ゴミのなかに横たわり、手を合わせ、目を瞑り、何かに対して静かに祈りを捧げていた。ザンビアはイギリスにより植民地化されていた歴史を持ち、国民の多くがクリスチャンだった。この男性も、自分の信じる神に向けて、日々の祈りを捧げていたのかもしれない。

ちょうどこの取材中に訪れた現地の教会で見た、ある宗教系機関紙に次のような2コマ漫画が載っていた。

「神はなぜこのような貧困、紛争や飢餓といった災難を放っておかれるのだろう。その気になればすぐにでも解決できる力があるはずなのに…」

その言葉を受けて2コマ目に、別の男性がこう続ける。

「その問いを神に対して問うならば、神はまったく同じ問いを人類に対しても問うだろうね」。

どういうことか? 人間は、本当に「解決不可能」なものとして貧困や紛争を放っておいているのか? その気になれば解決できるのに、「何かしらの事情」で解決することを拒んでいるのではないか?

この世界の必然として、「本当に必要のないものは駆逐される」という原理があると思う。すべてのものがすべてのものに依って成り立つこの世界のなかで、「必要のないもの」は自然と淘汰されていくのではないか。つまり、ぼくたちの生きているこの社会は、「貧困や紛争」、「格差による犠牲者」を「必要とする」社会なのではないか? そんな意識構造の上に成り立つ社会は、はたして真に人間が幸福を目指せる社会なのか。この男性の写真を見る度にそんなことを考える。

ゴミのなかで祈りを捧げる男性

誰かに共感することが希望につながる

その後もさまざまな場所で取材を行い、世のなかのひずみ、理不尽な現実というものに直面してきた。

祖国に帰ることのできないアンゴラ難民の家族。この20年間で500万とも600万とも言われる人々が内戦によって命を失ったコンゴ民主共和国の人々。世界で一番新しい国でありながら、内情はとても独立国家とは思えないほどに社会インフラの壊滅的な南スーダンの国民たち。

そんな理不尽な出来事に触れていると、ときに人間の可能性を信じられなくなる瞬間がある。人間は本当に幸福に生きることができるのだろうか。いつまでも果てなき、殺戮と破壊の炎に身を焼かれていくことしかできないのではないか。ひとりひとりの命には明確に値段がつけられ、市場原理は政府の崩壊した戦場まで入り込み、報道は命の尊厳よりも経済価値によって切り売りされる。

右を見ても左を見ても、絶望的な光景が広がるなか、人々が未来を描くための希望はどこに見いだせるのだろうか。さまざまな現場を取材するなか、ぼくはずっと「希望」という言葉の意味を考えてきた。それは決して、「絶望など一切感じさせない、濁りなく輝く光のような完全無欠の存在」のことではない。希望とは、どれだけ絶望的な状況に喘いでいても、「明日も生きて行こう」と思える、ほんの小さな、しかし確固とした光の粒のようなものだ。わずか0.1%でも希望を持っていたら、99.9%の絶望に呑み込まれることはない。では、その0.1%の希望とはどのようなものなのか。

ザンビアで出逢った人々のなかで、とくに強く印象に残っている少年がいる。その少年と出逢ったのは、ある孤児院でのことだった。ベッドで横たわる少年の側を、その孤児院を経営しているシスターとともに通りがかった。

「この少年は、母親の胎内にいたときからすでに、HIVウイルスに感染してしまっているのです」

目の前ですやすやと寝息を立てている少年は、そこらへんにいる普通の少年と変わらないように見える。しかし、その体内にはHIVウイルスが巣食い、いずれエイズを発症し、死に至る可能性はきわめて高かった。きっと生後すぐの血液検査で、彼がHIV陽性だとわかったのだろう。両親はこの少年を孤児院の前に捨てていくことを決めたようだ。

「人間は生まれてくる場所を選べません、なぜ、この少年はこんなに理不尽な運命を背負って生まれてきたのですか? 若くして潰える命だとしたら、その命にはどんな意味があるというのですか?」

ぼくは、言葉にするのも難しいもやもやとした気持ちを抱えながら、シスターにそう尋ねた。

もちろん、現代の医療技術をもってしたら、HIVウイルスの活性化を抑え、エイズの発症をかぎりなくゼロに抑える治療法があることは知っていた。しかし、そういった治療法があるという事実と、その治療を受けられるかどうかといったことはまったく別のことなのだ。貧困国の孤児院で生まれたこの少年にとって、エイズの発症は避けがたいことなのかもしれない。ただ「生まれた」というだけで、理不尽を一身に背負う少年の命が、なんとも儚いものに思えてしょうがなかったのだ。

「あなたは今、この少年の命を可哀想で無意味な運命だと思っているのかもしれません。でも、違うのですよ。この、儚い運命を背負って生まれてきた少年が目の前にいるからこそ、あなたは今、人間の生きる意味や、他人への愛について考える機会を頂いているのです。この少年は、他のすべての人々のために、痛みを抱えて生まれてきたのですよ」

シスターは優しく微笑み、慈愛に満ちた瞳で少年を見つめながらそう言った。その言葉を聴いて、ぼくは自分がなぜあちこちに足を運び、多くの悲しみをシャッターに収め、言葉を紡ぎたいと思うのか、わかった気がした。

もちろん、この考えは、傲慢な他人の考え方なのかもしれない。ぼくらがどれだけこの少年の命を肯定したところで、いずれエイズを発症する少年からしたら、「なぜ自分はこんな理不尽な運命を背負って生まれてきたのだろう」と、その命を嘆くことになるかもしれない。

しかし、どれだけ悲しい事実、理不尽な出来事でも、その痛みから真摯に何かを学ぼうとする姿勢があるかぎり、すべてのものは未来への糧となるのだということを、このシスターの言葉は示していた。

人間は、「共感」という能力を持っている。他者の痛みを、まるで我がもののごとく感じることができ、ともに泣くことができる。他者の幸せを喜び、ともに笑うことができる。数えきれないほどの理不尽に埋もれたこの世界のなかで、ぼくがしがみつくことのできる「希望」というのは、人間の持つこの「共感能力」に他ならない。

孤児院で眠るこの少年は、生まれた時からHIVに感染している

喜びや悲しみが未来を紡ぐ糧になる

ときどき急にアフリカへ帰りたくなるときがある。アフリカの諺に、こんな言葉があるそうだ。

「アフリカの水を飲んだものは、アフリカへ帰る」

その土地に魅せられた人々は、いずれ必ずアフリカへ帰ってくるという意味だ。

ぼくはときどき、アフリカの透き通るほどに青い空を駆け抜ける風を想像する。「アフリカ」という言葉、そのひとことで括るには、あまりにも広く、多様な世界に触れることで、ぼくは沢山のことを学んでいる。

俗に貧困、飢餓、紛争の絶えない土地として、ネガティブな報道が多く目につくアフリカという土地に、多くの豊潤で、色鮮やかな文化や生活があることをぼくは知っている。そこに暮らす人々が、ぼくと同じ笑顔を持ち、涙を流すことをぼくは知っている。そこで感じた喜びや悲しみが、未来を紡ぐ糧となり得ることをぼくは知っている。

すべての人間は、どこかに生きる誰かではなく、ともにこの世界を生きる人間として、お互いに学び合えるということを、今まで出逢った多くの人々を通じて感じてきた。10年先、100年先、1000年先のことになるかもしれないが、いつか人間が恒久的に平和な世界を生きる日々を願って、どこまでも風を感じて行きたい。

プロフィール

佐藤慧ジャーナリスト

studioAFTERMODE所属ジャーナリスト。1982年岩手県生まれ。大学時代は音楽を専攻。世界を旅するなかで世界の不条理にきづく。2007年 にアメリカのNGOに渡り研修を受け、その後南部アフリカ、中米などで地域開発の任務につく。2009年にはザンビア共和国にて学校建設のプロジェクトに携わる。現在はアフリカを中心に取材を進めている。写真と文章を駆使し、人間の可能性、命の価値を伝えつづける。2011年世界ピースアートコンクール入賞。東京都在住。近著「ファインダー越しの3.11」

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