2013.01.22

あそこにエイズの村がある 

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

国際 #エイズ#HIV感染者#クメール・ルージュ#カンボジア共産党#NAA#ジェネリック

HIV感染者が集められた村

カンボジアの首都プノンペン市、ボレイケーラ地区のスラム街を歩いていたときのことだった。街の人々が指差した先には、緑色の壁にかこまれた一画があった。小さな扉から中に入ってみると、そこには緑色のトタンで作られた長屋があり、ベニヤ板一枚で仕切られた部屋に、HIV感染者を抱える32家族が暮らしていた。彼らは自分の意思でここに移り住んできたのではない。元はこの地区にばらばらに住んでいた家族たちが、2007年、政府によってこの一角に集められたのだ。「夜9時になると、ここの扉を市の役人が閉めに来るんだよ」。村人がつぶやくように教えてくれた。住居の密集したこの地区の中で、この村の存在は少し異質に見えた。

近年開発が進み、首都プノンペンの地価上昇と共にスラム街の強制排除が相次いだ。ボレイケーラ地区は観光相の施設建設のため、住人との交渉が進められていた。近隣に建設された代替住宅への移住が進んでいたが、その住宅のキャパシティと住人の数が明らかに合わなかった。そこで排除されつつあったのが、HIV感染者を抱える家族たちだった。

雨季の日課は、朝の魚捕りから始まる
雨季の日課は、朝の魚捕りから始まる

家庭内における悲劇の連鎖

HIV(ヒト免疫不全ウイルス)とは、人の免疫細胞を破壊するウイルスのことだ。血液や精液から体の中に入り込みウイルスが活性化していくと、本来ならば自分の力で抑えられるはずの病原体などに感染するようになってしまう。このような中でも代表的な疾患を発症した時点で、「エイズ発症」と診断されるのだ。

1997年にその感染率は3%と東南アジアでもっとも高い数字となった。そこにHIVに対する知識の欠如なども重なり、感染した父親から母親へ、そして生まれてくる赤ちゃんへと、家庭の中でも悲劇の連鎖はつづいていった。現在は1%を下回っているものの、その猛威が収まったわけではない。

「ねえ!僕の写真も撮ってよ!」村を初めて訪れたときに、真っ先に駆け寄ってきた小さな少年がいた。12歳になるトーイは、6人兄弟の末っ子。”トーイ”とははクメール語で「小さい」という意味だ。その名の通り、7・8歳の子どもと変わらないほど、体は細く小さい。わがままで甘えん坊、けれどもいつもケラケラと笑っている村一番の元気印は、皆から愛され、目をかけられていた。ある朝村に行くと、トーイがいつになく浮かない顔をしている。その日はお母さんと街に出かける日。「お母さんとお出かけしたくないの?」と何度声をかけても、下を向いて着替えようとしない。

トーイのお父さんは売春宿でHIVに感染、お母さんはお父さんから感染。そして6人兄弟のうちトーイにだけ、母子感染があった。この日は月に1回、街の病院で検診を受ける日だったのだ。母親のシボルさん(37)は「きちんとした診断を受けていたら……」とただただうつむくばかりだった。シボルさんはトーイが体調を崩すまで、トーイの感染だけでなく自分自身の感染にも気が付かなかったのだと言う。

病院では殆ど口をきかず、静かに診察を受けるトーイ
病院では殆ど口をきかず、静かに診察を受けるトーイ

カンボジアの歴史的背景から見た感染拡大の原因

ここでカンボジアにHIVの感染が広まった理由を、歴史に触れながら考えたい。

1970年代、この国は戦場となった。当時ベトナム戦争中だったアメリカは、戦況を少しでも有利にしようと、ベトナムの隣国であるカンボジアで自分たちの有利な勢力を支援し、1970年クーデターが起きる。これに対抗してカンボジアを制圧したのが「クメール・ルージュ(カンボジア共産党)」だった。この政権下では、脅威となる者、とくに教師や医師などの知識層が次々と虐殺され、当時はメガネをかけているだけで、殺害の対象となったと言われている。正確な統計は出されていないが、クメール・ルージュが実質支配をつづけた3年8ヶ月で、200万人近い人が殺害されたとも言われている。

カンボジアの友人から以前、「あれだけの悲惨な出来事を知りながら、なぜ世界は助けなかったのですか?」と聞かれたことがある。その言葉通り、当時は日本、そして国連までもが、クメール・ルージュを国家として認めていた。その背景にはクメール・ルージュを支援している中国と友好関係にあった西欧諸国をはじめ、様々な国々の思惑があった。こうして虐殺は黙殺されてしまったのだ。HIVが爆発的に広がった背景には、このような30年にも及ぶ社会的混乱による、近代的な医療システムの欠如などがあげられる。

その後HIVが広がっていった原因は、戦争が終わった後の和平の中にあった。1991年に戦争が終結すると、巨額の援助資金がこの国になだれ込む。クメール・ルージュ時代には通貨を廃止していたこの国に、突然破格の給与を与えられる人々が現れれば、当然社会のバランスは崩れていく。とくにこの時代は性産業が急激に拡がり、性産業従事者はおよそ1万5000人まで増え、自衛隊など外国軍が駐留する国連統治の終了と共に1万人にまで減少したとのデータもある。

村の男性たちはよく「HIVのことを知っていたら、売春宿なんて行かなかったさ」ということを口にする。カンボジア社会では男性が女性を買うことに関してはかなり寛容だ。このような性産業の拡がりと共に、HIVの感染者の数も増えていった。

知識不足や誤った認識がもたらす残酷な現実

去年亡くなったサムアートさん(39)。後には幼い女の子が遺された
去年亡くなったサムアートさん(39)。後には幼い女の子が遺された

トーイが感染した原因である母子感染は、母親の薬服用、帝王切開での出産、その後の母乳の遮断など、適切な処置をした場合、感染率を5%まで抑えることができると言われている。しかし何も処置をしない場合、自然感染率は15~45%にも上る(WHO発表)。現在のカンボジアには、医療保険制度が整っておらず、とくに貧困層の母親は、母子検診などに通わず、病院で出産する習慣も根付かない。そのためトーイの母親のように、自分の感染に気付かないまま子どもを生んでしまうケースが後を絶たない。現在HIV新規患者の3分の1が、母子感染によるものとされている。

正しい支援の方法とは何なのか

2009年6月、「緑の村」は市街から姿を消した。ついに政府による強制排除が実行に移され、中心街から20キロ離れた場所へと追いやられたのだった。都市から離れてしまったため、村人たちはそれまでの仕事を失い、近くに治療を受けられる病院もない。水道や電気なども十分に整備されていない。その上トタンで出来た長屋は熱を内に籠らせてしまう。雨季には中まで流れ込んでくる水の湿気も重なり、薬の管理はおろか、体調を保つことも困難な環境だった。

移住から1年以上が経ったある日、チャムロンさんという足の悪い40歳のお父さんが肺を患い、病院に運ばれた。奥さんはすでにエイズで亡くなっているため、一人息子のペー(13)とおばあさんの2人が、ベッドの上でひゅーひゅーと苦しそうに息をするチャムロンさんに三日三晩付き添った。けれどもその甲斐なく、チャムロンさんは入院後4日目未明に息を引き取った

焼き場からチャムロンさんの遺骨が出てきたとたん、おばあさんがわっと泣き出した。エイズに蝕まれた遺骨はぼろぼろで、ほんの一握りしか残らなかったのだった。「息子が小さくなってしまった。いったいなぜ、こんなことが起きてしまったのだろう」。泣きじゃくるおばあさん、そしてその横で泣くまいと歯を食いしばるペーを目の前に、言葉もなかった。

空になった家には、サムアートさんの遺影だけが遺されていた
空になった家には、サムアートさんの遺影だけが遺されていた

現在ではエイズ剤などの開発も進められ、たとえHIVに感染しても、きちんと服用すればエイズの発症をある程度抑えることが可能になっている。高価であるため、一時はごく一部の患者にしか行きわたることがなかった抗エイズ剤も、インドやタイのジェネリック(新薬の特許が切れた後、開発メーカー以外にも製造・販売が認められる薬)の流入や国際社会からの支援により、徐々にその普及率は上がってきた。カンボジアのNAA(National AIDS Authority)によると、ART(抗HIV療法:Antiretroviral Therapy)は必要な患者の90%近くに行き届いているとされている。チャムロンさんは、通っている病院に外国のNGOの支援が入り、抗エイズ剤を受け取ることができていた。

薬やウイルスの形態よって違いはあるが、抗エイズ剤は飲み忘れがつづくことによって、体に耐性ができ、同じ薬に効き目がなくなってしまう場合がある。チャムロンさんは一度も学校に行ったことがない人だった。時計の文字盤も読むことができない。彼がしっかりと薬を規則正しく飲むためには、丁寧に指導できる医療スタッフが不可欠だった。けれども内戦後、カンボジアは深刻な医師不足に悩まされてきた。

世界銀行の統計では、2010年の時点でカンボジアの医師の割合は1万人に2人。医師が不足すれば自動的に、患者一人当たりにかけられる時間も減ってくる。飲み忘れの数は日ごと増えていったのだという。環境が整わず、人も育っていない中で、ただ物だけがある。その状態が人の命を奪うこともある。支援の仕方が今、問われている。

水道がないため、雨水を溜め、飲み水や生活用水として使っている
水道がないため、雨水を溜め、飲み水や生活用水として使っている

小さな体で、生まれながらに自分の運命と闘うトーイ。けれども彼が闘わなければならないのは、ウイルスだけではなかった。

HIVは非常に感染力の弱いウイルスだ。人体の中でしか活動することができないため、普段の生活をともにするだけで感染することはない。それでもHIVに対する差別、偏見は根強く、「近寄るとうつる」「卑しい人間がなる病気だ」などの誤った認識が悲劇につながる。例えばトーイがNGOの支援を受けて通っている学校でも、クラスメイトの親たちがトーイから娘、息子を遠ざけてしまう、ということが度々起こってきたそうだ。彼のわがままや甘えは、彼が背負ってきた運命の重さの裏返し、少しずつ傷ついてきた心の表れなのではないか、そう感じずにはいられなかった。

新たな命が生まれゆくなかで

この村ではつねに、「死」がすぐ傍にある。そんな中、ひとつの生命の誕生が、村に新しい風を吹き込んだ。ヨッラーさん(40歳)は、感染元だった前の旦那さん、母子感染した娘を相次いで亡くした。その後、再婚。夫のバンナさん(60歳)は、働いていた市場で彼女と出会い、HIV感染者であることを知りながら結婚したのだった。お互いの体をいたわりながら、毎朝村はずれの井戸まで、2人で一緒に水汲みに行くのが日課だ。

「奥さんのこと、とても愛しているんですね」

「愛していなかったらどうして結婚しよう?」

バンナさんはいつもの渋い表情を少し緩ませながら、そう答える。2人にとっては当たり前すぎる質問だった。

そんな2人に子どもが生まれた。バンナさんにも、生まれた赤ちゃんにも、HIVの感染の症候はない。この小さな命がこの環境で生き抜き、村の支えになってくれることを、心から願った。

バンナさん夫婦。子どもと過ごす時間が一番の幸せなのだという
バンナさん夫婦。子どもと過ごす時間が一番の幸せなのだという

戦争からの復興を徐々に果たし、急速に発展しつつあるカンボジア。その一方で、開発の歪みに追い詰められている命は測り知れない。HIVはただ単に医療の問題だけではない。社会の意識の問題であり、貧困の問題であり、そして国際社会の支援の仕方の問題も絡んでいる。わたしたちが今、目を向けなければならないのは、発展の陰に隠れてしまっている、声を出せない人々の存在なのだ。

緑の美しい5月。トーン(13)が花束をつくってくれた
緑の美しい5月。トーン(13)が花束をつくってくれた

プロフィール

安田菜津紀フォトジャーナリスト

studio AFTERMODE 所属/フォトジャーナリスト。上智大学卒。2003年8月、「国境なき子どもたち」の友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。2006年、写真と出会ったことを機に、カンボジアを中心に各地の取材を始める。現在、東南アジアの貧困問題や、中東の難民問題などを中心に取材を進める。2008年7月、青年版国民栄誉賞「人間力大賞」会頭特別賞を受賞。2009年、日本ドキュメンタリー写真ユースコンテスト大賞受賞。共著『アジア×カメラ「正解」のない旅へ』。

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