2013.11.05

「子ども兵士」の背景と実情 ―― なぜ子どもが兵士になるのか

小峯茂嗣 NPO法人インターバンド代表理事、立教大学異文化コミュニケーション学部助教

国際 #子ども兵#児童の権利に関する条約#子どもの権利条約#神の抵抗軍

まだ幼さの残る顔の、しかしギラついた瞳のアフリカの少年が、その年に似つかわしくない小銃を肩に担いでいる。そんな写真や映像を見たことのある人は多いかもしれない。彼らは「少年兵」、「児童兵士」、「子ども兵士」などと呼ばれる(英語では”Child Soldiers”)。2000年代初頭の時点で、世界には50万人の子ども兵士がいるとされ、彼ら/彼女らは、戦闘だけではなく伝令や偵察といった任務に従事している。

彼らの姿から想起されるものは何だろうか? 子どもを殺人マシーンにさせる戦争のおぞましさだろうか。子どもとは思えないほどの残忍さを感じるだろうか。戦争に巻き込まれた子どもたちへの憐憫の情か……。そのような子ども兵士たちの理解は、たしかにその通りではあるが、表層的なものに過ぎなくもある。本稿では、その定義や社会的背景を踏まえ、事例を交えながら、子ども兵士とはそもそも誰であり、なぜ子どもは紛争下で兵士として動員されるのかについて解説していく。

子ども兵士の定義

歴史を遡れば、子どもが兵士として戦闘に参加することは珍しいことではなかった。少年十字軍に参加した少年少女、幕末の会津戦争の白虎隊もそうである。もちろん当時と現在とは「子ども」の定義は異なるわけで、現代の子ども兵士の問題と一様に扱うことはできないのだが。

それではまず現代の「子ども」とは誰か。「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」(1989年採択)では18歳未満を「児童(子ども)」と定義している。また、子ども兵士に関連する条項としては、同条約38条で、15歳未満の児童の軍隊への採用を禁止することが規定されている。この他にもいくつかの国際条約で児童の国軍への徴募や採用を、年齢を定めて規制している。

この時期以降、冷戦終結後のアジアやアフリカの発展途上国では、国内紛争が頻発するようになり、多くの子ども兵士が紛争に動員された(その背景については後述)。このような中、2007年にユニセフとフランス政府によって開催された国際会議において、「軍・武装集団に関係する児童に関するパリ原則とガイドライン」を決議した。その中では、国際的に合意された定義とした上で、子ども兵士とは、戦闘員、調理人、荷物運搬、伝令、スパイもしくは性的目的のために軍もしくは武装集団によって徴募、使用される18歳未満の少年少女であるとしている。

ウガンダのNGOが運営する元・子ども兵士リハビリ施設の少年。うつろな表情をしている。2005年撮影。(写真提供 アフリカ平和再建委員会)
ウガンダのNGOが運営する元・子ども兵士リハビリ施設の少年。うつろな表情をしている。2005年撮影。(写真提供 アフリカ平和再建委員会
ウガンダのNGOが運営する元・子ども兵士リハビリ施設の少年。うつろな表情をしている。2005年撮影。(写真提供 アフリカ平和再建委員会)
ウガンダのNGOが運営する元・子ども兵士リハビリ施設の少年。うつろな表情をしている。2005年撮影。(写真提供 アフリカ平和再建委員会

子ども兵士が生み出される背景―冷戦の終了と内戦の増加

90年代後半頃から、内戦下の子ども兵士の問題への関心が国際的に高まってきた。この時期は、おもにアフリカなどの発展途上国での内戦が頻発もしくは激化してきた頃と重なる。子ども兵士の問題は、冷戦後の世界情勢の変化と無関係ではない。

冷戦の終了により、米ソを盟主とする東西陣営に属する国家間の紛争の可能性は低くなった。しかしながらこのことは、東西どちらかの陣営に属してきた多くの発展途上国の国内の権力構造に影響を及ぼすこととなった。ポスト冷戦期に内戦が深刻化したアフリカ地域の文脈でいうと、冷戦期には内政不干渉の原則によって国内問題への干渉を受けることがなかった権力者たちは、東西どちらかの陣営に属することによって、「援助」という富を得、それをいわば「バラマキ」することで基盤を維持してきた。

しかし冷戦終了後、米ソなどの大国にとって、発展途上国を自陣営につなぎとめる戦略的動機は低下していく。これが援助減につながり、したがって権力者たちが配分する富のパイもまた縮小していくことになった。その結果、「バラマキ」の恩恵を受けられる層(例えば大統領の出自の民族集団や、出身地域といった血縁、地縁)から排除される層が出現するようになった。排除された層の中からはそのような権力者に反発する勢力が生まれていく。ただこの時点では、弱体化したとはいえども強大な権力者に抵抗しうる力は持てない。だが先進国が、援助と引き換えに権力者たちに民主化(複数政党制による選挙の実施)を要請するようになったことによって、反対勢力は「野党」という正統なステイタスを獲得するようになり、それを不当に弾圧することができなくなった権力者たちの力は相対的に弱まっていくこととなった。

このような流れと並行して、冷戦後の旧ソ連、東欧の社会主義諸国は、国内経済を再建する必要に迫られ、過度に必要ではなくなった通常兵器、小型武器を売却するようになり、それらが武器商人などの手を通じて発展途上国の反政府勢力に流れていくようになった。反政府勢力の資金源はさまざまだが、よく知られているのは鉱物資源の売却益である。シエラレオネ内戦では革命統一戦線(Revolutionary United Front)がダイヤモンドを、現在も続くコンゴ内戦では武装勢力がパソコンや携帯電話のコンデンサーに使うレアメタル「タンタル」を住民に採掘させ、それを資金源としている。このように先進国の消費や利便性が、アフリカの紛争と関わっていることを忘れてはならない。

このような背景でポスト冷戦期の武力紛争は、国家主体(政府、正規軍)と非国家主体(反政府武装勢力、ゲリラ組織など)の間で争われるものとなっていった。国内で紛争が行われるということは、暴力が一般大衆にとっても身近のものになるということであり、生活圏が戦場となることを意味する。そこでは成人男子だけでなく、女性そして子どもたちもまた暴力に巻き込まれていき、暴力の犠牲者としてだけではなく、正規軍や武装集団の動員の対象ともなるのである。

そして子どもでも兵士として戦力になりうるのは、上述の小型武器の流入である。とりわけ有名なのが自動小銃AK47(カラシニコフ)である。この銃は軽量であり、部品数が少ないため分解、整備が容易である。つまり子どもでも十分使用が可能であり、このこともまた、子どもを兵士として動員しうる背景となった。

なぜ子どもが兵士になるのか

子どもを兵士として動員可能とする社会情勢の変化について説明したが、実際に子どもたちが兵士になっていくことには、武装勢力のような動員する側と、動員される子どもたちとの双方に事情がある。

まず、武装勢力らが子どもを軍事的活動に動員する動機付け、あるいは子ども兵士に期待する役割とは何なのだろうか?

第一に、戦闘における成年兵力の温存機能である。戦闘に際し、子ども兵士を「特攻隊」さながらに敵兵に突撃させ、戦況を有利にすることができる。戦闘以外には、地雷処理に子ども兵士を使用する場合がある。これは地雷が埋設されているとされる地帯を部隊が通過する場合、子ども兵士たちに地雷原を歩かせるものである。当然、地雷を踏んだら爆発し、子ども兵士は負傷もしくは死亡する。そうやって「地雷除去」をした道を、部隊が移動していくのである。

第二に、運搬のような兵站機能の補完の機能である。部隊が移動する際などの荷運びに子ども兵士が使われるケースがある。国際機関などに保護された子ども兵士の中には苦役によって身体に異常をきたしている者も少なくない。

第三に、情報収集機能である。偵察やスパイ活動に子ども兵士を使う場合がある。子どもたちは体が小さくて見つかりにくいことや、子どもだということで怪しまれないですむことで、使いやすいのである。

第四に、成年兵士の性欲処理機能である。子ども兵士として動員されるのは少年だけでなく、少女も含まれる。彼女たちは上述の任務のほか、武装勢力の成年男子の「妻」ないし「従軍慰安婦」としての役割を担うのである。

このような事情を満たす上で、武装勢力は、必要になれば村を襲撃して子どもをさらったり、都市部にいる孤児やストリートチルドレンをリクルートしたりすることによって子ども兵士を「調達」する。調達や使用にあたってはコストがほとんどかからない(粗末な食事を出すだけで給料を払う必要がない)。そして子どもたちは洗脳しやすいこともある。暴力によって恐怖を植え付けて服従させるようにしたり、麻薬やガンパウダー(銃弾の中の火薬。幻覚作用をともなう成分が含まれているものがある)によって思考能力や戦闘の恐怖を失わせたりすることもある。

つまり、動員する側に取って子ども兵士は、調達が容易で取り換えがききやすく、使いやすい「道具」なのである。

一方で、子どもの側の事情もある。それは子どもたちが置かれている環境と無関係ではない。上述したように、子どもが兵士として動員される経緯に、誘拐されるというものがある。2000年代のウガンダ北部の反政府勢力「神の抵抗軍(Lord Resistance Army)」が村を襲って子どもを兵士にしてきたことはよく知られている。しかしこれは動員に至る経緯の一側面に過ぎない。紛争や災害、またはエイズといったさまざまな理由から、親や親類を失って孤児となった子どもが、何とか食べていくために武装勢力に自発的に合流するというケースもある。

ポスト冷戦期の国内紛争はアフリカなどの途上国で繰り広げられてきたが、そのような国々のとりわけ周縁部の農村などでは、子どもを保護する福祉政策が行き届かない場合も多い。そうなると、武装集団に合流することがセーフティネットになるという現実がある。またそういった国々では、貧困等が理由でストリートチルドレンになる子どもも多く、その中には、街で人々に煙たがられたり、警察に追い回されたりするのに比べれば、銃を手にして戦うことは「かっこいい」ことで、戦功をあげれば評価されて昇進することもある(成年兵士を統率する子ども兵士もいる)のも魅力である。このような「暴力の持つ誘惑」も、子どもが武装集団に流れていく大きな要因なのである。

ある元・子ども兵士の物語

90年代後半2000年代初めのアフリカの紛争の場合、一国の紛争が隣国の新たな紛争の火種になるケースが多くあった。難民流出等の大量の人口移動、武器などの物資の移動、武装集団が越境してそこを拠点とする等の現象が起こるからである。

その過程で子どもが動員される場合もある。筆者がルワンダで会った元・子ども兵士(2006年当時、13歳)は、1994年のルワンダのジェノサイドの後に難民としてコンゴに行った子どもで、コンゴ人武装組織に徴兵され、コンゴで2年間(2001 – 2003年、8歳から10歳)、従軍した経験を持っていた。彼は家族がいなかったから兵になったとのことである。

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彼は部隊では、肌に塗る弾除けの薬(アフリカの伝統信仰に基づくもので、体に塗れば銃弾が当たらないとされる)を運ぶ役割をしていた。従軍中は、アルコールを飲み、マリファナに似たドラッグも摂取していた。家族がいないことが悲しかったから、それを考えないために飲んでいたとのことである。彼は自発的に除隊したわけではなく、 コンゴに展開する国連PKOに保護され、ルワンダ政府の機関である「除隊・社会復帰委員会(Rwanda Demobilization and Re-integration Commission:RDRC)」が運営するリハビリ施設に移送された。

しかし彼は、「除隊しても家族がいないから、本当は辞めたくなかった。帰るところがないことが分かっていたから」と語っていた。物心ついたときから武装集団に属していた彼にとっては、そこにいた仲間こそが家族であり、除隊して保護されるということはその「家族」から引き離されることだったのかもしれない。

子ども兵士の社会復帰への課題

このルワンダの元・子ども兵士のように保護されたり、部隊を脱走したりすることで子ども兵士ではなくなった子どもたちが社会復帰するためにはどのような課題があるのだろうか?

多くの子どもたちは子ども兵士として従軍している間に、心身ともに深刻な影響を受けている。肉体的な面では、戦闘中の負傷により通常生活が困難になることや、成長期に十分な栄養を取れなかったことによる身体的成長の遅れ、アルコールや麻薬などによる中毒症状があげられる。ウガンダの北部紛争のケースでは、元・子ども兵士は保護された後、数か月間を国際NGOや現地NGOが運営するリハビリ施設で過ごしていた。そこで治療を受けたり、栄養を取って健康を回復する。このようなリハビリ施設では、同時に読み書きや計算などの教育も施す。幼少時から長期間にわたって従軍をしていた元・子ども兵士たちの中には、そのような基礎教育すら受けることができなかった者もいる。これも社会復帰のためのトレーニングなのだ。

一方で、元・子ども兵士の多くが軍隊生活や戦場体験を経て、精神面でも深刻な影響を受ける。保護された元・子ども兵士は感情をコントロールすることができなくなった者が多く、何かの拍子に逆上して暴力を振るうことなどがある。例えばリハビリ施設の元・子ども兵士同士でどちらが戦場で勇敢に戦ったかで言い合いになり、相手が動けなるくらいまで暴力を振るってしまうようなことがある。また、戦場での凄惨な体験がトラウマになり、保護された後も毎夜、戦場の夢を見てうなされる子どもも多く、リハビリ施設ではトラウマ・カウンセリングを施すなどのケアが行われる。そこでの心理療法で、子供たちに自由に絵を描かせるというのがあるのだが、ほとんどの子どもが戦場で経験したことを描いている。それだけ深く子どもたちの心に暴力が刻み込まれているのである。

ルワンダの政府機関RDRCが運営する元・子ども兵士のリハビリ施設。歌や踊りをリハビリに取り入れている様子。2006年撮影。(撮影 小峯茂嗣)
ルワンダの政府機関RDRCが運営する元・子ども兵士のリハビリ施設。歌や踊りをリハビリに取り入れている様子。2006年撮影。(撮影 小峯茂嗣)

元・子ども兵士は数か月のリハビリの後、施設を出て地域社会に戻っていくことになり、もっぱら出身地の村にいる親や、親がいない場合は親類などに引き取ってもらうことになる。しかしすべてのコミュニティがそのような子どもたちを快く受け入れてくれるわけではない。兵士だった子どもの不安定な精神状態や凶暴性、殺人を犯してきたという過去により、そのような子どもを受け入れることに躊躇、あるいは拒絶することも少なくない。

ウガンダ北部紛争などの例では、武装集団が村を襲って子どもを拉致する際に、その子どもに村人を殺させるということがあった。その子どもが村の人間に恨まれて帰れないようにし、武装集団とともに生きるしかないようにするためである。また女子の場合は、従軍中に性的虐待を受けてHIVなどの性病に感染したり、過去にレイプされたことなどが理由で社会から拒絶されるというケースもある。元・子ども兵士の社会復帰を支援する政府機関やNGOは、子どもたちがリハビリ施設を出て地域社会で暮らすようになってからも、子どもたちへの継続的なサポートや、地域社会の理解を促すような取り組みが必要とされるのである。

おわりに

子ども兵士に関しては、子どもの権利条約やパリ原則などの国際的規範が明文化されている。しかしながら紛争国において、国際法主体ではない武装集団と、暴力と貧困にさらされている子どもたちとの間の「需給関係」が成立している中、規範を掲げるだけでは状況を好転できないのも事実である。

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ウガンダのリハビリ施設で子どもたちが描いた絵。紛争時の経験を描いている。2005年撮影。(写真提供 アフリカ平和再建委員会)
ウガンダのリハビリ施設で子どもたちが描いた絵。紛争時の経験を描いている。2005年撮影。(写真提供 アフリカ平和再建委員会)
ウガンダのリハビリ施設で子どもたちが描いた絵。紛争時の経験を描いている。2005年撮影。(写真提供 アフリカ平和再建委員会)
ウガンダのリハビリ施設で子どもたちが描いた絵。紛争時の経験を描いている。2005年撮影。(写真提供 アフリカ平和再建委員会)
ウガンダのリハビリ施設で子どもたちが描いた絵。紛争時の経験を描いている。2005年撮影。(写真提供 アフリカ平和再建委員会)

地域社会に受け入れを拒否されたり、偏見の目で見られたりすることで、居場所を得られなくなった元・子ども兵士の中には、再び武装集団に身を投じる者もいる。その結果、子どもたちは「都合のいい消耗品」であり続け、また紛争の拡大や長期化にもつながっていく。このことはひいては社会開発の遅れにも影響していくのである。

紛争が続く限り子どもは好むと好まざるとにかかわらず兵士とされ、子ども兵士がいることで紛争が長期化するという悪循環。今この瞬間も、コンゴ、シリア、ミャンマーなどの国々で、子どもたちは政府軍や反政府勢力によって軍事的に徴用されている。子ども兵士問題の解決とは、極論するならば、紛争をなくすしかないのである。

参考文献・映像資料

アフリカ平和再建委員会活動レポート2005年7月号「ウガンダ―子ども兵士リハビリ施設現地調査」

アフリカ平和再建委員会活動レポート2005年11月号「ストップ子ども兵士アクション-元・子ども兵士の来日講演」

アフリカ平和再建委員会活動レポート2007年12月号「停戦したウガンダ北部への医療物資支援報告」

Child Soldiers International, “Louder than words – An agenda for action to end state use of child soldiers”, 2012.

レイチェル ブレット/マーガレット マカリン『世界の子ども兵―見えない子どもたち』新評論(2002年)

P.W.シンガー『子ども兵の戦争』日本放送協会出版(2006年)

小野圭司「子ども兵士問題の解決に向けて―合理性排除に向けた検討と今後の課題―」防衛研究所紀要第12巻第1号(2009年12月)

NHKスペシャル「チャイルドソルジャー―リベリアの少年兵」(1999年)

映画『Invisible Children』(2003年)

プロフィール

小峯茂嗣NPO法人インターバンド代表理事、立教大学異文化コミュニケーション学部助教

1994年のジェノサイド後のルワンダでの国民和解支援や、アジア諸国の民主化支援のための国際選挙監視活動、紛争経験国のファクト・ファインディング(実態把握)に、NGOとして関わる。現在、NPO法人インターバンド代表理事。

 

また大学教員として、紛争地域や平和構築の調査研究とともに、アジアやアフリカの開発途上国や紛争経験国に大学生を引率する海外実習プログラムを多数企画している。これまでに早稲田大学、東京外国語大学、大阪大学に勤務し、海外実習プログラムに参加した卒業生の中には、国際機関、政府開発援助機関、NGO、国際開発コンサルタント会社、総合商社など、国際的に活躍する者を多数輩出。2016年に立教大学異文化コミュニケーション学部助教に着任し、現在に至る。

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