2015.08.20

集団的自衛権容認は立憲主義の崩壊か?

山元一 憲法学・比較憲法学

政治 #集団的自衛権#立憲主義#安全保障関連法案

安倍内閣は、昨年7月1日の閣議決定で1972年以来定着してきた憲法9条についての解釈を変更する方針を表明しました。

それまで歴代政府は、国会における答弁を通じて、国際法上は個別的自衛権及び集団的自衛権を有しているけれども、日本は憲法9条の下で「武力の行使」が許されるのは個別的自衛権に限られる、という立場を取っていました。

安倍内閣は、この従来の解釈に代えて、今後は国際法上集団的自衛権に該当するケースであっても、一定の条件を満たす場合には、憲法9条の下で「武力の行使」をおこなうことができる、とする憲法解釈を採用しました。この憲法解釈に基づいて提出したのが、現在参議院で審議されている安全保障関連法案です。

約40年間採用してきた憲法解釈を変更したため、強い反対の声が国民各層から上がることになりました。特に注目を集めたのが、憲法学者による9条についての憲法解釈です。

6月4日の衆議院憲法審査会で本法案について意見を求められた3人の憲法学者がそろって違憲だと述べました。新聞や放送局が行った憲法学者のアンケート調査でも、約9割の憲法学者が立憲主義に反し違憲である、との見解に立っていると報道されました。

この小論は、三部にわかれます。Ⅰでは、安倍内閣による憲法解釈の変更の問題を取り上げます。立憲主義の崩壊だと強く批判されることの多い今回の政府による9条解釈の変更について改めて考えます。Ⅱでは、「戦後レジーム」という観点から、安倍内閣の安全保障政策について考えます。Ⅲでは、憲法9条論の将来の課題について考えます。

Ⅰ 政府による憲法9条解釈の変更

1 憲法解釈とは何か

まず、憲法解釈の性質を検討してみましょう。素人では判別のつかない問題について専門家に意見を求めることは、よくあることです。

例えば、妻の生んだ子どもが自分と全く似ていないことを不審に思った夫がいたとしましょう。彼が専門家であるDNA鑑定機関に親子関係の科学的鑑定を委ね、もしそこで得られた結果が否定的なものであれば裁判所に「この子は我が子ではない」と主張して、裁判を提起することがあります。

しかし、同じ専門家へのコンサルテーションだからといって、DNA鑑定と憲法学者の憲法解釈は、その性質を大きく異にします。DNA鑑定の場合に問題となるのは鑑定作業の科学的精度ですが、憲法学者がこのような問題について専門家として判定する場合には、個々の憲法学者の政治的社会的選好や価値判断が、その判断の帰結に最も重大な影響を及ぼすからです。

政治的社会的選好や価値判断については、何が正しいかについて判定することが困難で、科学的・客観的に決着をつけることができません。戦後の憲法学は、このような状況を踏まえて、憲法解釈という行為は、憲法についての客観的な認識作業ではなく、多かれ少なかれ主観性を帯びた実践的な政治的社会的行為であることを免れない、ととらえてきました。

2 <憲法9条解釈というフィールド>の特殊性

このような事情は、民事法や刑事法など、憲法以外のさまざまな分野の法学者のおこなう法解釈に関わる判断についても等しく当てはまるところであり、やはり個々の法学者の政治的社会的選好や価値判断が、法解釈に色濃く反映される定めにあります。

とはいえ、<憲法9条解釈というフィールド>には、他の憲法解釈や他分野の法解釈のフィールドには存在しない、見逃すことのできない特殊性があります。これには二つの側面があります。一つ目は、通常の学理解釈との違いです。二つ目は、憲法解釈における「時間」の要素です。

(1)通常の学理解釈との違い

通常の法解釈の場合には、いくら政治的社会的選好や価値判断が重要な影響を与えるといってもおのずと限度があり、裁判所で聞き入れられる可能性のある解釈を中心に、一定の幅の中で解釈論が闘わされることが一般的です。

この場合には、法律専門家によって示される学理解釈と単なる素人的解釈との区別を、裁判官・検察官・弁護士・法律学者らによって構成される法律家共同体の共通理解に照らして判別することが可能です。

これに対して、<憲法9条解釈というフィールド>においては、このような法律家共同体の共通理解による枠づけがほとんど機能しません。

というのも、違憲判断を求めて自衛隊の合憲性問題について裁判の場で争うことは今日ではもはや現実的でないため、憲法9条解釈の名宛人としては、裁判所よりもむしろ政党・政治団体や市民運動などのアクターが念頭に置かれているからです。

将来に向けて自衛隊の装備や活動範囲の一層の拡大を阻止し、できればその縮小・解体を実現することを主な目的として、政党や市民運動をエンパワーメントし、自衛隊からあえて法的正当性を奪う自衛隊違憲論が、憲法学者の間で今日なお根強いのはそのためです。

さらに、自衛隊の合憲性をめぐる議論は、いきおい政治的ストラテジーの色彩を帯びたものとなりがちです。政府の安保法制懇に対抗して作られた国民安保法制懇の報告書(2014年9月29日)では、従来、自衛隊違憲論に立っていた著名・有力な憲法学者が合憲論に転換しました。これは、それらの憲法学者がそのように主張した方が現在の政府の憲法解釈変更により有効に対抗できると政治的に判断したからだ、と考えられます。

<憲法9条解釈というフィールド>で示される憲法解釈は、憲法学者の政治的社会的選好や価値判断、さらにはその時々の政治状況に対応した政治的ストラテジーが露骨に示される場であり、通常の法律問題についての専門家としての学理的見解とはかなり趣を異にするものであることがわかります。

また、憲法学者となる動機として、憲法9条の掲げる崇高な理念に心打たれてその道に入った者も決して珍しくないことも付け加えておくべきでしょう。

憲法学者の見解について「9割の憲法学者が……」というようなメディアの報道が目につきます。メディアを通じて情報を得る批判的精神を備えた市民が理性的判断をおこなうためには、このような<憲法9条解釈というフィールド>のもつ特殊性をよく認識した上で報道を受け止めるリテラシーをもつことが、大変重要になってきます。

(2)憲法解釈における「時間」の要素

つぎに、憲法9条解釈を考える際には、「時間」という要素が極めて重要です。

よく知られているように、制定時の憲法9条の核心的な意義は、<従来、すべての侵略戦争は自衛の口実の下で行われたので、およそ自衛戦争と侵略戦争は区別できない>、とするものでした。

このような認識を前提として、戦争そのものを放棄し、その目的を実現するための戦力(近代戦争を実行するための武力)を持ってはならない、とするところに憲法9条の著しい特色がありました。その時点では、まさに専守防衛・個別的自衛権そのものの否定が行われたわけです。

しかし、「時間」の経過とともに、憲法の下でも個別的自衛権は認められており、それを行使するための必要最小限度の実力であれば憲法9条2項の禁止する「戦力」には当たらない、という9条解釈が内閣法制局から出され、いわゆる55年体制の下で歴代内閣がこの解釈を踏襲することによって次第に定着していくことになりました。

その同時代の憲法学者の圧倒的多数は、このような解釈を許される法解釈の枠の外にある「ニセ解釈」だとして、このような解釈を主導した内閣法制局を強く批判しました。しかし、次第にそのような声は聞かれなくなってきました。現在では、内閣法制局による解釈は、指導的な憲法学者の間でむしろ「国民的熟議の賜物」とまで高く評価されるようになりました。

こうして自衛隊は、一定の「時間」を経て社会的・法的に承認され、いわば日本社会において市民権を得た、といえるでしょう。このようなプロセスの中で、もともとの憲法9条のもっていた最も核心的意味が否定されてしまったのですから、率直に事態を直視する限り、これを「解釈改憲」のプロセスである、と理解せざるをえません。

おそらく、日本で憲法9条以外の領域において、「時間」が経過することによってかつて違憲と評価されていたものが合憲と見なされるようになる事例はほとんど見当たらないように思われます。

3 憲法9条の意義と政府による憲法解釈変更

上で見てきたように、法解釈の中でも極めて特殊のフィールドである<憲法9条解釈のフィールド>において、どのように向きあえばよいでしょうか。

一つの考え方は、法哲学者の井上達夫教授が主張するように、「解釈改憲」が行われてきた憲法9条の歴史を欺瞞の産物と見て、憲法9条の削除を提案することです。

しかし、筆者はそのようには考えません。確かに、集団的自衛権を容認するなら、おそらく「解釈改憲」より「明文改憲」の方がベターな方法であり、法的安定性に負担をかけないことは、事実です。

他方、悲惨な戦争を経て手に入れた憲法9条2項には手をつけたくない、という国民の意見が幅広く存在することにもしっかりと目を向ける必要があります。

憲法9条は、「平和文化」を日本社会に根づかせたことに決定的な意義があります。広島と長崎、沖縄地上戦など恐ろしい戦争の悲劇の結果日本国民に与えられた最高の宝物であり、そして「国のために命を捨てることこそが国民にとって最高の生き方である」とする戦時中の社会を支配していた「戦争文化」を根底から否定することを通じて、平和な世界に生きられることを何よりも大切と考える文化です。

学生団体「SEALDs(シールズ)」の活動を批判した自民党武藤貴也衆院議員の思想がはっきりと示すように、人権を尊重し平和を重んじる戦後社会の「平和文化」に違和感を持つ政治的意見が今日なお一定の支持を集めていることに照らすと、憲法9条を改正することなく堅持し、「平和文化」のシンボルとして高く掲げることには今日の日本社会にとって大きな意義があるというべきです。

このように考えてくると、安全保障環境の変化や国民各層の意見を聞きながら、少しずつ9条解釈を変更していく選択肢もあり得るのではないか、と思われます。

これとは逆に、もともとは自衛隊を認めること自体が「ニセ解釈」だったはずなのに、<戦力不保持規定を定める9条2項のもとで個別的自衛権を容認したところまでは「国民的熟議の賜物」であるといえるが、集団的自衛権の容認に乗り出すと、その時点から直ちに日本の立憲主義は崩壊してしまう>、という現在の憲法学界で広い支持を集めている考え方にも賛成することができません。

国際法が許容する枠内で、いかなる自衛権の行使の範囲であれば合憲的と評価することができるかについては、これまでの9条解釈の歴史がそうであったように、憲法制定時から現在までそして現在から未来へと果てしなく続けられていく持続的なプロセスの中で評価する視点が大切であるように思われます。

ここで参考になるのは、長谷部恭男教授が憲法9条について、「ある問題に対する答えを一義的に定める準則」(この場合には、<国は近代的な戦争を行う装備を一切保持できない>ことを定めたルール)ではなく、「答えをある特定の方向へと導く力として働くにとどまる原理」という性質を帯びた法規範としてとらえるべきだと述べたことです。

法的安定性の確保の観点からは、政府が安易にそれまでの憲法9条解釈を変更することは避けるべきです。しかし、憲法9条が一義的なルールを具体化するものであるよりもむしろ政策決定の「方向」を指し示すものであるとすれば、自衛隊の活動範囲を拡大するために必要な憲法解釈の変更は、その性質上9条の求める「方向」づけと対立するものだと捉えることができます。

このような場合は、政府の憲法解釈変更に対して厳しい論証責任が課され、政府の裁量についても厳しく法的規律を受けるべきだ、と考えるべきです。軍事組織に対する警戒感が強い国民感情にも応えるものでしょう。

本法案のケースでいえば、なぜ個別的自衛権では不十分であり、限定的とはいえ集団的自衛権の必要があるのか、安全保障にかかわる情勢変化から軍事技術面の変化までの積極的論証を果たすことができなければ憲法解釈の変更は妥当であると考えられず、安全保障関連法案は違憲の疑いが濃くなります。

しかも、昨年7月の閣議決定では、憲法解釈変更によって集団的自衛権の行使が容認されるとはいえ、それは、あくまでも「従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置」であることが標榜されました。

その上で、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」に限定されるというのですから、安全保障関連法の中で要件を規定する場合には、時の政権により拡大解釈される余地がないようにすべきです。

例えば、「他国に対する武力攻撃が発生したことにより、我が国に対する外部からの武力攻撃が行われる明白な危険が生じた場合」に限定することが妥当でしょう(阪田雅裕元内閣法制局長官の見解)。

また、この時点では日本に対する武力攻撃は発生していないのですから、国会が国政の重要問題について決定権をもつべきだとする憲法の趣旨を尊重して、国会による事前の承認を絶対的な条件とするべきです。

逆に、もし仮に政府がそのような論証に成功し、今後数回の選挙の洗礼を経て法案に対する国民的支持が安定的に獲得されれば、現在の内閣法制局の見解である新たな憲法解釈が正当性を獲得することになるでしょう。

相異なった政治的立場に立つ者の提出する憲法9条をめぐる解釈論間の闘争を、言論の自由と民主主義的政治的活動が十分に保障される環境の下で継続し積み上げていくことが重要だといえるのではないでしょうか。

Ⅱ 二つの「戦後レジーム」と安倍内閣

1 「戦後レジーム」の中の集団的自衛権

安倍内閣の問題を考える際に避けて通れないのは、「戦後レジーム」に関する問題です。集団的自衛権の成立が、安倍内閣の言う「戦後レジーム」清算への一歩であるかのように言われています。

現在の政権批判論においては、個別的自衛権なら健全な防衛であり、集団的自衛権は悪魔的であるという、グロテスクな描き方になっています。

従来の内閣法制局の憲法解釈が、憲法上発動することが許される個別的自衛権と、許されない集団的自衛権という形で完全に峻別してきたことの影響を見て取れます。

そもそも、集団的自衛権は、戦争中多くの貴重な人命が失われたことに対する強い反省の念に立脚して、第二次世界大戦後国際連合が発足し、集団的安全保障体制が確立される中で、生み出された観念です。

確かに、集団的自衛権には、戦争を誘発し拡大させる危険性を内包している面がありますから、要・取扱注意の概念です。実際、1956年にハンガリー動乱などが起きた時、ソビエト陣営が介入する口実として集団的自衛権を持ち出すなど、その名の下に、不当な行使がされたこともありました。

しかし、集団的自衛権が全く認められない世界というのは逆に恐ろしい面もあります。

現在の国際立憲主義体制では、軍事的措置を取るかの判定権を、国連の安全保障理事会に独占させています。常任理事国である5つの大国は拒否権を持っていますから、いずれかが拒否権を行使してしまうと、侵略された国以外は軍事的対応を取ることができません。そうすると、侵略された国は自分以外に自分を守ってくれる国は一切いなくなるということになります。

集団的自衛権は、国連軍が存在しない状況の下で、こうした安全保障理事会でのプロセスを経ることなく、第三国が他国の防衛行動をすることを法的に正当化するもので、安全保障を実現するための一定の補完性を持っています。

国際立憲主義体制の基本思想に照らして考えれば、自国以外の国の防衛を自国にまったく関係のない他者を防衛することとして考えることは妥当とはいえないのです。このような仕組みを整えて、国際的な次元で、人権と平和を実現することを世界に示した側面が「集団的自衛権」には含まれており、国際的次元における「戦後レジーム」の一環をなしている、ということができます。

2 国連憲章とシンクロする日本国憲法

国連憲章と同時期に制定された日本国憲法は、その前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べています。

これは、戦争違法化の流れの中で国連憲章と理念をわかちあいつつ、その上で日本は憲法で戦争放棄・戦力不保持を高らかに宣言し、当時創設されるであろうことが期待されていた国連軍による防衛に自国の安全保障の実現を期待するものでした。

国連憲章と日本国憲法の両者の基盤にある考え方は、理想主義的な国際民主主義思想です。この考え方は、国際的な平和を実現し、世界を生きる人々に人権を保障することと、それぞれの主権国家がその国内において、人権を保障し自由な政治活動のできる民主主義体制にすることは密接不可分な関係に立ち、いわば車の両輪をなしている、とするものです。

この二つをともに実現しなくては、この地球上で平和も人権も民主主義も実現できない、とするところに最大の眼目があります。国際問題と国内問題の切りわけが困難となった現在のグローバル化世界においては、この考え方はますます重要になっている、といえるでしょう。

まさにこのような考え方に基づいて連合国の指導の下で制定されたのが、日本国憲法です。憲法は、国内外に平和国家たることを宣言し、主権を天皇から国民に移し、基本的人権の保障を国家統治の究極的な目的とし、議会中心の政治制度を作り出しました。その中核的価値は、個人主義すなわち個人の尊重です。

このような理念の下に戦後日本でつくりだされた体制が、「戦後レジーム」です。戦前の自国の軍国主義化と侵略的行為の展開を強く反省し、このような平和・人権・民主主義といった価値を追求する「戦後レジーム」を法的に基礎づける憲法を制定することが、国連を中心として作り出された「戦後レジーム」に基づいた国際社会に日本が復帰していくための大前提でした。

3 安倍内閣による「戦後レジーム」のつまみ食い

ところが、安倍首相にとっての内政における最大の課題は、「戦後レジームからの脱却」であり続けてきました。

国内においては戦前の日本の行為の侵略性を曖昧にしようとし、この場面では<連合国の指導のもとで作られた憲法である>という歴史的経緯に拘泥し平和や人権といった戦後的価値観を軽侮する一方で、国際社会向けには、アメリカを中心に形成された「戦後レジーム」をあたかも礼賛するかのような姿勢を示しています。

「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」と、祖父岸信介の言葉を引きながらアメリカ議会で演説する一方で、自らの側近に、戦争犯罪人を裁いた東京裁判の批判的検証をおこなうことを示唆する政治家を重用しています(稲田朋美政調会長)。

また、2012年に発表された自民党改憲案について、その狙いは、人はだれでも生まれながらにして奪われることのない権利を有するとする天賦人権説を否定することにある、との起草委員の発言があります(片山さつき参院議員)。

集団的自衛権に関わる問題においては、軍事力の行使が問題となっている以上、その行使にあたっては高い倫理性が求められます。戦後の国際社会の掲げる価値に裏表なくコミットメントをする政治的主体でなければ、集団的自衛権を含めた国連憲章で定められた諸権利を行使する倫理的な資格を欠いているといわなければなりません。現在の安倍内閣の行っていることは、「戦後レジーム」のつまみ食いです。

今後の日本の外交・安全保障の問題は、

(a)自国の利益を離れて、国際社会全体のための国際公益を実現するための活動

(b)様々な地域で行われる対米軍事協力のための活動

(c)日米安保条約の枠内で行われる自国防衛に関する活動

の三つの活動領域に明確に区別をした上で、それぞれの課題ごとに国民的議論をしながら政策形成とその実行を行わなければならないと考えられます。

ところが、今回の安全保障関連法案は、これらをすべて同じ皿に載せています。とりわけ、(a)の問題について、国連憲章の理念に適合し、日本国憲法の求める平和・人権・民主主義と調和する「積極的平和主義」を具体化する方法は、将来に向かってさまざまな方向性に開かれており、持続的な民主主義的プロセスの中で今後その方向性を決定していくべき問題です。

しかし、いかなる内容の「積極的平和主義」を追求するのであれ、日本国憲法の基本的価値の否定を志す「戦後レジームからの脱却」を政治的エネルギーとする安倍首相がそれを担うべきではありません。

今回の安全保障関連法案について、一見極めて扇情的な表現である「戦争法案」だ、という批判が多くの人々の心を掴んでいますが、それはまさに、平和・人権・民主主義という基本理念を軽侮し、もっぱら自衛隊の活動範囲の拡大のみを目指す安倍内閣そのものの問題性の核心をついているからです。

なるほど安倍内閣は2度の総選挙で大勝したことで、自らの信じる政治を民主主義によって正当化されたと考えて強力に政治をおし進めていますが、NHK会長人事にみられるように、報道機関の独立性が確保された上ではじめて成立する民主主義空間を軽視する傾向があり、これでは選挙に基づく独裁政治となってしまいます。

Ⅲ 憲法9条論の将来像と<善き統治>

今回の集団的自衛権をめぐる議論の中で出された重要な問題のうちの一つは、安倍内閣が法律専門家の知見を軽視したことです。

法律家集団からなり、政府の活動を法律的にチェックする内閣法制局の憲法9条解釈を変更させるために、従来内部昇格させることが慣例であった内閣法制局長官ポストを、それまでこの組織と無縁であった外務省出身者に割り当てたことが強い批判を招きました。

この問題は、この国における<善き統治>は、<法>と<政治>にどのような関係をもたせることによって実現されうるか、という、憲法政治の根本に関わる問題です。

この点、内閣法制局が作られるときにお手本となったフランスの国務院の場合、内閣法制局と同様に政府提出法案の法律的観点からのチェックを行っていますが、国務院の実質的なトップは、かならず国務院出身者から選ばなければならないと法令によってはっきりと定められ、独立性が付与されています。

その上で、国務院は、あくまでも政府に対して法的助言をおこなう機関にすぎないので、国務院が違憲ないし違法との見解を出してもそれに従わず、政府が法的リスクを承知の上で、そのように判断された法案を提出することが認められています。

そのような法案が成立しても、その後国内の憲法裁判機関やヨーロッパレベルの裁判所が違憲や条約違反を宣言する可能性が確保されています。

笹田栄司教授が指摘するように、カナダの例にならって、現行制度では認められていない統治に関わる憲法問題を判断する役割を最高裁判所に付与することにより、慣例によってしか独立性が担保されていない内閣法制局に代わって、ルールによる規律を志向する<法>と変化してゆく状況に能動的に応答することを志向する<政治>のバランスを回復する制度改革をおこなうことが考えられます。

憲法9条をめぐる議論の将来像としては、国際政治や安全保障の専門家ではない憲法学者がどのような仕方で外交防衛政策の法的枠付けをおこなうことが、この国の<善き統治>に貢献することができるかについて慎重に検討する必要があるでしょう。

具体的には、(a)国際政治・安全保障研究者の専門的知見、(b)憲法学者や法律家集団の専門的知見、(c)国会その他で示される国民各層のさまざまな意見が、それぞれよりよく反映される議論のための多様なフォーラムを組織して、開かれた議論をおこなうことが求められるのではないでしょうか。

こうして、自由と民主主義の原理が貫かれる憲法政治の言論空間において、憲法解釈をめぐる持続的な対話と闘争のプロセスが確保される中で外交防衛政策が形成されていくことが、<未完のプロジェクトとしての憲法>の指し示す憲法9条論のあるべき将来像といえるでしょう。

プロフィール

山元一憲法学・比較憲法学

1961年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了(博士〔法学〕)。新潟大学教授、東北大学教授などを経て、2008年より慶應義塾大学教授。リヨン第二大学招聘教授,シャンスポ〔パリ〕招聘教授などを歴任。専門は憲法学、比較憲法学。フランス憲法理論,憲法のグローバル化が主な研究テーマ。著書として,『フランス憲政学の動向』(共著)、『現代フランス憲法理論』などがある。

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