2015.09.18

爆音のもとで暮らす──沖縄・普天間における「選択」と「責任」

岸政彦 社会学

政治 #普天間#基地移設

1. はじめに──普天間に住むことは「自己責任」か?

先日(2015年6月25日)、あるベストセラー作家が、自民党若手議員による憲法改正のための「文化芸術懇話会」という勉強会で、次のような発言をした。

「市街地に囲まれ世界一危険とされる米軍普天間飛行場の成り立ちを「もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった。基地の周りに行けば商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした」と述べ、基地の近隣住民がカネ目当てで移り住んできたとの認識を示した。」(『沖縄タイムス』2015年6月26日

この発言がどのような文脈で、どのような趣旨でおこなわれたのかについては、さしあたってここでは問わない。「商売になると」という言葉を「カネ目当て」という意味に受け取ってよいのかどうかも、ここでは議論しない。

ただ、この発言が、全体として次のことを意味していることは明らかだと思われる。

「普天間の周囲に住む人びとは、自らの意思でそうしている。その人びとは、基地の騒音などの被害をわかった上で住んでいる。自分から好きで住んでいるのだから、基地に対して異議申し立てをする権利はない。基地被害のすべての責任は、わかった上で好きで住んでいる人びとの側にある」

作家の発言が意味するところをまとめると、このようなことになるだろう。こう考えれば、彼の発言が、在日コリアンや被差別部落の人びと、あるいは外国人研修生などにしばしば向けられる、「嫌なら出ていけばいい」という論理とまったく同型であることがわかる。

彼が本当にカネ目当てと言ったのかどうか、それをどういう意味で言ったのかは問題ではない。重要なことは、彼の発言が、あらゆる基地問題の責任を、日本とアメリカの政府ではなく(あるいは日本人やアメリカ人ではなく)沖縄の人びとに帰属させるものである、ということだ。

そして、その根拠となっているのが、「好きで住んでいる」という事実である。この作家による下らない暴言それ自体は、ここでじっくりと取り上げるに値しないものである。しかし、同じような考えは、彼だけではなく、多くの人びとによって共有されている。

普天間の問題だけではなく、例えば、自ら進んで公園に住むホームレスや、自ら納得して働くセックスワーカーなどに対する、「自己責任」という名の論理のもとでの、差別的なまなざしがある。

この発言に対して、『沖縄タイムス』が反論する記事を掲載している。それによれば、宜野湾市(村)の普天間周辺には、戦前からすでに集落があり、9000人の人びとが暮らしていたという。(『沖縄タイムス』2015年6月27日

タイムスの記事の意味は、もともとそこには人が住んでいた、従って、そのあとも住み続けるのが当然だ、というものだ。しかし、すぐわかることだが、この反論は有効な反論にはなっていない。

なぜなら、現在の宜野湾市には、9000人どころか、ほぼ10万人もの人びとが暮らしているからである。この人びとはまさに、戦後になって普天間基地が「できてから」そこに住んだことになる。強制的にここに住まわされた人はほとんどいないだろうから、この10万人の「普通の人びと」は、自らの意思でここに住み、暮らしているということになる。

『沖縄タイムス』の反論記事も、「多くの地域は元の集落に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた」という表現になっている。このことは、暴言に反論するタイムスもまた、自由で意図的な行為には責任が伴い、もし責任が解除される場合があるとすれば、それは外部から強制され仕方なくおこなった行為であるはずだ、という考え方を共有していることを表しているのである。

それでは、この宜野湾の10万人の人びとは、基地が存在することの責任を負わなければならないのだろうか。そもそも、この人びとは、どのような経緯で、どのような選択でここに住んでいるのだろうか。私が知りたいのは、自らの意思で選択して普天間に住む人びとの、その選択の経緯や、実際の暮らしぶりについてである。そうした人びとの毎日の暮らしや人生の選択について知りたいのである。

先日、まさに普天間基地の真横に住む、ひとりの女性の生活史を聞き取った。本稿では、この語りからひとつの「沖縄の現実」について考えたい。Wさんの生活史から、宜野湾の人びとがどのようにしてそこに住んでいるのか、そしてそこにどれほどの「責任」が存在するのかについて考える。

2. Wさんの生活史

Wさんは42歳の女性、コザ(沖縄市)生まれ。職業は教員。夫は46歳で、同じく教員をしている。2歳の娘と、2匹の猫がいる。聞き取りは2015年8月9日。

2-1. いまの状況

──いまのお住まいはどのへんですか

宜野湾市のA地区というところなんですけど。ちょうど何ていうのかな、普天間飛行場の滑走路の近くですね。ちょうど飛行機が入ってくるところあたりです。

 

──けっこう爆音が。

はい、あります。すごいある。ずっとひっきりなしという感じではなくて、ジェット機の訓練の日とオスプレイもそこに混ざる日と、風向きでだいぶ違うんだなって、住むようになってわかったんですけど。その日によってだいぶ、騒音のひどい時刻は違ってる。

ただかなり、かなり、何だろ。もう天気がいいと、ともかく(騒音がひどくて)ダメですね。ジェット機も飛ぶし、オスプレイも飛ぶし。朝早く飛んで、深夜に還ってくる、(夜の)10時こえてから戻ってくる飛行機がかなりあるので。

ほんとに私、コザ(沖縄市)に住んでたので、爆音はかなりわかってるつもりだったんだけれども。時間が違うのと、音が違う。

──宜野湾のなかでも特にうるさい地域なんですか?

うん、そうだね。あの、大謝名っていうところが、自治会とか公民館の方が出てきて、テレビとかにも、「どれくらいの騒音か」っていうんだけど、そことほとんど同じ騒音。だから宜野湾でも、とてもうるさいエリア。

──沖縄のひとにもあんまり知られてない?

うん、A地区はものすごくうるさいっていうのは、宜野湾のひとだと知ってるって感じなのかな。もともとの宜野湾のひと。うちの親とかもやっぱりびっくりしてるし。ちょっとなんかあれだよね、平日にお客さんを招くのは躊躇するぐらい。まあ、見てもらうのはいいことかなとも思うんだけど、でも、こんな音でこんな振動なのねっていうのを……。

でもちょっと私がなんかお友だちがこのへんに住んでこういう状況だってわかったら、なんで?って(笑)、なんでって住み続けるのって、思うと思います(笑)。

──どんな音ですか?

……どんなんだろ。えとね、建物が音で震えるって言ったらいちばんわかるかな。

一時期ね、私、夫と仲が悪くなりました(笑)。あんまりイライラして、ふたりとも。音でね、なんかイライラして。あと、ちょっとほんとに、ドキドキするぐらいの振動なので。だから、そういうのが立て続けだから、だいたいね、夕食が、暮らしはじめたときには8時、9時、10時みたいな感じにごはんたべることが多かったから。ちょうどふたりでいる時間で。なんかイライラするねっていう。

ジェットが飛ぶ時間もだいたいわかってきて。この時間とこの時間は辛いよねっていうことがわかってきたんだけど、オスプレイがそこに混じるようになったので……。ウチが揺れるんですよね。

で、なんかこれで仲悪くなるのヤダねえっていう話になって、オスプレイが一機飛ぶたびになんか変なダンスを踊るっていうルールを決めて(笑)。なんか、それで仲直りするみたいな(笑)。そういうことをやったりした、時期もあった。

──子どもは大丈夫?

子どもねえ……。うーん、だいじょうぶじゃないかも。

子どもよりも実は猫がだいじょうぶじゃなかった。いまは、トイレの位置をともかく変えて、いちばん振動とかが弱いところにトイレを再設置したんだけど。引っ越してすぐ、これほんとに辛かったんだけど、引っ越してすぐの頃に膀胱炎に猫がなってしまって。(爆音が)怖くてそこでおしっこできなかったんだよね。で、それで、おしっこしてないよねって、いつも確認してたから、ちょっとこれまずいかもしれないって病院行ったら、膀胱炎になってて。白血球の値がすごい下がってるので、強い恐怖を感じてる状態だった。

トイレの場所を変えて、あと、お外にたまに散歩に行ってたんだけど、それは完全にやめさせて。私たちの寝室は、ともかく、いちばん音が少ないんだよね。だからそこに、猫のトイレとごはんを食べるところメインにして。それでだいぶ良くなった。

子どもはね、結局ね、ほぼ生まれたときからいるじゃない? だから、それもあると思うんだけど。猫のほうが、静かな暮らしのほうから連れてこられたんだよね。子どもはこういう、うるさい状態のなかでしか育ってきてないから。(でも)子どももジェットよりもオスプレイが苦手。抱っこされにくるのは、オスプレイのときが多い。

──オスプレイって、音もちょっと違いますよね

あー、違う、違う。吐きそうになりますよね。ドロドロって。あのね、ほんとになんだろう。お腹がひっくり返るみたいな音。

──補助金とか補償金とかはないんですか

あ、住宅の補助で、防音のはあるらしいんだけど、うちはやらなかったですね。そういえば川のむこうに、元知事の大田昌秀さんの家があって、ずっと、うるさいけれども補助金もらわないってやってたところなんですけど。なんとなく、なんていうのかな、ちょっとどっかで、もらわないほうがいいなって思って。(「対策してますか? 二重ガラスとか」)寝室だけはしていて、他はまったく何もしてないです。

2-2. 移り住んだ経緯

──いま住んで何年ぐらい?

4年半ぐらいになるかな。5年はならないかな。一戸建て。作りました(笑)。建てた。

──持ち家ですね、土地も。そもそもそこにしようとしたのは?

そうなんですよね。それなんだけど。首里にずっと住んでたんだよね。で、首里に住んでて、すごく静かだし、街を気に入ってたんだけど。私の実家がコザにあって、彼の実家が首里の隣、ほぼ首里なんだけど、そこにあって。

私は実家のほうにけっこう顔を出すので(実家では母が一人で暮らしている)。母に何かあったときのことを考えると、高速沿いで、実家まで40分ぐらいで帰れるっていうふうに考えたら、宜野湾か浦添の、高速(道路の出入り口を)出たエリア。

 

──車で暮らすには便利なところなんですね

すごく便利。高速、ここから3分で乗れるし。新都心とかにも遠くないし。いろんな意味で、便利なところなんだよね。まずはその、便利さというのと。それと、それぞれの実家の中間をとろうって。このあとのことを考えたら。

で、宜野湾か浦添で探していて。うちの前の道は路地になってて、住民以外は入れないんですよ。行き止まりになってて。だから猫が散歩ができるっていうのが、けっこう決め手で。

下に大きな川があって、湧き水があるんだよね。蛍がすごい出るんです、ここ。だから、便利さと、猫の安全っていうのがあって。そっちの生活のことをまずは考えて、うちになった感じかな。

──最初から家を建てるつもりで土地を探してた?

そうそう。最初から土地を探してた。不動産屋さんで紹介してもらいました。見に来て、かなり気に入ったって感じだったかな。もうひとつ、気に入って見てるところがあったんだけど、ここは、前の道が車が入ってこないってこと。それが大きかったかな。

──そのときに騒音のことは、覚悟はしてたわけですよね

そうなんですね……。あのね、飛行場の延長線上にあるから、音はうるさいっていうのは知ってたんだよね。でも、(自分が生まれ育った)コザみたいなうるささだと思ってたわけ。コザもうるさいんだけど、それは何ていうのか、テレビが見れなくなったりとか、回線が、ぶれてしまって見れなくなったりとか、家が振動で恐怖を感じるとかではもちろんなくって。ただ、すごくうるさいな、っていう、ちょっと不愉快だなっていううるささだったんだよね。

だから何か、わかってるつもりになっちゃったんだよね、音に関しては。彼は首里育ちだからまったく爆音の経験はなくって。そりゃうるさいよねきっとね、っていう話はしてて。

でもね、それより(土地を買うときに)いちばん怖かったっていうか心配したのは、斜め前が○○○○(激戦地)で、どちらかっていうと、地上が怖かった。なんていうんだろう。すごい激戦地であることは知ってて、たくさんひとが死んだ土地だなあと思ってて。

──激戦地だったっていうのも、土地を探すときに思ったりする?

思う、思う。不動産のひとにもそれは必ず聞くし。だけどね、なんか不動産のひとに言われて、すごく納得したんだけど、沖縄で中南部で土地探すときに、ひとが大量に死んでない土地なんて、ほぼ無いって言われて(笑)。そうだよね、そうだよね。それ探すほうが難しいよって言われて。そうかそうかって思って。ただ、その土地の怖い感じは、最初の頃は強くて。

 

──なんか感じるものがあったの

うーんとね、うーん、なんかね、怖かった(笑)。なんか怖かった。○○○○(激戦地)にいるし。だから、なんかなんとなく、なんかやっぱり怖いなあと。そういう感じで、「(土地に)呼ばれたひとたち」が回りにいるみたいな言い方するんだけど沖縄で。そういうふうな土地柄だなってのがあったから。

近所のおばあちゃんが、よく散歩してるおばあちゃんがいて、喋ってたら、この下の湧き水があるじゃない、ああありますね、蛍飛びますねっていう話をしてて。

戦争中はそこ大きな洞窟があって、住民のひとたちはみんな隠れてたって。その湧き水があるから、水がとりあえず確保できて生きながらえたんだよっていうお話とかを。

80歳近いんですけど。よく(私の家の玄関の)お花を見たりとか、ちぎっていったりとか勝手にするおばあちゃんなんだけど(笑)。きれいに咲いてるでしょって言いながら、笑いながら喋ってるんだけど(笑)。

そのおばあちゃんが、こっちの下はねって。そういう話をしてて。

 

──それは、それを買わない理由にはならなかったわけね

うーん…………。(買ったことの大きな理由のひとつは)蛍かなあ。ちょうど、5月ぐらいに土地を見に来ていて、夜も見にいこうって言って、ふたりで見にきたりしてたんだけど、そのとき蛍の群生がいて、ほんとにここで飛ぶんだねって、(土地を気に入って)ぽーってなっちゃった。

住み始めてというか、建ててるときに、建築士さんに、木造で、すごくシンプルなおうちでみたいな感じのことを言ってて、それで建築士さんもその方向で、みたいな話をしているときに、いや、無理だと思うって言われて。ちょっとそういう土地じゃないって言われて。爆音のレベルが。ちょっとこの方向だと無理っていう話に。けっきょく石で、コンクリートで造ったんですけども。とにかく木造なんてもう、まず暮らせないよっていう話になって。

──鉄筋コンクリートで建てても、それぐらい音は聞こえているんですね、いまでも。最初に住んでから、音には気づいた?

建ててるときにもう、気づいて。で、あとそのときに、オスプレイが普天間に配備されるんじゃないかっていう話がずっとされてて。なんていうのかな。そこまでひどいことがあるんだろうか、って思った。

こんなに普天間、いまでもひどいのに、こんな爆音のなかでみんな暮らしてるのに、ここにオスプレイみたいなものをほんとに配備するなんて、なんかひととして(そんなことが)あるのかなっていう感じがどこかにあって。

(日本に対する)不信だけではなかったんだよね(家を建てて住むまでは)。どっかでちゃんと大丈夫になっていくだろうみたいな感覚を持ってたんだけど。あ、そういう論理じゃないだな、って。痛感させられた。

──土地の前の持ち主とか、仲介の不動産屋とかは、ここそうとう騒音うるさいですよって言わなかった?

契約のときにしか、土地を持ってた方に会わなかったので。不動産の方は一切言わなかったです(笑)。

2-3. 地域社会の複雑さ

──まわりの人もみんな我慢してるんですか?

そうなんです。あのね、ご近所さんと音の話は、最初気軽にしてたんだけど、どんどんできなくなってきてるんだけど。

いちばん仲良しの隣の方は、軍で働いているんだよね。そう。で、だから、子どもたちととっても仲良しなんだけど、下の子は、うるさいねって言ったら「超うるさい!」って言うわけ、ふつうに。でも上のにいちゃんは、お父さんのことよくわかってるからと思うんだけど、ちっともうるさくないよって言うんだよね(笑)。

──へええええええ

そう。だからね、なんか、話しちゃいけないのかあって思って。だからね、下の子とは、やだね、とかって言ってるんだけど。

──そのひとは仕事があるから基地の近くに住んでるんですよね。まわりのひとはどういう経緯で

あ、隣の方は移住者で。内地の、うん、移住された方で。だから、やっぱり普天間がこうなってるのはわかんなかったって言ってた。あっちも、蛍すごいよねっていう話して(笑)。こんなとこあるんだってわかって。そうそううちもそう思ったみたいな、(この土地の良い点の)話(だけを)してるんだけど。

ななめ向かいの方は、おばあちゃんなんだけど、嘉手納から、ほんとに、(嘉手納基地の騒音がひどくて)どこでもいいから嘉手納から出たいって言って、ここの中古が出てたから、ここなら移れるっていって移ったら……「うるさいよねえ…」って。ほんとになんか、嘉手納でやられて、いまでもオスプレイ飛んだときとかはもうほんとに、「はあ……」って言いながら。

もういっこ、あのね、地域のひととどんどん話せなくなった理由なんだけど。知事選のあたりすごいポスターが貼られてたわけ。知事選の前か。まだ残ってるんだけど。どこの主催ともなんとも書いてなくって、宜野湾市民会館に何月何日あつまろう、参加は良いことですって、書かれてて、それがバーって近所に貼られて、で、それでね、さっき話した、お花をたまに盗みに来るけどいい話をするおばあちゃんがいるじゃない。そのおばあちゃんの隣のおうちは、すごい畑の作業を一生懸命するおばあちゃんがいて、私はそのおばあちゃんが大好きなんだけど、そのひとはね、なんかね、普天間から基地は出ていけっていうのぼりを、大量に立てたわけ自分の畑の前に。で、辺野古推進って揚げたの。その、働き者のおばあちゃんは。

──辺野古推進??

そうそう。辺野古の基地を推進するって、言葉ちょっと忘れたんだけど。

 

──じゃあ、普天間から出て行って、辺野古に行けっていう意味で。

そうそうそう。のぼりは、知事選前に掲げて、て、(当時の知事の)仲井真さんが(選挙に)おちた翌朝、すべて撤去されてました。

その、お花を盗むおばあちゃんと、働き者の(のぼりを立てた)おばあちゃん、おうちも隣なわけ(笑)。なんかほんとに、ほんっとになんかね、辛かった。なんかもう、毎日毎日ね、朝それ見て。近所の子もそういうふうにして、言えないのを見て。どんどん話せなくなるなあって思いながら。なんか今ね、すごくなんか辛い感じがある。

2-4. これから

──大変ですねえ……。慣れると思いますか? これから

うーん。難しいよね。生活だから慣れるとも思うし。だいたい、飛びどころとか、空をみて天気をみて風向きみたいなのを感じて、今日は飛ぶ日だなとかって、どっかでちゃんと覚悟して、1日をはじめたりするんだけど。

だけど、そういうふうにして最初の1年はすごいこう、腹づもりを作らないと、なんていうのかな。身がもたないっていう感じがあったんだけど、いまそこまで腹づもりみたいなものをしないでも、生きてられるんだよね。生活はできてしまうので。

すごい最初はね、喧嘩とかして、へんてこダンスみたいなものを踊らないと(笑)、なんか楽しく、楽しくっていうか、なんかちょっと、笑えなかったのに、いまは、(それまでは)他のことができなくなるくらい(軍用機が)飛ぶっていうこともあるんだけど、(いまでは)それをやらないでも暮らせるから。それを慣れというなら慣れなんだけど。

でも、怒ってはいる。怒ってる。普通に暮らしたいだけなのになんで?って。うん。

──自己責任で片付けるひとおるでしょ。あれどう思いますか?

うーん……。そうだよね…。なんかね、うーん。まあ、最初は悲しくなってたって感じかな。

選択の可能性はもちろんあるわけだから、そういった意味では、なんでそこを選んだのかっていうことは、言えてしまうとは思うんだけど…。いろいろな条件のなかで、私たちだったらひとり暮らしの母もいて、介護も間近になりそうだとかっていう状況があって、仕事も続けていかないといけなくて、そしたら、高速エリアっていうのはやっぱり最重要ポイントだったんですね。

だからそういうこととか、猫のこととかを考えたら、みたいな感じの、そういう選択のしかたのなかで選んだんだけど。そういうことで住みたい場所、住みたいと思って(ここに住んだのに)、生活がほんとに辛いというか、理不尽だなあと思いながら生きるのは……。なんていうのかな、お空の管理まで私はしようがなかった、っていう感じかな。

──そんなにそこまで考えずに、普通は家を買いますからね。

ていうかもっとさ、地続きのことで考えるじゃない、土地のことって。なんか、地べたのことで考えるというか。だから、歩いていて気持ちがいいかとかさ、高速までどれくらいとかさ、お店行きたいと思ったときにどれくらいかみたいな、そういうことで考えていて、上空をみたらものすごい飛んでるっていうのが。そして(オスプレイが新たに配備されて、さらに)どんどん飛ぶようになってしまうっていうのがあって。

で、それは暮らしてみるまではちょっとわからない。沖縄ってね、どこでもほんとに飛行機(軍用機)は飛んでるから、暮らしてみるまではわからないぐらいのものがあって。それは、自己責任だと言われると……やっぱりそれは私たちの責任かなあ、って思ってるんです。

 

──あの、ある作家が、金目当てだって言ったでしょ。あれどう思った?

苦笑、爆笑(笑)。なんでしょうね、何でも言うなあ、って思った。なんかあの、暮らさないとわからないことだとか、生活しているひとたちにとっての生活のリズムとか、そういう論理でしか生活は成り立ってないじゃない? だけど、沖縄のこととか普天間のこととかそういう論理で見ないひとたちって、大量にいるじゃない。

で、そういうひとたちにとってみれば、ここはあれだよね、生活者がいる場所じゃないよね。だから、そういうときに、なんか何でも言えて、言葉だけで暮らしのことを言ってしまえるみたいな感じ。また、これに飛びつくひとが大量に(出てきた)っていうのが、うーん。どうしたらいいのかなあっていう。

──これからどうしますか。まだ考えてない?

うん、暮らし続けるつもり。意地もあるのかな。ちゃんとずっと怒ってようとは思ってる。生活するために買った土地で、生活するために建てたお家だから。生活にとってはすごくメリットがあると思って、なけなしのお金をはたいて作った場所だから、移動がそもそもできないよね。だからここで住み続ける。

3. 結論──爆音のもとでの選択と責任

以上、Wさんの生活史を、おもに普天間へ移り住んだ経緯や、そこでの暮らしを中心に語ってもらった。Wさんの生活史を考えるまえに、普天間をかかえる宜野湾がどのような街なのか、簡単にまとめよう。

普天間基地が存在する沖縄県宜野湾市は、人口が密集する沖縄本島中南部の、ちょうど真ん中にある。

宜野湾市(Googleマップ)https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E5%AE%9C%E9%87%8E%E6%B9%BE%E5%B8%82/

宜野湾市の南には県庁所在地である那覇市、北には第2の都市である沖縄市がある。この二つの都市に挟まれ、沖縄本島の「背骨」である国道58号線を抱える宜野湾市は、その交通の便利さから、戦後に人口を激増させている。

戦前は、沖縄県がおよそ60万人弱、那覇市が10万人、宜野湾市は1万3000人程度で安定して推移していたのが、戦後になって急に人口が増加した。那覇市は1950年から60年までのわずか10年で、人口が2倍になっている。復帰前後から那覇の人口は30万で安定したが、かわってその頃からスプロール化がはじまり、浦添市、宜野湾市、沖縄市で人口が激増している。この4都市の人口を合計すると、沖縄県全体の半数を占めている。

下の写真は、東の海上から宜野湾市を撮影したものである。

この写真からもすぐにわかるように、沖縄本島のちょうどくびれのところに位置する宜野湾は、そのど真ん中を占める普天間基地を取り囲むように住宅が密集している。那覇と沖縄市に挟まれた宜野湾は、本島でももっとも交通の便のよい場所なのだが、そのかわり、どこに住んでも必ずそこは普天間基地の爆音が聞こえる場所なのである。

まずここでは、宜野湾市の位置と交通によって、戦後に人口が激増した、ということを押さえておこう。戦後、沖縄県内で起きただ規模な経済成長と人口増加、そして都市化と人口移動により、普天間の周辺にたくさんの人びとが暮らす街が形成されたのである。なお、戦後の沖縄の経済成長と人口動態については、拙著『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』(ナカニシヤ出版、2013)を参照していただきたい。

4年半ほどまえにこの街に引っ越してきたWさんは、基地の街であるコザ(沖縄市)で生まれ育った。コザは嘉手納基地に近く、戦闘機の爆音をそうとう聞かされて暮らしていた。内地の大学院で学んだあと、沖縄県に帰り、本島中部で教員をしている。同じ教員の夫は那覇市の首里の出身で、結婚してからしばらくは、高台にある閑静な住宅地である首里に住んでいた。

しばらく首里で暮らしたあと、コザで一人暮らしをする母親のためにも、コザと那覇の中間の、浦添や宜野湾で家を探した。普天間基地の真横にあるいまの土地を選んだ理由としてあげられているのが、交通の便である。当地はコザと那覇のちょうど中間にあり、また高速の出入り口もほど近く、車で暮らすにはとても住みやすいところなのだ。

そのほかにも、湧き水や蛍、あるいは猫のための道路条件など、私たち本土の人間が家を選ぶのとまったく変わらない理由で現在の土地が選ばれている。

普天間の爆音がどういうものであるかを知ったのは、家を建てている最中だった。コザでの爆音には慣れていて、普天間の爆音のことももちろんわかっていて、覚悟はしていたのだが、それは事前に思っていたのとはまったく異なるレベルの音と振動だった。

飼い猫が体調不良になり、また小さな子どもがオスプレイに怯えている様子が語られている。あまりのストレスに夫婦仲も悪くなりかけたのだが、それをさまざまな工夫で切り抜けている。

例えば、語りのなかでは「オスプレイが飛来して爆音が鳴っている間、『変てこダンス』を踊る」という、ユーモラスな物語も語られたが、そのストレスが相当なものであることを想像させる。もちろんそれでなんとかなるレベルの爆音ではないが、「それぐらいしないとやってられない」のである。

特に、そのことで夫婦仲が悪くなりかけた、という事実は、とても切ない。爆音は、まさに個人の生活のなかにまで入り込んでくるのである。

また、爆音と振動が、地域社会に亀裂をもたらしていることも語られた。近所に暮らす人びとのうち、ひとつの家族は父親が基地労働をしていて、そのせいか、子どもがオスプレイの騒音について話さなくなっている。

もうひとりのおばあさんは、畑に「普天間基地反対」というのぼりと同時に、「基地を辺野古に移せ」というのぼりも掲げていた。このようにして、基地の存在が、沖縄の人びとを分裂させ、対話を難しくしているのである。

もちろん、ひとりの生活史から宜野湾市の人びと全体を語ることは難しい。しかし、Wさんが住むことになった経緯と、そしてここで経験したことは、沖縄のひとつの現実そのものであるといえる。

すでにみたように、戦後になって、つまり普天間基地が「できてから」膨大な数の人びとが、宜野湾市に移り住んでいる。その最大の理由は、その地理的条件にある。コザと那覇に挟まれたこの地域は、経済的に困難な状況にあるコザや、すでに人口が飽和状態の那覇に比べ、住むことが容易なのである。

実際に浦添と宜野湾は、那覇の人口が30万人という上限に達してから、急速にその人口を増加させた。この膨大な人びとは、それぞれ一人ひとりが、自らの生活のなかで、さまざまな条件を考慮したうえで、自らの意思でここに住んでいる。

ここで暮らしている10万人の人びとは、それぞれがみな、いろいろな条件と制約のもとで自分自身の生活を抱える、「普通の人びと」である。そうした人びとが、さまざまな経緯で、ここにやってきて住んでいる。

それぞれの選択は、たしかにそれぞれの意思によってなされているのだが、たとえばWさんの語りを聞くとき、その選択は、複雑で多様な条件と制約のもとでなされることがわかる。つまり、普天間基地の隣に住んでいるのは、私たちとまったく同じように毎日の暮らしを送る「普通の人びと」なのである。

コザで爆音に慣れていたWさんでさえ予想もしなかったような普天間の爆音だが、一方で、寝室の窓を二重にしたり、「へんてこダンス」のような儀式を発明することで、なんとか折り合いをつけようという努力がなされる。

そして実際に、それは確かに、全財産を捨てて今すぐ逃げ出させるほどのものではないのかもしれない。夏には蛍が飛び、休日は静かに過ごせるのだ。交通の便もよく、住んでいて楽しいことも多いにちがいない。

しかしだからといって、オスプレイが飛来するたびに「吐きそうになる」気持ちがそれでなくなるわけでもない。私たちには、100%の生活はない。爆音を含むあらゆるものと折り合いをつけ、それでも生きていくのが、私たちの生活だ。こうした個人の生活が、基地被害の責任まで負わされるとすれば、私たちはもうどこでも生きていくことができない。

私たちの生活は、完全な自由と完全な強制の間にある。その複雑さや微妙さは、威勢のよいキャッチフレーズや、大所高所からの「地政学」的なまなざしからは、理解することができないだろう。

「嫌なら出ていけばいい」という言葉が排除するのは、Wさんの生活史の語りのような、ほんとうにそこで生きている個人の日々の暮らしである。たしかに宜野湾に住む人びとは、自らの自由な意図でそうしている。しかし、その行為は、さまざまな制約や条件や人間関係のなかで折り合いがつけられ、妥協されて選ばれたものである。

個人が自分の生存の条件のもとで、少しでも良きものにしようと精一杯選んだ人生に、私たちは果たして、あの巨大な普天間基地の「責任」を負わせることができるだろうか。

私たちは、個人の実際の生活史から考えることで、行為、意図、選択、責任などの概念について考え直すことをせまられる。たとえ自分の意思で普天間に住んだとしても、私たちは耐え難い騒音被害に対して異議申し立てをすることができる。まして、その責任を当事者個人に負わせることはできないのである。

プロフィール

岸政彦社会学

1967年生まれ。社会学者。大阪市立大学大学院文学研究科単位取得退学。博士(文学)。立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。研究テーマは沖縄、生活史、社会調査方法論。著書に『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』(ナカニシヤ出版、2013年)、『街の人生』(勁草書房、2014年)、『断片的なものの社会学』(朝日出版社、2015年)、『ビニール傘』(新潮社、2017年)など。

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