2012.11.20

震災、原発、首相交代 ―― 霞ヶ関広報の変化の芽を、過去形にしたくない

下村健一氏インタビュー【広報室審議官編】 

政治 #内閣広報室#民間事故調

学生時代からの旧知、菅直人の要請を受け、「国民と政権の間のパイプの詰まりを取ろう」と飛び込んだ内閣広報室。攻めの広報をやるつもりが、菅さんまでが守りの広報。着任1ヶ月でマインド・リセットを余儀なくされた下村氏。半年も経たない2011年3月11日に史上稀に見る大地震が起き、前例のない緊急時広報を経験することに。津波災害、原発事故への対応、被災地支援、首相の隣で国の中枢の決断と情報を国民に伝えるという大役を引き受けることになった。菅首相退陣から野田総理の新エネルギー政策決定まで、戦後最大の国難の時期を広報審議官として過ごした下村さんがふりかえる、「できたこと・できなかったこと・これから伝えたいこと」。(聞き手・構成/難波美帆)

【第1期】守りの広報 ―― コツコツと“前例”を積み上げ

難波 ここまでお話をうかがって下村さんが内閣広報室に入った経緯と戸惑い【転身編】、そして、2年間の任期が、取り組みの内容で大きく5つの時期に分かれると伺いました。まずは第1期、着任(一昨年10月22日)から翌年の3・11までの4ヶ月半の平時の広報審議官の仕事の中身についてお聞かせいただけますか?

下村 これはもう完全に、菅直人総理大臣密着の広報。ぼくの席は、内閣官房の建物(国会記者会館の隣。官邸の斜め向い)4階にある内閣広報室の本体にはあったけど、まったく行けたことがなくて、ずっと官邸にいました。ぼくの直属の上司、内閣広報室のトップである内閣広報官は、総理や官房長官と打ち合わせすることが多いから、官邸の中にも内閣広報官室という“出先”の部屋を持ってます。ぼくは菅さんにちょくちょく呼ばれるから、そこに常駐してました。

難波 内閣広報官と一緒の部屋で仕事ですか?

下村 一応、薄い仕切り板はありますけどね。机を置いて。呼び出し電話が来るたびに、4階のその部屋から5階の総理執務室へと、1日に何回も走って往復するという生活が続きました。

難波 「守りの広報」の時期とおっしゃっていましたが、その中で、ご自身で納得できる目に見えた前進はありましたか。

下村 印象深いのは、史上初のインターネット番組への総理生出演だと思います。1月始め、神保哲生さんのビデオニュース.comで、菅さんが生放送で年頭所感を1時間やりました。これは、福山官房副長官や寺田総理補佐官といった若い側近政治家がプッシュしてくれて、実現しました。ぼくはTBS社員を辞めた後、10年以上も市民メディア・アドバイザーという謎の肩書で、マスメディア以外の発信をサポートしてきました。ですから、この“前例”を作れたことは、今後の市民メディア発展の足場として大切だと思っています。

自分として一番時間をかけたのは、カンフルブログだったんですが、残念ながら、既存メディアが全然とり上げてくれませんでした。そりゃそうだよね、商業メディアとしては、総理がネットで直接国民と繋がってしまったら、いわば情報ルートとして“商売敵”の出現ですから。余程のことがないとわざわざ報道で紹介しないですよね。それで、アクセスは非常に伸び悩みましたけど、目に見えない副産物も狙って、とにかく動画と文字と両方での発信を続けていきました。

難波 副産物とは?

下村 お役所って、前例がモノを言う。だから、とにかくぼくは、2年という限られた自分の任期のうちに、今後のための前例をたくさん作っていこうと思ってたんです。

たとえば、総理が動画でどんどんしゃべるということ。今までは外遊に行っても、意味もなく遮断されていた部分にまで、徐々にぼくがブログ制作という理由で入っていった。1回目の外遊のときは、ビデオカメラを持った新参者が総理の周りをうろちょろするなんていうのは、徹底的に異端扱いされたんですよ、官邸筋からも外務官僚の方々からも。SPさんから、「ダメだよ、TBS!」と止められたこともありました。

でも、回数を重ねると、警戒すべき行動じゃないと判って、だんだん皆も慣れてくるじゃないですか。そうすると、「ああ、下村審議官、こっちこっち」なんて言ってくれるようになって。そうやって、徐々に風穴を開けていきました。「メディアはここまで」という規制線を超えて、1台だけ特別にカメラを入れるのは、大変。だから、規制線の中にいるぼくが撮って、アップした動画はメディアに全部使用OKにして、映像素材としてどうぞ国民に伝えてください、というルールにしました。

でも、それらの映像を、既存メディアも市民メディアも、まったく使ってくれなかったですね。ぼくの撮影で唯一引っ張りダコになったのが、震災発生翌朝に、菅さんが福島第一原発にヘリで降り立ったときのシーンかな。

難波 わたしも、サイエンス・メディア・センターという活動をやっていて、科学者の生コメントをメディアに提供する社会実験のようなことをしているんですが、日本のメディアはなかなか使ってくれませんね。海外のメディアは使います。しかし、日本のメディアは自分で取材したもの以外使おうとしません。

下村 使ってくれない彼らの論理は、ぼくもメディアにいたからわかります。「どうして俺らが、政府広報のお先棒を担がなくちゃいけないんだ」という矜持です。その姿勢自体は、間違っていません。メディアが権力の批判・監視をやめちゃったら、オシマイですから。だけど、「政府側のアングルを切り捨てて批判する」んじゃなくて、「それはそれとして伝えた上で批判する」という、是々非々のスタンスに立った方が、国民の考える材料が増えていいのになぁ、とぼくは思いますけどね。

そんなわけで、外から見たら、下村なにやってるんだかサッパリわからん。これが最初の4ヶ月間でした。

下村健一氏(TVキャスター時代)

[第2期]震災広報 ―― 今、被災者に必要なのは、水と食糧と情報!

下村 このまま同じ調子で最後まで行くしかないのかな、と思っていたところに、3.11が起きて、そこから一気に第2期に突入しました。原発事故発生からしばらくの間は、総理に密着した広報の意味も、それまでとは変わりました。ものすごく重要なミッションを帯びた。菅さんも後に述懐していますが、いつ原発の状況が変わって、首都圏3000万人の避難指示などの気が遠くなるような重大発表をしなきゃいけなくなるか、わからない。万が一のとき、その原稿をすぐ書くためには、自分が状況を常に把握してなくちゃいけない。この世の現実とは思えないほどの緊張感を持って総理にくっついていました。

と同時に、内閣広報室全体としても、ガラッとその日から仕事が変わって、「被災地にどうやって情報を届けるか」ということが最大ミッションになりました。その両方の掛け持ちとなったぼくは、5階で総理に密着をしながらも、隙をみては4階に駆け下りてミーティングに参加する、の繰り返しでした。

やっぱりここはメディアの人間の感覚でやらなきゃだめだ、霞ヶ関の人間の感覚で動いてる場合じゃないと思い、阪神大震災のときに初日から神戸に入っていたときのことを必死で思い出して、震災発生から1時間後にはみんな何を知りたいか、6時間後には何か、翌日は何か、と考えながら、こういう発信をしましょうという提案をし続けました。

広報室のメンバーもみんな、ありえないぐらいのスピードで動き、すぐさま特設ページを立ち上げ 、そこで各省庁の震災に関する決定をワンストップで見られるようにしました。それも省庁別ではなく、「いのち」「くらし」「しごと」「その他」の4つの見出しで分けようとか、並行して官邸災害ツイッターを始めようとか、そういう決定を矢継ぎ早に実行していきました。

このふたつを同時にやった最初の期間というのは、本当にもうまったく寝る暇がなかった。人間こんなに寝ないで、平気なのかと思いました。

難波 枝野さんも「寝ろ」とツイッターで書かれていましたが、官邸の方たちは皆さん寝てなかったんじゃないですか?

下村 枝野さんも菅さんも、誰も寝てなかったでしょう、最初の数日は。だって、足りないんだもん。「政府が3つ欲しい」と思いました。震災と津波だけで手一杯なのに、原発があんなことになっちゃって。震災・津波用の政府と、原発用の政府と、その間普段のやんなきゃいけないことをやる政府と、3つ欲しかったです。でも、国民の皆さんから見れば、「何やってんだ政府は、遅い!」ということだった。

あの実状を国のトップが空から見たから出せた決断

難波 東日本大震災は、阪神大震災のときと災害の様子が全然違いましたか?

下村 全然、違いました! それを思い知ったのは、震災発生の翌朝、菅さんと一緒にヘリコプターで飛んだとき。飛んでも、飛んでも、水浸しが続いている。なんだ、これ……と。大変なことになるなと思いました。

難波 わたしは、11日、テレビで津波が町を飲み込んでいく映像を見て、阪神が6000人だったことから考えて、2万人ぐらいの死者になるのではないかと、漠然と考えました。

下村 死者・行方不明19000人というのは、今はみんな知っているけど、自衛隊が人命救助した人数も19000人だったっていうのは、あまり知られてないですよね。あの視察ヘリは、本当に飛んでよかった。菅さんが、あのヘリから被災の俯瞰を見たことで、スケール感を感覚的につかめた。官邸のテレビ画面で、四角く切り取られた映像を見てたって、絶対わかんないですよ。

あの朝、厳寒の中で、被災地のビルの屋上とかに点々と取り残された人たちがいた。被災地の大きさに対して、助けを求めている人の小ささ。このコントラストが、強烈にぼくたちの目に見えたんです。

戻ってから菅さんは、とにかく出せるだけ自衛隊を出してくれと北澤防衛大臣に頼み、2万、5万、10万人と、どんどん出動命令が増えてったわけです。10万人出すっていうのは、大変な数ですよ。国防っていう本来の仕事がある中、ぎりぎりいっぱいの人数です。でも、それはあの実状を国のトップが空から見たから出せた決断だったとぼくは思う。それだけの人数がダーッと動いたから、19000人が助かった。

難波 その数は知りませんでした。津波を逃れていた人たちを、ずいぶん救出できたんですね。

下村 あんな時期ですから、助けが遅れていたら、寒さと飢えで、もっと犠牲者が増えてしまっていたと思います。

難波 今、当時のことを、調査報告書や、省庁の中にいた人がお書きになった本で知ることができるようになりましたが、3月、4月に報道を見ていたときは、日本ってこんなに危ない国だったんだな、こんなに危機管理能力がない国だったんだなと、恐怖を感じました。自分がそれを知らなかったことに、恐怖を感じました。

下村 申し訳ありません。難波さんが官邸の中にいたら、もっと感じたと思います。何じゃこりゃ、と。

難波 やはり、広域の大災害と原発事故のようなものが同時に起きるというのは、考えたこともなかったんですよね。

下村 懺悔しますが、ぼくも、内閣広報に入って3月11日までは、「今日、大震災と原発の爆発が同時に起きたらどうしよう」とは考えたこともなかったです。そして、もし誰かに当時それを問われたら、「そりゃあ、官邸地下に危機管理センターとか体制があるから大丈夫なはずでしょ」と、きっと答えたと思う。だって、「国」なんだから。自分の家の防災体制ならともかく、国の危機管理体制が大丈夫か個人としてチェックしなきゃ、なんて思いもしなかった。だから実際あの展開となったときに、「え、これ、国?」って何度も唖然とし、己の甘さを猛省しました。

難波 「国としてどうなのか、とぞっとした」と、民間事故調に証言として取り上げられた下村さんの一言ですね。報道に大きく取り上げられ、話題になりました。

下村 “菅叩き”に曲解されましたけどね。とにかく、「何も用意がないんじゃしょうがないね」って言ってる場合じゃないから、誰もが必死でした。

で、3月下旬かな。このあたりまで、時間の感覚が、日付も、昼夜の記憶すらもかなり曖昧なんですけど、空焚きが心配されてた4号機の冷却用プールに、理由は判らないけど奇跡的に水があるとわかったりして、徐々に、総理が重大な発表をしなくちゃいけないという切迫感が、一時よりは下がってきました。それでぼくは、「総理執務室から離れて、被災者への広報に専念させてくれ」と願い出ました。「本当にやむなくなったら5階に戻りますけど、そうじゃなければ内閣広報室の仕事を官邸の4階でします。5階にはなるべく呼ばないでください」と言いました。

内閣広報室では、総出で、「被災者に今必要なのは、水と食糧と情報!」を合言葉に、被災地に掲示する『政府からのお知らせ』という壁新聞を始めたり、枝野官房長官と一緒に毎日『震災情報・官邸発』という番組を被災地のミニFMラジオともつないで流したり、それまでじゃありえないことを懸命にやりました。

避難所ではインターネットも見られない、被災地の市町村役場は手一杯で、伝達もうまく届かない。マスメディアは、政府の対応のダメな点の指摘で忙しい。既存の情報ルート総崩れの中で、ぼくがずっと関わってきた市民の手作りメディアみたいなものが、内閣広報室の仕事になって、「じつは俺、このために政府に来たのかな」と不思議な気持ちで仕事してました。

これが、震災対応の第2期でした。

[第3期]攻めの広報 ―― 菅さんは「延命策」と言われるたびにニンマリ

難波 では第3期は?いつからとおっしゃってました?

下村 去年の6月2日からです。この日は、菅内閣不信任決議案が国会に提出されて、菅さんが民主党の代議士会で、「一定の目途がついたら若い人に引き継ぐ」と明言した、いわゆる“辞意表明”と言われた日です。ここから、実際に総理を辞める9月2日までの3ヶ月。その間、初めて菅さんが劇的に元気になりました。

難波 (笑)

下村 要するに、「この人、もう辞めるんだから」となって、それまで「守りの広報」で、皆で菅さんをベッドに縛ってがんじがらめに繋いでいた延命のためのチューブが一気に取れて、かなり自由に動き回れるようになったんですよ、この日から。

難波 そうですね。実際に、生き生きしてましたよね。

下村 そうでしょ、「攻めの広報」の開幕ですから。みなさんの目にも明らかだったのは、たとえばインターネットでの国民との生の討論会とか。官邸に孫正義さんや元サッカー日本代表の岡田監督、APバンクの小林さんとかを呼んで、エネルギー政策について総理との議論していただいた。これをネットで生中継しながら、ツイッターで国民の質問を受け付け、その場で菅さんが答えていくみたいなことまでやりました。

これを主導したのは、内閣官房参与の田坂広志さんです。ぼくは、ツイッターから質問をピックアップして、そのメモを菅さんに入れる役だったんだけど、びっくりしましたよ、ほんとに。もう、画面が読めない。滝。パソコン画面を、ダーッと殺到するツイートが上から下へと流れて行くんです。しかも、始まって最初のうちのツイッターは、菅さんへの質問じゃなくて、「こんなのやってるぞ」と知らせ合うツイートでした。

あんなに、今まで、菅さんのやっていることが伝わらなくて苦労していたのに、何だったんだろうと思うぐらい、国民が広報マンになって、どんどん広げてくれた。「これだよ、去年の着任の日から俺がやりたかったのは!」と思いました。菅さんも「これからこういうエネルギー社会を作っていこうよ」と、もう生き生きと発言していました。

で、そこから先は、カンフルブログの原稿もすごい勢いで書いてきて、こっちはリライトやアップの調整で骨折れましたけど、どんどん言いたいことを言い、本来の菅さんらしい動き方をしていったんです。菅さんが何か発するたびに、今までのフレームでしかモノを見られないマスコミの政治部の人は、ベテランであるほど、「これは延命策だ」ともっともらしい解説をしてました。でも、解説記事を読んだ菅さんが「へぇ、俺こんな思惑があるんだって」と感心したりして、ホント、おかしかったです(笑)。だって、本当に延命する気なんかなかったんだもん、本人には。

延命策だと批判されるたびに菅さんは、「これでまた、野党側の反発が強まる。俺が辞める、というカードの持つ力が、より一段と強まる」とニンマリしていました。要するに、菅辞任は6月2日にもう決めていたけれど、そのカードの価値が、反発が強まれば強まるほど、高まっていったわけですよ。当時、菅さんがよく言ってたのは、「とにかく、菅辞任の価値を上げられるだけ上げて、野党側に飲ませる交換条件を大きくしよう。絶対に譲れないのは、再生エネルギー買い取り法案だ」と。

難波 あの時期、テレビで繰り返し放送されて、有名になった映像がありましたよね。菅さんが、「どうしても俺を辞めさせたいか?」と3回繰り返したあとに、「だったら、この法律通した方がいいよ」というシーン。あそこだけ切り取って見ると、菅さんは、変に嬉しそうで、頭がおかしくなったのかと思うような場面でした。

下村 メディアはまんまとハマって、たっぷり報じてくれました。あれは、アドリブだったけど戦略的に成功だった。またそこで、菅直人を辞めさせねばというカードの価値が一段高まったんです。ちゃんと再生エネルギー買い取り法案も通ったし。

難波 そうでした。将来のエネルギー比率について国民的議論をやるっておっしゃったのも、7月末ぐらいでした。

下村 エネルギー環境会議を開いて、「来年(2012年)の8月までにエネルギー環境戦略を決める」というのも、そこで敷いた路線です。じつは、あの3ヶ月間に、いろんなレールを敷いたんですよ。辞任後にも残る法律や体制を、すごい勢いで決めていきました。主なものはカンフルTVの最終回に、動画でまとめて紹介しています。(“最終話【全力】「最後の1日まで」…退任直前の取り組みと、これから” )

カンフルブログは今でも、首相官邸ホームページのトップページの右上にある「歴代内閣」をクリックして、菅内閣の所を開くとたどり着けます。

エネルギー関係だけじゃなく、とにかく、次の総理が野党側に揺さぶられる材料を、「辞任カード」でなるべく減らしていこうとしていました。とくに、二次補正予算と特例公債法については、「通らないまま俺が辞めちゃったら、次の総理がものすごい苦労する」と言ってました。だから相談して、6月27日の会見の原稿には、辞任の条件としてそのふたつの成立も盛り込んで、結果的にちゃんと通しましたよね。今年は地方交付税の支払い延期にまでなって、あんなに長引いた特例公債問題も、去年は菅さんの“首カード” のおかげで、しっかり通ったわけですよ。すごかったです、ほんとにあの時期は。それで辞任3条件を全部通して、9月2日に菅さんは退陣していきました。

[第4期]霞ヶ関広報 ―― 震災体制を、元の殻に戻さないために

難波 そこで、菅さんに指名されて来た下村さんは、官邸に残って大丈夫だったんですか?

下村 ぼくも一緒に辞めるつもりでした。でも、このまま去るには、ふたつ心残りがあったんです。まず、原発事故対応に関する広報が、あまりにもうまくいってない。それから、震災を契機に変わり始めた霞ヶ関全体の広報を、「震災直後だけの思い出話」にしたくないなと思いました。

各省庁間の連携とか、何かあったらすぐに知らせる態勢とかを、普段の広報に定着させるのは、今しかないんだと思ったんです。ぼくが民間に戻って外から文句を言うのはお気楽だけど、せっかく内閣広報室という“内側”にいるんだから、その間にしかできない改革努力ってあるんじゃないかなと。だったら、元々の契約期間が2年あるんだから、任期満了までは、やってみようと。「菅直人を助けに行くと言ってたのに、国家公務員の地位が惜しくなったのか」という批判も起きるだろうと考えたけど、でもやる価値あると思ったんです。

難波 それにしても、いずれは任期が切れるし、その間ジャーナリストの仕事はブランクになるし、自分としてのデメリットも考えませんでしたか?

下村 客観的に見れば、そうかもしれません。しかも、結局菅直人が早々に辞任に追い込まれたということは、彼の広報の助っ人としては、ぼくは失敗者なんです。一般の人からは、「失敗した人間が、なんで居座ってもう一年税金で食っていくのよ」と見えるでしょう。そもそも、「有事の広報態勢を平時にもつなげるんだ」とか、「原発広報を何とかするんだ」とか、そんなことできるのか?と。

実際、「居残ればきっと変えられる」という確たる自信はありませんでしたが、「辞めればきっと変えられない」とはかなりの確信をもって思いました。やろうと思えば関われる立場からわざわざ離れて、外から批判はできない。そう考えたのが、9月2日です。

難波 そこから第4期の始まりですね。

下村 はい。まずは広報体制を震災モードのまま“普段化”することをやりました。内閣広報室のみんなが、「ここまで変わったんだから、元に戻したくない」という気持ちでした。ぼくもそれを一所懸命手伝いました。

今年3~4月の年度替わりにかけて、首相官邸ホームページは、全面リニューアルしてだいぶ使いやすくなったんですが、第4期の半年間は、その準備に一番時間を割くことになりました。「キッズページ」を作ったり、「政策ポータルサイト」っていう、政策キーワードを入力すると全省庁のそれに関する政策が省庁横断で出てくる新しい仕組みも作りました。今までの縦割りを、まずはウェブ上からなくしたんです。

それはまさに、震災の2日後に各省庁の広報課長を官邸に緊急招集して、「もうこれからは、省庁の壁は取りましょう。情報発信は、『いのち、暮らし、仕事、その他』でいきましょう」と言ったその精神を、平時に定着させる仕組みだったわけです。派手な改革ではないけれど、静かに、じつは霞ヶ関の広報のかたちを変えるプラットフォームを作ったのがこの時期です。今でも広報課長会議は、定期的に開催されてますし、並行して、各省庁の広報の中堅どころが一堂に集まって成功事例や悩みを交換しあうワークショップも始まり、かなり壁は溶けてきました。

ほかにも、いろんな“普段化”が進行中です。震災直後に始めた官邸災害ツイッターを広げて、普通の官邸ツイッターも始めました。今じゃ、LINEでも発信してます。枝野さんと始めたラジオの『震災情報官邸発』は、『政策情報官邸発』に名前を変えて、週一回、各省の大臣とぼくのミニトークと言うかたちで、TBS系列で全国放送しています。

この番組の副産物は、準備のために、各省の大臣室や、そのとき大臣が話すテーマを担当する部局と、われわれ政府広報が「どんな台本でやろうか」って、打ち合わせるんですよ。そこで各省庁が作ってくる“ザ・お役所広報”みたいな発言案を、「みんなが知りたいことはそうじゃないでしょう。順序はこうじゃないでしょう」と、こっちが具体的に修正注文を出す。これ、すごいオン・ザ・ジョブ・トレーニングになるわけです。

本番でも、大臣の原稿棒読みがひどいときは「それじゃ、国民に、リスナーに伝わらないです、ご自分の言葉で語って下さい」って、収録中にぼくが大臣を止めちゃったこともあります。立ち会ってる官僚の人たちにとって、それは驚愕なわけですよ。大臣にダメ出ししてる、大臣よりリスナーの方が大事なんだって。そうやって毎週、ラジオの番組作りを通じて、《伝える》じゃダメなんだ、《伝わる》じゃなきゃダメなんだってことを、みんなにわかっていってもらうことを重ねました。劇的には変わらないけど、姿勢を浸透させていくひとつの取り組みにはなってると思います。このラジオへの関与は、退官したこれからも、少なくとも今年度内は週1で続けます。

[第5期]原発広報 ―― 「再稼働」会見から「30年代ゼロ」戦略まで

下村 そして、年度が替わり、官邸サイトなどのリニューアルも済んでいろんなフレームが変わって落ち着いたとき、ちょうど枝野大臣から、相談が来ました。ここから、図らずも第5期が始まります。今年4月前半、大飯原発の再稼働を認めるかどうか、総理、官房長官、枝野経産大臣、細野原発担当大臣の四大臣会合が繰り返し開かれたときです。

難波 そこでの下村さんの役割は何だったんですか?

下村 枝野さんから頼まれたのは、「毎回、この会合が終わった後に、官邸で自分が記者会見をすることになる。その会見用のメモを仕上げるのを手伝ってほしい」ということです。枝野さんは弁の立つ人ですから、日頃から会見も基本的には自分の言葉で語ります。が、それでも当然、どういう要素をどういう順序で話すかというメモは用意して、登壇します。 基本的な骨子は、経産大臣だから当然、経産省や資源エネルギー庁が作る。そこに、自分、つまり枝野さんの込めたいニュアンスを加えてほしいという要請でした。

枝野さんは、いずれ原発をゼロにするという気持ちを明確に持っているから、その目標に向かって現実的に進めていくときに、ほんとに再稼働しなきゃいけないのかどうか、真剣に考える四大臣会合でありたいわけ。その結果、もし、「ここは再稼働」っていう結論が出るとしても、それは本当に仕方なく決めることであり、そこからすべての原発の再稼働へと方向を切り替える初めの一歩ではない。

経産省やエネ庁の人が作る原稿案は、当然もっと事務的な文体で、そんな思いは織り込まれていないから、たとえ結論が同じ「大飯再稼働」の方向に決まったとしても、会見で話すニュアンスがかなり違ってくるわけですよ。そのメモの最終仕上げを、枝野さんの思いがわかっている下村が手伝ってくれ、と。それで毎回、経産省やエネ庁の人と話し合って修正作業をやりました。

難波 たとえばどんな修正をしましたか?

下村 あまり詳しく明かすのは控えます けど、たとえば第6回会合後の会見は、重要な節目となったんですが、その冒頭と締め括りに、あらためて「脱原発依存」方針の念押しを加えました。こういうときにちゃんと大臣発言に刻んでおくことは、なし崩しの方針変更への歯止め効果になりますから。

この他、いよいよ原子力規制庁ができるということになってきたときには、「国民が政府の原発広報にもう一回耳を傾けてくれる可能性は、『今度の新組織はどうか?』と 関心を持ってくれるこのタイミングしかない。今までの日本の官庁には前例がないほどオープンな広報を、真剣に考えるべきです」という意見を、原発担当の細野大臣に進言しました。細野さんも強く同感ということで、規制庁の開設準備室とわれわれ内閣広報室との間でやり取りしながら、広報部門の立ち上げ作業をちょっぴりですが手伝わせてもらいました。

難波 しかしこの9月に原子力規制庁はスタートするや否や、赤旗新聞入室禁止で話題でしたね。

下村 それでも、たとえばホームページとか、当初彼らが保安院カラ―を無造作に継承して作ろうとしていた広報体制より、相当ましになったんですよ。まだまだ理想形には程遠いですけど、彼らの中にも熱いキーパーソンは存在して、頑張って ます。これからです。

それから、いよいよ菅さんが退陣直前に敷いたレールが目指した駅である、8月のエネルギー環境会議! それを迎えるための“国民的議論”を展開していく時期になりました。各地で意見聴取会が始まりましたが、最初の3回、野次でけっこう場が荒れる様子が、報道されちゃいました。それに、「どうせ(2030年の原発比率)15%シナリオにするんでしょ、出来レースでしょ」という国民の空気もありました。

そんな中で、この国民的議論の担当の古川国家戦略大臣から、「意見聴取会、4回目から司会をやってくれないか」という話が来ました。これは難儀だな、と思いました。それで 、「ほんとにシャンシャン集会にしませんよ。官僚の人たちが完璧な進行表作ってきても、時間制限のメモ出しても、場の空気を優先しますよ。野次でも、いい野次だったら、大臣に『答えて下さい』って振るかもしれません」と大臣に言いました。そしたら、なんと「それでもいい」と古川さんが言うんで、じゃあと言って司会を引き受けたんです。

ほんとに、予定調和抜きでやりました。「政府から来てる人たちの顔が見えない!」という声が飛べば、「今来てる役人全員立って、客席に向いて挨拶しましょう」と司会席から呼びかけたり。福島会場でやったときは、ほんとに客席からの声が止まんなかったから、ここはもう特別な場所ですから、大臣たちがスケジュール都合で引き揚げた後も、ぼくともう一人の審議官で居残って急きょ延長戦の会場も見つけて 、結局開会から7時間、最後は参加者の人が「よくここまで聴いてくれたね」って言って下さるまでやりました。

パブリックコメントは予想を遥かに上回る9万件近く届いて、これを国家戦略室が集約して、エネルギー環境会議に提出しなきゃいけないんだけど、これだけの数があったら、どんな風に意見をまとめたとしても、「恣意的にまとめたに決まってる」とか「もともと用意していた作文を出したんでしょう」と思われるのを、防ぎようがないわけですよ。

これには、国家戦略室の官僚たちも頭を悩ませました。どうやったら、「皆に納得の行く9万件のまとめ方」というものがあり得るの? ここで原子力の専門家なんかに相談したら、また「原子力ムラの意向を聞いた」って勘繰られちゃうから、世論調査について研究している学者さんや、マスコミの世論調査部の部長、そういう人たちに、どういう方法で集約するか相談したいという話になりました。

そこでぼくは、「本気でわれわれが相談している、その現場も国民にインターネットで中継しようよ」と提案しました。そこまでオープンにしなきゃダメだと思う、と。それで、「国民的議論の検証会合」が、3回持たれることになりました。マスコミが最初の部分だけ撮って退室といういわゆる“頭撮り”じゃなく、最後までフルオープンです。インターネットでは、岩上安身さんのIWJで全部中継してもらいました。会合で配布する資料 はネットにも全部アップして、インターネットを見ている人にも「資料を見ながら議論を聞いて下さい」と呼びかけ、9万件近いパブリックコメントも個人情報を除いて全部公開しました。とにかくもう考えられる限り、透明にしました。

全部の国民の声を資料として出したことで、後々時間をかけてでも、国家戦略室によるまとめ方が恣意的だったか、誰にでも検証できます。

そうやって集約した結果が「少なくとも過半の国民は、原発に依存しない社会にしたいという方向性を共有している」というものだったんです。それは、多くの人が「どうせ…」と思っていた“15%シナリオ”より、明らかに脱原発寄りに踏み込んだ表現でした。それを受けて、エネルギー環境会議が開かれました。

難波 そこまでは良かったのかもしれません。でも、そのあと出てきた政府の結論である「革新的エネルギー環境戦略」に、その国民的議論はブリッジできたんですか。

下村 もちろん! 当然だけど、あらゆる文書には、実際にそれを作文した人がいるわけですよ。詳しくは明かせないけど、そのプロセスに、ぼくも少しだけ関わりを持ったので言えますが、あの“戦略”文、ものすごいせめぎ合いの中で、古川さんたちが「これだけは残そう」としたものは、残しきりました。“30年代に稼働ゼロを目指す”、とくにその中の“ゼロ”という二文字とか、“新増設を認めない”、“40年で廃炉”というのを残せたんです。

難波 原案はぜんぜん違うものだったんですか?

下村 そりゃ交渉事ですから、第1球は、もちろん高めの球を投げますよ。「原発残さないと日本経済がダメになる」と思っている人たちも、「これを機会に、ほんとに脱原発しなきゃ」と思ってる人たちも、どっちも真剣だもん。「うちの町の暮らし、どうしてくれるんだ」と思っている人たちも真剣だし、「海外との関係、どうするんだ」と心配している人たちも真剣。全部真剣なわけですよ。

そのぶつかり合いの中で、ぎりぎりどこに、最終的な文言を落ち着けるかっていうのは、これはもう、最初から当然わかっていたものすごい勝負ですよ。誰もが、みんな自分の立ち位置から、“理想の最終文案”を頭の中に持っているわけですよね。「原発はいずれ基幹電源に戻す」と「ただちにすべてゼロにする」を両端にして、いろんな理想像を思い描いている人たちがいる中で、一本の文章にしなきゃいけない。みんな互いに譲れない一線がありました。

最悪は、何も決められないことです。絶対に決めると腹をくくって、「8月中に」と去年菅さんが敷いたレールを9月14日まで延ばして、徹底的にせめぎ合いをして、決まったのがあの戦略です。せめぎ合いの結果として、各論には色んな不整合を併せ呑みましたが、本丸は、震災前の「エネルギー基本計画」で2030年には50%以上を目指していた原発比率を、正式に「2030年代にゼロを目指す」に差し替えました。国民的議論の集約が、本当に大きな力になりました。

枝野さんからちょっと手伝ってって言われてスタートした、4月からの第5期。菅さんが辞めて行くときにぼくが残留した理由である原子力の広報に徹底的に関わったこの期間は、このエネルギー・環境戦略をまとめるのを手伝わせて頂けたということで、今できる精一杯の到達点まではこぎ着けられたと思っています。

新しい エネルギー戦略を実現するのは国民次第

下村 あの戦略って、みんな第1節、原発の止め方の部分ばっかり見て、両側からすごい批判がきてるわけですよ。経済界からは、「こんな無責任なの、できるわけない」。反原発の側からは、「これはトリックだ。新増設認めないとか、40年廃炉とか、全部守っても30年代にゼロにはならない。論理的に破綻してるじゃないか」と。そこだけ読めば、その通り。

だけど、みんながろくに関心を払わなかった第2節以降には、第1節だけでは実現できない「原発の廃炉を早めるためのいろんな方策」が書かれているわけですよ。再生可能エネルギーとか、省エネ、新エネとかを進めるためのいろいろな方策、あらゆる政策資源を投入するということが書かれていて、「国民がみんなでやらなきゃダメなんだ」という呼びかけも繰り返し書きました。いわば第1節は北風で、第2節以降は太陽なんですよ。

難波 そこを読まないといけないわけですね。

下村 みんな、最初の4ページ分の北風戦略のところだけを見て、経済界は、「国民にこんな寒い思いをさせるつもりか」と言い、反原発の人たちは、「この程度じゃ、旅人はコートを脱がないじゃないか」と言う。だけど、そのあとに11ページ分の太陽戦略があるから見てくれ。文字通り“太陽”光発電のこととかが書いてある。

ここを読めば、心配する経済界も「これならやっていける」と思い、反原発の人も「これならコートを脱げる」と思える。そういうものをぼくらは書いたつもりなんです。しかも、「政府だけではできません」と、正直に書いた。北風は政府だけで、できる。方針決めて貫けばいいんですから。しかし太陽の方は、国民みんなでやらなきゃできません。

難波 しかし、「30年にゼロ」っていうのが国民の過半数の意見だったというところから見ると、「30年代にゼロ」っていうのは、嘘があると感じるんじゃないですかね。30年代としたことで、骨抜きにされるんじゃないかという報道もありました。

下村 嘘はないよ。徹底オープンで検証した国民的議論の結果は、「過半数の国民は、原発ゼロ」だけど「いつまでにゼロにするかは、意見が分かれている」でした。「30年にゼロが過半数」という結論じゃありません。

それから、「結局今回の戦略は15%シナリオじゃないか」って言う人もいますけど、15%シナリオというのは、2030年までに15%ぐらいにして、そこから先、さらに減らすか増やすかは、その時点で決めるというものでした。今回のは「ゼロを目指す」と言っているから、15%シナリオとは決定的に違います。もちろん、30年に0%じゃないから、ゼロシナリオとも違いますよ。いわばゼロと15%の間になったんですよ。そこがなかなか伝わってなくて。

伝わってなくて、ぼくがヤバいと思うのは、世間の皆がまた、「どうせまたこれで、ズルズルと原発が増えてくんでしょ」と、この戦略を見限ってしまい、“ゼロへの道”を自分たちで踏み固めていく努力をやめちゃうことです。そのことによって、ほんとに戦略が絵に描いた餅に終わってしまうことになるのが、ぼくはすごく怖い。あの戦略を実現するかしないか、成否を握るのは本当に国民なんだってことも、前文と後文の原案に、はっきりと書いた。そして、それは通った。

原発って、集中的に作った電気をトップダウンで分け与える仕組みです。これをやめて、たとえば一軒一軒の屋根でも電気を作って分かち合いましょうという話は、それはもうエネルギーだけの話じゃなくて、この国の物事の決まり方、社会の仕組みを根本から変えようという大きな話なんです。そこをわかってほしい。

難波 この新しい エネルギー戦略は、なぜ閣議決定までいかなかったのでしょうか?

下村 せめぎ合いの中の譲歩です。だから意味がないと嘆く人がいるけど、そんな事は全然ない。あの閣議決定の文言をちゃんと読んで下さい。エネルギー環境戦略そのものは閣議決定しなかったけれど、「今後のエネルギー・環境政策については、『革新的エネルギー・環境戦略』を踏まえて遂行する。」と書かれています。ぼくはこの作文には関わりませんでしたが、読んで、これまたすごいがんばったなと思いました。

戦略自体の閣議決定を阻止したい人たちの望みも達成させて、決裂を回避しつつ、後であのエネ環戦略に反する政策を今後の政権が決めようとしたら、「それ、戦略を踏まえてないから閣議決定違反だ」と言えるようになっています。そこでも肝心なのは、国民がそれを言うかどうかですけどね。国民が「ああ、戦略そのものは閣議決定されなかった。これでもうダメだ」って思っちゃったら、あの 閣議決定の言い回しに込められた潜在的能力は、発揮される機会を失ってしまいますから。

「俺たちだぜ。これからの政治を決めるのは」

下村 こういうことです。そういう2年間でした。

ぼくはこれから民間に戻って、まさにこれを言っていきたい。「俺たちだぜ。これからの政治を決めるのは」。あの原発事故の反省をどう生かしていくのか、あの政権交代はなんだったのか、どう決着つけていくのか、全部ぼくたちが決める問題です。

そのときにぼくは、この2年で内側から見た、「政府の考え方、物事の決め方」という話も、みんなにしていきたい。マスコミがしないから。ただ、そこに、今までの2年間とは違って、「この点はおかしいけどね」という批評眼も、また織り込んでいきたい。プラス専門の政府広報でも、マイナス批判一辺倒のマスコミ報道でもない、是々非々の見方で、小さくても情報発信の第三極になれたらなぁ、と思います。それが、税金泥棒の罪滅ぼしです。

プロフィール

下村健一

1960年東京都生まれ。東京大学法学部卒。学生時代から“市民派”議員を支援する政策シンクタンクなど政治活動に関わる。1985年TBS入社。アナウンサー・ニュースキャスターとして活躍。1999年にTBS退職後も“みのもんたのサタデーずばッと”などテレビ報道に携わりながら、市民メディアの育成に努める。2010年10月、新人議員の頃から応援する菅直人首相の要請を受け、内閣広報室審議官に就任。2012年10月、2年の任期を満了。

この執筆者の記事

難波美帆

1971年生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科准教授。徳島、呉、横浜、今治、神戸、米子と、海の街で育つ。農学部卒業後、編集者・記者を経て、アドボカシーのための活動に関心を持ち、北海道大学で科学技術コミュニケーター養成に携わる。2010年より現職。

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