2010.10.06

科学者が発言するということ

八代嘉美 幹細胞生物学 / 科学技術社会論

科学 #脳科学#福岡伸一#動的平衡#生物と無生物のあいだ#散逸構造理論#非平衡開放系

ここ数年、書店に行くとかなり多くの科学系著作物をみかけるようになった。だが、そうした書籍が詰まれた棚から何冊かを手に取ると、逆に暗澹たる気分にさせられてしまう。

脳科学の現在

たとえば「脳」にかかわる書籍である。脳は何秒だかで恋をする、脳がグングン動き出すナントカ式勉強法、なんて飛びつきやすい言葉が並んでいる。現在の脳科学は、そんなことを示せているのだろうか。

たしかに、さまざまな新しい技術が生まれ、脳科学は発展しつづけている。頭皮の上からニューロン(神経細胞)で生じた電位変化を測定するEEG、脳内の電流によって生じる磁界を測定するMEGといった、脳の活動を電気生理的に調べようとするもの。また、fMRIなどといって、ニューロン活動が盛んな脳部位をモニターすることができるようになる装置があげられる。

こうした機器を駆使することによって、ある条件下において、脳がどのような活動を示すかということを理解することは、たしかに可能になった。しかし、その結果をみたところで、決して「恋している」と断ずることができるわけではない。

脳から得られる信号と、その活動している場所や度合いを測れたところで、心理的なものがどう動いているのか、外部で再構成できるほどのデータは含まれない。被験者が誰かの姿をみたときに、脳のどの部分が活動しているかはわかっても、現状では生じた電気的信号の意味を、正確に外部で読み取ることは不可能なのである。

コラーゲンは体内で製造できる?

脳科学関連書と並んで売れ行き好調な科学系の図書に、分子生物学者、福岡伸一氏による書籍がある。氏の著作『動的平衡』のなかには、「コラーゲン添加食品の空虚」という一節がある。大意としては、現状のコラーゲン信仰に一石を投じようというもので、たしかに食品としてコラーゲンを摂取しても、広告が謳うほどの効果がないという指摘には筆者も同意する。

しかし、見逃せない内容がそこにはある。コラーゲンは非・必須アミノ酸なので、人は体内で製造できるという、なかなかユニークな知見である。

「コラーゲンを構成するアミノ酸はグリシン、プロリン、アラニンといった、どこにでもある、ありきたりなアミノ酸であり、あらゆる食品タンパク質から補給される。また、他のアミノ酸を作り替えることによって体内でも合成できる、つまり非・必須アミノ酸である」(『動的平衡』、p77)という。

一応コラーゲンについて説明を加えておくと、真皮、靱帯、腱、骨、軟骨などを構成するタンパク質で、ヒトの体内に存在しているコラーゲンの総量は、全タンパク質のほぼ30%を占める。また、タンパク質とはアミノ酸という分子が数千個つながった物質である。ヒトの真皮には、I型と呼ばれるコラーゲンが豊富に含まれており、これを構成するタンパク質のアミノ酸配列は、インターネット上でもみることができる。 (http://www.ncbi.nlm.nih.gov/protein/110349772 )

このなかには、本当に必須アミノ酸は存在しないのか。たとえば真ん中付近の50個を例にとってみると、グリシン、プロリン、アラニンといった、必須アミノ酸ではないアミノ酸は多い。だがやはり、バリン、ロイシン、イソロイシン、メチオニン、リジン、スレオニンといった、必須アミノ酸がきっちりと含まれていることがわかる。

『生物と無生物のあいだ』への違和感

こうした話は勘違いのひとつ、として片付けることも可能かもしれない。しかし、福岡氏の声望を高めた著作、『生物と無生物のあいだ』を読んだときに抱いた、氏の科学への態度に、根本的な不信感を忘れることができない。

彼は盛んに「動的平衡」という言葉によって生命現象を捉えようとする。それは、生命の特質を実現する生命固有のメカニズムであり、シェーンハイマーの発見した生体の構成成分の絶えざる入れ替わり(シェーンハイマーは「身体構成成分の動的な状態」と述べている)であるという。

福岡氏はある遺伝子欠損マウスについて研究を行っているときに、その着想を得たとしているが、何故そこに変化が生じなかったのかを追い求めるのではなく、「動的平衡」という曖昧な概念をもちだして、変化が生じないことをよしとしている点に、筆者はまず不信感を覚えた。

彼がどの程度このマウスの解析を行なったのかは、論文がないので知るすべがない。しかし、ある遺伝子の欠損がカバーされたとすれば、その遺伝子をカバーするために何らかの分子が動員されていることは間違いない。それを一つひとつ解明していくことも、分子生物学の大切な仕事であり、彼の「動的平衡」論はそれを放棄したことを正当化する言葉でしかないと感じたからだ。

「動的平衡」という詩的言語

たしかに「動的平衡」的な考え方は、生物学に携わる人間にとっては常識ともいえるものではある。体内では食物からエネルギーがとりだされては廃棄され、タンパク質が合成されては壊され、という絶え間ない流れが存在しているからだ。

しかし、こうした現象を「動的平衡」と呼んでよいのだろうか。行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、とは方丈記であるが、まさに体内で起こっている物質の入れ替わりと重ね合わせることができる。しかし、このような状態は「定常状態」と呼ばれなければならない。

それでは平衡状態はいったい何だろう。入るものと出るものが統計的に区別できない状態、外部とのあいだに物質やエネルギーの移動がない状態、マクロな視点では変化していないようにみえる状態が平衡状態なのである。注意深く福岡氏の著書を読むと、彼自身「動的平衡」という言葉を明確に定義していないことに気づく。

「私はここで、シェーンハイマーの発見した生命の動的な状態(dynamic state)という概念をさらに拡張して、動的平衡という言葉を導入したい。この日本語に対応する英語は、dynamic wquilibrium(ダイナミック・イクイリブリアム)である。海辺に立つ砂の城は実体としてそこに存在するのではなく、流れが作り出す効果としてそこにある動的な何かである。私は先にこう書いた。その何かとはすなわち平衡ということである。(中略) 生命とは動的平衡にある流れである。 」(『生物と無生物のあいだ』p167)

この文章を読んでも、「動的平衡」とは、「流れが作り出す効果」であり「動的な何か」であるということしか書いていない。非常に曖昧模糊としており、その「効果」や「何か」とは一体何なのかの定義は一切ない。詩的にみえるかもしれないが、詩的な体裁をとっただけの、空疎な文章に思えてならない。

散逸構造理論と「非平衡開放系」

じつは、福岡氏がいうところの「動的平衡」という状態は、すでに別の言葉、別の科学的なアプローチによって説明がなされている。いわゆる複雑系という研究の系譜に属する、散逸構造理論というものがそれで、この理論を提出したプリコジンはノーベル化学賞を受賞している。

ざっくりと解説すると、生命は高い化学エネルギーをもつ物質を内部に取り入れ、それを別のかたちの、低いエネルギー状態の物質に変換して放出している。入り口と出口のところでは流れは安定なものにみえても、個体のなかにはいたるところ熱勾配があり、全体としては決して平衡状態にはなっていない。つまり、平衡ではなく非平衡なのである。内部の部分系ごとに熱的なムラがあるからこそ、みかけ上熱力学法則に逆らっているような状態を維持することができるのだ。

こうした状態は「非平衡開放系」と呼ばれ、世界中でさまざまな研究が行なわれている。付け加えるならば、非平衡開放系は生命固有のメカニズムではなく、気象から海の潮流にいたるまで、さまざまなところでその動きを説明するための理論となっている。

だが、いまなお福岡氏は、自らが提案する曖昧な内容のテーゼを拡大解釈しつづけており、BSEにおけるプリオン説の否定やインフルエンザ対策、はてはハチの大量死まで「動的平衡」で説明できるという。

科学者が発言するということ

「脳神話」にしろ「動的平衡」にしろ(クオリア、という言葉もあったが)、非常に定義や根拠が不明瞭な、どうとでも解釈できる存在である、ということははっきりと示しておかなければならない。福岡氏のいうように、さまざまな生物現象が「動的平衡」で説明できるとすれば、それはその言葉が何も説明していない空洞であるからだ。

一般社会においては、わかりやすい言葉、なんでも説明する魔法の言葉は喜ばれるし、科学者という肩書きをもった人の発言であれば、なおさらだ。現在のところ、表だってこうした言葉に対して疑問を投げかける科学者は少ない。しかし、心ある科学者であるならば、こうしたワンフレーズ生命論花盛りの風潮に対し、批判を加えてしかるべきである。

高度に発達した科学技術は魔法と区別がつかない、とはSF作家アーサー・C・クラークの言葉であるが、外側からみれば再生医療研究などは、まさに魔法のようにみえることだろう。

しかし、科学は魔法とちがって実証を積み重ね、理論を構築しなければ成果と認められることはない。科学者は耳障りのいいワンフレーズで社会に迎合したり、功利面の有用性のみを伝えるのではなく、自分たちの知識や発言が社会に与える影響に、責任をもちつづけなければならない。

世界は分けても分からない、のではなく、世界を分けたからこそ知識への扉は開かれたのだ。そのようにして積み上げた知識があったからこそ、生命現象の骨格がおぼろげながらでもみえたのである。迂遠ではあるが、こうした科学の基本的な原則や思考方法を社会に向けて理解してもらうことからはじめていかなければ、科学の健全な発展は見込めない。それは科学者自らの首をしめることでもある。

科学者が発言をするということ、それはこうしたことへの自覚の上になさなれるべきことなのである。

プロフィール

八代嘉美幹細胞生物学 / 科学技術社会論

1976 年生まれ。京都大学iPS細胞研究所上廣倫理研究部門特定准教授。東京女子医科大学医科学研究所、慶應義塾大学医学部を経て現職。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了、博士(医学)。専門は幹細胞生物学、科学技術社会論。再生医療研究の経験とSFなどの文学研究を題材に、「文化としての生命科学」の確立をを試みている。著書に『iPS細胞 世紀の技術が医療を変える』、『再生医療のしくみ』(共著)等。

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