2015.09.17

自然エネルギー開発に冷水を浴びせる――ウィナー『鯨と原子炉』の示唆と予言

吉永明弘 環境倫理学

社会 #自然エネルギー#鯨と原子炉

メガソーラーのある風景

最近、地方に行くと太陽光パネルの姿をよく見かける。しかも、屋根の上に設置されているだけでなく、田んぼや林の中にも多数のパネルが敷きつめられている。いわゆるメガソーラーである。この景色を見ると、「自然エネルギーが普及してきたのだな」という感想よりも先に、「いったいこれは何なのだ」という疑問がわいてくる。ツイッターなどにも、お気に入りの雑木林が切り拓かれてメガソーラーになってしまったことに対する衝撃をつぶやいたものを見かける。

田んぼや雑木林がメガソーラーに変わったということは、端的に言えば「開発が行われた」ということである。サイエンスライターのタカーチは、『生物多様性という名の革命』の中で、保全生態学者たちに、生物多様性を守ろうと思った理由を聞きまわっているが、その中で、ジェリー・フランクリンはこう述べている。「九歳くらいの頃、私は木が切り倒されるのを見るのが嫌でたまりませんでした。特に大きな木が切られるのが嫌でした。開発が進み、生き物が姿を消すのを見たくなかった。それは何か正しくないと思えたからです」(274頁、傍点原文)。フランクリンにとって、木が切り倒され、生き物がいなくなることは「正しくない」ことだった。メガソーラーのある風景を見ると、それが何か「正しくない」のではないかという思いに駆られる。

メガソーラー施設の設置をめぐる紛争

そういった個人の思いだけでなく、場所によっては太陽光パネルの設置をめぐって紛争も起きているようだ。

2015年7月21日の東京新聞朝刊に次のような記事が掲載されている。

「大規模太陽光発電所(メガソーラー)の建設計画をめぐり、高知県土佐清水市や大分県由布市で反対運動が起きている。貴重な景観や自然が破壊されかねないからだ。しかも現在の制度では、事業者には多額の利益が転がり込むが、地方は収奪されるばかりである。日本の農山村は再生可能エネルギーの宝庫。次々と参入する巨大資本の「植民地」にさせないためには、地元住民自身による発電事業の立ち上げが急務だ。それこそが真の再生エネ普及への鍵となる」。

ここからは、自然エネルギーが自然を破壊しているという皮肉な状況が見えてくる。

この問題について、本稿では技術哲学の基本書の一つであるラングドン・ウィナーの『鯨と原子炉』の議論を参考にして考えていく。『鯨と原子炉』では、技術に関連するいくつかのキーワード(適正技術、分権化、情報社会、自然、リスク、価値)の内容や用法が吟味されている。本稿では主に適正技術と分権化に関する彼の議論を参照する。

自然エネルギー開発の経緯

まずは現在のように自然エネルギー開発が盛んになった経緯をふりかえっておこう。

従来の日本の電力は、大部分が火力、水力、原子力でまかなわれてきた。しかし、火力発電は、石油・石炭という枯渇性資源がいずれ限界に来るという点と、CO2を排出して地球温暖化を進めるという点が懸念されるようになった。また水力発電に関しては、ダム建設による生態系の破壊などが従来から問題視されている。そして原子力発電は、事故の危険性、放射性廃棄物の蓄積、被曝労働、立地地域の偏り、温排水による海洋生態系の攪乱、立地地域の社会変容、テロの危険性などが問題視され、また利点と言われてきた「CO2を出さない」と「コストの安さ」は疑わしいものとなっている(この点についてはシュレーダー=フレチェットと吉岡斉の議論を参照)。

このように、これまでの発電方法の問題点については従来から指摘されていたが、特に原子力発電については、2011年の福島第一原発事故によって、その問題の重大さが広く認識されるようになった。そこから「脱原発」の動きが広がったことが、現在の自然エネルギー推進の大きな駆動力になったといえる。

自然エネルギーは、化石燃料を使わず、CO2を出さず、事故や放射性廃棄物の問題もない「クリーン」なエネルギーとされ、さらには地域のエネルギーの自給自足と経済の活性化に寄与する発電方法として期待されてもいる(諸富徹による飯田市の事例を参照)。このような自然エネルギーの普及を制度上後押ししたのが、2012年7月に導入された「固定価格買取制度」であった。これによって電力会社は自然エネルギーを20年にわたり固定価格で買い取ることが義務づけられた。この制度は自然エネルギー開発を促進し、2013年度の自然エネルギーによる発電量は、前年度比で32%も増加した。

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(出典)再生可能エネルギー固定価格買取制度ガイドブック2015年度版(資源エネルギー庁)

自然エネルギーに潜む問題点

その一方で、自然エネルギーが手放しで推奨されてきたわけでもない。例えば風力発電に関しては、比較的早くからその問題点が指摘されている。例えば山肌に林立する風車が景観を壊す、風車建設に伴い自然が破壊される、稀少な鳥が風車に当たって死ぬ(バードストライク)、風車がもたらす低周波によって近隣住民の健康が損なわれているなど。

そして最近になって、特に問題視されているのが、冒頭で述べた太陽光パネル、特にメガソーラーといわれる大規模なソーラーパネルの設備である。具体的な問題点として、設置場所の自然や景観を破壊するという問題だけでなく、太陽光パネルの廃棄物の問題も指摘されている。

このように自然エネルギーに異議申し立てをすると、自然エネルギーの推進者たちからは、「では従来の火力、水力、原子力に戻るべきというのか」という疑問が投げかけられるだろう。気候変動への影響や原発事故の悲惨さを考えれば、自然エネルギーのほうがだいぶましであるという意見は、総論としては否定できない。自然エネルギー開発は進められるべきだ。しかし、だからといって自然エネルギーであれば何でも許されるということにもならないだろう。

従来の発電方法は化石燃料の使用、温暖化の促進、放射性廃棄物の蓄積といった「自然に反する」技術なので、自然の力を利用する「自然エネルギー」として太陽光発電を推進すべき、という言説は、火力発電は地球温暖化を進めるので、CO2を出さないクリーンエネルギーとして原子力発電を推進すべき、というひと昔の言説と構造が同じである。従来のエネルギーを悪とみなし、新しいエネルギーを善とみなす二分法には落とし穴がある。

二分法の落とし穴

ウィナーは『鯨と原子炉』の中で、「ソフト技術」と「ハード技術」の二分法による目録を紹介している(125-126頁)。

まず「ハード技術」とは、(1)生態学的に不健全で、(2)エネルギー投入が大きく、(3)汚染率が高く、(4)物質とエネルギーが再生不能であり、(5)限られた時代だけにしか機能せず、(6)大量生産的で、(7)専門性が高く、(8)自然から疎外され、(9)談合政治に適合し、(10)技術の限界が富によって定められ、(11)世界的貿易に適し、(12)地域文化に対して破壊的で、(13)悪用されやすく、(14)人間以外の種に対して高度に破壊的で、(15)利潤と戦争によって技術革新が導かれ、(16)成長指向的経済に適合し、(17)資本集約的で、(18)集権的で、(19)一般に大きいほど効率がよくなり、(20)運転の仕方があまりに複雑であるためそれを理解できる者は少なく、・・・といった具合に、マイナスイメージの文言が続く。

それに対して、「ソフト技術」とは、(1)生態学的に健全であり、(2)エネルギー投入が小さく、(3)汚染が小さいかまたはまったくなく、(4)再生可能な物質とエネルギーのみを用い、(5)どんな時代にも機能し、(6)手作業的で、(7)専門性が低く、(8)自然と統合され、(9)民主政治に適合し、(10)技術の限界が自然によって定められ、(11)地域の物々交換に適し、(12)地域文化と両立でき、(13)悪用されにくく、(14)人間以外の種の幸福を前提とし、(15)需要によって技術革新が導かれ、(16)定常経済に適合し、(17)労働集約的で、(18)分権的で、(19)一般に小さいほど効率がよくなり、(20)すべての者が運転の仕方を理解できるものであり、・・・とされている。一転してバラ色のイメージである。

このハード技術とソフト技術の対比は、近年の原子力エネルギーと自然エネルギーの対比を思わせる。だがウィナーは、この二分法は破綻していると喝破する。彼によれば、そもそもこのように単純な目録で善と悪を整理することはできないし、またソフト技術のさまざまな特徴が両立するとは限らないという。「たとえば、分権的な技術が、必ず生態学的に健全なものであるかどうかは、明らかではない。実際、薪ストーブが広く普及したために、いくつかの地域ではきわめて深刻な大気汚染が引き起こされた」(127頁)。

太陽光発電や風力発電に対する反対意見の一つに、それが地域の自然環境に悪影響を与えるという点があることを考えると、このウィナーの議論は示唆的といえる。

自然エネルギーが「分権的」とは限らない

太陽光発電に関して、ウィナーが「予言」を述べている箇所がある。彼によれば、太陽エネルギーを擁護する者は、太陽エネルギーが技術的意味と政治的意味の両方において分権的だということを強調する。

「まず技術的に言えば、ソーラーシステムを建設する場合、大規模な集中的プラントよりも、分散型で広い地域に散在させた形で行なうのが、はるかに道理にかなったことである。つぎに政治的に言えば、太陽エネルギーは個人や地域のコミュニティーがそのシステムを効果的に管理するうえで都合がよい。なぜなら、彼らは巨大で集中的なエネルギー源よりは、より近づきやすく、わかりやすく、また制御しやすいシステムを扱うことになるからである」(65頁)。

実際に、太陽光発電は「分権的な技術」であることによっても評価されている。原子力発電の問題点の多くは、それが国および特定の少数の電力会社によって運営されていることから派生しているため、「集権的な技術」に問題があることは否定できない。したがって分権型エネルギーである太陽光発電は、その陥穽を免れるということになる。

しかし、ここでウィナーは、太陽光発電もやがては集権的な技術に変わっていくのではないかと危惧する。ウィナーによれば、そもそもアメリカで「電気」が新しいエネルギーとして導入されたころには、分権的なエネルギーとして期待されていたが、実際には、「この新エネルギーが電力会社によって集権的に生産され、集権的に管理されている」ではないか、という(159頁)。そしてウィナーは、太陽光発電も、現在の企業社会では、集権化に向かうことになるだろうと予言する。

「政府助成の研究は、当然のことながら、太陽光発電のもっとも効率的で効果的な形態を見いだし、それが『私企業セクター』で市場化されることに焦点を当てている。巨大な多国籍石油企業は、この分野で活動している小さい会社を買収しているが、彼らの動機はエネルギー源と技術の組み合わせがどのようなものになったとしても、それを支配しようという欲望であるように見える。これまでわれわれの社会は、実際上、狭い自己本位の計画をもったものに意思決定権力をゆだねてきた。それゆえ、太陽光発電システムが導入されるとき、彼らは現代の多くの技術を特徴づける性質、つまり制度的にも物理的にも集権化を進めるという性質を、システムにもたせるだろうと予言できる」(103-104頁)。

太陽光発電が、公共施設の屋上などでつつましく行われているのであればよいのだが、メガソーラーという形を取り始めているのを見ると、ウィナーの予言は無視できない。

自然エネルギーの開発・運用には慎重さが必要

このように自然エネルギーにはさまざまな懸念材料があることが分かる。とはいえ、以上のように述べることによって、「原子力への回帰」を訴えたいわけではなく、また「温暖化など気にせずに火力発電を続けよう」と言いたいわけでもない。このことは再度強調しておきたい。方向性として、自然エネルギー開発を進めることには全く異論はない。しかし、その開発や運用のあり方については、再検討すべき点が多いだろう。

太陽光発電に関していえば、第一に、ソーラーパネルの設置場所としては休耕田や雑木林、湿地などではなく、建物、特に工場や公共施設の屋上などがふさわしいと考える。具体的には条例などで設置場所について規制をかけるべきであろう。第二に、太陽光発電の設備が「迷惑施設」として扱われている地域がある一方で、受け入れられている地域もある点にも注目すべきである(例えば飯田市の事例を参照)。生態系への影響だけでなく、地域社会との関係も考える必要があろう。

自然エネルギー全般に関していえば、いろいろな種類がある中で、比較的問題点が少ないと思われるものに、小水力発電(ダムを作らずに河川や用水路の水流をそのまま利用する発電方法)がある。これは日本の風土的条件(河川が多い)にも合っていると考える。また、歴史を振り返ると、戦前のベース供給は水力発電であり、火力発電はピーク供給を担っていた(「水主火従」)。

また各地域の電化を担っていたのは小水力発電であったという(小林久の資料を参照)。だとすれば、日本では風力発電と太陽光発電だけに血道をあげずに、小水力発電による電力供給の可能性をもっと探るべきである。最近になって、固定価格買取制度の見直しが始まり、太陽光の普及を抑制して地熱と小水力の拡大を図る方向性が打ち出されているが、これはひとまず歓迎すべき動きである(日本経済新聞2015年6月25日朝刊の記事より)。しかし地熱や小水力であれば万全であるとは限らず、何らかの問題が生じる可能性も考えておかなければならない。

以上、歯切れの悪い議論を続けてきたが、ここで私が述べたかったことは、自然エネルギーによってバラ色の未来を描くことに対しては、より慎重になったほうがよいということである。さもないと原子力によるバラ色の未来を描いていた時代と同じ轍を踏むことになる。ここでもウィナーの言葉が参考になる。「適正技術のテーマソングを何か一つ選ばなければならないとすれば、威勢のよい勝利の行進曲を選ばないのが賢明である。クリスマス・イブで歌われる『答えのない問い』などがよかろう」(127頁)。

■文献

デヴィッド・タカーチ『生物多様性という名の革命』日経BP社、2006年(原書は1996年)

ラングドン・ウィナー『鯨と原子炉―技術の限界を求めて』紀伊國屋書店、2000年(原書は1986年)

吉岡斉『原発と日本の未来―原子力は温暖化対策の切り札か』岩波ブックレット、2011年

吉永明弘『都市の環境倫理―持続可能性、都市における自然、アメニティ』勁草書房、2014年(この本の中でシュレーダー=フレチェットの議論を紹介している)

諸富徹『「エネルギー自治」で地域再生!―飯田モデルに学ぶ』岩波ブックレット、2015

サムネイル「新潟雪国型メガソーラー航空写真」icoro 

プロフィール

吉永明弘環境倫理学

1976年生まれ。2006年千葉大学大学院社会文化科学研究科修了。現在、法政大学人間環境学部教授。専門は、環境倫理学、公共哲学。著書『都市の環境倫理――持続可能性、都市における自然、アメニティ』(勁草書房、2014年)、『ブックガイド 環境倫理――基本書から専門書まで』(勁草書房、2017年)、編著に『未来の環境倫理学』(勁草書房、2018年)。

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