2016.05.06

女子差別撤廃の課題と架空表現への規制・その意味と副作用

志田陽子 憲法、言論・芸術関連法

社会 #「新しいリベラル」を構想するために

今年の2月、スイス・ジュネーブの国連本部で開かれた国連女子差別撤廃委員会で、日本への「見解」がまとめられ、3月7日にその「案」が公表された。その「見解案」の中には、女性に対する性的暴力を描写したゲームや漫画の法規制に関する提言が含まれていた。国際社会から見た日本への指摘を、どのように受けとめていくべきか。多文化と憲法という視点から考える。

架空表現規制の意味と、クリエイターの声

Q 国連女子差別撤廃委員会は「性的暴力を描写したゲームや漫画の規制」を提言していますね。その意味はどこにあるのでしょう。

今回の「見解案」には大変多くの克服課題が盛り込まれました(以下、国連女子差別撤廃委員会のことは「委員会」、その最終見解案のことを「見解案」と言います)。その中には、「ジェンダーに関する差別的なステレオタイプを悪化させ、女性及び女子に対する性的暴力を強めるポルノグラフィー的成果物、ゲーム及びアニメの生産と頒布を規制(regulate)するため、既存の法的手段とモニター・プログラムを効果的に実現すること。」という提言が含まれています。(注)

(注)訳は、大屋雄裕「国連機関による報告書二件に関する所見」(「特定非営利活動法人うぐいすリボン」HP、2016年3月掲載http://www.jfsribbon.org/)に依った。

国連女子差別撤廃委員会の「最終見解案」原文は、Committee on the Elimination of Discrimination against Women, “Concluding observations on the combined seventh and eighth periodic reports of Japan”, (Adopted by the Committee at its sixty-third session (15 February-4 March 2016)).

漫画やアニメーションやゲームの制作に関わっている人々からは、規制に反対する意見が多いと思います。「自分たちの良識をもっと信頼してほしい」という憤慨の気持ちもあるでしょうし、現実の虐待や差別を写した実写ポルノは現実の被害者がいるのだから違法とするべきだけれども、架空表現は現実の被害者がいないのだから関係ないではないか、という反論も有力です。

これに対して、委員会が問題にしているのは、それらの表現物が持つ社会的影響力だと思います。以下、漫画、アニメ、ゲームなどを総称して「架空表現」と呼ばせていただきますが、たとえば、幼児のように見える少女が縄で縛られ、性的興奮とも困惑とも、苦痛による危険な血圧上昇状態とも受け取れる独特の表情をしている、というふうに見える架空表現があったとします。ネットや一部の雑誌にはこうした表現が見られることは確かです。

その種の表現が日常の中に放置されていると、漫画によるファンタジーであれ実写表現であれ、そこに描かれているタイプの行為への許容度tolerance(やってもいいかな、このくらいは許されるかな、という感覚)を上げてしまうということが危惧されているわけですね。イギリスで、制服を着た少女を性的に描いた架空表現が、この理由で有罪判決を受けています。

Q この規制の提言に対しては、反対の声がクリエイターから挙がっていますね。とくに女性クリエイターが出した反対声明がありますが。

架空表現もたしかに社会的影響力を持ちますが、法律というものも同様の社会的影響力を持ちます。法規制の社会的効果という点を考えたとき、注目すべきだと思うのが、女性クリエイターの団体から出てきた反対意見だと思います。「女子現代メディア文化研究所」という団体が意見書を公表したのですが、これは、漫画やキャラクターグッズの制作などを仕事としている女性クリエイターが中心となって作っている団体です。

漫画の世界では、女性による性表現は、かなり以前から普通に行われてきました。女性の社会進出が今よりも遅れていた時代には、女性向け漫画の世界というのは、女性がアシスタントとしてでなく「作家」として活躍できる、数少ない貴重なジャンルだったわけですね。そこで出てくる性表現というのは、編集者に強制されて出てきたというものではなく、作家たちのチャレンジ精神から出てきているわけです。

女子差別撤廃のための方策として漫画やアニメの性表現を規制することは、こういうジャンルを開拓してきた女性たちの活躍の場を結果的・現実的に狭めてしまう。とくに日本のポピュラー文化を象徴するような女性作家の作品が、社会に出しにくいものと目されてしまうことは、女性の創作主体性を社会にもっと認知してもらおうと望んでいる人々からすれば、「出る杭は打たれるのか」という意気阻喪を味わわされることになる。

これは本末転倒だ、ということで、彼女たちが反対の声を上げたわけですね。私もお話を聴かせていただいて、少なくとも今の時点では規制の提言には「待った」の声をかけたい、と感じたので、この団体の出した声明に賛同しました。

Q そうしたタイプのクリエイターが危惧している問題として、規制がかかったらどういう表現ができなくなっていくと考えられるのでしょうか。

たとえば、ファンタジーの一つの型として、《背徳もの》があります。登場人物が社会のタブーを破り、女王として君臨したり苦難の人生を背負ったりする中で、社会規範そのものを問いに付すような作品ですね。江戸時代の《心中物》とも共通します。

同時代の社会においてはそれは「犯罪」だったり「反倫理的行為」だったりするけれども、時代や地域が違えばわからない。世界の名作の中に、そうしたものはたくさんあります。そういうチャレンジングな創作意欲をもっている作家にとっては、たとえば2010年の東京都青少年健全育成条例の中の架空表現規制のように「社会規範に反する性行為…」といった規定の仕方をされると、まさに手足を縛られたような気持ちになるわけですね。

また、日本では、遊郭を舞台にした作品がたくさんあります。それらも、よく考えると、若い女性を《売る》という行為が前提にあり、年季が明けるまでは外に出られない、移動の自由を剥奪されている。いかに美化して語ろうと、舞台設定そのものが性暴力、性奴隷です。で、その中で花開く禁断の恋愛や非業の死などを描く。女性が描く漫画の中には、そういう設定で性描写や折檻・虐待シーンを含む作品がたくさんあります。

これも《背徳もの》と同じで、遊郭に拘束されている状態というのは、メインの物語を成立させるための不可欠の背景であって、その状況そのものを煽っているわけではないですね。戦争ものの映画が、死と隣り合わせの極限状況を背景に描くことで《生》の意味を浮かびあがらせようとするのと同じなわけです。が、そうした背景と主題とは、必ずしもわかりやすく分別できるわけではなく、高度な作品になるほど、背景事情と主題的ストーリーが混ざり合ったり逆転する危うさを、敢えて孕んでいたりするのです。

Q 今、漫画や動画は、ファンが自ら作り手にもなる、誰もが表現発進主体になりうるという状況ですね。そうした領域への影響は?

日本独特の、同人誌や自作動画などのアマチュア文化が影響を受けるか、ということですね。委員会の「見解案」は、幼児や弱者を性的に虐待している構図が産業的利益になってしまっていることを懸念しています。経済的利益を求めない表現については、関心外なのかもしれませんし、商業としての漫画やアニメやゲームが流通しなくなればその模倣表現も減っていくだろうと期待しているのかもしれません。

あるいは、表現規制のうちでも、表現の提示方法(時、場所、手段)への規制を中心に考えているのかもしれません。これは、たとえば、映画館の入り口やゲームソフトのパッケージにレーティング表示を義務付けるとか、「一般のテレビでの放映は規制するが、本人の意思で契約をするオンデマンド方式のコンテンツ配信には規制を及ぼさない」といったものです。

これは、ある内容について正面から規制する場合と異なり、憲法上、やや緩やかに規制の正当性を認めよう、という議論になると思います。今回の委員会の見解案の文面では、架空表現への規制を提言している部分では「禁止」prohibit, ban ではなく、「規制」regulationという言葉が使われているので、このようなタイプの規制でいい、と考えているのかもしれません。

ただ、上のように趣旨を汲むとしても、「生産」と言っている部分については、「業として」の生産に限定する意図があるのかわかりません。そういう絞りができず、すべての表現物の「生産」について言っているとすると、アマチュア文化も直接、規制の対象となってくるでしょう。そうなると、これは表現内容規制そのものだと思います。その場合は、憲法の厳格な基準に照らして、「他者の権利を実際に侵害しているのか」「その規制はどうしても必要な規制なのか」という問い方をしなければならず、その問い方で規制できるのは実写の児童ポルノや実写の性犯罪場面動画までで、架空表現への法規制までは無理だと思います。

 

 

表現規制の副作用

 

Q 憲法上の「表現の自由」との関係では、どう考えていますか。

 

今、《表現内容に着眼した規制》と《表現物の提示方法に関する規制》、というふうに分けましたが、これは憲法上の「表現の自由」の基本の考え方です。《表現内容に着眼した規制》は「検閲の禁止」ルールを定めた日本国憲法の下では、もっとも厳格な憲法適合性ハードルが課されます。これは絶対に規制はできないという意味ではなく、犯罪の教唆への処罰など、そのハードルをクリアするほどの強い必要性があって、規制のあり方もやむを得ない必要最小限度の規制である場合にだけ合憲となる、という考え方です。

私は、漫画・アニメなどの架空表現への《表現内容規制》に少なくとも現時点では反対の立場をとっていますが、その理由は大きく三つあります。一つは、本来規制の対象とすべきでない表現が規制対象になってしまうという「過剰包摂」の問題です。二つめは、いわゆる「萎縮効果」の問題です。三番めは、こうした問題に関心を拡散させることはかえって現実の問題への取り組みを遅らせてしまう、という問題です。以下、それぞれについて説明します。

■「過剰包摂」 「架空表現の中には、規制の対象とすべきものは一切ない」と言いきれてしまえば、そこで話は終わりで、「規制は憲法が保障する『表現の自由』に違反する」と言えばよいことになります。しかし、きわめて行為誘発性の高い表現というものが「ない」と言い切れないかもしれない…。私はそれは社会の文脈によるもので、「その可能性はゼロ」と言い切ることはできないのでは、と思います。しかしここでそうしたものへの規制を法文化したとき、本来規制の対象とすべきでない表現や、価値のある芸術表現・学術表現までが規制対象になってしまう、という「過剰包摂」の問題が起きやすくなります。

これは、定義を慎重にしたり「ただし書き」で除外項目を設けたりすることで、取り除くことはできるかもしれません。しかしアメリカのアドラーという憲法学者のように、「架空表現を規制対象にしてしまうと、どう言葉を工夫しても芸術表現が包摂されてくることを避けられなくなる」と、今の議論状況について早い時期から論じていた学者もいます。(注)

(注)Amy Adler, What’s Left?: Hate Speech, Pornography, and the Problem for Artistic Expression, 84 CALIFORNIA LAW REVIEW, 1499 (1996).

■「委縮効果」 今、定義や「ただし書き」を工夫すれば本来規制対象とすべきでない表現に規制が及ぶことを避けられると言いましたが、それは法文上のことです。法文が「ただし…を除く。」といったただし書きやカッコ書きで複雑になってくると、クリエイターやメディア関係者や一般市民が萎縮効果を被る、という問題が、次に出てきます。クリエイターの人々が「この表現も引っかかってしまうかもしれない」という恐れを感じて、表現の自由度が狭められていくという問題です。

あるいはそのような心配をしたメディアがクリエイターの表現に制約をかけたり、映画館や展示会会場が場所を貸さなくなる可能性もあります。この規制がとくに刑事罰のかたちをとると、こうした萎縮効果は、本来規制対象ではない表現のほうに強く作用してしまいます。(注)

(注)表現活動への刑事規制が発揮する萎縮効果の問題については、志田陽子「著作権法刑事罰と市民的自由――憲法の基礎理論から」『武蔵野美術大学研究紀要』No.46(武蔵野美術大学、2016年3月)、同「著作権保護強化は明日のアーティストを生み出すか:「表現の自由」と「消費」のあいだ」https://synodos.jp/society/11688 (2014年12月5日)

過剰包摂と萎縮効果については、2010年に東京都が青少年健全育成条例を改正して、漫画やアニメ上の性表現を規制したことが思い出されます。このときもクリエイターたちから規制反対の声があがっていました。これは条例の8条1項2号で「漫画やアニメーションなどの『画像により』、『著しく社会規範に反する性交・性交類似行為』を『著しく不当に賛美し、又は著しく不当に誇張するように描写又は表現しているもの』」が流通規制の対象となるというものでした。

ただ、いろいろな批判もあったことから、この条項の適用については、「芸術性、社会性、学術性…等の趣旨を酌み取り、慎重に運用すること」という附帯決議が行われました。これによって過剰包摂を回避しようとしたわけです。が、附帯決議までを読み込むことは大変で、やはりその部分への委縮効果は生じるだろうと考えられます。この問題は、その後、なんとなく議論されなくなってしまったのですが、ふたたびこの議論が必要になってきた、ということなのだと思います。

■「課題」すり替えにつながる懸念 3点目は、合憲・違憲を判断する法理論ではなく、憲法政治からみたときの賢明さ、といった視点です。日本の女子差別と児童虐待をめぐる課題は、どこから手をつけたらいいか頭を抱えてしまうくらいたくさんあります。ここで限りある人的資源や財源をどう使うか、というときに、為政者にとって目につきやすい「表現」の問題に光を当てることで、肝心の課題への取り組みが遅れてしまう懸念があります。

表現物というのは、それ自体が「証拠」ですから、摘発や刑事訴追がやりやすいわけです。それに対して、実際に虐待を受けている児童や、事実上の人身売買に近いかたちで性的な仕事に就いている女性がいた場合、証拠を特定して摘発するのは、難しい仕事に違いないと思います。なので、公権力がやさしい課題のほうに流れていってしまうのではないか。

さらにシングルマザーへの支援策や、育児放棄・児童虐待への対応策について、本格的な制度設計と財源確保に踏み出そうとすれば、現在の政策に相当の修正を迫ることになるでしょう。それに比べたら、けしからん表現を警察的に取り締まることのほうが、国家や自治体にとっては楽な仕事でしょう。下手をすると、国際社会への体面として、政府が表現規制にばかり熱心になるかもしれません。

そういう表層的な「取り組み」によって「よくやっている」というアリバイができてしまうと、日本国内で本当に困っている当事者が言論ルートで声を上げても、「考慮済み」「取り組みは十分行っている」との紋切型回答であしらわれてしまう可能性が高まります。まして、日本の言論状況が今どれだけ窮屈になっているかは、世界が憂慮しているところです。

そういう本末転倒に陥る可能性を避けて、肝心の現実的問題のほうに関心と資源を集中するためには、今、女子差別撤廃の課題パッケージの中に言論規制を入れるのは避けたほうが賢明だと思います。日本はそう言わねばならないほど「表現の自由」についても女性差別撤廃と児童福祉についても後進国なのだ、と、委員会に理解をお願いしたいところです。

Q ある種のビジュアル表現はヘイトスピーチと同じ効果をもつ、という指摘もありますが、これについてはどうですか。

委員会のほうは、表現が社会に与える影響に着眼して、ある種の架空表現をヘイトスピーチに準じるものとして規制対象とする考え方を取っているようです。この問題については、私は、《表現そのもの》と、《その表現を使って他者を害する行為》とを、理論上は分けるべきだと思っています。

たとえば、ある音楽を拷問の手段として使用した国家がありますが、この場合、法的・倫理的責任を問われるのはその音楽を作ったアーティストやそれを流通させた業者ではなく、それをそのような目的で使用した者ですね。この例では、自分の楽曲をそのように使用されたアーティスト(メタリカなど)が、国家(アメリカ国防総省)に対して激怒しているわけです。また、ある表現が、扇動や犯罪教唆、あるいは催眠効果を与えて何かの加害行為に人を誘導したとしたら、それはその表現をそのような目的で《使う》行為が規制や処罰の対象となるべきです。

一方、それ自体は残酷な場面や性的な場面を含むけれども、受け取り方は見る者に任されている《表現そのもの》のほうは、規制の必要性と必要最小限度性を厳格に問う憲法的ハードルを通過することはほとんどないだろうと思います。

この問題は、ファイル交換ソフトをネット上に置いたら別の人がそれを使って著作権侵害を起こした、という場合に、ファイル交換ソフトを作成してネット上に置いた人は、法的責任を負うのか? という問題と、構造的に似ていると思います。日本ではこのケースは一審では有罪となったものの、控訴審と最高裁では無罪となりました(最高裁、平成23年12月19日決定)。

この考え方でいった場合、たとえば架空児童ポルノ表現を、現実の児童虐待を誘発するために使った(複数者で視聴し、実際にやってみようとそそのかした)場合、その上映・勧誘は現実の児童虐待行為の教唆となりますから、これを規制や処罰の対象とすることは必要かつ正当で、憲法に反しないと思います。

ではその表現を生産・流通させることが、即、この種の教唆と同じ社会的意味を持つと言えるかどうかというと、これは別問題だと思います。私は日本社会について、少なくとも現時点で「流通が即、誘導・教唆の効果を持つとは言えない」と言いたいのですが…。

ところで、「犯罪の教唆に当たるものは規制すべきだ」という話は、おそらく委員会がヘイトスピーチ型の視点を出していることに答えたことになっていないでしょう。委員会の見解案は、「教唆」と言えるレベルではない、もう少し特定性の薄い表現でも規制すべきだという考え方に立って、ヘイトスピーチ型の理解を出してきていると思います。

私自身は、ヘイトスピーチ規制に踏み切る場合にも相当に絞りこむことが必要だと考えているので、その考え方を架空表現にも当てはめたいと考えています。つまり、その表現が特定のアイデンティティを持つ対象者に害悪を加える旨を告知するか(脅迫)、視聴者を加害行為に誘導するメッセージ性(教唆・誘導)が明確で、その表現の流通によって危険にさらされる集団(ヘイトのターゲットとなるアイデンティティや居住地など)も具体的で明確である場合に限られると思います。ただ、この論法で架空表現を規制するのは、その前に今国内で議論されているヘイトスピーチ規制がどのように規制対象を絞り込むのか、憲法ハードルをクリアできるかどうかをよく見極めてからだと思います。

受け止め方の多様性と、グローバル社会

Q それらの表現に対する受け止め方は、日本と海外で、違うのでしょうか?

受け止め方の差は、大きいと思います。日本社会は、マクロ的には、《架空表現は架空のものと割り切る》というリテラシーがよく共有されている社会に思えます。たとえば、私たちは、時代劇で人が斬りあうシーンや斬首のシーンをお茶の間で普通に見ています。それらに触発されて同じことを実行してしまう人がたまたま出てしまったときには大変なニュースになるわけですが、それは、その種の作品を見てもそのようには動かない人が圧倒的大多数であることの裏返しでしょう。

ただ、この要素は相対的・流動的なものだと思います。たとえば、もしもそんなことがニュースにならないくらいに日常化してしまったら、その時は私も「創作表現や架空表現にも法規制が必要だ」と主張する側に立つと思います。が、とりあえず現時点では、日本国内の状況克服のための提言としては、この項目は緊要度において他の項目よりも劣ると思います。

しかしその作品が海外に出たときに、どう受け止められるのかは別の話です。このズレは、文化の多様性をどのように尊重していくのかという視点からも議論しなければならないことだと思います。ある表現がどのように受け止められるかは、社会ごとに異なるわけで、文字通り、文化多様性の問題になってくると思うのです。

遊郭ものの例で言えば、いま日本社会の中でそういう漫画やアニメを見て、「女性を大量に拉致して売春を強制したら儲かりそうだ、やってみよう」と思う人が増える危険はほとんどないと思います。が、海外では、まさにそれが憂慮されるかもしれないのです。

あるいは、無邪気な子どもにみえる登場人物たちが、武闘で念力波を炸裂させあうシーン。日本社会にいる私たちは、アニメの中の戦闘シーンを、フィギュアスケートのジャンプや、空手の演武を見るのと同じ感覚で見ているように思います。しかし土地が違えば、こうした表現が文字通り児童兵士の戦闘に見え、念力波のシーンも手榴弾の比喩表現に見える可能性が、なくはないでしょう。そのとき、日本の表現文化の独自性も尊重されるべきですが、別の土地でなされるかもしれない特殊な受け止め方も、理解しておく必要が出てくるわけです。

たとえばカリフォルニア州が暴力的なゲームを規制した結果、日本のゲームのいくつかが流通できなくなったり、イスラム圏のいくつかの地域では少女が主体的に戦闘アクションを演じるアニメーション(「セーラームーン」など)が放映できなかったりといったことは実際あります。それは受け手の国や州の事情を尊重するべきで、日本政府がそれらの国や地域にたいして「日本のコンテンツ流通を認めろ」と要請することはないでしょう。

しかし国連女子差別撤廃委員会の見解は、日本社会への提言として行われています。そうすると、「女子現代メディア文化研究所」の意見書にあるように、その規制は今のところ、現実の差別撤廃には関係がない、ということになるでしょう。

その筋で言うなら、私は、性表現や暴力表現を含むアニメや漫画よりも、時代劇や家庭ドラマに出てくる「よくできた嫁」とか「家族のために喜んで自分の人生を犠牲にする献身的な母」といったステレオタイプのほうが社会的影響力があるだろうと思います。なぜなら、多くの日本人は、性暴力のようなあからさまな《悪》に対しては、割り切って距離をとることができますが、「誉められること・期待されること」に対しては、距離を取れないことが多いからです。

委員会が、そこもソフトな表現ではありますが指摘しています。教育現場で使われる教科書も含めたさまざまなメディア表現を通じて、男女の役割をステレオタイプ的に固定させるような表現が見受けられ、それが女性の社会進出を阻む要因になっているのではないか、という指摘です。教科書に案内役として登場する架空人物や、人気のあるドラマ・アニメの登場人物となれば、文字通り、シンボルとしての効果を発揮するでしょう。

これは法規制になじむ問題ではない、ということは委員会のほうでも承知していると思いますが、《シンボル》的なキャラクターを用いた《美徳》の表現は、政治的誘導の効果をもってしまうということについて、為政者やメディアには気づきと自戒がほしいところです。政府や教育行政部門やメディア関係者が、この部分の指摘を、そうした意味で心に止めてくれるよう期待したいと思います。

Q 文化の多様性を認める議論からは、むしろそこは、日本の文化の独自性を尊重してほしい、ということにはなりませんか。

たしかにそうですね。多文化主義とか文化多様性の議論からすると、《自国の文化的伝統だ》と言える事柄については「介入するな」と言いやすい。一方、比較的新しい大衆文化である漫画やアニメについては、そういう反論はしにくいので規制の提案を受け入れやすい、ということになるのかもしれません。

しかし《文化的伝統だから》といって開き直ることが多文化主義なのか、というところは、丁寧に論じていく必要があります。多文化主義とジェンダー平等の間には深刻な緊張関係があり、欧米諸国はこの問題に悩んできました。日本もこの問題に直面せざるをえないところに来ていると思います。(注)

(注)この問題の理論面については、志田陽子「多文化主義とジェンダー」全国憲法研究会編『憲法問題23』(三省堂、2012年)で考察を試みた。

今回の女子差別撤廃委員会より以前に、国連人権委員会では「ブキッキオ報告」というものが出され、これが政府に対して、漫画やアニメ、コンピュータ・グラフィックなどの分野での性表現規制を求めていました。ただ、提言の根拠となる事実について、たとえば「秋葉原」という場所で流通している表現物について、より丁寧な検証をしてもらうことが必要だと思います。その多くは、国際社会が真剣に危惧しているようなタイプの児童虐待ポルノやその架空表現とは違うものだという指摘が、表現者たちから聞かれるからです。

委員会が持っている問題関心は、作家の意図や良識の問題を離れて、作品がどういう社会的作用を持つのか、というところにあるのだと思います。ふとどきな作家を罰したい、という関心はないでしょう。この関心においては、実写表現か架空表現かの区別は、それほど重要ではないだろうと思います。

たとえば今、若い女性や児童を奴隷化することを公言しているような集団が出てきていますけれども、委員会は、そういう残虐な状況を視野に入れて憂慮を示しているのかもしれません。その残虐な状況を防ぎたい、という関心と、日本のアニメや漫画が関係するのかどうか。日本のアニメや漫画を規制すれば、そうした状況に少しでも歯止めがかかるのか、ですね。

これについては、委員会が関連付けをしたい心情は、心情としては、わかります。日本の漫画やアニメの一部のものが、可愛らしい絵柄ではありながら、もしも実写に置き換えたら性暴力や児童兵士戦闘に当たるものを描いていて、それが消費文化の一部を形成していると。とくに日本の漫画・アニメの誇張表現に慣れていない人が見たとき、多くの作品にそういう印象をもつことはありうると思います。

そういう作品がインターネットを通じて海外に流出して、結果的にそうした行為への一般人の「許容度」toleranceを上げてしまう。これを委員会が心配していることは、報告書からも読み取れます。この憂慮が、そのまま普遍的な通用力を持つのか、あるいは、文化の多様性を尊重する視点を漫画アニメといったポピュラーカルチャーにも認めていくか、ですね。

これについて、果たしてシリアのISやアフリカのボコ・ハラムなど、女子教育を否定し女子の奴隷化を公言し、児童を戦闘に利用している集団が、日本の漫画やアニメの影響を受けているかどうか。そこを関連付けるとしたら、具体的な検証(立法事実の提示)が必要です。

もしもその関連が事実として実証されたなら、ここで被害を受けている女性と児童の現実の問題は、生命と人身という《普遍的な人権》の問題だと思いますので、日本政府はこの事情を理解し、一時的にでも、関連が特定された表現物について海外への流通を見合わせるよう業者に協力を要請しても良いと思います。…今のところ、私には、その関連性は想像しにくい気がしますが…。

ただ、そこまで極端な状況ではないけれども、児童の奴隷的労働や女子の早期結婚が問題となっている地域では、もしかしたら、日本の漫画やアニメがある程度の社会的影響力を持っているのかもしれず、一部、輸出を控えるべき事情があるのかもしれません。そこは「見解案」の抽象的な記述からは、わかりませんでした。しかしその問題は、日本国内に規制法を作ることではなく、国際間で協議する場を作ることによって、対話的解決を図るべきだろうと思います。(注)

(注)国連女子差別撤廃委員会の「見解案」の上記の部分の読み方については、主に大屋雄裕「国連機関による報告書二件に関する所見」(前掲)を参照した。

リアルで困難な問題への支援を

 

Q フィクションへの規制や取り締まりは問題の解決につながらない、とすると、どんな取り組みが必要と考えていますか?

実在する女性や児童の人権が侵害されている、あるいは実現できていない、という問題がたくさんあるわけですから、これについて、まっすぐに取り組むことが必要です。当たり前すぎる答えですが、この当たり前のことを、とにかく言わないとならないんです。これは、日本国内の問題と、世界全体の問題があります。

日本国内については、まず、女性の貧困化が進んでいる、とりわけ幼い児童を抱えたシングルマザーの貧困化が進んでいる、ということが問題です。これを自己責任論でもって放置していることが、多くの悲劇を生んでいます。

日本では、子どもを育てるのに大変なお金がかかることになっています。その中で、女性が一人になってしまうと、育児と仕事の両立があまりにも難しくなり、精神的にも経済的にも追い込まれてしまいます。育児ができなくなる女性が出ると、ひたすら女性を非難するのが日本社会ですね。その前提として、母親というものに対する過度の理想化があると思います。これを変えないと。

また、貧困問題を含めなんらかの事情で児童を養育する力を失っている家庭で、結果的に育児放棄などの児童虐待が起きているという問題に、国が本気で対応しなければいけないと思います。これは現在争点化している保育所の問題ともつながっていますし、里親制度をもっと活性化させるなどの方策も必要だと思います。

児童虐待の事例として表面に出てくるのは氷山の一角で、数字に出てこない問題がたくさんあると考えるべきです。これらは福祉的観点から支援するのでないと、問題を把握すること自体ができないのです。親が「知られたら警察に踏み込まれる、逮捕される、社会から非難される」と思ってしまったら、どこまでも隠そうとするからです。

童話の「北風と太陽」と同じで、刑罰によって責めるのではなく、「できないならできないなりに、支援を求めてください、それが子どもとあなた自身のためです」と呼びかける支援策が必要だと思います。これは、児童の問題であると同時に女性差別撤廃のための課題として、緊急を要する課題だと思います。

次に、世界の課題としては、女子への結婚強制、とくに早すぎる年齢での結婚強制の習慣をやめさせて、教育の機会を提供することが課題となっています。日本はこの分野では、憲法24条で家制度に基づく強制結婚を断ち切り、27条3項で児童労働を断ち切り、そして26条で教育を受けさせる・学校へ通わせるというプラットフォームの平等化に成功した国です。その成果をここで止めてしまわず、日本国民がその成果をもっと健全なかたちで享受し、世界にどう助力できるかというところに目を向けられるよう充実させることが求められていると思います。

世界の比較的貧困な地域では、今でも、女性に次々に出産をさせて、その子どもを人身売買の目的とする、といったことが発覚したりします。また、児童奴隷労働という言い方がされますが、不当に安い賃金で不当に長時間働かされ、その結果教育が受けられない子どもがまだ多数いることが報告されています。そういう問題への取り組みには、日本もぜひ積極的に協力するべきでしょう。

たとえば人身売買問題については、日本も、刑法の中に人身売買罪の規定を設けています。そうすることで、国際社会の中にまだ残っている人身売買に、少なくとも日本の民間人が加担することのないよう、禁止をかけるという取り組みをしています。

こういう最小限の普遍的人権の分野では、厳しいペナルティを科すような法規制も必要で、ここで国際社会がルールを共有して連携することは、文化の独自性を超えた必須の事柄と考えられます。女子差別撤廃委員会の見解の内容の中でも、女性の社会進出への社会的障壁を取り除くという課題については、こういった強い取り組み姿勢が求められるのではないでしょうか。

Q 「国連女子差別撤廃委員会」の主旨について、どうお考えでしょう? この委員会から出されてくる勧告に対して、政府はどのような対応をすべきでしょうか?

国連女子差別撤廃委員会の主旨は、「女子差別撤廃条約」の実現のための取り組みを具体化する、ということです。日本もこの条約に加盟していますので、その実現に向けた責務を負っています。

委員会は、世界各国の女性差別の実態を把握し、平等な社会づくりを目指して各国に改善を促しているわけですが、その提言の具体的内容に強制力はありません。日本は直接に義務を課されるというわけではないのです。が、その一つひとつにどう答えるかは、国際社会が見ているわけで、日本政府の見識が測られることになります。委員会が日本政府に対してさまざまな気づきを促していることに真摯に対応すべきです。

日本政府は、たとえその指摘は当たっていない、と思うことがあったとしても、外からはそう見えている、という《他者の視点》をまずは受け止める必要があると思います。日本の憲法には、先ほど挙げた24条、26条、27条3項以外にもたくさんの人権規定があり、その多くは世界人権宣言や国際人権規約の内容と合致しており、国際スタンダードと言える内容です。

日本という国は、まだ自国の憲法を本当に真剣に遵守しているとは言えない国です。せっかく国際社会がお尻を叩いてくれたのですから、そろそろ真剣に腰をあげましょう、と言いたいです。強制力のないものだからこそ、それを対話の端緒と受け止めて、自らの意思で腰を上げることで、国際社会から一目置かれる存在になってほしいと思います。

Q 問題を《法規制のルート》と《対話のルート》の二つに整理できるとして、問題をどちらのルートで解決すべきか、交通整理をすべきだ、ということになりますか?

そうです。私は、架空表現規制については、憲法との緊張関係だけでなく、差別撤廃の取り組みの焦点をぼかしてしまう点で、反対の立場に立ちたいと思っています。日本は女子差別撤廃と児童福祉についてはまだ本当に後進国で、プリミティブな現実問題のほうにまず手を付けねば、という段階だと思います。「法制度を創設ないし改善すべき」という提言は、そちらの問題に絞ってほしいのです。

一方で、委員会が架空表現について問題にしたいこと、防ぎたいと思っていることについては、日本の作家も理解する必要があると思います。ただし、ここから性急に表現規制に踏み込んでしまうと、クリエイターが血の通った対応をしにくくなると思います。

少なくとも私が知っているクリエイターの方々は、課題には果敢に応じる人々です。「海外のあの土地では、これこれの社会事情があって、この表現をされると真剣に困る人がいて、修正をお願いしたいと要望が来ている」という「相談」を受けたなら、それを課題条件として受けとめ、心ある配慮をするタイプの人々が多数いるでしょう。しかし、そういった人々の気概と自尊心が、上からの法規制、とくに刑事規制になってしまうと潰れてしまい、血の通った配慮ができなくなっていきます。

だから、世界にそうした事情があるというときには、政府に法規制を求めるよりも、日本のクリエイターとそうした人々の間で、情報共有・対話・調整のテーブルを設けることが必要だと思います。そのセッティングのために政府が一役買う、あるいはその調整のためにNGOが動く、といった場面は、あっても良いのではないでしょうか。

そして、しつこいようですが、今の日本は、現実の生命・生存・養育・教育・社会進出の平等、といった問題のほうに、まっすぐに切りこむことが必要だと思います。

(この論説は、3月16日時点での既公表報告書と新聞報道、論評記事に基づいて書かれています。)

プロフィール

志田陽子憲法、言論・芸術関連法

武蔵野美術大学造形学部教授、東京都立大学システムデザイン学部客員教授、博士(法学)。「憲法」および表現者のための法学を担当。研究対象は、表現の自由と人格権、文化芸術と法。著書に『文化戦争と憲法理論』(法律文化社、2006年)、『表現者のための憲法入門』(武蔵野美術大学出版局、2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・法律文化社、2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)、『映画で学ぶ憲法Ⅱ』(編著・法律文化社、2021年)。東京新聞「新聞のあり方委員会」委員。「シノドス」では、「シノドス・トークラウンジ」共同主宰者、「法と社会と自分ごとをつなぐパブ」編集委員。

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