2011.02.02
「孤族」は自由社会のツケか? ――「孤族の国」を考える(2)
『朝日新聞』連載のルポルタージュ「孤族の国」(12月26日~1月6日)が話題を呼んでいる。ネット記事へのアクセス数のみならず、売店での同紙の売れ行きも好調のようで、早くに完売するところも出たという。
たとえば引きこもり青年の末路、血縁関係の途絶えた人の孤独死、壮絶を極める介護など、いずれも他人事(ひとごと)とは思えない現実への切り込みに、時代の警鐘を読みとった読者も多いのではないだろうか。
1月23日からは「孤族の国」第二部の連載もはじまった。自由で孤独な生の果てに、孤独な死を迎える。そんな悲惨な出来事が、この国の日常となっていくのかもしれない。すでに菅直人政権は、1月13日に「孤族」支援のための特命チームを設置して、2012年度予算に向けて対策を立てはじめたという。また近い将来、2020年には「多死」の時代が到来する。いま何が必要なのか。「孤族」を分析してみよう。
「孤族」とは何か。連載最終回のふたつの事例を読むかぎりでは、切迫感がみられない。第一の事例は、離婚した男性が病気を煩って老人ホームに暮らしているという話だが、この場合は、老人ホームがセーフティーネットとなっている。もうひとつの事例は、妻に先立たれた男性が、ネット上にコミュニティをみつけるという話で、こちらも問題ないように思われる。
この他にも連載では、大学生が孤独で不安なアトミズム(原子論的な個人主義)の状況に追いやられている話や、宗教団体を離れた個人の問題が取り上げられているが、いずれも以前から問題となっている事柄であろう。
一般論としていえば、人は誰しも自由に生きることの代償として、孤独な生、あるいは孤独な死を免れないのではないかとの不安を抱えている。そんな不安を解消するために、人々は他方で、さまざまなネットワークを築いてきたことも事実であろう。ところが近年になって、もはや自生的なネットワークでは解決できない問題も生じている。
たとえば、うつ病の増大に、どのように対処すべきなのか。引きこもりやニート、あるいは親元にパラサイトしてきた人たちが、親の死によってどんな生活を迎えることになるのか。あるいは、職場共同体の崩壊とともに、ひたすら実力主義で成り立つビジネスの世界で、人はいかにしてストレスを発散する場所をみつけることができるのか。
「孤族の国」が提起するこれらの問題は、いずれも既成の中間集団がもっていた「愛着機能(アフェクティブ・ファンクション)」がうまく働かないところで生じている。
個人差もあるが、コミュニケーション能力の欠如が社会問題を引き起こしているとすれば、政府や自治体は、どんな政策を講じることができるのだろう。この問題を考えるために、たとえば、90年代後半にイギリスが示した「第三の道」政策は示唆的である。第三の道は、地域コミュニティを再生するプログラムを提起し、コミュニティ活動に多くを期待した。その手法から大いに学ぶことがあるように思われる。
その一方で、「孤族の国」においては、人間の「プライド」が問題になっている。たとえば、派遣先を転々とした人が、人生を悲観して殺傷事件を起こしてしまう。あるいは賃金を下げられた社員が、辞職するものの、再就職できずに、自殺する事態が取り上げられている。いずれも経済的に「自尊心(プライド)」を傷つけられた者の悲惨な末路であろう。
人間はたんに金銭の損得勘定によって動くのではない。どんな人でも体面を気にして生きている。その意味で、就業や賃金の問題は、たんなる経済の問題ではなく、社会的に承認されるための「基本財」として考慮される必要があるのではないか。とりわけ、繁栄を謳歌した経済の衰退局面、あるいは階層間移動の下降局面でとりわけ配慮すべきは、人間の生を支えている「体面の利益」ではないか。
しかしどうも現代人は、プライドがありすぎて、うまく生きることができない。プライドが邪魔をして、他人に頼ることができず、生活苦から餓死してしまう。そんな悲劇が「孤族の国」でも報告されている。豊かな社会は、自分に誇りをもつことのできる人間を、多く生み出した。ところがその同じプライドが、互いに支えあって生きていくためのコミュニケーションを阻害している。
連載「孤族の国」はいう。「ここで、立ち止まって考えたい。いま起きていることは、私たちが望み、選び取った生き方の帰結とはいえないだろうか。目指したのは、血縁や地縁にしばられず、伸びやかに個が発揮される社会」だったのだ、と。
しかし問題を正確にとらえれば、血縁や地縁があっても、プライドが邪魔をして利用できないという事態が生じている。わたしたちは、もう一度、善き社会、善き生き方を選び直すことが求められているのではないか。
わたしたちは従来どおり、他人の自由を尊重して承認するという「リベラル市民社会」を「善し」とするだろうか。それとも血縁や地縁を尊重する「伝統的社会」を「善し」とするだろうか。
「第三の道」的発想は、その中間をいく。各人のプライドを傷つけずに、互いにケアする人間関係を模索する。いわば「自由も承認も、両方とも実現しよう」というわけだ。そのために必要な政策は、たとえば、就業の成果には囚われない就業支援といった、「人間関係資本」を形成していく試みであるかもしれない。経済の論理に支配された関係を、人間の「承認関係」へと組み替えていく。そのための綜合的な政策ビジョンが求められているように思われる。
推薦図書
日本の中世においても自由な社会空間はあった。「無縁」と呼ばれる世界である。寺での苦行を媒介にして、夫と離婚して縁を切ることができれば、そこに自由な空間が広がっている。本書はそんな境界的な事例を素材に、日本における自由な空間を、歴史的に明らかにした名著である。この他にも本書では、市場、遍歴する職人たちの生活、芸能民たちの生活に、自由な空間が体現されていたと論じる。いずれも、「所有」や「支配」から逃れたところで自由が可能になっていた。
しかし時代の流れとともに、そのような「無縁」空間は衰退し、代わって、私的所有制度の下で、自由に結婚したり離婚できるような近代社会が訪れた。こうしてわたしたち現代人は、自由な空間を保障された上で、「縁」を築くようになった。けれども、実質的な意味での自由とは、この国では依然として、「無縁」の理念と結びついているのかもしれない。
プロフィール
橋本努
1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学経済学研究科教授。この間、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は経済思想、社会哲学。著作に『自由の論法』(創文社)、『社会科学の人間学』(勁草書房)、『帝国の条件』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)、『自由の社会学』(NTT出版)、『ロスト近代』(弘文堂)、『学問の技法』(ちくま新書)、編著に『現代の経済思想』(勁草書房)、『日本マックス・ウェーバー論争』、『オーストリア学派の経済学』(日本評論社)、共著に『ナショナリズムとグローバリズム』(新曜社)、など。