2018.01.12

日本に「市民社会」は存在しないのか?

『市民社会とは何か』著者、植村邦彦氏インタビュー

社会 #市民社会#マルクス主義

〈civil society〉という言葉の系譜

――本日は「市民社会」という言葉と概念、あるいは思想についてお聞きしたいと思います。この言葉の原語である〈civil society〉について、まずは教えてください。

英語で〈civil society〉という言葉が初めて使われたのは、日本で言えば安土桃山時代にあたる16世紀末のことでした。『オクスフォード英語辞典』(OED)は、英単語の語源や初出を具体的な文例で示していることで有名ですが、それによると、1594年に出版された英国教会派の神学者リチャード・フッカーの著書『教会統治法』に、この言葉が出てきます。

ところが、『教会統治法』を実際に読んでみると、この言葉が出てくるのは、じつは古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『政治学』からの翻訳語としてなのです。その際にフッカーが使用したと思われる『政治学』のテクストは、1438年にフィレンツェの人文学者レオナルド・ブルーニが出版し、その後ヨーロッパ各地で普及していたラテン語訳でした。

――〈civil society〉という言葉自体が翻訳語だったんですね。

そうです。〈civil society〉という英語は、じつは〈societas civilis〉というラテン語の直訳語であり、このラテン語はさらに、〈politike koinonia〉というギリシア語の訳語だったのです。このギリシア語は、牛田徳子訳のアリストテレス『政治学』では「国家共同体」と訳されています。〈politike koinonia〉はよく知られているように、奴隷に対する自由人の支配関係と、女性に対する男性の支配関係を前提とした政治体制です。ですので、「市民社会」という日本語のニュアンスとは相当に異なるものです。

〈civil society〉のこのようなアリストテレス的用語法は、英語圏では、17世紀の社会契約論にまで引き継がれます。その代表者であるトマス・ホッブスは、1640年の著書『法の原理』で〈civil society〉という言葉を使っていますが、それは人々の「信約」によって成立する「政治体body politic」の同義語としてです。

しかし、1651年の主著『リヴァイアサン』では、ホッブスはこの言葉の代わりに〈commonwealth〉という言葉を使っていて、水田洋訳の『リヴァイアサン』では「コモンウェルス」とカタカナ表記されています。現代では大英連邦やロシア連邦などの「連邦」の意味で使われる言葉ですが、17世紀の用法では「国家」と訳すのが一番素直だと思います。

――なるほど、〈civil society〉という言葉は、当初は「国家」を意味していたのですね。

はい。もう一人の代表的な社会契約論者のジョン・ロックも、1690年の著書『統治二論』で〈civil society〉を使っています。ただし、彼はその同義語として、むしろ〈political society〉や〈commonwealth〉の方を多用しています。〈political, or civil society〉という言い方もしているので、ロックの場合は「政治社会」という訳語が適切だと思います。

フランス語圏では、18世紀を代表する思想家の一人ジャン=ジャック・ルソーが〈société civile〉という言葉を使っています。このフランス語表現も1568年のアリストテレス『政治学』のフランス語訳で、「国家共同体」の訳語として使われるようになった言葉でした。

ルソーは1755年の『人間不平等起源論』で、次のように述べています。「ある土地に囲いをして『これは俺のものだ』と宣言することを思い付き、それをそのまま信じるほどおめでたい人々を見付けた最初の者が、〈la société civile〉の真の創立者であった」。本田喜代治・平岡昇訳の岩波文庫版はこの言葉を「政治社会」と訳しています。

――国家や政治共同体とは別の領域を指すようになるのは、どのような経緯によってなのですか?

アリストテレス的用語法とは異なる「市民社会」概念の系譜は、18世紀末にドイツ語圏で始まります。ドイツ語の〈die bürgerliche Gesellschaft〉です。クリスチャン・ガルヴェが訳したアダム・スミス『国富論』(1794~96年)に、この言葉が頻出します。

ガルヴェはスミスの原文中の「社会society」をすべて〈die bürgerliche Gesellschaft〉と訳しました。この結果、スミスが描いた分業と商品交換に基づく「文明的商業社会」が、「市民社会」だと理解されることになったのです。ヘーゲルが『法の哲学』(1820年)でこの用語法を取り入れて、経済社会としての「市民社会」と「国家」を区別し、それをマルクスが引き継ぎました。

このように、アリストテレス的な「国家共同体」としての〈civil society〉と、ヘーゲル=マルクス的な「経済社会」としての〈die bürgerliche Gesellschaft〉が、どちらも現代の英和辞典や独和辞典に従えば「市民社会」と訳すことのできる言葉でした。このことが、日本における「市民社会」概念の混乱を生んだと私は考えています。

――なるほど、「市民社会」の原語には国家と経済社会といった、まったく異なるふたつの意味があったのですね。ただ、いまだ日本語の「市民社会」がもつ意味、あるいはニュアンスとは、だいぶ開きがあります。

「市民社会」をめぐる誤解

――最新の広辞苑の定義によると、「市民社会」は「(civil society)特権や身分的支配・隷属関係を廃し、自由・平等な個人によって構成される近代社会。啓蒙思想から生まれた概念」とあります。ご著書では、この定義には「大きな誤解」があると指摘していますね。

最大の誤解は、これが「近代社会」を指す言葉で、しかも「啓蒙思想から生まれた概念」だとされていることです。〈civil society〉という英語表現は、先ほど説明したように、そもそもアリストテレス以来の「国家共同体」を指す言葉です。それはいつの時代にも存在する政治的支配のシステムであって、「自由・平等な個人によって構成される近代社会」ではありません。

――「市民社会」というと近代性を担保するもの、というイメージがあるので、最初読んだときには広辞苑の定義に違和感を持ちませんでした。

じつは『広辞苑』での「市民社会」の定義は、時代によって変化しています。それ自体が、日本の戦後史の動きを反映した興味深いものなのです。

1955年に出版された初版ではこうでした。「【市民社会】(bürgerliche Gesellscahft)自由経済にもとづく法治組織の共同社会をいう。近代国家の基礎とされ、必ずしも都市住民の結合にのみ限らない。その道徳理念は自由・平等・博愛」。

ここでは原語がドイツ語で、しかも「国家の基礎」だとされています。これは、「国家」と「市民社会」を区別するヘーゲル=マルクス的系譜に基づいた理解です。

ところが、1969年の第2版で大きな変化が起きます。「【市民社会】(civil society)自由・平等な個人の理性的結合によって成るべき社会。17~18世紀頃ロック・ルソーらが提唱」。

――言われてみると、間違っていますね…。

そうです。先に説明したように、ロックやルソーの場合、この言葉は「政治社会」ないし「国家」を指すものです。しかも、どちらの場合にも、この「国家」は、土地所有者が自分たちの所有権を守るために作り上げた政治秩序を意味します。

ロックはそれを「多数者の合意」を根拠に正当化していますが、ルソーはそれを富者による支配だと批判しています。いずれにしても、彼らにとって〈civil society〉は、けっして「自由・平等な個人の理性的結合によって成るべき社会」ではありません。

その後、『広辞苑』の第3版(1983年)と第4版(1991年)では、前半部分が「特権や身分的支配・隷属関係を廃し、自由・平等な個人によって構成される近代社会」と変更され、第5版(1998年)と第6版(2008年)では、後半部が「啓蒙思想から生まれた概念」と変更されました。

2018年1月には『広辞苑』第7版が発売されるそうですが、「市民社会」の項目がどうなっているか、今から楽しみにしています。

――お話を伺っていると、現在にまでいたる「市民社会」の定義を決定づけたのは第2版ですね。

そうです。現行第6版までの定義の基本線は、第2版が敷設したものです。このような「誤解」がなぜ生じたのかを理解するためには、第2版のこの項目の著者が誰なのかが問題です。私も岩波書店の元社員に聞いてみたことがあるのですが、もうわからないということでした。

ただ私は、この項目の著者は、松下圭一だったのではないかと推測しています。丸山眞男門下の政治学者で、「市民社会論」の提唱者の一人です。彼は1959年の『市民政治理論の形成』で、ロックの『統治二論』の〈civil society〉を「市民社会」と訳したうえで、それを「自由・平等な個人の私的所有を基体とする原子論的機械論的関係」と説明しているからです。

松下は、1987年の『ロック「市民政府論」を読む』でも、「ロックにとって市民社会とは自由・平等・独立の個人による人民主権型社会だった」と繰り返しています。

――誤読と言ってもよいくらの「意訳」ですね。

『広辞苑』第2版の前年に、ロックの『統治二論』の第2編が、鵜飼信成訳『市民政府論』という題名で出版されています。この文庫版は、〈civil society〉を「市民社会」と訳しただけでなく、第2編の題名にある〈civil government〉を「市民政府」と訳しました。ここにも、戦後民主主義の系譜につながる「市民」運動を背景にした、ロック思想の現代的読み込み、つまりは歴史的文脈の無視を見ることができます。

ちなみに、この〈civil government〉は、その後の加藤節訳『完訳 統治二論』では「政治的統治」と訳されています。訳者の加藤は「解説」で、鵜飼信成訳『市民政府論』の訳語が「『統治二論』に関する誤解を拡げる面がなかったとは言えない」と批判しています。

講座派マルクス主義の影響

――日本における「civil society」の受容について、さらに詳しくお伺いしていきたいのですが、この言葉の受容にあたっては、戦前の講座派マルクス主義が重要な役割を果たしていますね。

日本では1922年に、非合法組織として日本共産党が創立され、1930年代に共産党系マルクス主義者が総結集して『日本資本主義発達史講座』(岩波書店、1932~33年)が刊行されました。講座派というのは、この『講座』に寄稿したマルクス主義者たちのことです。

彼らに共通しているのは、コミンテルン(共産主義インターナショナル)が1927年に決定した「日本問題に関するテーゼ」に従って、日本は半封建的な国家であって成熟した近代国家ではなく、したがって、日本革命の目標は絶対君主制である天皇制の廃止とブルジョア民主革命の達成だ、と考えたことでした。

――社会主義革命にいたる前に、日本ではブルジョア民主主義革命、つまり近代社会の確立が必要だということですね。

はい。講座派を代表する学問的成果の一つである山田盛太郎の『日本資本主義分析』(1934年)は、「英国資本主義」を資本主義の「古典的構成」と見なしました。そのうえで、さらにフランス・ドイツ・ロシア・アメリカの資本主義と対比させた「日本資本主義の軍事的半農奴制的型制」を「日本型」と規定し、「半農奴制的零細農耕をもつ特殊的、顛倒的、日本資本主義の、世界史的低位に基く特質」を分析したものでした。

また、歴史家の羽仁五郎は『講座』に寄稿した1932年の論文の中で、日本の歴史を貫いて存在する「アジア的性格」を強調し、「古代にまでその淵源を辿ることができるこのアジア的専制」が、天皇制という形態で現在まで存続していることを示唆しています。

――要するに、先進的で近代的なヨーロッパに比べると、日本は封建的で遅れた社会だと認識されていた。

そうなります。「進歩的」で「自由」なヨーロッパと比べて、「停滞的」で「専制的」な社会の状態を典型的に指し示す形容詞として、「アジア的」という言葉を使ったのは、モンテスキューの『法の精神』(1748年)やヘーゲルの『歴史哲学講義』(1822~31年)でした。

そのようなヨーロッパ中心主義が、19世紀にはヨーロッパの「文明」意識の中心に定着します。そして、日本でそのようなヨーロッパ中心主義を、「文明開化」の必然性という形で受容して反復したのが、福沢諭吉の『文明論之概略』(1875年)でした。

1930年代の講座派マルクス主義は、「アジア的」な後進性の自己批判と克服という問題意識において、福沢の文明開化論と重なり合うことになります。そのかぎりでは、講座派マルクス主義者にとっての「マルクス主義」とは、いわば「文明開化」のもう一つの道を指し示す最新版の「西洋化」思想だった、ということもできます。

――日本も近代ヨーロッパのように文明化しなければならない、そのような発想を持つ講座派マルクス主義の強い影響下で、「市民社会」という言葉と概念が成立するわけですね。

日本語で「市民的社会」という言葉がはじめて使われたのは1923年、佐野学によるマルクス『経済学批判』の翻訳においてでした。訳者の佐野は創立されたばかりの日本共産党の幹部です。「的」の付かない「市民社会」という表記がはじめて現れるのは1925年ですが、これもマルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」の翻訳でした。

翻訳ではない著作の中で「市民社会」という言葉を最初に使ったのも、マルクス主義者です。講座派マルクス主義者の一人、平野義太郎の1934年の著作『日本資本主義社会の機構』です。平野はそこで、「最も徹底したブルジョア民主主義変革」であるフランス革命によって成立した近代的社会を「市民社会」と呼んでいます。

平野は、「市民社会」は「旧封建体制に対するブルジョア的自由・平等の勝利」の結果成立したものであり、その構成員は「独立的個人」だと述べています。それに対して、日本は「未だ曾て『自由・平等』の思想を知らない専治主義的封建制」だった、とされます。

――進んだヨーロッパと遅れた日本という対比がきわめて明確ですね。

はい。ここで前提されているのは、やはり「先進的ヨーロッパ」対「後進的アジア」という認識枠組みです。

ヨーロッパの資本主義の発展が「自由・平等・独立的個人」をもった「市民社会」を生み出したのに対して、「日本のブルジョア自由民権運動」は「自由主義の不徹底な一変種」にすぎず、その結果、日本には特殊日本的な「資本主義社会」は存在するにもかかわらず、ヨーロッパ的な「市民社会」はまだ存在しない、という現状認識です。

したがって、日本が当面する変革の課題は、「ブルジョア民主主義革命」によって「市民社会」を実現することだ、ということになります。それが講座派の共通認識でした。

「日本にはまだ市民社会がない」

――原語では国家や経済社会を意味していた「市民社会」が、講座派的な発想のもとで、実現されるべき理想に変質したのがよく理解できます。戦後、日本ではGHQによって民主化が進みますが、そうしたなかで「市民社会」はどのような経緯をたどるのでしょうか?

敗戦後の日本では、連合国軍の占領下、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導と圧力のもとに、急速な「民主化」が進められました。憲法の改正をはじめとして、戦争協力者の公職追放、財閥解体、農地改革などを含む広範な「戦後改革」が行われたわけです。とくに農地改革は、講座派が「半封建的」と見なした農村の小作農を、ほぼすべて独立自営農に転換させ、日本資本主義の特殊性を大幅に解消しました。

そのような状況の中で、「市民社会」という言葉も、ヘーゲルやマルクスが批判対象とした資本主義的経済社会の同義語としてではなく、むしろスミスが描いた近代的な文明的商業社会を表現する概念として、広く受け入れられていくことになります。

そのような理解を推進したのが、スミス研究者の高島善哉でした。彼は1947年に出版した『アダム・スミスの市民社会体系』の「序」で、「民主主義革命途上にある我が国」では「市民社会」論の研究が「日本の啓蒙化の理論」になる、と述べています。

――講座派と同じ発想ですね。

はい。このような問題意識は、かつての講座派の主張の反復です。自由主義的市場経済論者であるスミスの研究が「民主主義革命」につながる、という理解は、今から見ると奇妙に思われますが、1980年のインタビューで、高島は当時を振り返ってこう述べています。

「日本にはまだ市民社会がないんだ、これをつくり出さなければ戦後は日本はまともに動かない……。日本では前近代に対する闘いはこれからやっと始まるんだから、市民社会ということをもっと強調しなければいけないという考えだったと思います」。

このように「市民社会」を資本主義的な経済社会とは区別される変革の理念と見なしたうえで、日本におけるその実現を主張したのが、「市民社会論」と呼ばれることになる言説でした。それが「前近代に対する闘い」を想定していたことからわかるように、「市民社会論」というのは、一種の近代化論でもあったわけです。

「日本にはまだ市民社会がない」と考えた「市民社会論」(高島善哉やその門下の平田清明)は、「典型的な西欧社会」を理想化して、西欧なみの市民社会をつくりだすことを日本の課題としました。そうするかぎりで、ヨーロッパ中心主義を内面化した「文明開化」論の末裔だったと言うことができると思います。

「会社主義」の勝利

――ところが、アンドリュー・バーシェイによると、高度経済成長を経て影響力を持ったのは「企業共同体」あるいは「会社主義」であって、「市民社会論」はヘゲモニー争いに敗れたとのことですね。

日本の国民総生産(GNP)は、1968年に当時の西ドイツを抜いて、はじめて西側世界で第2位になりました。日本経済の高度成長は、1971年の「ニクソン・ショック」(金ドル交換停止と変動為替相場制への移行)や1973年の「石油ショック」(第4次中東戦争に連動した石油輸出国機構OPECの石油価格引き上げ)によって終わりを告げます。しかし、世界経済の停滞の中で、日本経済はいち早く不況からの脱出に成功し、1980年代の「経済大国」へ向かう道が始まっていました。

このような状況の中で、「市民社会」という言葉は、日本社会の変革の理念という意味を失い始めます。そのことを象徴的に表現しているのが、自由民主党の機関誌『月刊自由民主』1975年11月号に掲載された、自由民主党幹事長(当時)の中曽根康弘と読売新聞政治部長(当時)の渡辺恒雄との対談でした。その題名が「結党20年を迎えて――新しい市民社会への原動力たれ」だったのです。

――保守の側が「市民社会」を目ざせとしたのですか?

表題にある「新しい市民社会」という言葉自体は、対談の中では使われていません。ですが、中曽根の発言を見れば、「エゴイズム」や「傲慢」などを「浄化」した、禁欲的な「民主主義」社会のことを指しているようです。

権利を主張するだけではなく、自己抑制的に自分の義務を遂行する国民からなる社会です。保守派にとっても、「市民社会」という言葉は、すでに自分たちの語彙として使えるほどに牙を抜かれていた、ということでしょう。

――体制を変革するのでなく、体制に奉仕する主体が市民だとされたんですね。

はい。その背景にあるのは、やはり日本企業の輸出競争力に支えられた経済的繁栄です。

アメリカの経営学者ジェームズ・アベグレンが『日本の工場』という著書を書いています。そこでアベグレンは、日本企業の経営の特徴を「終身雇用・年功序列・企業内組合」という言葉で表現しました。それが『日本の経営』という題名で翻訳されて、ベストセラーになったのは1958年のことでしたが、「日本的経営」という言葉が、「経済大国」としての自信とともに誇らしげに語られるようになるのは、1970年代半ばからです。

また、後に中曽根政権のブレーンとなる村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎の共著『文明としてのイエ社会』が出版されるのが1979年です。この本では、血統に基づく氏族型集団を核とする「ウジ社会」から、中世の関東武士団に由来する「イエ」という集団を核とする「イエ社会」へと、集団の構成原理が転換していく過程として日本の歴史が描かれています。「日本的経営」を日本企業の「イエ型集団」的特性として賛美するこの本は、まさに「会社主義」という国民統合のイデオロギーを提供するものでした。

実際に、この時期の大企業の多くは、企業内福利厚生をそれなりに充実して、社員を企業に「実質的に包摂する」努力をしていました。つまり、大企業労働者の多くにとって、政治参加や社会変革よりも、会社内での昇進の方が、具体的な生活改善の目標となりえた、ということです。

――市民ではなく、会社人間になっていったんですね。

そのような状況を捉えて、アメリカの歴史学者アンドリュー・バーシェイは、1960年代から70年代にかけての時期に、「市民社会論」はヘゲモニー闘争に敗北したのであり、「支配階級の政治的・文化的ヘゲモニー装置」を通して勝利を収めたのは、「企業共同体」あるいは「会社主義」の言説だった、と指摘したわけです。

東欧革命と新しい「市民社会」

――さて、ふたたび海外に目を向けると、意外にも英語圏では〈civil society〉という言葉は長い間、死語だったとのことですね。それがふたたび広く使われるようになったのは、1989年の東欧革命による社会主義政権の崩壊をきっかけとしています。

東欧の反体制運動の中で〈civil society〉という言葉(あるいはその訳語)が使われるようになるのは、1980年代のポーランドとハンガリーです。1994年に出版された英和辞典『リーダーズ・プラス』では、〈civil society〉は「[東ヨーロッパで独裁的国家体制に反対する]市民団体」と説明されていますが、これはまさに当たっています。

ポーランドでは、自主管理労組「連帯Solidarność」のスポークスマンだったアダム・ミフニクが獄中で書いた文書が英訳されて、西側諸国に知られることになります。そこでミフニクは「連帯」を、「市民的・国民的権利」を守るために組織された「市民社会の復活」と呼んでいます。また、ハンガリーに関しては、亡命知識人であるミハーイ・ヴァイダが、「国家に抗する市民社会」の存在を証言していました。

実際に1989年に入ると3月に、「ハンガリー民主フォーラムMagyar Demokrata Fórum」が発足し、4月にはポーランドで「連帯」が合法化され、9月には東ドイツで「新フォーラムNeues Forum」が発足します。ベルリンで100万人のデモが行われ、ベルリンの壁が崩壊するのは、その後の11月19日です。同じ11月の下旬には、チェコスロバキアでも「市民フォーラムObčanské fórum」が発足します。

このような状況に衝撃を受けて、1990年に西ドイツのユルゲン・ハーバーマスたちが改めて〈civil society〉の直訳語として使い始めたのが〈Zivilgesellschaft〉という新造語でした。ハーバーマスの『公共性の構造転換』の1990年版「序文」での説明に従えば、これは、「公共的な討論」に参加して「世論を形成する諸結社meinungsbildende Assoziationen」という性格づけを与えられた「市民団体」の総称です。

ハーバーマスはその具体例として、教会をはじめとするさまざまな「サークルVereinigung、団体Verein、組合Verbände」を列挙していますが、いずれも英語に訳せば〈society〉か〈association〉、つまり「自発的な結社」のことです。

――「市民社会」というと空間や領域をイメージしますが、もっと具体的な団体や結社のことを意味しているのですね。

そうです。このようなハーバーマスの新しい「市民社会」概念は、それ以降、ヨーロッパとアメリカに急速に広がります。政治社会=国家(政府)とも経済社会=市場(企業)とも異なる、第3の社会領域の組織および運動として、「市民社会=市民団体」の影響力を評価する立場が、現在の「市民社会」論の主流になったと言っていいでしょう。

そのような「市民社会」論の代表的なものに、メアリ・カルドー『グローバル市民社会論――戦争へのひとつの回答』や李姸焱『中国の市民社会――動き出す草の根NGO』などがあります。

――新しい「市民社会」論は日本でも受容されたのでしょうか?

東欧革命以後、アメリカやヨーロッパに広がった新しい「市民社会=市民団体」論の反響が日本に及ぶのには、やや時間がかかりました。それは、かつての「市民社会論」の影響力がそれなりに大きかったために、かえって新しい概念を理解して咀嚼するのに手間取った、ということになるかもしれません。

日本では、新しい「市民社会」論は、かつての「市民社会論」の更新版として現れました。それが1997年です。この年の雑誌『世界』の1月号に、国際政治学者の坂本義和が「相対化の時代――市民の世紀をめざして」という論文を発表します。そこで坂本は、「市民社会」を「人間の尊厳と平等な権利との相互承認に立脚する社会関係がつくる公共空間」だと定義し直しています。

そのような「市民社会」の構成員は、「人間の尊厳と平等な権利を認め合った人間関係や社会を創り支えるという行動をしている市民」であり、さらに「国内・民際のNGO組織に限るものではなく、都市に限らず農村も含めて、地域、職場、被災地などで自立的で自発的(ボランタリー)に行動する個人や、また行動はしていないが、そうした活動に共感をいだいて広い裾野を形成している市民をも含んでいる」、と言います。

ここでは、かつての「市民社会論」と同様の理念的社会像と、NGO組織を中心とする新しい「市民社会=市民団体」論とが混じり合っています。このような坂本の言説に、1990年代以降の〈civil society〉を「市民社会」と訳すことの問題が現れていると思います。

――どういうことでしょうか?

英和辞典の『リーダーズ・プラス』がこの英語を、「東ヨーロッパの反体制的市民団体」と説明したことは先に述べました。その後のカルドーの「グローバル市民社会論」で中心的に取り上げられているのは国際NGOですし、李姸焱が「中国の市民社会」と呼ぶのも、具体的には「草の根NGO」です。

しかし、それが「市民社会」と訳されてしまうと、坂本の例が示しているように、具体的な組織や結社から離れて、さまざまな「市民」が構成する「公共空間」というあいまいで抽象的な、一種の理想化された「社会」を想起させてしまうことになります。それでは、かつての「市民社会論」の二の舞になってしまうのではないか、というのが私の懸念するところです。

――なるほど。講座派の呪縛と言うべきか、たしかに「市民社会」と言うと変に規範化されて、具体的な実践として理解されにくくなりますね。他方で植村先生は、講座派的な発想が持つ新自由主義との親和性にも警笛を鳴らしています。

はい。講座派的な「市民社会」認識は、20世紀末以降、新自由主義的な市場原理主義の側に議論の素材を提供してしまった、というのが私の理解です。

つまり、民主主義社会の政治的主体となる「自由・平等な個人」の確立を求める講座派的な議論が、市場経済の枠の中で「自由に」選択して意思決定し、その結果に個人として責任を負う「自立的主体」の確立を求める議論へとすり替わっていった、ということです。

そのことを示しているのが、1997年3月に発表された経済同友会の提言『こうして日本を変える――日本経済の仕組みを変える具体策』でした。

この提言は、「構造改革推進の基本理念は民主主義と市場原理の尊重」だとした上で、「日本の明治維新以後の近代化の進め方」に言及し、「欧米の近代化は市民革命を経て、『民』主体で進められ、市民社会の上に近代国家が形成された。ところが日本では、近代民主主義国家の前提となる市民社会が十分に育っていなかった」と言います。

――どこかで聞いたストーリーですね。

まるでかつての「市民社会論」の再現です。しかしながら、この提言では「市民社会」が「市場原理の尊重」と同一視され、「民主主義」が「民間企業主導」の意味で使われ、さらに政府による規制を緩和して民間企業の自由な経済活動を実現することが「構造改革」と呼ばれています。

この「構造改革」も、もともとはイタリア共産党の綱領にあった社会変革の方法を指す言葉でした。しかしながら、そのような左翼的用語を使いながら、この提言が求めているのは要するに、「透明性の高いルールと自己責任原則に基づく自由競争社会の健全な発展」です。つまり、「市民社会」とは「自己責任論」が支配する新自由主義的な競争社会のことなのです。

――「自立した市民」が換骨奪胎されてしまったと。

そうです。20世紀末以降、労働者派遣法の数次にわたる改正に代表されるように、さまざまな労働規制が緩和され、また政府や自治体が手を引くことによって取り残された社会福祉の分野には、NPOが進出することになりました。

それとともに、「自己責任論」に依拠した生活保護受給者に対するバッシングも見られるようになりました。このような社会が、かつての講座派や「市民社会論」者が望んだ社会でないことは明らかです。しかし、「自由主義」と「個人主義」を大義名分とする社会の実現、という意味では、「市民社会論」が目指したものと微妙に重なり合っている、ということも事実だと思います。

――ともに「自立した市民」がかたちづくる社会ではありますが、似て非なるものですね。

ですので、現在なお必要なのは、新自由主義によって活性化を強いられている「市民社会=市民団体」の両義性を明確に認識することだと思います。つまり、「市民社会=市民団体」を持ち上げて、その社会変革的側面に期待したり、それ自体の功罪を議論したりする前に、それが置かれている政治的・経済的文脈を見直すべきだということです。

現代の「市民社会=市民団体」論の多くが、国家領域=政府諸機関や経済領域=企業(資本主義的営利組織)とは区別される、非政府組織NGO・非営利組織NPOとしての「市民団体」とそのネットワークに期待をかけるのは、もちろんそれなりの社会的根拠があります。その一つは、政府が企業の際限のない営利活動を有効に規制せず、他方で社会福祉が後退していく中で、政府は頼りにならないという国民の政治的感覚だと思います。

だからこそ、NPOやNGOの活動のもつ意味を重視する「市民社会」論や、阪神淡路大震災や東日本大震災、熊本地震などにおけるボランティア活動を賞賛する「市民社会」論など、いくつかの「新しい市民社会論」が現れるわけです。しかし、それが政府や自治体の「公共的責任」を不問に付すことになってはならないし、ますます「ブラック化」していく資本主義企業の営利活動を側面援助するようなことになってはならない、と思います。

プロフィール

植村邦彦社会思想史

1952年生まれ、関西大学経済学部教授、専門は社会思想史。著書に、『マルクスを読む』(青土社)、『マルクスのアクチュアリティ マルクスを再読する意味』(新泉社)、『市民社会とは何か 基本概念の系譜』(平凡社新書)、『ローザの子供たち、あるいは資本主義の不可能性 世界システムの思想史』(平凡社)。訳書に、マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(平凡社ライブラリー)などがある。

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