2019.02.07

「保守/リベラル」という図式ははたして有効か

山本昭宏 日本近現代文化史・歴史社会学

社会 #リベラル

「行き過ぎた格差やそれを背景にした不平等を是正し、差別をなくし、多様な価値観を認め合える社会に――」

このような意見は「保守」だろうか? それとも「リベラル」だろうか?

多くの人は「リベラル」だと答えるかもしれない。しかし、「保守」を自認する人も、上記のような意見を否定はしない。むしろ積極的に掲げる向きさえある。

そうであるがゆえに、保守政党を自認する自民党の政策が、一見すると「リベラル」にみえるということも起こる。幼児教育の無償化、企業に対する賃上げ要請、女性活躍。これらを掲げてきた安倍首相は、一年前に「私がやっていることは、かなりリベラルなんだよ」と口にしたと伝えられた(『朝日新聞』朝刊、2017年12月26日)。

なるほど、消費増税による再配分を進めている姿は、「大きな政府」を志向する社会民主主義的な方向性にみえる(生活保護費は段階的に削減されているため、実際は違うが)。そもそも、対立する党派や連立を組む他の政党が掲げる「リベラル」な政策を、適宜取り入れていくというのは与党の定石であって、特筆するようなことでもない。他方で、現代日本においては、「天皇はリベラルで素晴らしい」というような意見が提出されるようになった。さらに、「政権交代可能な反自民勢力」としての「リベラル」が、2017年9月の民進党の迷走と事実上の解党により、明らかに発言力を低下させたのは周知の通りである。

これらを改めて確認したのは、現代日本社会において「保守/リベラル」という構図が、政治勢力の対立としても、思想・信条の対立としても不明確になり、ほとんど機能していないことを示したいからだ。

筆者は、かつて、近現代の日本において、「リベラル」という言葉の意味がいかに変化し、いかに多様化してきたのかを整理したことがある(https://synodos.jp/politics/17702)。そこで筆者は、現代日本の「リベラル」には二つの類型があると述べた。少し言い換えた上で再掲すると、一つ目の類型は、「反自民政権のための勢力結集とそれを可能にするための社会民主主義な政策体系」。もう一つは、「『平和』『脱原発』『反基地』などの人道主義的価値観」である。その上で、この両者を架橋することによって「リベラル」が存在感を持ち得るのではないかと提起した。

しかしながら、「保守/リベラル」の境界線自体が不明確になるなかで、筆者は「そもそも「保守/リベラル」という対立図式が妥当なのか」を問うてみたいと思うようになった。

勢力や概念の外枠が不明確になると、「真の○○とは何か」を問い、境界線を引き直す議論が起こりがちだ。言葉の指す意味は時代とともに変わるのが当たり前なのだから、時代に応じた線引きが必要だというのは理解できる。しかし、むしろ「保守/リベラル」という構図にこだわることの問題が出てきているようだ。

憲法の価値観をめぐる対立

では、「保守/リベラル」という対立の図式で現代社会の政治的・社会的構図を理解することは妥当なのか、考えてみたい。

政治勢力のマッピングや思想・信条のマッピングを行う際には、なるべく多くの人が、自分をそのなかに位置づけられるような構図が望ましい。しかし、前述したように、現代日本社会では、社会民主主義的な政策という面でも、人道主義的な価値観という面でも、「保守/リベラル」の対立がみえにくくなっている。

では、逆にこう問うてみよう。現代日本で「保守/リベラル」の対立が機能しているところはどこだろうか? おそらく大方の読者も予想がつくだろうが、それは安全保障問題、沖縄の基地問題など、憲法が提示する価値観に関わる対立である。

軍事費を増大させ、沖縄に米軍基地を集中させ、特定機密保護法を通し、集団的自衛権行使容認に踏み切り、改憲を目指す。こうした勢力が「保守」であり、それに反対する勢力が「リベラル」だ。こうした理解にもとづく「保守/リベラル」の構図は、たしかに今なお有効なのだろう。大きな対立軸として人びとの関心を引きやすいという利点もある。

この場合の「リベラル」の主張は、窮極的には現在の憲法の理念に集約される。しかし、仮に護憲勢力を指して「リベラル」と呼ぶのであれば、それはかつての「戦後民主主義」とほとんど変わらない。「無責任」「空想的平和主義」「権利ばかりを主張する」というような「戦後民主主義」への非難の言葉は、現在の「リベラル」に向けられる言葉に酷似している。

「戦後民主主義」が「リベラル」に看板を掛け替えて一定の支持を集めているのか、あるいは「リベラル」が「戦後民主主義」を継承しているのか。どちらの理解も可能だろうが、ここで提起したいのは、憲法の価値観にこだわるのであれば、なにも「リベラル」という言葉にこだわることはないという点だ。むしろ「戦後民主主義」と呼び直したほうが、戦後日本の歩みを射程に入れることができるし、「戦後民主主義」の欠落部分を議論することもできるのではないか。かつて「戦後民主主義」という言葉は、曖昧なままに論壇から退場していったが、「リベラル」も同じ轍を踏むのではないかと危惧する。そうなる前に、憲法改正問題という大きな争点を掲げて、議論の土台作りをするのが良いと考えている。

「保守/リベラル」という構図が見落としているもの

次に、「保守/リベラル」という構図が何を見落としているのか、考えてみよう。

年配の読者には当然のことだろうが、この構図は明らかに、「左翼」を切り落としている。かつて、政治勢力としての「リベラル」は「保守/リベラル/左翼」という座標のなかで「中庸」を是としており、「保守」とも「左翼」とも対話可能な勢力だった。言うまでもないかもしれないが、自民党の派閥である「宏池会」の議員が「リベラル」と呼ばれ、古くは石橋湛山が「リベラリスト」と呼ばれていたのである。

しかし、冷戦が終わった90年代以降は、「保守/リベラル/左翼」という構図から「左翼」が次第に抜け落ちていった。現代日本では、「左」という言葉を耳にすること自体が少ない。それにより、労働の問題が政治・社会と切り離されるような言論の環境と人びとの意識がゆっくりと、しかし確実に、でき上がってしまった。なぜここで唐突に労働という言葉が出るのかというと、それが「保守/リベラル」とは異なる対立の構図の鍵になるからだ。

さて、「労働の切り離し」とでも言うべき動きは、70年代から散見されるが、それが頂点を迎えるのが、90年代だったというのが筆者の見立てである。90年代は、長期不況の幕開け期ではあったが、マス・メディアにはバブルの残り火もあり、労働者自身が社会と労働の関係をほとんど意識せずに済むようになっていた。

現代の私たちは自分の労働をいかに理解しているのか、問うてみてほしい。労働の現場での充実した人間関係はあるだろうし、労働を通して社会の一員であることを自覚できているという人もいるだろう。それでもやはり、「労働は辛く、耐え忍ぶものであり、消費者としてそのストレスを発散する」という理解が一般的なのではないか。

そうだとすれば、自らを「労働者」として自覚するのは、心地よいものではない。明確な「対価」を実感しにくい労働運動には人が集まらない。好きなアーティストのライブやイベントに集って消費者としてのパワーを社会に提示することはできても、労働者として集うという発想は生まれてこない。2000年代後半に格差社会や貧困が社会問題になったが、自己責任論は根強く、「グローバル資本による搾取が問題だ」と主張しても、現在の日本では「それなら努力して転職か起業でもせよ」と返されるだけだろう。

「労働者のパワー」という発想が、時代遅れなのだろうか。たしかに、一つの職場に、正社員、契約社員、アルバイトと多様な労働形態が混在する現代日本では、かつてのように労働者が一枚岩になる見通しを立てることは困難だ。そうした社会で、選挙前に慌てて「リベラル勢力結集」と言っても、迫力がない。

しかし、近年は、労働者の自発的結集の可能性に再び光を当てるような動きが世界で見られる。たとえば、イギリスで支持を集める労働党のジェレミー・コービンは、はっきりと「階級」を意識した政策提言を行っている。あるいは、フランスで今年の11月17日に起こった「黄色いベスト」運動も注目に値する。燃料税の引き上げに反対する低所得者層の運動には、28万人もの人が関わっていると報道された。

昨年出版された、ブレイディみかこ氏の著作『子どもたちの階級闘争:ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017年)は、「上と下」という構図を提起している。重要な問題提起だと思う。ただし、個人が自らを労働者として主体化する環境にありがながら、それよりも「中流でありたい」「豊かな国の国民でありたい」というそれ自体は否定しようのない願望の方が、個人に強く作用しているのが現状だ。その願望が、「保守」に票が集まる現状を生み、「上と下」という構図で社会を見る態度を拒んでいる。

否定的な展望ばかり述べたが、これが日本社会の現状だろう。「リベラル」だけが問題なのではない、事態は「保守」も同じである。「経済大国」であるという自画像を守りたいという以外に、何を守り保とうとしているのか、もはやよく分からない。

身近な対立のラインの錯綜に目を凝らす

こうした状況で、「保守」と「リベラル」という対立の構図を描いても、もはや有効に機能しないだろう。「保守」「リベラル」に代わる別の言葉が必要なのだ。ではそれはどんな言葉か? 最後に筆者の考えを記しておきたい。

現代日本社会には、政治勢力の対立としても、思想・信条の対立としても、大きな対立軸はそぐわない(あえて言うなら、「改憲/護憲」「上/下」だろう)。むしろ、視野を転じて、より身近な対立のラインの錯綜にこそ、目を凝らすべきだ。

私たちは日常生活のなかで、あるいはネット上で、「保守/リベラル」という対立の構図よりは遥かに切実に感じられるような対立のラインに日々接している。たとえば、この記事の読者である日本語話者の私たちは、職業・生活水準・将来設計・自らの来歴・家族構成・性に関する意識・宗教・国籍など、ほんとうに数多くの違いを抱えこみながら、人間関係を構築している。そうした人間関係のあいだを走り、ときには排除に傾く対立のラインを、まずは意識し、解きほぐしていくという実践が求められているように思う。

ほとんど機能不全の「保守/リベラル」対立の構図の前で「踏み絵」を踏まされ、「公共の議論に加わるべきだ、それが責任ある個人だ」と真顔で正論を言われても、ちょっと引いてしまう――。こういう「感覚」もまた、潜在的な対立ラインだと思うが、私たちはそういう「感覚」にこだわって、そこから言葉を紡いでいくのが良いのではないか。

論点が変わっていると受け止められるかもしれないが、筆者は、そうは思わない。

「保守/リベラル」の対立の図式をどれだけ精緻化しても、社会に錯綜している対立のラインを意識するというそれぞれの実践を抜きにしては、結局はそのなかに生きた人間を見つけることができないだろうから。

言葉を紡ぐというのは、自己の内外に目を凝らし、耳を澄ませることだ。日常生活のなかからくる「感覚」を言葉にするための場所は、いまではどこにだってある。言うまでもないが、言葉を紡ぐことと、条件反射的にテンプレートを貼り付けることとは、異なる。身の回りをよく見て、それを言葉にすることで意識していく、対話していく、まずはそこからだ。それなしには、とのような大きな構図も意味をなさない。

もってまわった言い方になってしまったかもしれない。これが正解だと胸を張ることもできない。「もっと明快な代案を出せ」と怒られそうだが、それは筆者にもわからないのだ(もし、明快な対立の構図を言う人がいたとしたら、疑ったほうがいいということは、わかっている)。開き直るわけではないが、私たちの議論の土台そのものが果たして妥当なのか、それを問うべきなのだろう。

プロフィール

山本昭宏日本近現代文化史・歴史社会学

神戸市外国語大学准教授

1984年生まれ。専門は日本近現代文化史、歴史社会学。著書に『教養としての戦後〈平和論〉』『核と日本人:ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』『核エネルギ:言説の戦後史1945―1960』

この執筆者の記事