2020.02.06

犠牲者の報道は実名匿名の二者択一か――京アニ事件の取材経験から

広瀬一隆 新聞記者

社会

2019年7月18日、京都市伏見区にあるアニメ製作会社「京都アニメーション」(京アニ)の第1スタジオが放火され36人が死亡、33人が重軽傷という未曾有の事件が発生した。平成以降最悪の犠牲者数の放火事件であり、世界的に著名なアニメ製作会社が標的とされたため社会的に大きな注目を集めた。

そして同時に、マスコミの取材姿勢に対する大きな批判が巻き起こった。犠牲者を実名で報じてよいのか、惨劇から間もない時期に遺族に話を聞こうとすることは許されるのか――。これまでも時として議論の俎上に載ってきたテーマが、世間の強い関心を惹きつけた。私自身、地元紙の記者として京アニ事件を取材しながら、犠牲者について報道する意味を考えさせられた。

事件発生から半年たった今、私は少なくとも「犠牲者を実名と匿名のいずれで伝えるべきか」といった二者択一の議論に限界を感じている。実名でも匿名でも、報道の仕方はさまざまある。それぞれの遺族によっても思いは多様だ。そうした状況を踏まえれば、実名か匿名か、という単純な二者択一で犠牲者を巡る報道を捉えることはできない。

私は、従来のような犠牲者の実名報道を至上命題に据えた報道はあらためるべきだと考えているが同時に、いたずらに匿名報道に切り替えることの危険性も感じている。

ではどうするべきなのか。

本稿では私自身が京アニ事件を取材した経験を基に、これまで考えてきたことをお示ししたい。

※なお本稿で展開する議論は、私個人の考えであり、所属する京都新聞社を代表するものではありません。

平成以降最悪の犠牲者数を出した京都アニメーション放火殺人事件の現場=京都市伏見区(2019年8月18日、京都新聞社撮影)

犠牲者35人が実名で報じられた紙面

「京アニ犠牲 全35人判明」と横向きに大きな見だしが掲げられ、その横には犠牲者35人の名前が並んでいる--。

8月28日付けの京都新聞の朝刊1面である。京都府警が前日、京アニ事件で亡くなった25人の実名を公表したことを受けたものだった。それまでに発表されていた10人と合わせて、35人分の名前を掲載した。32ページのうち7ページが京アニ事件関連の記事で埋まった。※

京都新聞のほか読売や朝日、毎日、産経の各紙のこの日の紙面も、京アニ事件の35人の犠牲者について大きく報じていた。

各紙に載った記事は、大きく2つのテーマに分けられる。亡くなった犠牲者の名前だけを載せた一覧と、犠牲者の人柄を伝える記事である。

犠牲者を巡る報道の意義を考えるにあたって、この2種類の記事について考えることから始めたい。実名か匿名か、といった二者択一では捉えきれない犠牲者を巡る報道の側面を見られると思うからだ。

※2019年10月には36人目が亡くなった。

実名報道の必要性とは

まず私が実名で報道する必要があると考えるタイプの記事について述べたい。「いつものように実名報道至上主義のメディアの論理か」と思う向きもあるかもしれないが、私としては実名で報じなければならない記事は限定的だと考えている。

私の考える実名で報じなければならない記事のタイプとは、「犠牲者の名前だけを載せる記事」である。写真にあるような一覧表は、京都新聞を含めた各紙で1面に載っていた(今回は記事の性質上、犠牲者の名前が分からないような形で紙面を撮影した)。

2019年8月28日付けの京都新聞朝刊に掲載した犠牲者の一覧

私は、「純粋に犠牲者の名前のみを報じる」という記事だけは必要という立場をとる。なぜか。安否を速やかに伝えるというもっとも基本的な意味に加えて、さらに2点、犠牲者の名前だけを伝えることが重要と言える理由を挙げたい。

第一に、不正確な情報が流布することを防ぐという点である。

京アニ事件では事件当初、犠牲者の名前が明らかになっていないため、さまざまな臆測がインターネット上で飛び交った。しかしインターネット上で臆測が広がることは、時に人の心を傷つけることがある。

2019年8月に茨城県の常磐自動車道で起きたあおり運転殴打事件では、容疑者とは無関係な女性が、「同乗者の女」だという誤った情報をインターネット上で拡散される被害を受けた。これは無関係な人が加害者側に間違われたケースである。

一方で今回の京アニ事件では、たとえば生存している方が犠牲になったという誤った情報が広がったわけではなく、大きな被害は生じなかったかもしれない。

しかし大きな被害がなかったのは偶然だった、とみることもできる。誰かに被害が生じてからでは遅い。できるだけ早い時期から、犠牲者の実名という正確な情報を伝える必要がある。

次に、歴史的な検証に資するという点がある。

数十年たって、京アニ事件を調べようと思った時のために、事件に関する事実はできる限り残しておくことが求められるのではないだろうか。

こちらも、必ず将来に誰かが京アニ事件を調べようとする、と言えるわけではない。ただ、現在を生きている私たちからは見えていない意味が、数十年たてば分かるようになるかもしれない。

1995年に東京都で起きた地下鉄サリン事件や1997年に神戸市であった連続児童殺傷事件など、被害に遭った方を通じて現在も私たちに教訓を与え続ける事件はある。

これらの理由を踏まえ、私は何らかの形で犠牲者の実名は報じなければならないと考える。

遺族が犠牲者の実名報道を拒絶していても報じるのか?

そう問われる方がいると思う。その問いへの私の答えは、たいへん心苦しいことではあるが、「報じる必要がある」ということになる。

ただし、たとえば新聞の1面のような目立つ場所に掲載する必要はない。本当に知りたい人だけが、確認できるようにすればよいと思う。たとえばインターネット用の記事では掲載せず、紙媒体でも、ページをめくった内側に記事を載せるなどさまざまな配慮をすることは可能である。

それでも、惨劇で家族が亡くなった事実を社会に知られること自体に大きな苦痛を感じる遺族もいるだろう。自身も交通事故で娘を失い、さまざまな事故遺族と交流のある男性は、実名で報じられることそのものに痛みを覚える遺族がいることを私に教えてくれた。

そうした遺族からの批判は、甘んじて受けなければならない。

匿名報道という選択肢

私が実名報道のあり方において改める必要があると感じるのは、「犠牲者の人柄を伝える記事」についてだ。新聞紙面で言えば、社会面に載るような物語的要素を重視して感情に訴える記事のことである。

私を含めた京都新聞社の京アニ事件取材班でもっとも力を入れた一つが、こうした記事だった。犠牲者がどのような人だったのか、ということを周辺取材から明らかにしてスト-リーの形で多くの記事にした。ほかの報道機関も同様だったと思われる。

そして京都新聞の場合、こうした犠牲者の人柄を伝える記事にはすべて、犠牲者の名前を掲載した。8月28日の紙面でも、京アニ関連の記事が載った7ページのうち、1面を含む5ページに犠牲者の人となりを伝える記事があった。特に亡くなった石田敦志さんの父親が開いた会見の様子は、1面と社会面にわたって詳細に報じた。

「息子は35分の1ではない。私たち残った者にできることは多くの人に記憶していただくこと。石田敦志というアニメーターが京アニに確かにいたことを、どうか、忘れないでください」

そう訴える父親の言葉が社会面には載っている。私は会見場にはいなかったが、取材に赴いた記者たちが口々に、父親の言動に心を打たれたと語っていたことを覚えている。

京都新聞以外の各紙でも、父親の会見は詳しく報じられている。

亡くなった息子の名前は、遺族にとってとても大切なものなのだと思う。だからこそ、実名で報じるよう求められた時には、記者として全力で応える必要がある。

一方、京都新聞では、石田敦志さんの父親の話だけでなく、見開きを目いっぱい使って35人の犠牲者の名前とそれぞれが手がけたイラストや顔写真を並べる記事も出した。私が犠牲者の実名を報じる難しさを感じるのはこうした記事である。

確かに、この記事をあらためて読み返しても、それぞれが仕事に打ち込み、作品を作り上げてきたことが伝わってくる内容となっている。

しかし名前が載っている犠牲者の中には、遺族が実名での報道を拒絶していると京都府警が伝えてきた方も多くいた。

こういう紙面を作ってよかったのか。ずっと考えてきた。

同僚記者が後日、実名報道拒絶の意向が伝えられていた遺族宅を訪れると、犠牲者の人柄を報じた紙面をたいへん喜んでもらえたという。このことから、ある犠牲者1人の遺族の中でも、意見が異なるケースがあることが推測される。

一方で、私たち取材班が話を聞けていない遺族の中には、この紙面に苦々しい思いを抱く方がいるかもしれない。それぞれの遺族の背景には容易には推し量れない思いがあるはずである。

複雑で多様な遺族の心情を前にして、どのような犠牲者に関する報道が望ましいのか。

はっきりした正解はないのかもしれないが、現状では私は、犠牲者の人となりを伝える物語性の強い記事を書くときには、遺族の了承を得られない限りは原則として匿名で記事化した方がよいと考えている。

匿名であっても、どのような人が亡くなられたのか、どれほど理不尽な命の奪われ方だったのか、を伝えることはできる。そうであるならば実名報道によって遺族の心情を害することをできるだけ防ぐのが重要である。

ある犠牲者1人の遺族の中で意見が異なる場合はどうするのか。たとえば犠牲者の父親は実名を望むが、母親は匿名を求めることなどが想定される。一概に基準を設けることはできないが、犠牲者の人柄を伝える記事であるならば、遺族の中に匿名を望む人がいる限り、報道機関として実名にこだわらなくてよいのではないか。

確かに、実名を報じることは、社会にたった1人しかいなかった犠牲者の重みを表現することにつながる。写真も加われば、なおさら犠牲者の存在の迫真性は高まるだろう。

だが多くの読者にとって、犠牲者への関心は事件を通じて生じたものと思われる。匿名を望む遺族の意向に反してまで実名報道による迫真性を追求するべきとは言えないのではないか。

「事実を伝える時に基本情報として固有の名前は不可欠。遺族の意向とは無関係である」として、実名報道を推進する立場もあるだろう。多くの報道関係者はこれを正論と感じるかもしれない。

しかし遺族の気持ちを傷つける可能性がある以上、正論を重んじるよりも、遺族の抱く心情を繊細に察することのほうが大切ではないか。時間がたって遺族の了解が得られてから実名で記事を書いても意義は損なわれないはずである。

別の角度からの反論もあるだろう。「遺族から了承を得られない限り、匿名であっても記事化してはならない」というものだ。

だが犠牲者を大切に思うのは、遺族だけとは限らない。友人や同僚、学生時代の恩師などさまざまな関係を持った人々にとってもかけがえのない存在だったはずである。

私も京アニ事件の取材の中で、犠牲者の友人らに話を聞き、それぞれが大切に持っている犠牲者との思い出を預かった。犠牲者を思うそうした人々の声を、何らかの形で記事にすることも重要だろう。

遺族の思いと、そのほかの犠牲者と親しい関係者の気持ちの間で折り合いをつけるために、私としては、遺族の了解が得られない場合は匿名という形で記事化する方法をとるべきと思っている。

ここまで述べてきた犠牲者の報道に対する私の考えを整理すると次のようになる。

1.犠牲者の実名は、何らかの形で伝える必要はある。しかしその伝え方は、目立たない紙面に記事を掲載するなどの工夫が求められる。

2.犠牲者の人柄を伝える物語性の強い記事では、遺族の拒絶がない場合に限って実名で報じる。遺族が拒絶している中でも、そのほかの周辺関係者から話を聞けた場合は、犠牲者を匿名で報じる。

遺族の意向と報道の役割は時に一致しない。そのなかでどのような報道が許されるのか、というのは非常に難しい問題だ。現状では私は以上のような立場をとるが、より適した方法がないのか、検討を重ねたい。

実名報道の是非を巡り、インターネットを中心に激しい議論が起こった=コラージュ(2019年8月28日付け京都新聞朝刊掲載)

誰が遺族の意向を確認するのか

犠牲者の実名を報道する是非を中心に、記者として遺族の意向とどう向き合うか、というテーマを考えてきた。ここでひとつ、難しい問題がある。

「遺族の意向」は誰が確認するのか、という点である。

8月28日の京都新聞の紙面では、京都府警が事前に遺族から聞き取った実名報道の諾否に関する意向と、京都新聞社の取材で把握した各遺族の意向に乖離があることを報じた。

記事では、京都府警を担当する同僚記者が取材した捜査関係者のコメントとして「遺族の精神的ショックは大きく、警察官との対面を拒む人もいる。意見を正確に把握するのは非常に難しい」という言葉が記されている。

実際、すべての警察官が遺族と接することに慣れているわけではないだろう。京都府警をはじめとする捜査機関が公表する「遺族の意向」をそのまま鵜吞みにすることには懸念が残る。

また京都府警など捜査機関は、行政組織であり情報はできる限り公開する必要がある。そうした捜査機関が、報道を制限することは避けるべきだろう。

では、私たちのような報道機関が意向を確認すればよいのだろうか。

大勢の記者が一度に押し寄せるのではなく、少数の代表者だけが遺族にアクセスするようにするなどメディアスクラムの防止策を講じた上でなら、この選択肢もあり得るように思う。

京アニ事件では、京都府警が犠牲者25人を公表した8月27日、報道各社で分担して各遺族の自宅などへ取材の諾否を確認しに行った。京都府警は、実名報道への意向と合わせて取材の諾否も伝えてきたが、報道機関自らが確認する必要性があると考えたからだった。

結局この日は、会見した石田敦志さんの父親以外は全員が取材拒否だったが、取材に対する遺族からの苦情は寄せられなかった。メディアスクラムを防ぐ一定の効果はあったと思われる。

とはいえ、遺族にとっては突然見知らぬ報道関係者から呼び鈴を押されるのは、大きな負担と考えられる。事件直後の早いタイミングから、報道関係者と遺族の間に、遺族の代理人として弁護士が入る方が望ましいのかもしれない。

代理人弁護士は、捜査機関とは異なり行政組織から独立した存在であり、報道を目的とする私たちと記者とも違う。まさに遺族の意向を代弁することそのものが職務となる立場にあるからだ。

8月27日の報道機関の取り組みは、京都府警が事件発生から1カ月以上たって実名公表したタイミングだからこそ、準備できた面が大きい。あくまでも「例外的な取り組み」という位置づけである。実際、事件直後からそれぞれの遺族には、私を含めた記者たちが直接接触を試みていた。

私自身は失礼のないよう配慮に努めたが、間に代理人弁護士がいれば、遺族の負担はより少なかったのではないか。惨劇に見舞われた遺族へ弁護士が早期にアクセスできる体制の構築が必要かもしれない。

念のため確認しておきたいのは、京アニという会社組織の代理人である弁護士と、それぞれの遺族につく弁護士は異なる立場にあるという点である。

京アニは、事件から間もない2019年7月22日に、「(犠牲者の)実名が発表、報道された場合、被害者や遺族のプライバシーが侵害される」として実名発表を控えるよう京都府警に要請した。その理由について京アニは10月18日の会見で「ご遺族が自分たちの責任においてマスコミに報道されるのはいいと思う。ただ、避けてほしいという方が一人でもいれば、(会社として)実名報道については差し控えてほしいと当初から考えている」と答えている。

ここで重要なのは、「実名報道を差し控えてほしい」という会社の立場は、すべての遺族の意向を反映したものではない、という点である。1人でも実名報道を避けてほしいという遺族がいれば、その意向を優先したというのが、京アニの立場である。犠牲者の勤めていた会社の判断として理解はできる。ただそれぞれの遺族と京アニの意向が完全に一致しているとは限らないことは事実だろう。

だとすればやはり京アニという会社だけでなく、それぞれの遺族に代理人弁護士がつくことが重要となる。しかし京アニ事件では一部をのぞき、それぞれの遺族に対して弁護士が事件直後から効果的にサポートしたようには思えなかった。

私たち報道関係者からすれば、遺族との間に弁護士を挟むことは、自分たちの取材を制限することにつながり、慎重になりたいところではある。しかし報道機関が自分たちの理屈だけを通そうとしていては、事件の犠牲者報道の改善は望めないことも事実だ。各報道機関の枠を越え、弁護士など異なる立場の人々と議論をする必要がある。

ここまで述べたことは、あくまでも私個人の見解だ。京都新聞社内にも異なる考えを持った記者は多いだろうし、すぐにこれまでのやり方を変えられる訳ではない。

だが犠牲者の遺族の取材はどのような形が望ましいのか。今後もさらに検証を重ねる必要があることに同意してくれる報道関係者は少なくない、と思っている。

捜査本部の設置時に会見した京都府警の捜査幹部ら。警察だけが遺族の意向を確認することには懸念が残る(2019年7月19日、京都新聞社撮影)

遺族の絶望を前にして

最後に、犠牲者に関する記事を書く意味、ということについて記しておきたい。私は本稿を通して、実名であれ匿名であれ、犠牲者に関する記事には伝える意義があることを前提に話を続けてきた。しかし実名での取材に応じてくれる遺族の中にも、そうした記事に意義を見いだせないと語るケースがある。

私は、京アニ事件で亡くなった津田幸恵さんの父親伸一さんに、事件直後から定期的に話を聞いてきた。初めて伸一さんの自宅を訪れたのは、事件から5日後の7月23日だった。この時はまだ幸恵さんの安否が確定していなかったが、猫が好きで親思いだった幸恵さんの人柄を語ってくれた。

取材に応じてくれた理由を尋ねると「頼まれると嫌と言えない」という答えだった。自分が伸一さんの優しさに付けいっているようにも思えた。

1カ月後に訪れた時、伸一さんは多数の報道機関がさみだれ式に取材に訪れることへの苦痛を訴えた。幸恵さんの死は既に明らかになっていたが、「どどっと質問されると余計なことはやめてくれと思う。時を置いてほしい。悲しみの内容は分からないだろうから」と口にした。

取材という行為に伴う「暴力性」を痛感した。

その後の12月にあらためてお願いすると取材には応じてくれた。その時は取材の負担は少なくなっているとしながらも、「取材に応じて記事になる意味は見いだせない」という考えは一貫していた。

確かに、亡くなった人は帰ってこない以上、何をしても意味はないというのはその通りだと思う。こうした遺族の言葉に対して、私に返せる言葉はない。

遺族の絶望を前にしたとき、報道することの空虚さが際立つ。

記者会見を開いて犠牲者の生きた証を伝えたいと語った石田敦志さんの父親の例もあるように、取材に応じてくれる遺族によっても、報道に寄せる思いはさまざまある。当然ながら、取材に応じていない遺族にも、それぞれの思いがあるはずだ。

容易には立ち入ることができず、個々の遺族によって異なる思いとどのように向き合うのか。一般化できるような答えはないのだと思う。私のような記者にできるのは、それぞれの遺族によって異なる事件への思いを、できるだけ繊細に知ろうとし、その結果を読者に伝えることだけだ。

私自身は、事件や事故の犠牲者が歩んできた人生や、その道のりが断ち切られたことの理不尽さを知る意義は大きいと信じている。これまでさまざまな事件や事故の遺族に会ってきた。それぞれの遺族から聞いた話は、言葉にしきれない重みがあった。それらはやはり記事の形で伝えるべきことだったと私は感じている。

だが同時に、いくら話を聞いて記事として伝えても、亡くなった人が戻ってくるわけではない。遺族の話を聞くほどに、最愛の人を失った無念さが伝わってくる。もし犠牲者が生きていたなら、当然ながら悲惨な事件の遺族となることもなく、私と出会うことはなかった。そうだったならどれほどよかっただろうか。

遺族にどのように向き合えばいいのか。私にまだ答えはないし、どれだけ時間がたっても正解は出せないかもしれない。

ただ一つ、遺族を取り巻く不条理な状況から目をそらしてはならないということだけは疑いないと思っている。

プロフィール

広瀬一隆新聞記者

1982年、大阪生まれ。滋賀医科大学を卒業し、医師免許取得。2009年に京都新聞社へ入社。司法や警察の取材において、犯罪被害者の支援やサイバー犯罪などについて問題提起してきた。京都アニメーション放火殺人事件では、被害者取材を担った。現代医療や科学のはらむ問題を、哲学など人文学と結びつけて描き出すこともテーマとしている。著書に『京都大とノーベル賞 本庶佑と伝説の研究室』(河出書房新社)。

ご連絡は theshelteringsky89@gmail.com まで

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