2012.08.02

「津波後は旅の者に満たされる」 ―― 大文字の復興と小文字の復興

宮本匠

社会 #震災復興#災害ユートピア

わたしはこれまで、2004年の新潟県中越地震によって被災した山間集落の復興支援に関わりながら、被災者自身による内発的な災害復興がどのように可能なのか、そこで外部支援者にどのような役割が果たせるのかを研究してきた。

「被災すること」は、ひとりひとりの被災者によって、またひとつひとつの被災地によって多様であるから、その復興もまた多様である。現代社会は、社会全体で積極的な理想や夢を共有することが困難な時代だから、一層のこと、多元的な復興プロセスが求められることになる。また、災害による被害は、既存の社会課題を増幅させたかたちで現れるから、被災後に被災者が直面する復興の課題は、一朝一夕には解決することができない長い道のりとなる。

そこで、まずは被災者自身が自分たちの暮らしや地域のあり方を省みて、主体的に自らの課題を認識したり、それを乗り越えていくための自分自身がもつ潜在的な可能性に目覚めるような地道な取り組みが大切になってくる。そうした復興に被災者自身が関わることは、悲惨な経験からの回復の機会にもなり得る。

しかし、ひとたび災害が起きれば、被災者・被災地は、時間的な制約のもとであらかじめ決められた選択肢の中からさまざまな決断を迫られることになり、そこに時間をかけてじっくりと自らの暮らしを省みたり、将来についてさまざまな意見を交わしたりする余裕はない。一方で、被災地の外では、復興についてさまざまな議論が被災地に向けてなげかけられる。もちろんさまざまな人が智恵をもちよって復興の議論をすることは重要なことである。しかし、そこに肝心の被災者の声が欠けているように思うことも少なくない。

「復興は急務の課題」であることに間違いはないのだろうが、このように被災者の声や十分な関わりを欠いたまま進められる復興に問題はないのだろうか。巨大津波に何度も襲われながらも、海の近くにふたたび暮らしを形成してきた被災地の復興を本当によりよいものにするために、それはふさわしい方法といえるのだろうか。

本稿では、以上のような問題関心をもとに、わたしが東日本大震災の被災地である気仙沼市唐桑半島で出会った被災者の方の言葉を通して、東日本大震災における内発的な復興と、そこでの外部者の役割を考えたい。

「津波後は旅の者に満たされる」

「津波後は旅の者に満たされる」

これは、三陸地方に伝わる言葉だという。この地方は、これまで何度も巨大津波による被害に襲われてきた。集落全体、家族が全員命を落とすこともあった。そんなときは、養子に出ていた娘が戻ってきたり、ときにはその家とまったく血縁のない他人同士の男女が夫婦となって家を継ぐこともあったのだという。三陸地域の文化は、これらの津波後の「旅の者」の移入によって撹拌されながら形成されたのだ。しかし、かつて家の存続が切実な問題であった時代と比して、家意識が希薄になった現代においても、こうした被災地外からやってくる「旅の者」が果たす役割はあるのだろうか。

「津波後は旅の者に満たされる」、この言葉は川島秀一の「津波のまちに生きて」という著作で紹介されている。川島は気仙沼市出身の民俗学者で、この度の震災で実家が流され、お母様を亡くされている。この著作には、震災前から書き綴っていた三陸沿岸の生活文化についての記録と、震災後、行方不明となった母を思いながら被災地を歩いて書いた文章がまとめられている。お母様とは、「あとがき」を書く段になって、ご遺体と対面されている。

三陸地方において、津波後に海から離れたところへ集落移住を果たしたものが、どうしてふたたび沿岸部に戻ってしまうのか。このことについて川島は、山口弥一郎(*1)という研究者が昭和8年の大津波の後に三陸地方を取材した「津波と村」という本の中から、「経済的関係」と「民俗学的問題」というふたつの言葉を引いている。

(*1)山口弥一郎(1902~2000)は福島県出身、東北地方をフィールドとした民俗学者。三陸地域における津波被害と集落移動を研究した著作「津浪と村」で扱われている課題は、東日本大震災においても共通することが多い。これを山口の先見の明とみるか、あるいは同じ悲劇が繰り返されているとみるのかは読者に委ねられている。

「経済的関係」とは、津波の被害にあったもののほとんどが漁師であり、「いつ来るか分からない津波の被害を予想して、毎日の生活を捨てることが出来なかったこと」があげられている。「民俗学的問題」とは、たとえば先に「旅の者」として紹介した津波後の移入漁民が、危険を知らずに浜近くに納屋を建て豊漁続きで財をなすと、古くからの地元漁民が我慢できずに現地に戻ってしまう例があげられている。

あるいは、祭日ごとに旧屋敷の氏神を親しく訪ねることが、災害を忘れた後々まで続き、やがて集落の現地復帰につながることもあるのだという。だから、山口は「災害のない町づくりは、その社会の特質や精神文化から考えるべきである」と言う。川島が引いている次の山口の文章がとても大切だと思うので、少し長くなるが紹介したい。

「津波の大災害は一挙にして此等の漁村を流出させ、狂乱の巷と化すのであるが、復興を遂げ落ち着いて来れば、此等の生活の伝統は再び生きてくる。それ程古くより固持されているものである。災害直後官吏や指導者が机上で設計、考案したままに、村の移動等の行われ難いの一因も、この辺にひそんでいることを知らねばならぬ。災害の救済復興は急を要する。然し此等の村の生活の伝統を研究する事等は一朝になるべきものではない。永い地味な仕事を、津波の災害の忘れ去られた頃も、コツコツと一人や二人行っていたとて差し支えないと思う。むしろ災害地の村人に此等の仕事を望んで止まない。村人自身が永い調査研究を遂げるでなかったら、真の災害救助、村々の振興等遂げらる筈はないと思う」

ここで山口が問題にしているのは、「災害時などの非常時にも外へ現れてくるのは日常性であること」なのだと川島はいう。大災害を経ても何度も蘇ってくる「生活の伝統」、それを根本的に探究の対象としなければ、災害のないまちづくりも村の振興も遂げられないというわけだ。さらに大切なのは、それを探究しなければならないのは、他ならぬ地域の住民であるということである。

気仙沼市唐桑半島を訪れて

ここまで川島秀一の著作を長々と紹介してきたのには理由がある。じつは、この本を紹介してくださったのは、縁あって出会った気仙沼市唐桑半島にお住まいのKさんである。

Kさんは67歳の男性で、早くに奥さんを亡くされ、震災前はひとりで唐桑にある実家に住まれていた。家が坂の途中にあったので、地震の後もまさか自宅まで波がやってくるとは思わなかったそうだが、波が坂の下からやってくるのを見て、津波を背に山をかけのぼり一命をとりとめられた。実家は、流れ去ることはなかったが1階部分が浸水した。

津波の後は、「せがれとふたり、足元のチリひとつ拾う気力がなかった」とKさんは言う。そんなときに、Kさんの家の前をボランティアが通りがかった。「お茶飲んで行け」とKさんは声をかけた。それが始まりだった。ボランティアが「家の片づけをしましょうよ」と言ってくれた。それから、「もう一度生きていくんだ、生活していくんだ」という力が出たとKさんは振り返る。ボランティアが宿泊する場所がないというので、Kさんは実家の2階を一時的にボランティアに提供することを決めた。11月末に実家が解体されるまで、Kさんの元を多くのボランティアが訪れた。今でも、その頃のボランティアから手紙が届いたり、父の日に蚊取り線香を入れる置物が届いたりしている。

唐桑にはKさんの実家が解体された後も、当初から継続的に現地を訪れていた大学生や若者が、現地に居を構えて活動を続けている。Kさんは今でも、それら若者たちのご意見番といった立場である。唐桑の生活のあり方を語ったり、「この人の話は聞いておきなさい」と地域の人を紹介したり、ときには半島や隣の陸前高田までドライブに連れて出ながら震災前後の出来事を語られる。そして、若者たちの活動を、厳しくも温かく見守られている。そんなKさんがわたしに、「この本はいい本だから読んだらいいよ」と紹介してくださったのが、先の川島秀一の本なのである。

この本をわたしに紹介してくださったとき、そのそばにKさんの近所に住んでいるひとりの若者が一緒にいた。Kさんは彼女を前にして、「この本の中には、津波後は旅の者で満たされるって言葉があるんだ」と語った。

ここで冒頭の問いに戻りたい。家の存続をかけて他人同士であっても夫婦となり家を継いだ時代ではない時代に、それでも川島は「三陸沿岸における津波の後の復興は、「旅の者」の力によってしか成功しないことは、今回の大津波においても同様であると思われる。」と書いているし、Kさんもまさに眼の前の「旅の者」にその存在の大切さを説いている。

では、現代の被災地で「旅の者」はどのような役割を果たすことができるのだろうか。そこには、家なるものが解体された後でさえ、まだ存続するものがあるはずだ。もちろん、Kさんが語ったように、遠くから被災地に駆けつけ、「片づけをしませんか」と声をかけながら、再建に共に汗を流す、そんな旅の者としてのボランティアの存在が、被災者の再起のきっかけとなることもあるだろう。しかし、わたしはその先にも、旅の者の存在が重要な役割を果たすように思う。

水俣と中越の経験

山口弥一郎は、真に災害につよいまちづくりや地域の振興を果たすためには、地域住民自身が「生活の伝統」を探究しなければならないと書いていた。これは、「たくさんの学者がやってきたが、彼らは何も残してくれなかった。結局のところ、学びは調べた人にしか学びにならないのだから、自分たちのことは自分たちで調べよう」という思いで水俣で生まれた「地元学」に共通するところがある。

水俣は、水俣病により、チッソに依存してきた地域経済への影響をめぐって起きた地域内利害対立、農作物への風評被害の拡大、外部からの偏見や差別などに悩まされ、深刻な社会分断を経験した。現在も水俣病に苦しまれている方は顕在的にも潜在的にもたくさんおられる。そんな水俣で地域再生の試みとして生まれたのが地元学だ。

地元学では、地域住民とは異なる価値観をもつ外部者の視点を手がかりとして、自分たちの地域を地域住民が自ら見直し、そこで得られた資源を地域活性化に生かそうとする実践的地域活性化手法である。じつはこうした取り組みは、2004年の新潟県中越地震の被災地の復興でも見られた。

中越地震の被災地は、山間部に散在し高齢化の進む中山間地域であった。かつては田中角栄を輩出した選挙区であり、陳情政治が根深く残る依存的な地域である。また、地震前から進む高齢化により、「こんな年寄りばかりの村で将来のことなんて考えられない」というあきらめ感が漂っていた。強い行政依存が残る地域が被災したことで、中越地震の被災地は、過疎問題や災害復興の課題の俎上に乗せられる、「何かお願いしないと地域のよりよい未来はない」という困難な問題に満ちたものとして地域住民に捉えられていた。そんな被災地に、大学生らのボランティアが訪れることとなる。

阪神淡路大震災を機に、災害ボランティアの普及が見られたが、中越地震はその災害ボランティアが救援期だけでなく、長期的な復興過程にまで寄与するものとして位置づけられる災害となった。先の大学生らのボランティアは、被災地域に通い、自分たちになじみのない山の美しさや人の力強さに出会うことになる。

中越地震の被災を訪れた大学生のボランティアにとって、山の暮らしはめずらしいものばかりであった。浦島太郎が魚釣りをしているような珍しい山野草に出会ったり、その山に自生する山野草を食したり、雪の中で保存されることにより強い甘みをもつ人参を食べたり。

それらに感嘆する大学生の視点を経由することによって、中越地震の被災者は、自分たちの足元にあった豊かさに気づいた。そもそも中山間地域と呼ばれる地域に住む人々は、厳しい自然とたたかいながら、その中で智恵を育み、豊かな暮らしを自ら見いだしていった文化をもつ。自分たちが潜在的に有していたそれらの力に、外部者との出会いを通して気づいていった。そして、「復興は役場の仕事だ」という認識から、「自分たちでやれば」というように、内発的な災害復興の取り組みが進んでいったのである。

復興における「旅の者」の役割

「家」ではない、それでも何かが地域に存続するのだとしたら、東北における「旅の者」の役割は、水俣や新潟において生じたような「外部者の視点」にあるのではないかと思う。それは、山口や川島が、そしてそれを自分に重ね合わせて語られたKさんが強調されるように、被災者自身が、自分たちの地域に存続してきたもの、しかし身近にありすぎることで殊更に関心をもっていなかったものに対して、あらためて目を凝らし、自分たちがもつ潜在的な可能性と、大津波という自然の脅威をてらしあわせながら、暮らしと向き合うことに間接的に貢献するという媒介的な役割である。

しかし、そんなことが災害復興にどれほど貢献するのか、という疑問を持たれる方もいるだろうと思う。被災者の生活は逼迫している。高台移転は果たして可能か、合意形成はどのように可能か。被災した行政の限界もある。それらに専門家としてどのようにこたえるのか、といった声もあるだろうと思う。いずれも場面によってはもっともな声である。

しかし、わたしは、復興について、大文字の歴史と小文字の歴史という対比に習って、「大文字の復興」と「小文字の復興」があるように思う。大文字の歴史とは、後世の歴史書や教科書に載るような公の歴史を指し、小文字の歴史とはそれらに掲載されることはない無名の人々の歴史を指すのだという。小文字の歴史は、一見とりとめもないように見えて、じつは大文字の歴史が語られる輪郭をなぞり、それを支えている。図である大文字の歴史の背後にある、地としての小文字の歴史であり、つまるところそれが歴史の本質でもある。こうした探求姿勢は、たとえば民俗学の祖であり、先の山口弥一郎の師でもある柳田國男らによって、強調されてきた。

災害復興においても、こうした大文字の復興と小文字の復興があるように思う。大文字の復興とは、さまざまな制度を通して実現される復興過程である。それは、権威づけられた機関を通して承認された計画に基づいて、予算を獲得し進められる。一方で、小文字の復興とは、被災や生活の実感をもった地域の有志によって自発的に試みられ、自由な連結を繰り広げながら、当初は思いもよらなかったものを生みだす過程である。

前者は時空間の制約の中で、さまざまな専門的知識の助力によって進められる。一方で後者は、それが生まれるかどうかも分からない気の長い作業であり、結果は誰にも分からない。この度の震災後に話題となったレベッカ・ソルニット(*2)の「災害ユートピア」も、邦題に引っ張られてか、被災後の相互扶助に焦点をあてた著作として紹介される機会が多い。だが、この著作の主眼は、よりよい社会を構築する契機が一人ひとりの被災者に実感として災害後に生じるということ、それをどのように平時の社会の中で実現できるだろうかということを問うところにある。

(*2)レベッカ・ソルニット(1961~)は、アメリカの著述家であり活動家。2009年に出版した「A paradise built in hell(邦題:災害ユートピア)」は、ニューヨークタイムスの「2009年度注目すべき本」にも選出され、反響を呼んだ。この著作でソルニットは、サンフランシスコ地震(1906年)やハリケーン・カトリーナ(2005)などの災害をとりあげ、災害後に被災者の間で相互扶助的な連帯が生まれることや、国家による管理された救援体制のもつ「エリート・パニック」などの問題を、被災者の証言や豊富な事実描写に基づいて描いた。

大文字の復興は、もちろん大切である。目の前に差し迫った課題に対して、制約のある中でどこまでやれるのか、行政や専門家が大いに貢献できるところである。しかし、ここに山口弥一郎が、「災害の救済復興は急を要する。然し此等の村の生活の伝統を研究する事等は一朝になるべきものではない。」と述べたことと同様の間隙があるように思えてならない。最大の懸念は、急を要するものとして、被災者自身による反省や自由な検討が不十分なままに復興が進められた際に、山口や川島が指摘したような悲劇が繰り返されないのだろうかという点にある。

つまり問題は、大文字の復興と小文字の復興のどちらが大切かということではなくて、その間隙をどのように埋められるかということである。しかし、それは双方向に距離を近づけようというものではなくて、大文字の復興が進められる中で、小文字の復興を丹念に進め、積み上げていくしかないのではないだろうか。

そんな小文字の復興に、「旅の者」の媒介的な役割があると思う。外部者としての「旅の者」の視点を通して、被災者自身が自分たちの暮らしを省みることができる。この被災者と外部者の相互作用の中で、新たな東北の文化がまたかたちづくられていく。時間がかかるし、一見「復興支援」のように見えずなかなか評価されないかもしれないが、長期的な東北の復興には欠かかすことのできないものだ。

まだまだ被災地には深い悲しみが重く広がっている。すべてを失ったまちなみの跡は、何度訪れても胸が締めつけられる思いがする。震災前を知らない人間でもそうなのだから、ましてやその地に生まれ、暮らし、大切な人たちを失った方たちの気持ちはいかばかりかと思う。復興だ、旅の者だといっても、そんなことを考えられない方たちがたくさんいらっしゃるだろうと思う。悲しみは決して消えることはないと思うが、何とか今このやりきれなさに満ちたときをやりすごして、ふたたび豊かな東北のまちが力強く蘇ることを願ってやまない。

この著作の独創的な点は、災害後の相互扶助的な連帯とクロポトキンに代表されるアナーキズムの議論を接続し、災害復興を広く社会構想論にまで拡大して議論した点にある。ピョートル・クロポトキン(1842~1921)はロシアのアナーキストであり、「相互扶助論」の著者で知られる(Kropotkin, 1902 大杉訳 2009)。クロポトキンは、この著作の中で、同時代に生きたダーウィン(1809~1882)の進化論とは対照的に、ホッブズ的な自然状態におかれたときに、人々は互いの生存をかけて闘うのではなく、むしろ積極的に助け合うのだと論じた。

ソルニットも、災害がもたらす「自然状態」におかれた人間が、即興的に作りだす相互扶助的な社会の延長に、現代社会の希望を見いだそうとしている。だから、彼女はこのように断言する。「真の疑問」は、「なぜこの束の間の相互扶助と利他主義のパラダイスが出現するのかではなく、なぜそれが普段はほかの世界の秩序に押しつぶされてしまっているのかだ」(訳書p.140)と。

それゆえ、ソルニットの「災害ユートピア」は、何も災害という事象に纏わるひとつの特徴を論じているのではなく、災害後にあらわれるこの「ユートピア」から、どのような社会が理想なのかという社会構想が可能であることを示している。そして、実際にそれが実践可能である証左として、1985年に起こったメキシコシティ大地震では、「災害ユートピア」が継続し、長く続いた一党支配体制から複数政党による民主制へと、国家のあり方までを変えた例をあげる。これは、がれきの中から立ち上がった被災者が、次第に連合した結果生まれた災害以前より強力な市民社会によるものだった。

参考文献

川島秀一 (2012) 津波のまちにいきて 冨山房インターナショナル

Kropotokin, P. (1902). Mutual aid: A factor of Evolution.

(ピョートル・クロポトキン 大杉栄(訳)・同時代社編集部(現代語訳) (2009) 新版相互扶助論 同時代社 )

Solnit, R. (2009). A paradise built in hell New York: Viking

(レベッカ・ソルニット 高月園子(訳) (2010) 災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか 亜紀書房)

山口弥一郎 著/石井正己・川島秀一 編 (2011) 津浪と村 三弥井書店

(恒春閣書房昭和18年刊の復刊)

プロフィール

宮本匠

京都大学防災研究所特定研究員。大阪大学大学院人間科学研究科修了。博士(人間科学)。日本学術振興会特別研究員(DC1)、同特別研究員(PD)を経て、2012年7月より現職。新潟県中越地震の被災地でのフィールドワークを継続しながら、曲線を用いたインタビュー手法である「復興曲線」による研究を進めている。主な専門領域は、グループ・ダイナミックス、災害復興。主要著書に、「災害復興における物語と外部支援者の役割について‐新潟県中越地震の事例から」、「人間科学における研究者の役割―アクションリサーチにおける「巫女の視点」-」(いずれも、『実験社会心理学研究』所収)や、「防災・減災の人間科学‐いのちを支える、現場に寄り添う‐」(新曜社、共著)がある。

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