2012.10.25
被災地から東京に何を問いかけるか
大手メディアは東京だけでなく、各地方に支局があり、その土地の様子を全国に伝えることができる。その土地に住みながら被災者と同じ目線に立ち、取材を繰り返す記者は、東日本大震災と復興をどのように感じているのか。そして誰に、何を伝えたいと思っているのか。朝日新聞社南相馬支局の佐々木達也記者に、被災地で取材するさいに必要な心がけ、本社と支局の姿勢の違いなどを荻上チキが伺った。(構成/金子昂)
被災地から東京への問いかけ
荻上 「復興アリーナ」では、東日本大震災や復興に関して、様々な活動を複数の視点から検証し、いずれ起こる次の災害に参照できる教訓を残したいと思っています。今日は、震災から現在までの被災地の状況について、現場取材を続ける記者の視点から伺いたいと思いまして、朝日新聞社南相馬支局の佐々木達也記者に、取材をお受けいただきました。
さっそくお聞きしたいのですが、佐々木さんは震災以前、どのようなお仕事をされていたのでしょうか。
佐々木 1984年に朝日新聞社に入社しました。初任地は山形県です。地域を数カ所勤務したのちに、東京本社の社会部に所属し、その後、福岡にある西部本社の文化部で、映画や演劇を担当していました。震災の1年半前に東京本社の文化事業部に移り、記者職から離れていました。
荻上 南相馬支局に着任されることになったいきさつをお教えください。
佐々木 50歳を過ぎて、残り何年かの世界になってきました。もともと記者出身でしたから、記者に戻りたいという思いが強くありました。出身は仙台です。両親はいまも仙台市に住んでいますし、被害の大きかった石巻市にも親戚がいます。そういうことがあって、春の段階から地方に出たいと申し出ていました。特に被災三県のどこがいいと指定したわけではないのですが、南相馬支局に空きができたので、9月20日付で着任しました。
荻上 着任して初めての取材はなにを取り上げられたのでしょうか。
佐々木 南相馬支局は、一人の記者で南相馬市、相馬市、新地町、飯舘村、浪江町、双葉町といった地域をカバーしています。ただ、いまは飯舘村など3町村は全住民が避難しているので、私は南相馬市、相馬市、新地町を取材して、その他の町村は、避難先を担当する記者に任せている状態です。南相馬市は昨年9月末に緊急時避難準備区域が解除されました。解除が住民にどういう影響を与えるのか、行政はなにができるのかといったことを最初に取材しました。
荻上 伝えなくてはいけないことはたくさんあったと思います。どういうところを重点的に伝えようと思ったんですか。
佐々木 被災者が考えていることを、東京の人間に、どのように伝えるかを念頭に取材しています。被災地ではいろいろな特ダネが飛び交っています。特ダネ記者はそれをみつけることが仕事だと思いますが、この土地で生活をして、取材をする、全国紙の記者の役割は、この土地に住んでいる人たちのことを東京の人間にどれだけ伝えるかだと僕は解釈しています。
よく、非常に紋切型で、東京の机の上で考えたのであろう記事をみかけます。あるいは、いまの風潮として、黒か白かはっきりさせて、わかりやすくさせることによって、同調を煽る作り方の記事がある。でも人間は黒と白に完全にわけられるものではありません。どちらも持っているものです。そういう姿を描きたいと思っています。
荻上 センセーショナルなものを取り上げて、読者を煽るような「特ダネ」とは異なる仕方、ということでしょうか。
佐々木 特ダネが悪いといっているわけではありません。ただし、なにか一つのことを、さもそれがすべてかのように書かれている記事があるとしたら、いったいどこまでが本当なのだろうかと感じることはあります。完全に否定するつもりはありませんがみんなが暮らしている中からみえてくる生活を描きたい。そしてそれを、「東京の人はどう考えますか?」と問いかけていきたい。
想像力を働かせること
佐々木 一つお伺いしたいのですが、荻上さんは南相馬市にいらして、どのように感じられましたか。
荻上 被災地といっても場所によって風景がまるで違いますね。同じ南相馬でもそうです。20キロ圏内、旧避難区域では、道路の隅に生えている草木が伸びきっていたり、手が入っていない場所も多くあります。避難区域外で、生活が続いているところでも、本来なら収穫されているだろうカキの実が放置されていたり、飲食店で「しばらく休みます」と張り紙がされていたりします。多くの生活の変化があったのだと思います。
ただ、そういった風景は取材のとっかかりになりますが、一方で、この風景が震災によるものなのかはわからないので、その土地の人に聞かなくてはいけない。いま閉鎖している飲食店の全てが、震災によって閉鎖したというわけでもない。震災前の風景を知らないからこそ、「震災でこうなった」ということには慎重でなくてはならないと思わされています。
佐々木 いい視点だと思います。シャッターが閉まっている商店街はたくさんあります。しかし震災前と震災後でどれだけ違っているのか、住んでいなかった人間にはわかりません。それでもテレビなどの報道機関は、さも震災によるもののように映像を流してしまう。本当は震災前からシャッター通りになっていたかもしれません。実際にそういうところはあります。いまの風景が、すべて震災によるものと考えることはおかしな話でしょう。
南相馬市原町区では、壊れた建物があまりみられません。原町区は地盤がいいそうです。ですから隣の相馬市で震度2でも、南相馬市では震度1ということがあります。僕が八月の末に南相馬市に下見にきたとき、誤解を恐れずに第一印象をいうならば、「どこにでもある、ありふれた田舎町、少しさびれた地方都市」でした。建物が崩れていたり、傾いているわけでもない。人は少ないけれど、歩いていないわけじゃない。本当に震災にあったのだろうかと思えるくらいでした。
でも注意深くみていくと、公園からは子どもの声が聞こえませんし、町で歩いている姿もみかけません。なぜなら、緊急時避難準備区域になっていたので、学校が開校されていないんですね。ほとんどのご家庭が車で送り迎えをしていて、かつ外で遊ばせないようにしている。
また南相馬市の小学校は八月に校庭を除染しています。つまり土をとっています。ですから校庭は通常よりも赤茶けた色になっています。このような小さくとも象徴的なものは、そこら中にあります。僕は九月に着任したので、震災直後のことはわかりません。ですから住んでいる人たちに話をきかなくてはいけません。または小さな象徴に気がつかないといけない、そして想像力を働かせて、ここに住んでいる人たちのことを思わないといけない。それが課題でした。
荻上 外からくると、「目立って違うもの」に注目しがちです。校庭の真ん中にモニタリングポストが設置されていて、その前で子供が遊んでいる様子をみかければ、違和感を覚え、そこを撮影する。だからといって、ここに住んでいる人たちが気にしていることがモニタリングポストそのものだとは限りません。「線量が高めのところで測りたがる」というのも、そうした心理の延長にあると思うので、注意が必要だと思います。
外からきた人はなかなか目がいかないけれど、その土地に住む人たちが感じている変化に対し、想像力が大事になってくる。地元に密着する記者の役割は、こうした日常の話に寄り添って聞き続けることだと思いますが、佐々木さんはいかが思われますか。
佐々木 その通りだと思います。朝日新聞で被災地日記という連載を担当していますが、そこでは、この土地に住んでいる普通の人たちの心のひだに刻まれた思いを書くことを意識しています。私にどれだけの感性があるかわからないけれど、感性を豊かにしてこの土地をみればいろんなことに気が付けると思う。
脚本家の倉本聰さんと何度かお話をしましたが、倉本さんが、「飯舘村の紅葉を誰ひとりいない中でみていたら、まるでセシウムに染まっているようだと思った」といっていました。また福島の、高圧線の送電線が光る様子をみて、沖縄米軍基地の鉄条網を思い出したそうです。沖縄と福島は、米軍基地と原子力発電所立地に伴う補助金を投入することで、しかも町が補助金に頼るような構造で投入されているという意味で、同じ状況にあると思います。倉本さんは福島の風景をみただけで、スッと照らし合わせることができる。そういう感性が欲しいですね。
荻上 南相馬市の人口が約7万人から約1万人に減り、その後約4万人に戻りました。この数字は衝撃的ではあるものの、なかなか細部まではみえにくいものですが、実際にはいかがでしょうか。
佐々木 数字から想像することもできます。震災前と現在の南相馬市の人口構成をみると、30代、40代の男性に比べて、女性は少ない。そしてそれに対応すると思われる小学生低学年の人数もぐっと少なくなっています。つまり、母子だけで市外に避難している構図が浮かび上がります。単純に人口だけをみて想像できないものも、他のデータをみて原因を考えることもできるでしょう。
一方で、それぞれの人の環境や認識の違いなど、データだけではみえにくいものもあります。それは住んでいる人と面と向かって話をしていくしかないと思います。
黒か白かでは割り切れない
荻上 残念ながらジャーナリストを名乗る人の中には、被災地をぱっとみて、センセーショナルな記事を書く人もいます。そのような振る舞いは、取材する側が、取材される側を特権的な場所から観察するだけの非対称な関係を内面化したものだと感じます。地元の記者の役割は、こうした記者の真逆を目指しているようにも思えますが。
佐々木 真逆といっていいのかはわかりません。
「よくこんなところに住めるな」という言説がありますが、この土地で暮らしている人だって怖がっていないわけではありません。それにここに住まざるをえない人もたくさんいます。鎌田實先生が、「放射線による被害に関して、絶対とはいえないが、ある程度のことはいえる。しかし最終的な判断はそれぞれがするべきだ」とおっしゃっていました。その通りだと思います。この土地に住んでいる人が、苦渋の決断をして生活を送っていることを理解して欲しいです。
先ほどお話したように、黒か白かではありません。例えば、震災前は3世代が同居していた家族のうち、母子のみが避難している家はたくさんあります。でも実は避難したことで家族関係が悪化しているという話しもよく聞きます。どちらか一方がいいとは一概にいえません。それを「なんで逃げないんだ」と書かれているとしたら、それは被災地の実態を描いているとはいえないでしょう。
荻上 極端なケースですと「情報が与えられていないから逃げないんだ」と書いている人もいます。自分と違う判断をしている人たちは、騙されているのではないかといったリアリティがあるのかもしれません。でも実際は、例えば県外に暮らす家族が呼び寄せてくれているけれど、70年も暮らしてきた土地を離れられないというもいる。人それぞれ、いろいろな思いがある。現地に住む人たちの物語を丹念に追って描写することは重要でしょう。
佐々木 それは遠く離れている東京の人たちの想像力を働かせるきっかけになるだろうと思っています。とはいえ、地元の人にとっては、よく耳にする、目新しさのない話なんですよね。
荻上 ただ、当事者にとって当たり前のことでも、改めて言葉にしてみると、当事者も再確認のきっかけにもなると思います。
佐々木 そういう面もあるでしょう。「悲惨な話はもっとある」といわれてしまうこともありますが。
荻上 求められがちであることはわかりません。記者として、悲惨とされる話を選んで紹介することにもいろいろとお悩みにはなりませんか。
佐々木 これは黒か白かという話になります。悲惨な話にみえても、内容がすべて暗いものとは限りません。震災をきっかけに、いろいろなことを夫婦で話せるようになった場合や、離婚してしまった夫婦がいたとしても、それは子どものへの気持ちがあふれた結果によるものかもしれません。
地方と中央の関係
荻上 全国紙の場合、地方から中央へ記事を送る場合と、中央の要望にあった記事を送る場合があるかと思います。中央と現場のギャップは感じることはありますか。
佐々木 やはり東京との距離は感じます。概して、離れれば離れるほど、ステレオタイプに物事をみがちになります。例えば、時間が経って、ある程度復興しているだろうと思われているけれど、土地によってそれはまったく違います。南相馬市と相馬市だけでも違うのに、極端いえば、「被災地三県」で括られてみられていることがある。そういった現状認識でぶつかることはあります。
荻上 イベントとかお祭りが報じられると、前向きな一歩と語られがちだけど、その土地の人たちは震災前との変化を痛感させられるという声も聞きます。
佐々木 どうしてもみんなが復興へと考えがちだしもちろんそうなって欲しいけど、まだ復興じゃない、復旧にすら至ってないと思います。
南相馬市に赴任するとき、やはり震災や原発事故が頭の中に大きくありました。しかしこの土地で取材を続けていくにつれて、原発や震災の問題だけではないことに気がつきました。当たり前のことですが、人が住んでいる限り、いろいろなことが起こります。記者としての原点に戻れたように感じています。
ただ問題は、限られた紙面の中で、どこまで被災地の機微を伝えられるかということです。毎日、全国ではたくさんの事件や政治問題が起こっていますから、新聞はそれを伝えていかないといけない。あるいは基本的に実名報道となりますから、なにかもを書けるわけではありません。
荻上 懐古趣味ではなくメディアの特性として、「紙ならではの良さ」はあります。毎日新聞の小川記者は、東京の人間が現地に何泊しようと、地元紙には生活報道で勝てないかもしれないが、全国に訴えかけることを強く意識した記事作りができると仰っていました。
佐々木 地元の読者をないがしろにしているつもりはありませんが、やはりこの土地のことを東京の人に知って欲しいと思っています。去年、銀座の明かりが消えて話題になりましたが、今年は消えませんでした。そのことについて「東京の人はどう考えているんですか?」と問いたい。目くじらを立てて書く必要はありません。震災から1年半が経過して、銀座の火は消えなくなったけど、こちらの生活は変わっていないと伝えることによって問いかける方法だってあります。
新聞とネットの違い
荻上 佐々木さんは、ウェブにどんな可能性を感じていらっしゃるのか、どんな問題があるか、または新聞との違いについて、どのようにお考えでしょうか。
佐々木 ネットには新聞のようなページ制限がありません。その違いは大きいものです。新聞には、例えば社会面をぱっと開くだけで、いろいろな記事が目につくという、一覧性という特徴があります。これは関心のあるキーワードから探っていくネットにはない新聞ならではの利点でしょう。あるいは紙面が制約されているがゆえに、短く、かつわかりやすく書いていることも、ネットとの違いだと思います。ネットに載っている文章は、だらだら書かれているものが多くみられますから。
南相馬市にきてから、放射線に関する明らかにおかしい情報が拡散していく様をみて、ネットの問題を、改めて感じるようになりました。もちろん、間違った情報が拡散する一方で、それを打ち消すこともできる。それでも、なにも知らない人が、打ち消される前の情報だけをみることだって考えられます。ネットに限らず、物事を伝えるときには、新聞や書籍、ネットなど、媒体を選ぶ必要があります。
阪神淡路大震災との違い
佐々木 いま取りざたされている問題は、震災前からこの土地にあった問題です。それが一気に噴き出してきた。高齢化にしても、医療過疎についても、原発立地についてもそうです。震災前から問題であったにも関わらずなおざりにされてきていた。
荻上 もともと産業は打撃を受けていたわけですから、震災前に戻したとしても問題は残り続けている。
佐々木 阪神淡路大震災のときも応援で一週間くらい取材に行きましたが、やはり東日本大震災とは違うと思います。
荻上 どんなところに違いを感じられたのでしょうか。
佐々木 簡単にいえば、都会と田舎、です。神戸には資本がありました。そして狭い範囲で起きたことです。だから外から助けに行くことができました。一方、今回の被災地は、もともと社会整備が遅れていた土地です。阪神淡路大震災から10年後に神戸に出かけたことがありますが、まだ傷痕は残されていました。いったい東北はどうなってしまうのだろうと恐ろしくなります。
荻上 阪神淡路大震災のときも孤立死が問題になりました。仮設住宅へ取材に行くと、貧困であった人は長く仮設住宅に留まるだろうという想像がつきます。仮設がスラム化しないように、10年単位で考えなくてはなりません。しかし福一近辺地域の場合は、10年後がどうなっているのかまだ想像できません。
佐々木 できませんね。
先ほどもお話にあったように、南相馬市は、震災前にいた7万1千人から1万人ほどに減ったのちに、4万6千人に戻りました。今後どれくらいもどってくるのかによって街づくりは違ってきます。復興計画は、6万人を想定人口としていますが、みんなそんなに戻らないと思っています。6万人と4万6千人では、計画が全く違ってくるでしょう。そろそろそのことについても考えないといけない時期だとは思いますが、難しいと思います。
佐々木記者が伝えたいこと
荻上 最後に、佐々木さんが、次世代の記者に伝えたいことについてお伺いさせてください。
佐々木 記者にもいろいろあります。私のような記者もいれば、最初にお話したように、特ダネ記者もいます。それぞれの場所で、それぞれの役割があるんですね。ですから、いろいろなやり方があります。地方で取材している記者でも、東京の視点で取材する方法もあれば、いろいろな土地と比較していく方法もあるでしょう。それぞれが、それぞれになにができるのかを考えるしかないと思う。
次の世代が読んで教訓になることをあまり意識していません。いま生活しているひとのことを書いて伝えたいと思っています。もちろん、それが結果的につながっていくのは別です。
荻上 虫の目を徹底することは、歴史的資料としても意味をもつと僕は思います。現在ある情報の需給ギャップを埋めるだけでなく、未来への供給にもなりえます。
佐々木 ですよね。それを一つでも多く伝えることが僕の仕事だと思う。
新聞の原点は瓦版です。センセーショナルリズムなんですね。私のような記者は主流ではありません。だから偉そうなことはいえませんが、その土地に住むことでわかることがあります。全国紙の記者なんて、同じ土地に長くは留まりません。行った先々の違いを、想像力で補っていくしかない。それを一度経験してみるのもいいと思う。現地にくれば、わからないことだらけです。その土地に住む人の話に耳を傾けるしかない。そうすることでみえてくる世界があります。
(2012年8月21日 収録)
プロフィール
荻上チキ
「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。
佐々木達也
1958年仙台市生まれ。福島大学経済学部卒。朝日新聞南相馬支局。1984年入社、地方勤務の後、東京本社社会部、西部本社文化部、企画事業本部文化事業部専任次長、事業開発部企画委員などを経て、2011年9月20付で現職。西部本社文化部時代は、福岡市文化芸術振興財団主催の創作コンペティション審査員などを務める。東日本大震災の被災地に勤務する記者10人の共著「闘う東北 朝日新聞記者が見た被災地の1年」(朝日新聞出版)を執筆。