2021.11.22

〈ケア〉から見える世界――新刊『ケアの倫理とエンパワメント』を通して

小川公代×三牧聖子

社会

ケアの倫理とエンパワメント

小川公代

先の9月に開催されたシノドス・トークラウンジにおいて、『ケアの倫理とエンパワメント』を出版したばかりの小川公代氏と、国際政治を研究する三牧聖子氏が、「〈ケア〉から見える世界――新刊『ケアの倫理とエンパワメント』を通して」と題した対談を行った。

本記事は、その対談を受け、小川氏と三牧氏が、さらにケアと政治、ケアと平和についての対話を発展させたものである。

小川公代氏(左)、三牧聖子氏(右)

新型コロナ禍のなかでの出版

三牧 『ケアの倫理とエンパワメント』のご出版、おめでとうございます。各方面で大きな反響を呼んでいる本書ですが、この対談では「ケア」という視点から、どのような政治社会や平和が展望されるのかを探っていきたいと思います。というのも、本書では、深い文学的な考察とともに、小川さん自身の現実政治や社会への強い関心が表明されていますよね。文学を通じて、異なる政治や世界への想像力が膨らんでいく。そうした可能性や喜びに満ちた本で、この本が多くの人々を惹きつけている理由の1つだと思います。

本書のもとになった『群像』の記事は、2020年に発表され、好評を博して連載化されて、このたび書籍化されました。新型コロナ感染の広がりという状況で、本書が刊行され、広く読まれていることには、なにか運命的なものを感じています。「ケアの倫理」は、人間社会のあり方に、根本的な再考を迫るものではないか、と。小川さんの本を読んで、人間社会を論ずる議論の多くが、合理的で自立し、自己決定能力を有する「強い」人間同士の関係を想定してきたことに気づきました。ケア労働を免除された「家長」を主体として想定し、そこからは、ケア提供者であることが多い女性や子ども、障害者といった「弱い」存在は抜け落ちてきた。

しかし今まで私たちが考えてきた「強さ」や「弱さ」は絶対的なものなのでしょうか。再検討の余地が大いにあります。実際、新型コロナ危機で「強さ」を発揮し、社会を支えた人たちは、ケア労働を担ってきた人々でした。こうした現実を前に、今こそ、「ケア」を起点に、政治社会のあり方を探求すべきときだと思っています。

小川 「ケア」について考えさせられる象徴的な事例が、昨今の日本にもありました。衆院選の前に行われた自民党総裁選に高市早苗氏が立候補しましたが、彼女の過去のある発言が注目を浴びました。彼女は2012年、ある会議で、「さもしい顔をしてもらえるものはもらおうとか、弱者のフリをして、少しでも得をしようと、そんな国民ばかりになったら日本国は滅びてしまいます」と発言していたのです(注1)

(注1)自民党総裁出馬会見で、膳場貴子アナウンサーがこの発言に言及し、「困窮する国民をどういう目でみているのか」、「弱者への視点が欠けているという不安や批判もある」と高市氏の真意を問うたが、解答はなかった。

「ケア」の対極にあるようなこの発想は、高市氏だけのものでしょうか。日本の政治社会には、もっと「ケア」の視点が必要だと思います。

三牧 本当ですね。象徴的なもう1つの例として、この夏、250万ものYouTube登録者を持つインフルエンサーが、「自分にとって必要がない命はぼくにとっては軽いので。ホームレスの命はどうでもいい」などと発言し、大問題となりました。

小川さんの本を読み、こうした主張は、「ケア」の視点を欠如させた社会の産物という面もあるように思いました。あたかも自分は誰の世話にもなっていないかのように、高みに立ってホームレスの人々の命に値段をつけた人物の命が、今日も無事に営まれているのも、無数の人々が社会をまわし、さまざまな次元でケアを担っているからですよね。

社会には、ただケアを受けるだけの人も、ただケアを提供するだけの人もいない。生まれてから死ぬまで、さまざまな人のケアを受け、ケアを提供する。小川さんの本は、この当たり前でありながら、多くの人々が日常的に意識してはいない事実を改めて認識させてくれます。

女性たちこそ「ケア」?――本質主義からの脱却

三牧 まず、新型コロナ危機と「ケア」の関係を考えてみたいと思います。まだ危機は収束していませんが、世界を見渡せば、権威主義的な男性リーダーの危機対応の失敗が目立ちました。その代表は何といっても、米国のドナルド・トランプ大統領でしょう。感染が拡大した2020年は米国では大統領選が行われていたのですが、トランプは、マスクを着用し、病的で「弱々しい」イメージが醸し出されることを嫌って、公的な場でのマスク着用を拒否しました。大統領の影響力はやはり大きく、マスクの着用を「身体の自由」の侵害、あるいは「男らしさ」の欠如とみなし、拒否する動きも広まりました。

さらにトランプは、対面の選挙集会を何度も強行しました。スタンフォード大学の調査によれば、トランプが6月から9月にかけて開催した10数回の集会で、新規感染者は3万人増加し、700人以上が死亡したと見込まれています(注2)。医学誌『ランセット』に掲載されたある報告書は、新型コロナ危機を過小評価したトランプを強く批判し、適切な政策が適切なタイミングでとられていたら、2020年に新型コロナ感染で死亡したアメリカ人のうち最大40%の人々が死を免れたと述べています。(注3)

(注2)B. Douglas Bernheim, Nina Buchmann, Zach Freitas-Groff, and Sebastián Otero, “The Effects of Large Group Meetings on the Spread of COVID-19: The Case of Trump Rallies,” Stanford University, Institute for Economic Policy Research Working Paper, No. 20-043 (October 2020), pp. 1-15, at https://siepr.stanford.edu/research/publications/effects-large-group-meetings-spread-covid-19-case-trump-rallies 

(注3)Steffie Woolhandler, et al., “Public Policy and Health in the Trump Era,” Lancet, Vol. 397 (February 20, 2021), pp. 705-753, at https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(20)32545-9/fulltext#back-bib1 

新型コロナ危機で明確なリーダーシップを発揮した政治家には、女性が目立ちました。台湾の蔡英文総統。ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相。そして引退したばかりのドイツのアンゲラ・メルケル首相。もちろん新型コロナは手強いウイルスで、彼女たちも、感染防止に常に成功したわけではありません。しかし、国民の命をあずかる政治家として、ロックダウンなど強硬な感染防止措置をとるときは、明確に決断し、国民に明確なメッセージを発し続けた姿は印象的でした。

また、アメリカでも女性たちは、トランプやマスクをしないで外出する男性たちに対抗して、貧困などの理由でマスクにアクセスがない人々にも届けるために、アンティー・ソーイング・スクワッド(Auntie Sowing Squad)のような団体をつくりました。彼女たちは「最も脆弱で、最も軽視されている人々を救う」ことをミッションに掲げていました(注4)。他者の身体や命をかえりみない人々に対し、他者の身体や命を守る連帯をつくりあげたのです。

(注4)Mai-Linh K. Hong, Chrissy Yee Lau, Preeti Sharma eds., The Auntie Sewing Squad Guide to Mask Making, Radical Care, and Racial Justice (University of California Press, 2021).

しかしここで、「女性たちこそが、命を大事にするんだ」といった、ケアを女性的な特性とみなしてしまうような、本質主義に陥ってもいけないのかな、と思うわけです。先に刊行されたブレイディ・みかこさんの『女たちのポリティクス-台頭する世界の女性政治家たち』(幻冬社、2021年)には、生い立ちも、政治信条も、政治の場での立ち振る舞いも、あまりに多様で、一括りには決してできない女性政治家のリアリティが描かれています。ブレイディさんの本を読んでいても、「女性こそがケアの倫理を実践できるのだ」といった主張は、やはり妥当ではないようにも思うのですが、いかがでしょうか。

小川 その通りです。「ケア」の倫理は、もちろん男性でも実践できます。大事なのは、「価値」であって、「性別」の問題ではない。本質主義の問題を考える上では、やはりヴァージニア・ウルフが示唆的です。

ウルフといえば、従順で主体性を欠く「家庭の天使」を目の敵にし、女性にも自立した生き方を選ぶ権利を与える寛容な文化を希求したことでよく知られています。しかし、それだけではない。何世紀にもわたって看過されてきた「女性性の価値」を、自立心や正義を掲げる「男性性の価値」にも匹敵するものとして評価したのもウルフなんです。

ウルフは、共感や思いやりは女性だけが請け負う価値ではなく、男女両性が実践してこそ、負の「男らしさ」に縛られてきた文化を手放し、本質主義から脱却できると考えていた。他人の感情に流されたり、家庭で子どもをケアする力を発揮したりする男性を「女々しい」と決めつけてきた性規範から解放される未来を示唆していたのです。

ウルフが生きた時代と、現在は、さまざまに似ているように思います。1918年から20年頃にかけてスペイン風邪が世界的に流行し、ウルフ自身も罹患してしまいました。新型コロナ危機に見舞われている現在に重なりますよね。病に苦しむウルフが生み出した思想は、エッセイ「病気になるということ(原題:On Being Ill)」(1926)から知ることができます(注5)。このエッセイでウルフは、「直立人」(upright)と「横臥者」(recumbent)という概念を提示しています。「直立人」は、弱者を下に見て、上から目線で接する。それと対置される「横臥者」の態度とは、弱者を前に、自分たちのなかにもある脆弱さを認識し、共感し、水平的に助けようとする態度です。負の「男らしさ」とは、ウルフの言葉で言う「直立人」だと思うんです。

(注5)早川書房のnoteで片山亜紀氏による新訳と解説を全文読むことができる。https://www.hayakawabooks.com/n/nfb43f5f3b177

また、ウルフの『三ギニー』(平凡社ライブラリー、2017年)も、負の「男らしさ」をどのように脱却するかについての示唆に富んでいます。この本には、戦争をしたがる男たちと、平和を追求する女たちが登場します。しかし、これは女性たちは本質的に平和的だ、ということとは違うんです。ウルフが平和への鍵を見出しているのが、「アウトサイダー」であることです。

当時の女性たちは、権力から遠ざけられていた。けれど、教育を受け、本を読み、議論をすることは許されていた。彼女たちは、そうした営みから、平和運動を立ち上げ、戦争をする権力と対峙していったのです。すなわち、彼女たちの平和運動は、その「アウトサイダー」性から生まれていたといえます。ですので、男性から生まれる平和運動もあるはずですし、男性が水平な眼差しで弱者に寄り添ってもいい。ただし、男性の方が、昔も今も権力に近いですから、なかなかそうはならないということなのかもしれません(注6)

(注6)ウルフの アウトサイダー論については 小川公代による「ウル フと”波”―エゴイズムに抗する」(連載「ケアする惑星」『群像』76-9 (2021))でさらに読むことができる。

冒頭であげた高市氏が逆のいい例でしょう。彼女は、なぜあそこまで弱者に冷淡になれたのか。女性であっても、男性であっても、ひとたび権力を持ってしまったら、たちまち権力者の言説に絡め取られてしまうということなのではないでしょうか。

私が高市氏の発言から想起したのが、マーガレット・サッチャーでした。女性政治家サッチャーについては、ブレイディさんの『女たちのポリティクス』が秀逸な分析を披露していますが、彼女は庶民の出自で、当時のイギリス政治では「アウトサイダー」だったのですよね。権力からは遠い人物だった。そこから、どうやって人気を得て、権力の座をのぼりつめていくか。彼女がそのための有効な戦術とみなしたのが、弱者を「敵」認定して、とにかく叩くことでした。不遇な境遇にある人々に「真面目に働かない」「怠惰な人々」というレッテルを貼り付け、とにかく叩くわけです。

高市氏の発言を聞いていると、日本でもこうしたことが起きるのではと不安になります。女性政治家をみるときには、権力の中にありつつも、権力に取り込まれず、「アウトサイダー」であり続けているかどうか、国民に寄り添う「横臥者」の視点を持っているかどうかをきちんとみる必要があると思います。

三牧 日本のように、女性政治家の絶対数が少なく、女性への風当たりも強い国で、女性が政治家として活躍しようとしたときに、男性以上に「男らしさ」を誇示しなければならないという倒錯した現状があるということですね。高市氏の問題は、そうした日本の状況を伝えるものでもありますね。実際、高市氏はサッチャーを「憧れの人」とみなしてきましたし(注7)、今回の総裁選に際しても、改めて共感を表明していました。

(注7)高市早苗氏公式ホームページ。https://www.sanae.gr.jp/album_tokyo_10.html

しかし、高市氏もサッチャーも、弱者叩きで動かされる人々がいるから、そうするわけですよね。とすると、弱者叩きや自己責任論を掲げる政治家を批判することはもちろん重要ですが、それに加えて、自身も政治や社会にさまざまに痛めつけられ、「ケア」を必要とする立場にあるような人々が、「ケア」の発想の対極にあるような弱者叩きや自己責任論になぜひきつけられてしまうのかも考える必要がありそうです。

私はここに、人間は「自立」してなくてはならない、他人にはできるだけ頼ってはいけないのだという「自立」志向の根強さがやはりあるように思います。小川さんの本が教えてくれるように、完全に「自立」した人などいない。高市氏やサッチャーだって、社会のさまざまな人々に依存しながら生きている、生きていたわけですよね。彼女たちは、男性にも負けない強さを示したようでありながら、実は、自分も他者にさまざまに依存している現実を見据える勇気を持たなかったともいえるのではないでしょうか。

「サッチャーにはシンパシーはあったがエンパシーはなかった」と、秘書を務めたティム・ランケスターが評していたそうです(注8)。ひとたび成功し、権力を手に入れたサッチャーは、仲間意識を自然と持てるような人々との間で「シンパシー」を働かせることはあっても、社会のさまざまな人々の営みによって生かされている存在として自分を見つめてみたり、自分と同じ庶民の家に生まれながら、成功のチャンスを得られず、社会で苦しむ人々に「エンパシー」を働かせることはなかったわけです。

(注8)ブレイディ・みかこ『他者の靴を履くーアナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋社、2021年)

小川さんの本は、文学に表れる多様な人間関係の考察を通じて、「依存」とは、絶対的な弱者と絶対的な強者の一方的な関係ではなく、双方向的なものであることを教えてくれます。自他の関係性は、「自立」か、「依存」か、という単純な二者択一で語れるものではなく、そこにはもっと多様な、無限に近いバリエーションがあることを教えてくれる。文学は「エンパシー」を醸成するための最強の武器ですよね。(後半に続く)

プロフィール

三牧聖子国際政治学

同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科准教授。国際政治学、アメリカ外交、政治思想。東京大学大学院総合文化研究科博士(学術)。早稲田大学助手、米国ハーバード大学・ジョンズホプキンズ大学研究員、関西外国語大学助教、高崎経済大学准教授等を経て現職。主な著作に『戦争違法化運動の時代-「危機の20年」のアメリカ国際関係思想』(名古屋大学出版会、2014年)、ヘレナ・ローゼンブラット著、川上洋平、長野晃・古田拓也、三牧聖子訳・解説 『リベラリズム ―失われた歴史と現在』(青土社、2020年)、『私たちが声を上げるときーアメリカを変えた10の問い』(集英社、2022年)。

この執筆者の記事

小川公代ロマン主義文学、医学史

上智大学外国語学部教授。ケンブリッジ大学政治社会学部卒業。グラスゴー大学博士課程修了(Ph.D.)。専門は、ロマン主義文学、および医学史。著書に、『文学とアダプテーション――ヨーロッパの文化的変容』(共編著、春風社)、『ジェイン・オースティン研究の今』(共著、彩流社)、『ジョージ・オーウェル「一九八四年」を読む』(共著、水声社)など。訳書に『エアスイミング』(シャーロット・ジョーンズ著、幻戯書房)、『肥満男子の身体表象』(共訳、サンダー・L・ギルマン著、法政大学出版局)などがある。『群像』や『毎日新聞』〈文芸時評〉などへの寄稿も多数。

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