2022.01.24

Less Than Useful氏の拙著のレビューに対するコメント――書名さえ間違っている匿名書評

柿埜真吾 経済学

社会

本来、書名さえ正しく書けないような人物の匿名の誹謗中傷に著者が答える義務など全くない。実際、実害がなければ、私もそんなことをしようとは思いつきもしなかった。Less Than Usefulを名乗る人物の拙著『自由と成長の経済学』に対する極めて攻撃的な最低評価のレビューはAmazonでしばらく私の本のトップレビューになり、その後、Amazonからは削除されたが、現在はNoteにその書評が掲載されている。この書評は少なからぬ方がみているらしく、しばしばコメントをいただくが、事実無根の中傷であり大変迷惑である。私の例に限らず、ネット上の匿名書評には無責任な人権侵害としか言いようがないものが少なくない。問題提起につながればと思い、敢えて反論を公表することとした。

このNoteのタイトルは、「削除された 柿埜真吾著『自由と経済成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』 Amazonに投稿した☆1つレビュー」となっている。しかも、どういうわけか、ハッシュタグは「#自由と経済の経済学」である。

悪いが、私の本のタイトルは、『自由と成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』である。『自由と経済成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』でも『自由と経済の経済学』でもない。自分が書評する本のタイトルさえ正確に書けない、どこの誰ともわからぬ混乱した匿名の書評にどの程度価値があるかは良識ある方には理解していただけるだろう。

出所:Less Than Useful氏のNote記事(1)
出所:Less Than Useful氏のNote記事(2)

ところが、驚いたことに翻訳家の早川健治氏や哲学者の田上孝一氏のような高名な方々は、Less Than Useful氏の書評を高く評価されている。常日頃、人権の大切さや攻撃的な言葉遣い(3)を批判しているこれらのご立派な方々は、赤の他人の本に対して「B級思想ポルノ」、「著者については研究者としては自殺行為相当の戯言を振りまいていてご愁傷様。別の道で輝ける場所があるといいねとしか」、「単純に著者の英語の読解力が中学生以下なのか」などと罵る匿名の人物の書評を、ろくに調べもせずにうのみにしてリツイートし(早川氏)、「単なる誹謗中傷ではない」(4)(田上氏)などと持ち上げて恥じないのである。

このような侮辱的な文章はたとえ相手がどんな人物であったとしても到底許されるものではないはずだが、『本当にわかる倫理学』の著者(5)は全くそう考えなかったと見える。Less Than Useful氏の拙著への批判が「単なる誹謗中傷ではない」かどうかは本稿の読者に判断していただこう。

著者が不正行為をしたと示唆する根拠のない中傷について

Less Than Useful氏の拙著への批判は主に次の2点である。(1)気候変動に関して著者は温暖化懐疑論に有利になるように悪質な印象操作をしており、悪意があるか英語が読めないかどちらかで学者として「自殺」で、この本は「B級思想ポルノ」である。(2)自由貿易や資本主義は歴史的にゼロサムゲームであり著者はそれを知らず無知である。

このうち、(2)は酷い表現が使われてはいても意見の相違に過ぎないが、(1)は筆者である私が不正行為を行ったとする虚偽の中傷であり、到底看過できない。

まず、より重大な(1)の方から議論したい。最初にはっきり断っておくが、著者は温暖化懐疑論者ではない。それは拙著を読めば自明であるはずである。私の立場は、共産主義や脱成長は気候変動問題の解決にはなりえず、「気候変動と闘うためにも革新的な資本主義経済が不可欠である」という常識的なものである(拙著24ページ)。拙著では気候変動で人類滅亡は根拠がないとしつつ、対策は必要だと明確に書いているし、温暖化対策として「炭素税」導入を提言している(拙著156ページ~158ページ)。

にもかかわらず、Less Than Useful氏の書評は、あたかも私が温暖化を否定し、恣意的に文献を歪めて引用したかのようにいわれなき中傷を書き連ねている。Less Than Useful氏の主張を以下に引用する。

「著者の専門分野としては比較的近いであろう経済に関する記述ですら目眩がするほど酷いが、本書の最大の目的である後半の「人新世の『資本論』」批判では気候変動・環境問題関連の記述が、悪質とというかもはや他の研究者に対する冒涜とも言えるレベル。例えば、「気候変動が飢饉をもたらすと主張するが、温暖化対策はむしろ飢饉のリスクを高める。(中略) 厳しい温暖化対策は飢饉リスク人口を7800万増加させるという推計もある (p159-p160)」とあるが原論文の真意が歪められて引用されている。Nature Climate Change掲載の原論文では、…〈中略〉…この著者のような歪曲した引用をしかねない懐疑論者に向けて、わざわざ次の一文を付け加えている。

「この研究結果は気候変動対策の重要性を軽視するものでもなく、気候変動対策が一般的に良い結果より悪い結果をもたらす原因となるとは解釈すべきではない」

世界の名だたる研究機関の22名の共著者が名を連ねた論文の真意は自らの主張のためなら無視ですか。単純に著者の英語の読解力が中学生以下なのか。そういえば自然科学の地道な成果を政治やら経済やら思想信条の思惑で、都合よく適当に解釈したり捨象したりするのがコロナ禍になってから余計に目に付くようになった気もする」。

この文章を読んだ読者は、当然ながら、私が「原論文の真意」を「歪曲した引用」をする「懐疑論者」で、「自然科学の地道な成果を政治やら経済やら思想信条の思惑で、都合よく適当に解釈」し、「気候変動対策が一般的に良い結果より悪い結果をもたらす原因となる」と主張しているのだと受け取るだろう。この書評だけを読めばそう誤解して当然である。

だが、私は本文中で「気候変動対策が一般的に良い結果より悪い結果をもたらす原因となる」とかいった類の主張は一切していないし、そもそも、私はHasegawa et al. (2018)に言及しただけで「引用」などしていない。この論文のタイトルは、Risk of increased food insecurity under stringent global climate change mitigation policy(6)であり、Abstractでは次のように書かれている。

A robust finding is that by 2050, stringent climate mitigation policy, if implemented evenly across all sectors and regions, would have a greater negative impact on global hunger and food consumption than the direct impacts of climate change. The negative impacts would be most prevalent in vulnerable, low-income regions such as sub-Saharan Africa and South Asia, where food security problems are already acute.

御覧の通り、私が書いた通りのことを述べているのは明白であろう。私の「英語の読解力が中学生以下」なのかもしれないが、私の言及の一体どこが「原論文の真意が歪められて引用されている」などという非難に値するのか教えていただきたい。拙著では、「現時点での極端な温暖化対策は、むしろ途上国の貧困問題や飢饉を悪化させるリスクがある」(拙著158ページ)という文脈で、バランスのとれた対策が大事であることを指摘した際に、Hasegawa et al. (2018)に言及しているが、私は問題の箇所でこの論文の内容を要約しているわけではなく、単に複数ある論拠の一つとして言及しているに過ぎない。

従って、「原論文」を歪曲したなどという非難は全く見当はずれである。Hasegawa et al. (2018)に対する私の言及は常識的であり、何ら問題になるようなものではない。私自身が温暖化対策を支持しているのであるから、この論文の著者と私の見解は基本的に同じである。異なる見解を持つ人物が論文の成果を利用してはならないなどという規則はないが、そもそも私の見解は著者と同じなので、論文の主張を歪めて「引用」する必要など全くない。

自分が望む書き方ではないというだけで、著者でもないのに著者の「真意」とは違うとか、「英語の読解力が中学生以下」とか「歪曲した引用」「論文の真意が歪められて引用されている」などと軽々しく言わないでもらいたい。他人にこれだけの重大な告発をするからには、相当な証拠が必要である。自分の単なる勝手な思い込みでこのような無責任で侮辱的な文章を書くのは到底許されるものではない。

Less Than Useful氏は、私に対して根拠がなく学者としての信用を致命的に傷つける告発をしていながら、自分自身は私の本を全く適切に要約せず、温暖化が外部不経済の問題であり、炭素税による温暖化対策が必要であることを指摘した箇所を完全に無視し、私が温暖化懐疑論者であるかのような不当な記述をして恥じないでいる。私の文章は十分平易であり、通常の読解力と良識があれば理解できると思うので、大変驚いた次第である。

私が温暖化対策の必要性や炭素税を提言している箇所は全て伏せておいて、恣意的な引用により、私が論文を意図的に歪曲しているとか「中学生以下」の読解力などと書くのは極めて悪質である。私が不誠実な温暖化懐疑論者で、いかなる温暖化対策も否定しているかのような印象を与えるこの書評こそ、私の真意を信じがたく歪めている。

Less Than Useful氏は筆者が「原論文」を歪めて引用しているという虚偽の申し立てをしたのち、さらに次のように述べている。

「著者は「飢饉の原因は絶対的食料の不足ではなく、貧困層の所得の悪化…」とセン(2000)の言葉を引用してるが、これ、そもそも原著が1981年なんですが。気候変動がもたらす影響はその後40年以上に渡って世界中で研究が進められデータが蓄積され、懐疑論に対して丁寧に反証する結果を積み重ねて先日発表されたIPCC第6次報告書にまとめられた訳だが、40年前にまだ気候科学者の間でも懐疑論者が多くいた時代のセンの主張を、自論を補強するのに引用するってのは研究者の言論としては誠実さに欠けるんじゃないですかね?」

Less Than Useful氏の批判はまたしても見当違いである。Less Than Useful氏は、勝手に「」をつけて私が引用した「セン(2000)の言葉」なるものを捏造しているが、括弧内の言葉はセンの言葉ではなく、私自身の言葉である。Less Than Useful氏には引用と言及の区別も付けられないのだろうか。私は「セン(2000)の言葉を引用」などしていないし、「40年前にまだ気候科学者の間でも懐疑論者が多くいた時代のセンの主張を、自論を補強するのに引用する」などといったことはしていない。

セン(2000)に言及したのは、温暖化「懐疑論」を補強するためでは全くない。どうやったらそんな誤解ができるのか理解に苦しむ。繰り返すが、筆者は温暖化懐疑論者ではないし、大体、センの研究は温暖化懐疑論などとは何の関係もない。セン(2000)の古典的研究は、飢饉の原因は絶対的な食糧不足ではなく、貧困層が食料にアクセスできなくなることで発生することを明らかにしている。私がセンの研究に言及したのは、飢饉の対策は何よりも「一人当たりGDPや所得分配の公平性」(拙著160ページ)を確保することに重点を置くべきであると指摘したかったからである。

センの指摘は最近の飢饉についても完全に当てはまっており、何ら有効性が否定されていない。例えば、昨年から深刻な問題になっているマダガスカルの飢饉はセンの飢饉の理論が完全に当てはまるケースである。FAO(7)によれば、2021年のマダガスカルの食糧生産は確かに2020年に比べれば6.6%低下しているが、低下は僅かであり、平年(2016-2020年平均)を6.1%上回っている。特にコメの収穫は8.6%も多くなっており、国全体として平年よりも良好である。問題は国全体の食料の絶対的な不足ではなく、マダガスカル南部の干ばつで、南部の貧しい人々が食料にアクセスできなくなったことにある。マダガスカルはクーデターが相次ぐなど政情不安定で、南部は特に治安も混乱状態で効果的支援が難しい。通常、飢饉を防ぐ上で最も重要となるのは食料の分配の問題であり、絶対的食料生産ではない。

ちなみに、私が問題の箇所でセンに言及したのは、拙著の原稿を読んでくださった、国際的に活躍されている著名な研究者の方のアドバイスによるものである。大規模な飢饉が近い将来起きる可能性が低い理由はその前後の部分でも説明しており、私が引用してもいない1980年代の「センの言葉」を根拠に温暖化懐疑論を主張しているかのように書くのは極めて悪質な印象操作である。このような書き方では、あたかもアマルティア・センが温暖化懐疑論を支持していたかのような誤解を招きかねず(Less Than Useful氏自身もそう誤解しているのかもしれない)、私に対してだけでなく、センに対しても極めて非礼である。

Less Than Useful氏は自分の思い込みで、人が書いてもいないことを勝手に読み取り、「セン(2000)の言葉」なるものを捏造した上に、誤解に基づいて人を罵倒し、センの意図についてあらぬ憶測をたくましくしているが、書く前に少し調べてはいかがだろうか。原著の出版年の確認だけで満足せず、センの研究にほんの少しでも目を通せば、それが何について書かれた研究かすぐに理解できたはずである。恥ずかしい勘違いはしなくても済んだだろう。

Less Than Useful氏は「気候変動の長期的な影響を経済学者が楽観的に見積もってることに全幅の信頼をおく根拠がどこにあるのか著者に聞いてみたいものである。そのレベルの楽観論ならこの著者でも理解できるっていう以外の理由を」と書いているが、根拠は本に詳しく書いたので読んでいただきたい(拙著21-25、157-159ページ)。きちんと読んでくださった読者には自明だろうが、私は単なる楽観論を書いているわけではなく、「温暖化の影響には不確実性が高いことは強調すべきだ」(拙著161ページ)と慎重な但し書きをつけている。私は温暖化終末論を否定しつつも、温暖化のリスクを認め、穏健な対策を支持しているし、はっきりと誤解の余地のない形でそう明言している。論拠が何も書かれていないかのような誤解を与える書き方はやめていただきたいし、著者を愚弄するような書き方は、控えめに言っても品位に欠けるものであり、極めて不快である。言うまでもないが、いくら著者の主張が嫌いだからと言って、言ってもいないことを著者の主張にしたり、著者が不正をやっている人物であるかのような印象操作をしたりすることは決して許されない。「事実誤認と恣意的な引用と妄想にみち満ちていて突っ込みどころしかない」という拙著への批判は、そのままLess Than Useful氏にお返ししたい。

自由貿易や経済成長に対する批判について

(2)の批判だが、経済成長や自由貿易がゼロサムゲームではないというのは、普通に経済学入門講義レベルの議論で、私の主張はごく常識的である。マンキューやその他の入門書や国際経済学の教科書を見ていただければ、筆者の主張は経済学の一般常識に過ぎないことは容易にわかるはずである。Less Than Useful氏は執拗に「妄想」などと強い言葉で筆者を攻撃しているが、そのような非難を受けるいわれはない。

Less Than Useful氏は「事実誤認でいえば…「植民地は経済成長に必要ない」(p.95)のような項目があるが、資本主義を擁護する経済史学者ですら今やそんなことを主張しないというレベルの妄言(実際にこの項目には参考文献の引用すらないという著者のただの感想)」だというが、今の世界は植民地がなくてもどの国も昔よりずっと豊かであることは議論の余地がない(8)。過去の植民地主義が西洋の経済成長に大きな役割を果たしてはいないという見解は経済史家の間で有力な立場である(例えば、O’Brien,1982, Bairoch,1995,Vries,2001, Emmer,2008)(9)。

参考文献表の不足というご指摘は申し訳なく思うが、新書では参考文献は少なめにするという配慮のつもりであった。私の主張は「単なる感想」ではなく、Less Than Useful氏が言及しているポメランツらの主張を踏まえた上で書いている。満州やスペインの植民地の例はポメランツ批判として一般的でよく知られているし(Vries, 2001, Xue, 2007)(10)、私自身も未発表論文の中でではあるが、この問題を論じたことがある。本に書いていないことは、著者は何も知らないに違いないと決めつけるとは随分浅はかな考えである。

ともあれ、資本主義の下での経済成長に植民地が必要ないという主張は現時点の世界を見れば明らかに正しいはずである。私は平易な言葉で、自発的交換は常に利益をもたらすことを説明しているが、これは比較優位の原理という経済学の一般常識である。

もちろん、歴史的な問題については新しい証拠があれば私はいくらでも見解を修正する用意があるし、どのような立場でも尊重するつもりだが、単に自分と意見が違うだけの相手に対して「随所に差し込まれるのは著者の誤解やら妄言という目眩がするような代物で、ワクチンの副反応の再発を疑うレベルの頭痛がしてくる」とか、「妄想」、「ただの感想」、「根拠のない虚妄」といった言葉で罵倒するのは常軌を逸しており、学問的な態度ではない。このような対話を不可能にするような高圧的な書き方をされたのは大変遺憾である。

執拗な人格攻撃がみられる不適切な表現について

Less Than Useful氏のレビューは内容もさることながら、その表現も「B級思想ポルノ」、「著者については研究者としては自殺行為相当の戯言を振りまいていてご愁傷様。別の道で輝ける場所があるといいねとしか」、「単純に著者の英語の読解力が中学生以下なのか」といった、普通の感想のレベルを明らかに超えた人格攻撃である。こうした言葉は拙著の内容を論評する上で必要ではなく、意味のある情報を与えるものでもない、ただの中傷である。

Less Than Useful氏のNoteによると、彼は「万が一にも私がこの批評本の著者〔柿埜〕だと思われたら憤死するレベルの屈辱」だと思い、このレビューを「2時間ほどで」書いたそうである。要するに、匿名で斎藤氏の批判を書いて多少話題になったので、斎藤氏を批判した実名本が出たら、自分が著者と間違われないか心配でたまらなくなったということだろうか。恥ずかしいほどの自意識過剰である。斎藤氏の名前を知る人は多いが、私の本を知る人も関心を持つ人も殆どいないだろうし、まして大多数の人はLess Than Useful氏なる人物を全く知らず、何の関心も持っていない。変な心配をせず安心してほしいものである。

大体、そんなに心配なら堂々と本名を名乗ったらよい。Less Than Useful氏は顔をわざわざ隠して、早川健治氏のYoutubeの番組に出ておられるが(11)、目立ちたいなら堂々と本名で出演したらよいだろう。批判されるのが嫌で隠れていたいなら、少なくとも、実名の著者に最低限の礼儀を守る義務がある。この方は安全地帯から人を誹謗中傷するのがいかに卑怯か、他人の人格を中傷することが許されないことなのか全く理解していない。ご自分が極めて些細なことで誤解されると勝手に想像しただけで「憤死する」ほど傷つくのに、他人のことになるとどんな誹謗中傷を書いても何も感じないとはなんと鈍感で自己中心的な姿勢だろうか。

相手を批判したいなら事実を示し、論理的矛盾を明らかにすべきで、自分の感情を書いても何の意味もない。その手の批判は相手を批判する自分自身の論拠がいかに弱く、いい加減であるかを暴露するだけである。この人物がどのような方かは知らないし、別に関心もないが、匿名という強い立場を使って、実名の著者をこのような言葉で罵倒するのは極めて卑劣である。この方は「B級思想ポルノ」とか私に面と向かって言えるのだろうか?社会人として恥ずかしくないのだろうか?

早川氏の番組(12)によれば、Less Than Useful氏は国際協力や国際開発に関わっており、SDGsの策定に携わった経験をお持ちだそうだが、このような致命的な中傷を無責任に書いて平気でいるような人に人権について語る資格などあるだろうか。Less Than Useful氏は拙著に対する自分の書評が「念を入れた罵倒であることは間違いない」(13)と認めておられるが、それが「人権、人の尊厳、法の支配、正義、平等及び差別のないことに対して普遍的な尊重がなされる世界」(14)を目指す人間のするべきことなのだろうか。

私事になるが、私は現在非常勤講師で、安定した地位を持っていない比較的若い研究者である。根拠なく私が不正行為をしたかのような示唆をすることで、私に重大な不利益を与えることに何の躊躇も感じなかったとは驚きである。Less Than Useful氏は現在、大学に勤めているそうだが、自分の学生に「研究者としては自殺行為相当の戯言を振りまいていてご愁傷様。別の道で輝ける場所があるといいねとしか」と面と向かって言えるのだろうか。それで仮に相手が自殺したら責任をとる気があるのだろうか。

私は万が一にもこんなやり方で人を匿名で中傷し、人権侵害を平気でする人物と自分が同じ人物だとは決して思われたくはない。Less Than Useful氏が誤解を避けるため私の誹謗中傷を書いてくださったのは、その点では大変結構なことである。

Less Than Useful氏の斎藤幸平氏への批判は妥当か

最後になるが、Less Than Useful氏の斎藤氏の本への書評(15)にも触れておきたい。今回の問題を受けてLess Than Useful氏の斎藤氏の批判にも目を通したが、Amazonがこの『人新世の「資本論」』の書評を削除したのは確かに妥当な措置である。

Less Than Useful氏の書評は、斎藤氏の著書を、カルト宗教を連想させる「マルクスの大霊言」などと呼ぶなど下品な言葉を使っている点も感心できないが、それより遥かに問題なのは根拠なく斎藤氏の学者としての信用を貶めている点である。

一例を挙げよう。斎藤氏はノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが、人間が自然環境に大きな影響を与える現代のような時代を「「人新世」と名付けた」(『人新世の「資本論」』4ページ)と書いているが、この全部でたった3行の記述に対してLess Than Useful氏は、いかにも“学術的”な批判を延々と600字近くも書いている。

「現在使われている意味での地質年代を「人新世(Anthropocene)」という用語を1980年代半ばに最初に使ったのは生態学者のユージン・ストローマーであり、ノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンではない(p.4)。調べればすぐわかることだが、2000年にクルッツェンとストローマーが共著論文で、その後2002年にクルッツエンが単著でNatureに載せた「Geology of Mankind」がきっかけで広く知られるようになった」…中略…「タイトルに「人新世」を謳いながらこうした基本的な事実誤認があるようでは、「マルクスが地球環境危機に有用である」という主張をノーベル化学賞受賞者の名前で権威付けして補強したいがためのアリバイ作り程度にしか、この著者も人新世を巡る議論を理解していないと思われてしまうのではないか」

「タイトルに「人新世」を謳いながら…基本的な事実誤認がある」とか、「著者も人新世を巡る議論を理解していない」などというのは著者の信用を失墜させる致命的な批判だが、この批判は実は完全に的外れである。375ページもある斎藤氏の本の核心部分でも何でもない、ごく短い記述に、これだけ粘着するのはバランスを欠き、極めて不当だが(16)、そもそも、斎藤氏はクルッツェンが「人新世」という用語を「最初に使った」とは一言も書いていない。単にLess Than Useful氏が、斎藤氏が言ってもいないことを勝手にそうだと思い込んでいるだけである。「人新世」を斎藤氏は明確に定義しており、全く混乱していない。「人新世」を扱った書籍では、「人新世」について斎藤氏と同様のクルッツェンを中心にした記述がなされており(17)、斎藤氏の記述は全く問題ないものである。言っていることが混乱しており、「基本的な事実誤認がある」のはLess Than Useful氏の方である。

さらに言えば、クルッツェンはストローマーとの共著論文執筆に先立ち、ストローマーと独立に2000年に「人新世」という概念を考案しており、クルッツェン自身、人新世という概念は自分が提案したと書いている(18)。ストローマーも「私は1980年代に人新世という用語を使い始めたが、パウル・クルッツェンが連絡してくるまでそれをフォーマルなものにしたことはなかった」と認めている(19)。従って、「現在使われている意味での」人新世という概念を作ったのはクルッツェンだと主張しても別に「基本的な事実誤認」ではない。一知半解で他人の主張を「基本的な事実誤認がある」などと攻撃するのは実に恥ずかしい。

Less Than Useful氏はこの後も延々と自己流の知識を披瀝しているが、斎藤氏は素人に説教されなくてもそんなこと百も承知だろう。著者は知っていることを全部書くのではなく、必要ないことは書かないものである。私は斎藤氏と大部分の点で意見を異にするが、斎藤氏の学者としての能力には敬意を払っているし、そうでなければ斎藤氏を批判する本を書いたりはしなかっただろう。このような根拠がない卑劣な中傷には怒りを覚える。Less Than Useful氏による斎藤氏への侮辱的言辞は明らかな名誉棄損である。

しかも、Less Than Useful氏の主張は、ある程度調べなければ間違いがわからない。時間のない普通の読者は簡単に見破ることができず、極めて悪質である。私は自分に加えて斎藤氏まで弁護する気力はないからこのぐらいにしたいが、Less Than Useful氏の斎藤氏への批判は一見する以上に不当である。多くの方がそれに気が付かないのは、このレビューが一見、“学術的”だからだが、その実態は曲解と恣意的引用による中傷に過ぎない。

Less Than Useful氏はAmazonによる自らのレビューの削除に対して、何の悪びれることもなく次のように書いている。

「斉藤幸平氏が批判するAmazonのようなワンクリックで何でも手に入る資本主義の極北みたいなシステムが、資本主義システムを批判する本への☆一つのトップレビューを、知識のコモンズを支えるネットというプラットフォームから削除してしまうっていう状況はなかなかアイロニカルでよい。もっと酷い罵倒したレビューは消されてないのに。しかしよく考えてみれば資本主義システムの欲望ドライブ+マルクス思想って、それってまんま近隣の某大国やん?ってことで、都合が悪い批判は削除されるのは当然の帰結のような気も。」

自らの中傷には何ら反省を見せず、このような何の証拠もない陰謀論めいた主張をするのは、軽蔑的に語られる「ネット右翼」と同レベルの言論であり、全く論評に値しない。

おわりに

斎藤氏に対するLess Than Useful氏の書評は、素人が検証できない、それらしい似非知識を披瀝して、本の著者が無知な人物であるかのような印象を与える悪質な名誉棄損という点では私の本への書評と全く同じである。どちらのケースでも、Less Than Useful氏は著者が書いてもいないことを勝手に勘違いし、中途半端で不正確な知識と思い込みを振り回して、著者への到底許されないような罵倒を書き連ねている。Less Than Useful氏は不適切なレビューによる名誉棄損と人権侵害の常習犯であり、その主張は全く信頼に値しない。

Less Than Useful氏の似非知識を検証するのは一般読者には難しいが、良識ある読者であれば、このような品位に欠けた言葉遣いで他人を罵倒する匿名の書評には信頼を置かないだろう。「確かに口調はきついが、きちんと引用をした上に論拠も示しつつ行われているレヴューで、単なる誹謗中傷ではない(20)」等とは考えないだろうし、まして他人にこのような誹謗中傷を広めることはしないはずである。十分な名声があり、プロであるはずの田上氏や早川氏がこうした誹謗中傷を持ち上げておられることには失望を禁じ得ない。このようなネット上のいじめや中傷に無自覚に加担しているような人たちが人権や倫理について語っても空しいだけである。

残念ながら、昨今では、異なる主張をする相手を感情的な言葉で徹底的に否定し、誹謗中傷めいた個人攻撃をする者が少なくないが、そのようなやり方では、建設的な対話は望めない。自分と意見が違う相手には何を言ってもよいことにはならないし、相手が不正行為をしているとか倫理的に劣った人物であると感じたからと言って何を言っても許されるなどと考えるのは言語道断である。許されない一線を超える者に対しては強い態度が求められる。言論の質を確保するためにも、誹謗中傷に対しては断固として否と言うべきである。

(1)削除された 柿埜真吾著『自由と経済成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』 Amazonに投稿した☆1つレビュー|Less Than Useful|note

(2)削除された 柿埜真吾著『自由と経済成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』 Amazonに投稿した☆1つレビュー|Less Than Useful|note

(3)例えば早川氏は、バルファキスの本を下品で不適切に訳したとして『クソったれ資本主義が倒れた後のもう一つの世界』の翻訳者を執拗に批判しているが(例えば2021年8月28日Twitter)、「ポルノ」も「自殺」も下品な批評だとは考えなかったようである。早川氏はLess Than Useful氏の拙著への書評の宣伝をリツイートしている。

(4)田上孝一氏Twitter2021年9月13日.「確かに口調はきついが、きちんと引用をした上に論拠も示しつつ行われているレヴューで、単なる誹謗中傷ではない」URL:https://twitter.com/tagamimp/status/1437109841386872832

(5)田上孝一(2010)『本当にわかる倫理学』日本実業出版社

(6)Hasegawa, T., et al. (2018) “Risk of increased food insecurity under stringent global climate change mitigation policy,” Nature Climate Change, 8.8: 699-703.

(7)FAO(2021), “GIEWS Country Brief-Madagascar,” FAO, September 28,2021

URL: https://www.fao.org/giews/countrybrief/country.jsp?code=MDG

(8)隠れた植民地主義とか新植民地主義について議論する論者も確かにいるが、彼らといえども現在むき出しの植民地主義が存在しないことは認めざるを得ないだろうし、世界の全ての国で生活水準が産業革命以降上昇していることも否定できないはずである。

(9)O’Brien, P. K.,(1982), “European Economic Development: The Contribution of the Periphery”, Economic History Review, vol. 35, n. 1, 1982, pp. 1-18.

Bairoch, Paul (1993),Economics and World History, University of Chicago Press

Vries, P. H. H,(2001),“Are Coal and Colonies Really Crucial?KennethPomeranz and the Great Divergence”, Journal of World History, Fall 2001,Vol.12 Issue2,pp.407-447

Emmer, P., (2003)“The myth of early globalization: the Atlantic economy, 1500 1800”, European Review 01/2003; 11(01)pp.37-47

(10)Vries, P. H. H,(2001),“Are Coal and Colonies Really Crucial?KennethPomeranz and the Great Divergence”, Journal of World History, Fall 2001,Vol.12 Issue2,pp.407-447、Xue, Y.,(2007), “A “Fertilizer Revolution”? A Critical Response to Pomeranz’s Theory of “Geographic Luck””Modern China、2007pp.195-229を参照。

(11)書評・資源・国際【ゲスト:Less Than Useful】 – Bing video

(12)書評・資源・国際【ゲスト:Less Than Useful】 – Bing video

(13)https://twitter.com/LesThanUseful/status/1438168355941216259?cxt=HHwWhsCr8f-fs_UnAAAA 

(14)000101402.pdf (mofa.go.jp)

(15)2021年5月10日にAmazonカスタマーサービスによって削除された斉藤幸平著 『人新世の「資本論」』への2020年9月29日投稿のレビュー|Less Than Useful|note

(16)400ページ弱の『経済学入門』に「アダム・スミスは経済学を創始した」という常識的な記述があったとしよう。これに対して「経済学はスミス以前からあったのに著者は歴史を何もご存じない」とか、「「経済学」という言葉はスミスの時代には使われていないが、著者はそんなことさえ知らないようだ」等と延々と言いがかりをつける最低評価の書評を書く人がいたら、それは著者の中傷とみなされて当然である。全く同じことである。

(17)例えば、ギスリ・パルソン(2021)『図説 人新世 環境破壊と気候変動の人類史』長谷川眞理子(監修)、梅田智世(訳), 東京書籍,pp.17,19, クリストフ・ボヌイユ, ジャン=バティスト・フレソズ(2018)『人新世とは何か――〈地球と人類の時代〉の思想史』野坂しおり(訳),青土社,p.18.

(18)Steffen, Will, et al.(2011) “The Anthropocene: conceptual and historical perspectives,” Philosophical Transactions of the Royal Society A: Mathematical, Physical and Engineering Sciences 369(1938),p.843. また、Crutzen, P.(2010) “Anthropocene man,” Nature 467(7317)におけるインタビューでは、クルッツェンは自身の功績として「人新世という用語を作った科学者(the scientist who coined the term ‘Anthropocene’)」であることを挙げている。

(19)Steffen, Will, et al.(2011) “The Anthropocene: conceptual and historical perspectives,” Philosophical Transactions of the Royal Society A: Mathematical, Physical and Engineering Sciences 369(1938),p.843.

(20)田上孝一氏Twitter2021年9月13日.URL:https://twitter.com/tagamimp/status/1437109841386872832

プロフィール

柿埜真吾経済学

1987年生まれ。経済学者、思想史家、高崎経済大学非常勤講師。学習院大学文学部哲学科卒業、経済学研究科修士課程修了。立教大学兼任講師等を経て2020より現職。著書に『ミルトン・フリードマンの日本経済論』、『自由と成長の経済学』がある。

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