2022.03.02

軍事的危機と「表現の自由」の価値

志田陽子 憲法、言論・芸術関連法

社会

24日、ロシアがウクライナに軍事侵攻を行ったことで、世界中が騒然としている。経済制裁や非難決議でことが収まらず、欧米諸国が軍事的行動に出た場合には、大規模な世界戦争になる可能性があるとも言われる。こうした世界的な軍事的危機の中で、今、「表現の自由」の本質について、考えてみたい。

ウクライナ市民は今、生命を守るために避難を余儀なくされている。そのような中で、市街が攻撃を受けている様子を撮影した動画が、SNSから流れてくる。またロシア国内での批判デモも激しさを増し、これをロシアの警察が拘束し、被拘束者は数千人に上っているとの情報もある。新聞報道によれば、科学者や芸術家など、影響力のある識者が批判を表明したり、批判のために役職を辞任したりしているという。

筆者が共同代表を務めている「九条科学者の会」でも、この問題については事務局長声明を発表した。この抗議声明は、駐日ロシア大使あてにも送信されている。今、さまざまな団体や個人が、それぞれの形で、このような声を上げている。

2022.02.26. 九条科学者の会 事務局長声明 「政府の行為によって戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求することを定めた日本国憲法のもとで、ロシアのウクライナに対する軍事侵攻に強く抗議し、ロシア軍をただちにウクライナから撤退させ、国際法の定めに従うことなどを求める」http://www.9-jo-kagaku.jp/statement/statement220226.html

このように、当事国内外の一般市民が進んで状況を知らせ、これを世界の一般市民とメディアがリレーする形で情報共有がまたたくまに進み、さらに各種の団体や個人がマスメディアを介さずに声明や談話などを発信していく、という流れが、今回特有の新しい展開である。今後も、ロシアやウクライナの国内で市民への言論弾圧が起きれば、すぐさまその現場映像付きの情報が世界に流されるだろう。また、サイバー戦がインターネット空間やエネルギーなどのインフラに与えうる影響や経済制裁の市場への波及力を考えると、地理的に離れた場所に暮らす人間たちにとっても、一人ひとりの当事者性は、格段に高まっている。

その一方で、今、日本国内では多くの発言者が嘆きを語っている。今、ロシアの軍事行動を非難すること、「戦争を回避しよう」「軍事力に訴える道をなんとかして回避しながら、プーチンを抑える道を模索しよう」、と呼びかける発言をすると、待っていましたとばかりに冷笑や罵声じみた嘲笑が浴びせられる状況だ、というのである。個人ごとに実感はまちまちだが、かなりの数の人が、「今発言をすると空しい思いにかられる」という。「表現の自由」論が日ごろ問題視し、防ごうとしている「萎縮」の状況が生じているのだろうか。

たしかに、かなりの数の著名人や有力者が、日本型平和主義を無力であるとする発言をしている。それらの発言のうち、その場限りの優越ナルシシズムを楽しむためにだけ反射的に繰り出された発言は「気に留める必要なし」と言ってすませたい。また、自国の日本国憲法をどうしていくべきか、どうしていきたいかについては、このような突発的な事件に煽られる形ではなく、冷静に議論できる精神環境で、議論を積み重ねなければならない問題である。

とはいえ今回は、ネット上の情報共有や声明の発信を見る限り、言論空間に参加する人々の間に萎縮ムードが広がっているというふうには見えない。むしろ、萎縮に自覚的に対抗する談話がSNS上でもメディア上でも見られるようになっている。筆者もその中の一人でありたいと自認しているが、こうした状況でこそ、「表現の自由」を確保することの大切さを確認する必要があると感じている。

「表現の自由」は何のために、特別に重要な法的権利として保障されているのだろうか。一つには、各人の人格を支えるコミュニケーションや自己確認行為を尊重するためである。もう一つは、民主的で自発的な社会や政治を成り立たせるために、各人が自由に発言できる環境を確保する必要があるからである。

社会や政治がトップダウン型の支配関係に終始するのでなく、ボトムアップ型の集団意志や合意が形成できるように、ボトムアップ型の回路を常に開いておく。そこで政府からの監視や検閲を受けることなく、自由に、情報交換や意見交換をして、納得できる社会づくりを目指していく。一人一人の声や存在感は小さなものでも、これが集積していって、それなりの影響力を持つ望みが常に開かれていることが、民主的な社会の条件だ。大学や科学者団体など、専門集団による声明や談話発表も、市民が参考にできる専門知識の集約として意味をもつ。

「表現の自由」は、まずは玉石混交のままですべての発言希望者に発言の自由を認める。その中には価値の高いもの・低いものがあるが、その取捨選択も、一般社会にいる受け手の自由な判断に委ねる。これが「思想の自由市場」と呼ばれる考え方で、「表現の自由」を支える重要な原理の一つである。だから、ある発言に対して批判をする自由も、冷笑をする自由も、まずは「自由」の保障を受ける(ある限度を超えた誹謗中傷は、名誉毀損や侮辱などの人格権侵害となり、言論空間から退場すべきことになるのだが、この話は、今回は立ち入らない)。

だから、法的にアウトな人格権侵害にならない限りは、冷笑もマウントも、とりあえず法的には自由なのだが、しかし、真摯な発言をしたい人が萎縮しやすい状況にあるときには、その萎縮を少しでも解く方向で発言をする必要がある。国際世論を無視して軍事侵攻に出る指導者が出てくる状況にたいして、言論は無力だ、という趣旨の発言もSNS上には散見されるが、言論は本当に無力なのだろうか。

まず、軍事力に訴える道以外の道(経済制裁など)で解決の道を模索しよう、という考え方は、冷笑・嘲笑の対象となるべきものではなく、国連の公式サイトやツイッター、多くの国の首脳の発言を見れば、ほとんどの要人がまずはこのスタンスを表明している。現実に軍事侵攻を受けたウクライナの元首や市民が軍事的な抵抗を選択することは状況から見て致し方のないことだが、それ以外のほとんどの要人たちが、経済制裁で切り抜けられるか、軍事行動をとらざるを得ないのか、ということを議論している(筆者自身は、国連事務総長や、国連高等弁務官、そして国連事務次長・軍縮担当上級代表(日本人の中満泉氏)の発言は、不断にウォッチしていたいと思う。やはりこの状況の中で、現実に国際社会の判断・意思決定に影響力を持っている人々が、今、事態をどう見ているのかということが、もっとも見る価値のある事柄だと思う)。

先ほど、「表現の自由」は、まずは玉石混交のままですべての発言希望者に発言の自由を認め、政府はその中で価値のあるもの・価値の低いものを選択することはしない、という原則を述べた。これは、《政府が恣意的に「価値のない言論」を選定して言論空間からシャットアウトすることを拒否する》、という意味である。第二次世界大戦中の日本やドイツの言論統制の徹底ぶりと暴力性を考えたとき、このことはいくら強調してもしすぎることはない。しかし、そうした粗野な言論統制の時代を曲りなりにも克服した社会では、むしろ「価値の高い言論」を見分けてウォッチするリテラシーは、私たち一人一人に委ねられている、という側面を強調すべきだろう。

今、ほとんどすべてのメディアが、「プーチンは超えてはならない一線を超えた。非難されるべきだ」との見解で一致している。ただ、「今回の軍事行動について非難されるべき責任はプーチン一名にある」、とする論調(アメリカのバイデン大統領発言を肯定する論調)と、「背景事情としてプーチンだけを非難するべきではない、ロシアをそのように追い詰めた国際社会の側の歴史的問題も掘り下げて考察するべきだ」という論調とがある。

複雑な経緯が明らかになるにつれ、物事を深く考える人ほど、プーチン1名だけを責めればことは収まるという構図でとらえるのは単純すぎる、との思いに駆られるのではないか。しかし仮に、A氏の隣家が約束を守らず腹に据えかねる行動に出たとか、その隣家を取り巻く近所の人々も腹に据えかねることをじわじわやっていたのだ、という事情があったとしても、A氏がその隣家を放火してもいい理由にはならない。A氏がその隣家を放火してその行為をやめない場合、これを取り巻く社会は、A氏を止めなくてはならないし、燃えだした火が独り歩きして類焼被害を広げないよう、その火を止めなくてはならない。

ここで憂慮されるのは、私たちが「目には目を」の発想に行きやすいことだ。「プーチンは非難されるべきだ」というとき、それは、そこに至る経緯はなんであれ、軍事侵攻をしたことについての非難である。ここで「プーチン憎し」⇒「だからアメリカとともにロシアを叩こう」という方向に一足飛びに行くことは、非難の足場を自ら失うことになりかねない。それはどうしてもそれ以外に手がないとなった場合の「最後の手段」で、まだ経済制裁と対話によって事態を収める望みがあるうちに、一足飛びに軍事行動に逸(はや)っては、プーチンを非難できなくなる。

そして何よりも、「自滅したくなければ手は出さずににらみ合う」という相互抑止の道具として大国が保有してきた核が実際に使われる可能性があるとなれば、軍事行動で抑え込もうとしたときに世界が浴びる「返り血」のことを考えると、どんなにもどかしく見えようと、軍事行動は最後の手段、と考えざるをえない。ここで苦渋しているアメリカや国連が、日本の一部の発言者に心理的に後押しされることはまず考えられないが、今、この理路をメディアは一般市民に向けて何度でも解説すべきである。

ここで言論の問題としては、メディアや個人が何らかの思惑から《戦争プロパガンダ》を行うことはもっとも慎まなければならないことである。2月28日午後の時点で筆者が読むことのできた限りでは、各紙の新聞報道はそうした安易な「一足飛び」には至っておらず、「報道がやるべきでないこと」の一線を超えてはいないと思う。「軍事行動へと逸(はや)る発言」に陥らずに、事態を知らせ、理路を知らせること。事態を迅速に知らせることについては、メディアはすでにSNSに追い抜かれている。メディアならではの役割は、事態を伝える発信を整理し、事柄の理路を伝えることで市民に判断材料を提供する仕事のほうにある。メディアがそうした役割を果たせているかウォッチするためにも、一般市民が報道を見守る必要が今、非常に高い。

次に、賢さを競う言論と、願望や意思を伝える言論とは異なり、それぞれに「自由」だ、という理路を整理しておきたい。「経済制裁や非難決議・非難声明でことを収めるのはまず無理で、国際社会は軍事行動による制圧を動かざるを得ないだろう」との趣旨で先々を予測する発言は、今、多く見られる。これらは、軍事行動を煽(あお)る発言ではないので、牽制すべき事柄ではない。

しかし、一般人の「表現の自由」の問題として考えたとき、一般人が自らの憂慮や願望を語ることは、専門的見地からの有効な予測である必要はなく、自由である。「なんらかの専門的見地に立って有効な予測ができるか否か」という問題と、「自分たちは、自分たちの属する国や国際社会にどうあってほしいか」ということを発言する資格は、まったく別のものである。まして、今、生活や生命が危機にさらされている人々が声を上げることは、当事者にとっての切実なニーズとして、その「自由」が確保されるべき事柄である。そしてその声を、たとえば日本国内の人々が国境を越えてキャッチし、リレー発信することについては、真摯な発言として「自由」が確保されるべきである。

ここで一般市民が自らの危機状態や願望や思いを述べているときに、それが事態予測として当たるかどうかはまったく別問題である。そうした意見表明を、事態予測として当たるか、あるいは物理的事象を止めるのに有効かという観点から冷笑したり、無駄と評して意気阻喪させることは、誤っている。

これは、民主的な社会を形成するために重視され保障される「表現の自由」の筋からは、とくに交通整理をしておく必要のあることである。一般人には、主権者・住民として情報を知る権利や、請願などを通じて発言する権利があるし、一般市民同士で情報交換や意見交換をする権利がある。集会もSNSもそうした自由な「場」に位置づけられる。

一般市民がこうした様々なルートで発言しようとするとき、「専門知識のない素人さんにはわからないことでしょうが…」と、沈黙を促すかのような受け答えを、専門知識を持つとされる公務員や議員が行うことが少なくない。こうした場面は、市民団体の陳情などでも、見られる光景である。しかし一般の人々が主権者ないし民主主義の担い手として発言をするとき、専門知識はないのが当然である。

ここで主権者ないし民主主義の担い手に託されているのは、「この社会・この国にどうあってほしいか」という願望や意志を表明することである。専門知識は、それを実現するにはどうしたらいいかを模索考案したり、「それを実現するにはこれほどの時間と金銭がかかるか」といった情報提供をしたりするためにある。

だから、専門知識はないが願望と意志を発言したい、という人々がいるときに、「専門知識が必要となる事柄は専門家と政府に委ねよ」、と言ってその発言価値を低めてしまうことは、まったく筋違いなのである。

法的な「表現の自由」の筋からは、ある人の発言を「軍事の専門知識もないくせに」と笑う自由も、あるにはある。しかし、「この国がどこに向かってほしいか」という問題について語りあうことは、すべての人に開かれた「自由」であって、軍事的安全保障の専門家にしか語れない問題ではない。願望と意志を語ろうとする人々の発言を、予測の正答率という意味での賢さにおいて評価しマウントする言説は、事柄の理路としてズレているので、気にする必要はないだろう。「自分はこの国に、そしてこの国際社会に、どうあってほしいか」ということを、萎縮することなく率直に、感じた通りに語る自由が、すべての人にある。

もちろん、何が最善か、という意見は、各人で異なるに違いない。その異なる多様な考え方を、下から集約していくのが民主主義である。賢い答(これを言えば世間から「賢い」と評価してもらえそうな答え)がどこかにあると想定して、それを忖度するために探すのは、民主主義本来の形ではなく、また、「民主主義の不可欠の前提」として尊重される「表現の自由」の本来の形でもない。賢さを競う自由は、自己表現の自由の一つの形として文字通り自由ではあるが、しかし民主主義の担い手に本来託されているのは、その自由ではなく、「自分は何を望むか・望まないか」を率直に表現することなのである。

じつは、「自分は何を望むか・望まないか」を率直に表現することが、案外難しいのである。場合によってはかなりの自己分析や言説分析が必要であることもある。しかし、「死にたくない」「残酷な出来事が続いてほしくない」といった事柄は、私たちにとって、「率直な願望表現」がストレートに浮かぶ事柄だろう。

こうした願望や意志を表現することは、「自由」ではあっても無駄なことで、状況を改善する役には立たない、というべきだろうか。筆者はそうは思わない。言論は完璧ではないが、一定の力を持っている。

「戦争反対を唱えたところで、戦争は起きる時には起きるではないか」とする冷笑は、これまでにも折に触れて繰り返されてきたが、これは誤った議論である。少なくとも、これに追随する指導者や模倣する指導者が出てくることを防ぎ、「結局現実の世界は、やったもの勝ち」というモラル・ハザードの感覚が蔓延することを防ぐ必要があり、そのためには、これが黙認される成り行きを作ってはならない。「黙認しない」という意思表示があらゆる場所から上がることが必要である。

たとえば交通事故は、道路交通法を整備しても、警察が事故防止のキャンペーンや講習会を繰り返し行っても、後を絶たない。しかし、法律や事故防止の呼びかけを無意味だ、不要だと言う人はまずいない。多くの人が、事故に遭遇するまでは自分の身にそれが起きるとは思っておらず、防止ルールの意義を真剣に考えることもないが、当事者として気づいてからでは遅すぎるので、ルールを作っておく。そのことが事故を(完全にゼロにはできないにしても)かなりの程度減らしている、ということは、合意できることだろう。

ここでは、防げなかった少数の特殊例を見てルールや言論の価値を否定することよりも、そのルールや言論が防いできた多数の事柄があることに思いを致すべきである。ルールや言論が完全ではないということに、過度に失望すべきではない。

SNS上の発言には、「日本も憲法を変えないとウクライナと同じことになる」、という趣旨の議論も散見される。これも不思議な議論である。というのも、日本の憲法のその部分は、2015年以来、実質的にはすでに変わってしまっている。いまさら憲法を変えなくても、集団的自衛権行使を可能とし、軍事的後方支援を可能とした現在の安全保障法制によって、すでに実質的に改変されている。むしろ、国民主権の国で、主権者の意思を問う手続きをスルーした形で、これほどの改変が行われたことのほうが驚くべきことで、今さら「憲法があるせいで手が打てない」という発言がでてくるのは、奇妙な殊勝さではないか。しかしこの奇妙さにこそ、着眼すべきなのである。

「日本の憲法はもはや死文化した」と述べる専門家も出始めてはいるが、憲法を言い訳にして「あれができない、これができない」と言う人々がいるということは、憲法は死んではいないということである。「お題目」と揶揄され、目障りなものとしてではあれ、警告灯として視野の片隅にチラつくので、それを公然と破る行動に出ることはかなり面倒なことなのである(この心理的な面倒くささを解消するために憲法の明文を改正するべきか、この警告灯を視野の中に置いておくべきかについては、最終的には主権者が決定することであり、本稿ではこの問題については立ち入らない。)

法に代表される「言葉」の力は、無力なように見えて、無力ではない。指導者にとって、支持者を得る可能性のない行動は、避けるべき行動となる。この支持は、法に沿っているほうが、つまり「法にこう書いてある」と言えるほうが、得やすい。指導者層が無軌道な行動に走るとき、その多くは、自分の周囲に追従者・イエスマンしかいなくなってしまい、自分の考えを相対化することができなくなったときに起きる。「独裁」が警戒され、権力の分散・分立が図られ、民主主義がさまざまな欠点を抱えながらも支持されるのは、この成り行きを防ぐためである。

こう考えてみると、ロシア・ウクライナ間の現象について私たちが学ぶべきことは、「強大な軍備をもたないとウクライナと同じことになる」という焦燥感より、「民主主義・立憲主義を本当に死なせてしまったら、このような暴走が容易に起こりうる」という戦慄である。ここで、民主主義・立憲主義を本当に死なせるか、無力だと揶揄されつつも生かしていくかは、人々(私たち)の意志と、それを表明する言論活動にかかっている。

ただしここで、人々の言説が社会的合意となり指導者にとって無視できないものになると言えるのは、自由な言論が確保されている社会のみである。何かを言わされている社会、願望や意志を言えない社会、為政者を忖度する社会では、社会の表層に出てきた言説は、為政者を心理的に拘束する力を持ちえないのである。

自分が属する国や社会がどこに向かってほしいか、どこに向かってほしくないかを素直に表現することは、専門家に「お任せ」はできない事柄である。ここでみんなが、自分が望む方角をもたず、《賢い様子見》でフリーズしてしまったら、今回の出来事も後々、「仕方なかった歴史だった、現実とはこの程度のものだ」で賢くやり過ごされて、その後の歴史も同じことを繰り返すことになる。

今すぐ最善の解決を得られないにしても、自分たちが嫌悪する方角と望む方角を明確にすることで、せめて、数十年後、「こんな許されない珍事が起きた、しかしこんなことはやっぱり許されない出来事だった」、と言える歴史を作っておく責任が、わたしたち同時代人にあるのではないか。

参考・各種団体声明

以下、2022年2月28日時点で筆者がアクセスできた大学・弁護士会などのもの

弁護士会

法の支配を蹂躙するロシアのウクライナ侵攻を非難する会長談話
2022年02月28日 東京弁護士会
https://www.toben.or.jp/message/seimei/post-643.html 

ロシア連邦のウクライナ侵攻に関する会長談話
2022年(令和4年)2月26日 兵庫県弁護士会
https://www.hyo goben.or.jp/news/iken/13226/ 

「ロシア連邦のウクライナに対する軍事侵攻に反対する会長談話」
2022年(令和4年)2月28日  大阪弁護士会 
https://www.osakaben.or.jp/speak/view.php?id=275 

大学

ロシアによるウクライナ侵攻について(藤井総長メッセージ)
令和4年(2022年)2月25日 東京大学総長 藤井輝夫
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/articles/z1304_00228.html 

平和を希求する広島大学は、ロシアのウクライナ侵攻に強く抗議します
令和4年(2022年)2月25日 広島大学長 越智光夫
https://www.hiroshima-u.ac.jp/news/69486 

ロシアのウクライナ侵攻について
2022年2月27日 新潟県立大学学長 若杉隆平
https://www.unii.ac.jp/news/21048/ 

ロシアのウクライナ侵攻と核リスク
長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)見解 2022年2月25日
https://www.recna.nagasaki-u.ac.jp/recna/eyes/no22-jp 

ロシアのウクライナ侵攻について
2022年2月28日 東京農業大学学長 江口文陽
https://www.nodai.ac.jp/news/article/27645/ 

学長声明:軍事侵攻に反対する
2022年2月28日  国際基督教大学・学長 岩切正一郎
https://www.icu.ac.jp/news/2202280900.html?fbclid=IwAR0v0tVr5P_GnCmkU3IdfDOto1BTADymKHXh4bUG4f8LCiSB5AiyI_fFw6w 

市民団体

ロシアのウクライナへの軍事侵攻に抗議し中止を求めます
2022年2月25日 日本婦人団体連合会 会長 柴田真佐子
http://fudanren.biz/danwa.html 

この記事は、Yahoo!個人オーサ―論説「緊迫する国際情勢と「表現の自由」の価値―《予測精度を競う表現》と《意志を伝える表現》の違い」をもとに修正を加えたものです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/shidayoko/20220225-00283857?fbclid=IwAR3T0NKiSB0nX_sArUSp2_nTDaYUW7eViWLzLpFSVJ–iZPLCsM_-S36QKs

プロフィール

志田陽子憲法、言論・芸術関連法

武蔵野美術大学造形学部教授、東京都立大学システムデザイン学部客員教授、博士(法学)。「憲法」および表現者のための法学を担当。研究対象は、表現の自由と人格権、文化芸術と法。著書に『文化戦争と憲法理論』(法律文化社、2006年)、『表現者のための憲法入門』(武蔵野美術大学出版局、2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・法律文化社、2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)、『映画で学ぶ憲法Ⅱ』(編著・法律文化社、2021年)。東京新聞「新聞のあり方委員会」委員。「シノドス」では、「シノドス・トークラウンジ」共同主宰者、「法と社会と自分ごとをつなぐパブ」編集委員。

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