2022.03.16

社会と「自分ごと」をつなぐためのリーガルマインド――予防接種事故訴訟の教訓を素材に

志田陽子 憲法、言論・芸術関連法

社会 #法と社会と自分ごとをつなぐパブ

法律の知識や法学的な考え方(論理構成力)を、論破ゲームやマウントのための道具ととらえている人もいるかもしれません。しかし論破のゲームで「言い合いに強いマインドを鍛えること」は、法学全体からみれば、ごく部分的なプロ向けの筋トレにすぎません。法に通底する《理》の思考、すわなち《リーガルマインド》というものは、もっと広く、人と社会の関係を支えるために存在するものだと思います。

社会と、自分が生活するために必要なさまざまな事柄は、自転車の車輪のように回りながら、つながっています。「公」と「私」は便宜上分けて考えたほうがスッキリするけれども、実際には生きた人間の営みの中で、ぐるぐるとつながっています。そして私たちの社会は、さまざまな政策的仕組みによって支えられ、それぞれの政策的仕組みは、法ルールによって支えられています。

たとえば、今なら、コロナをめぐる予防政策と医療政策。各人の「自分ごと」としては、飲食店で会合したいけどできないことをどう思うか、ワクチン接種をいつどこでするか、そして副反応は大丈夫か、といった問題です。スタンスは各人それぞれだと思いますが、「私は感染しないから大丈夫、これが自分ごとになることはない」、とは、誰にも言えない事柄です。

このつながりが見えなくなり、一人一人の「自分ごと」が社会とのつながりから切り離されてしまうと、一人一人の出来事は、自己責任の問題とされたり、当事者本人が「声を上げても無駄」と思って諦めたりしがちです。

かつて1970年代に、学校で一律に行われていた集団予防接種で、体質との適合調査が丁寧に行われていなかったために、副反応で命を落とした学童が出て、訴訟となりました(予防接種事故国賠訴訟)。被害者、そして裁判の原告となった遺族は、社会全体から見れば少数者でも、この問題は社会全体にとって深刻な問題です。こうした裁判があったことで、医療政策の中にあった危険要因が社会にも国政にも認識され、改善につながっていきました。今、ワクチン接種についてはさまざまな政策課題や副反応の問題が残っていることはたしかですが、私たちが予防接種を受けるときに、過去の出来事の教訓から恩恵を受けていることもたしかです。 

当時、予防接種事故の被害救済は、法律にも裁判理論にも明確な根拠がなく、「救済の谷間」と呼ばれていました。この訴訟で、裁判所は、国(当時の厚生省)の組織的過失という新しい考え方を採用した上で、国家賠償法による救済を認めました(注※)。

注※ 東京高裁平成4年12月18日判決。この高裁判決は、この予防接種の実施に当たった個々の公務員の行為に違法性は認められないが、厚生大臣が禁忌該当者にまで強制的に予防接種を実施させることのないよう十分な措置を講じていれば副反応事故の発生を回避できたはずなので、本件には厚生大臣の過失が認められ、国は国家賠償法1条による損害賠償責任を負う、というものだった。この判例は現行の新予防接種法(平成6年6月改正)が成立するまでの過渡期の司法救済で、新予防接種法施行後は、裁判実務上の役割を終えている。

当時の議論を見る上での参考文献として、稲葉馨「予防接種禍に対する国の補償責任――東京高裁平成四年一二月一八日判決の光と影」ジュリスト1021号(1993年)、宇賀克也「東京予防接種禍訴訟控訴審判決」ジュリスト1024号『平成四年度重要判例解説』(1993年)、滝沢正「予防接種禍東京集団訴訟控訴審判決」判例評論(判例時報付録)415号(1993年)、西埜章『予防接種と法』(一粒社、1995年)、阿部泰隆『国家補償法』(有斐閣、1988年)、宇賀克也『国家補償法』(有斐閣、1997年)、野中俊彦「損失補償と国家賠償」野中俊彦・浦部法穂『憲法の解釈Ⅱ人権』(三省堂、1990年)を参照した。この当時の法学文献において、この問題がまだ理論の確立していない「争点」であったのに対し、最近の国家賠償法関係の解説書では、上記東京高裁判決で採用された「組織過失」ないし「組織的過失」の法理はすでに確立した判例理論として、ごく簡潔に扱われている。例として、宇賀克也・小幡純子編著『条解国家賠償法』(弘文堂、2019年)141頁、西埜章『国家賠償法コンメンタール(第3版)』(勁草書房、2020年)609頁。裁判所の法理形成力およびそのプロセスの一例を、こうしたところからも読み取ることができる。    

ここで原告(遺族)が得ることのできた救済は、金銭による損害賠償です。失われた生命に対して、金銭の賠償は、一見筋違いなものに見えるかもしれませんが、そこには大きな意味が込められています。この一連の裁判が社会と政治過程に、改善を必要とする公共的課題を認識させることにつながり、予防接種に関する法律が一部改正されるに至ったからです。ここには裁判所の法理形成力と政治過程との、あるべき関係を見ることができると思います。今では、こうした意義を持つ裁判が「公共訴訟」とも呼ばれるようになってきました。

「私権」と呼ばれるタイプの個人の権利の問題でも、当事者が声を上げることで、同じ悩みを抱えている人に勇気を与えたり、社会に問題への気づきやルールのあり方について議論するきっかけを与えたりすることがあります。それによって、政策・制度が前進することもあります。たとえば、SNSでの差別表現や誹謗中傷が人に深い傷を与えることも、声を上げる人がいたからこそ、社会がその問題を今のように認識できるようになりました。実際のところは有名人が自殺したことが社会的気づきのきっかけとなったわけですが、本来であれば、そのようなことになる前に、声を上げる人の声に社会が気づくことのほうが大切です。

とりわけ裁判は、社会に気づきを促すきっかけづくりとなりうるものです。しかし、本当は訴訟を起こしたいが訴訟を起こすことを当事者がためらったり諦めたりしている例、訴訟では当事者性(原告適格)が認められず救済の道が塞がれている例もあります。

シノドスでは、このような法にかかわる事柄について、「社会に気づきを促すきっかけづくり」の役割を担いたいと考え、このコーナーを立ち上げることにしました。「法と社会と自分ごとをつなぐパブ」。これは「公共=パブリック」のパブ、そして、人々が飲み物片手に気楽に語り合う場としてのパブのイメージです。

心ある市民が関心を寄せる足場として、法や裁判の話に親しみ、知識や知恵を共有したい。決して「私とは関係のない誰かの厄介ごと」と言ってはいられない事柄について、放っておくとなぜ、巡り巡って「自分ごと」になってくるのか、その筋道について考えたい…。そういうつながり(理路)を知ったり、共に考えたりするページにしたいと考えています。

※シノドスでは、メディアとしての論説の掲載と情報共有を行い、個別の法律相談や弁護士の紹介等は受け付けておりません。また、プラットフォームとして、「シノドス」としての見解を持たずに対立する複数の見解を掲載する場合もあります。

プロフィール

志田陽子憲法、言論・芸術関連法

武蔵野美術大学造形学部教授、東京都立大学システムデザイン学部客員教授、博士(法学)。「憲法」および表現者のための法学を担当。研究対象は、表現の自由と人格権、文化芸術と法。著書に『文化戦争と憲法理論』(法律文化社、2006年)、『表現者のための憲法入門』(武蔵野美術大学出版局、2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・法律文化社、2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)、『映画で学ぶ憲法Ⅱ』(編著・法律文化社、2021年)。東京新聞「新聞のあり方委員会」委員。「シノドス」では、「シノドス・トークラウンジ」共同主宰者、「法と社会と自分ごとをつなぐパブ」編集委員。

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