2022.04.05

「妻にも言えなかった。64年間苦しかった」ーー旧優生保護法による人生被害の回復に向けて今、決断を

丸山央里絵 公共訴訟プラットフォーム「CALL4」副代表

社会 #法と社会と自分ごとをつなぐパブ

北三郎さん(仮名)は14歳のとき、強制的に不妊手術を受けた。今も下腹部にはふたつの傷痕が残る。それから60年近く、誰にも言わず、苦しみをひとり抱えながら生きてきた。

長年連れ添った妻にさえ、手術を伝えることはできなかった。20代後半に職場から強引に縁談を進められて結婚した北さんは、案の定、周囲から「なぜ子どもができないんだ」「種なしか」と責められた。ほかの家の子どもをあやすうれしそうな妻の顔を見るのはつらかったが、伝えれば別れるしかなくなるからと沈黙を貫いた。

夫婦関係は良好で、趣味の旅行やカラオケを一緒に楽しむなどして長い年月をともに過ごした。しかし、結婚40年目を過ぎた頃に妻の病気が発覚する。今夜が山場だと医師に伝えられた北さんは、病室で「ずっと隠していたことがあるので話しておきたい」と切り出したという。

「14歳のとき、子どもができなくなる手術をされたんだ。今まで裏切っていてごめん。どうか許してほしい。」

泣きながら頭を下げる北さんに、妻はただ、うなずいた。

「私がいなくなっても、ご飯ちゃんと食べるんだよ。」

それが、夫婦の最後の会話だった。

60年後に知った手術の真実

北さんは13歳の頃に家庭の事情もあって反抗期にかなり荒れ、不良行為をする恐れのある児童の自立支援施設『修養学園』に預けられている。

「施設には、親がいない子どもや、親に見捨てられた子どもなどが入っていました。」

14歳になったある日、施設の先生に「悪いところをとるから」と言われて、近くの産婦人科へ連れて行かれた。医師から説明も一切ないままに手術を施された北さんは、その後、寮の先輩に、それが不妊手術だったことを知らされた。他にも手術を受けている人が施設に何人もいるらしかった。手術記録が廃棄されていたために、北さんがなぜ選ばれたかは今もわからない。

「ショックでした。なんで自分が、と思いました。」

自らの人生を苦しめてきた手術の背景には、「旧優生保護法」があったーーそのことを北さんが知ったのは、手術から60年もたった後だった。

偶然、ファミレスでひとり食事をしていて見かけた新聞に、全国初の強制不妊手術による提訴が報道されていたのだ。すぐに自分と同じだと思い、勇気を出して被害窓口に問い合わせた北さんは、弁護団とつながる。そして、他でもない国が戦後の人口抑制政策の中で手術を推進していたことを知って驚愕(きょうがく)し、自らの手術について調べることを決意する。

旧優生保護法は、“不良な子孫の出生を防止する”という目的のもとで、障害のある方などを対象に強制不妊手術を許していた国の法律だ。厚生労働省によると、1948年に施行されて1996年に母体保護法へと法改正されるまでに、全国で2万5千人の手術記録が残っている。

この旧優生保護法の問題は、本人に知らせずに麻酔を用いて手術することを許容するなど、被害者が被害を認識しづらい仕組みを国が構築していたこと、また、教科書に優生思想を正当化する記載をするなどして手術を受けた人びとに対する差別や偏見を社会に浸透させていたことなどから、長い間誰にも触れられることなく放置されてきた。

そんな中で、20年ほど前に仙台で一人の被害者が真実を知って立ち上がり、国に謝罪と補償を求める活動を始めたことが、次第に世の中に問題が知られていくきっかけとなった。

これまでに北さんを含め、全国で25人の被害者が国を提訴。しかし、全員が高齢であるために、うち4人は権利の回復がかなわず無念のままに亡くなっている。また、さまざまな理由から声を上げることのできない被害者が多数、この国に今も存在している。

被害に向き合った道のり

北さんは、旧優生保護法を初めて知った当時の気持ちをこう語っている。

「“不良”という言葉を聞いて、そして、自分がその対象とされたことを知って、やっぱり家族や社会からは、そのように思われていたんだなと、納得するのと同時に落胆しました。」

「当たり前に生きて、人間の価値がないと言われるのは、本当につらいです。」

自分の暮らす社会や周囲から存在を不良とされる、そのダメージは計り知れない。しかし、弁護団や支援者の支えを受けるうちに、少しずつ北さんの心持ちは変わっていったのだという。

「裁判を応援してくれる人から、この社会からいらない存在などいない、誰もが尊厳を守られて生きる権利がある、ということを教えてもらいました。」

そして、北さんは当初は考えていなかった裁判を起こすことを決意する。60年以上ひとり閉じ込めてきた思いを公共の場に問う、その決意にはどれだけの葛藤があっただろう。

一人でも多くの被害者に声をあげてほしいという思いから、やがて顔を隠さずに発信をするようになった北さんは、一審の東京地裁の法廷で、裁判長に向かって自らの提訴を語った。

「私は、本件手術によって長い間苦しんできました。そして、その苦しみを長い間胸にしまってきました。昨年1月に起こされた裁判の報道で、今までしまってきた思いが再びあふれ出してきました。そして、周りの方の支えにより、閉ざされていた心を開くことができました。」

「手術によってくるわされた自分の人生を返してほしい。それが無理なら、せめて事実を明らかにして、間違った手術だったことを認めてほしい。そのような思いから裁判を起こすことを決めました。」

弁護団とともに仙台市の施設跡を訪れた北さん。道中、記憶をたどりながら、空に色とりどりの星が見えたことや蛍がいたことなど思い出を語った(写真:弁護団提供)

高裁で続いた画期的な判断

東京地裁の判決では、旧優生保護法が憲法違反であることは認められたが、手術から20年以上の歳月がたっていることを理由に、北さんの請求はすべて棄却された。北さんは悔しくて、数日は眠れなかったと話す。

損害賠償請求権は、行為の発生したときから20年が経つと権利が消滅すると民法で規定されている。この“除斥期間(じょせききかん)”と呼ばれる20年の時間の壁は厚く、札幌や仙台など全国の地裁でも原告請求の棄却は続いていた。弁護団は原告の救済のため、突破口を求めて奔走した。

そして、2022年2月22日の大阪高裁判決と、北さんが上告して迎えた3月11日の東京高裁判決とがついに風穴を開ける。

いずれも、憲法違反の法律に基づく施策によって生じた被害の救済を、下位となる民法の除斥期間を無条件に適用して拒絶することは、“著しく正義と公正の理念に反する”と判断したのだ。画期的な逆転勝訴の判決はニュースとなり、日本中を駆け巡った。

東京高等裁判所の平田豊裁判長は、判決を言い渡した後にこう言葉を添えたという。

「原告の方には、自らの体のことや手術を受けたこと、訴訟を起こしたことによって差別されることなく、これからも幸せに過ごしてもらいたいと願いますが、それを可能にする差別のない社会を作っていくのは、国はもちろん、社会全体の責任だと考えます。」

「そのためにも、手術から長い期間がたったあとに起こされた訴えでも、その間に提訴できなかった事情が認められる以上、国の責任を不問にするのは相当でないと考えました。」

北さんや弁護団は、勝訴を心から喜び合った。裁判所を出た北さんを、支援者たちのおめでとうの声と拍手が囲んだ。北さんは皆に深くお辞儀をして、「裁判官が向き合ってくれました」と目頭を押さえた。

「判決を聞いてすぐ、勝ったよ!と先生が肩をたたいてくれました。それだけでもう涙が出ました。嬉しくて、涙が止まらないです。残りの人生を幸せに暮らしていきたいです。」

勝訴の旗を上げる弁護団。北さんは亡き妻や無念の思いで亡くなっていった原告に「勝ったよ!」と伝えたいと話した(撮影:柴田大輔 ※トップ画像も)

国は上告、判断は最高裁へ

しかし、判決から約2週間後、国が上告したとのニュースが流れる。1,500万円の賠償金を原告に支払うよう命じた東京高裁判決に対して、国が不服申し立てを行ったのだ。すでに大阪高裁でも上告がなされていた。

「なぜ国は向き合ってくれないのか。どれだけ私たちを苦しめるのかと言いたいです。」

急遽行われた記者会見の場で、原告の北さんは悲痛な面持ちで訴えた。

国は今回の上告にあたって、「東京高裁判決と大阪高裁判決は、除斥期間の適用を制限する根拠と範囲に大きな違いがあることから、除斥期間の法律上の解釈適用に関する論点について最高裁の判断を仰ぐため、上訴せざるを得ないとの判断に至った」、「政府として真摯(しんし)に反省し、心から深くお詫びする気持ちにいささかの変わりはない」とコメントしている。

しかし、どちらの高裁判決も、被害の甚大さを考慮して除斥期間の適用を制限したという点では共通している。国の上告は、被害救済を優先すべきという二つの高裁判決の示した結論に反するのではないか。

「とにかく時間が足りません。最高裁の判決を待っていたら、多くの救われるべき権利が救われない。目の前にいる一人ひとりの被害者のことをしっかり見ているのかと強く言いたい。」

北さんの代理人である関哉直人弁護士は、その審議にかかる数年のうちにもまた、無念のまま失われるいのちがあり、被害救済がかなわなくなるだろうことに警鐘を鳴らした。

今、私たちが向き合う問題

会見の場には、肩を落としてうなだれる北さんの姿があった。手術から64年が経過してなお、北さんは国による人権侵害によって苦しめられ、被害回復のためにたたかっている。その被害にようやく向き合った司法判断に、加害者である国が不服を申し立てたことは、北さんの尊厳の回復をさらに先延ばすことにつながる。

全国の弁護団を率いる新里宏二弁護団長が、意気消沈するみんなを鼓舞するように、強く声を発した。

「私たちは高裁で勝ったのです。だから、下を向く必要はありません。前を向いて、早期解決を推し進めていく決意をこの場で述べたい。」

追いつめられた北さんや原告一人ひとりの上げた声が、司法を動かしたのだ。被害者は救済を乞う可哀想な人びとではない。今、自らの加害に向き合うべきは、責任を問われている国の側なのだ。

そして、差別のない社会へと歩みを進めていくため、同じ社会に生きる私たち一人ひとりが自分のこととして考えなくてはならないことでもある。

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大阪高裁・東京高裁の判決前の2019年、一部国会議員の働きかけにより、被害者へ一時金を支給する法律が成立した。しかし、国の責任は曖昧(あいまい)なまま、支給額も320万円と、被害者が受けた実際の損害に対してあまりに少ないものだった。

国は高裁判決を踏まえ、この一時金支給法のあり方や今後の対応について、国会と相談して議論を進めたいと話している。上告審の結果を待つ前でも、一人でも多くの被害者が救済されるよう、早急な決断をすることは可能だ。いや、むしろそれが国に求められていることだろう。

いのちに優劣をつける誤った優生思想に決別できるのか。加害にどう向き合うのかは、この社会の今の立ち位置を示すものになる。

北さんはたたかっている。全国で旧優生保護法をめぐる裁判は今も続いている。

【訴訟サポーター募集中】優生保護法に奪われた人生を取り戻す裁判(CALL4サイト)

※大阪高裁・東京高裁の判決全文もケースページの「訴訟資料」欄に公開されています。

プロフィール

丸山央里絵公共訴訟プラットフォーム「CALL4」副代表

NPO法人CALL4副代表理事。社会課題の解決を目指す“公共訴訟”を支援するプラットフォーム「CALL4」を運営。クリエイティブディレクションを担当するほか、ライターとして裁判所などに足を運び、原告や弁護団、支援者らを取材して、訴訟の背景やそこに込められた人々の思いや物語を届ける。

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