2022.04.20

自律を超える善き生(ウェルビイング)の理想を探る――橋本努『自由原理――来るべき福祉国家の理念』をめぐる対談

橋本努×若森みどり

社会 #「新しいリベラル」を構想するために

自由原理 来るべき福祉国家の理念

橋本努

今こそ福祉国家の原理を問う

若森 経済学者の塩野谷祐一先生はかつて『経済と倫理――福祉国家の哲学』(東京大学出版会、2002年)で、福祉国家はそれ自体の哲学や原理を持たないがゆえに自らを正当化できず、資本主義に振り回される役割に甘んじてきた、と論じました。哲学や原理の観点から福祉国家の問題に原理的に取り組んだ方は長らくいませんでしたが、それを継承したのが橋本努さんの本書『自由原理』(岩波書店、2021年)ではないでしょうか。

本書はどこからでも読むことができますね。第1章では、福祉国家の思想を9つに整理・類型化して、当初私は、ここを理解しないと全体を読めないと思っていたのですが、そんなことはありませんでした。現代の資本主義は多くの問題を抱えており行き詰まっているけれども、簡単に絶望したり、安易な資本主義批判や「とんでもない」オルタナティブに飛びついたりしてしまうことなしに一緒に深く考えていこう。こういう本書の基本姿勢を共有することができれば、本書が用意した様々な「思考の仕掛け」に出会うことができるようです。

私自身、この本を何度か読んでいて、読むたびに気になるところが変わります。これは名著の特徴です。最初読んだときは、「もてなされた生」というテーマが入ってこなかった。いまはここの仕掛けが響き、「ケア」をめぐる問題について考えています。橋本さんが提起している深い問いを理解するには、一度読むだけではもったいない。

橋本 ありがとうございます。

若森 現代において、自由を原理的なレベルで問うことはなぜ必要なのでしょうか。というのは、これまでの福祉国家論の主流は制度論や社会保障論で、エスピン=アンデルセン以降に国や地域別の(比較)類型論が盛んになりました。これまでの社会保障の在り方ではDX(デジタルトランスフォーメーション)に対応できないという文脈のなかで、ベーシック・インカム論やベーシック・アセット論などが議論されています。こうした諸潮流のなかで、『自由原理』というタイトルでもって著書を公刊し福祉国家の理念を問うた橋本さんの執筆動機について、教えてください。

橋本 私が研究を始めた頃の1989年、東欧革命が起きました。これは大変なショックで、それまで日本の知識人は多くは、資本主義はダメと考えて社会主義にシンパシーを持っていました。柄谷行人や浅田彰といった人たちがニューアカデミズムを引っ張っている中、社会主義は基本的に正しいと思えた時代でもあったんですよ。

それが錯覚であることに気づかされたのが、東欧革命です。そして、これはイデオロギー・思想の問題であるとも考えました。当時、自由主義の代表者はハイエク、ポパー、ミーゼスといった人々で、他方の社会主義の代表者はマルクスです。マルクスの伝統は非常に分厚く、オリジナリティあふれる左派の論客がたくさんいました。それに比べて、自由主義を擁護する思想家は非常に少なく、左派の10分の1もいない。そこから、自由主義あるいはリベラリズムをどう思想的・理念的に考えていくかを課題としたのです。

理念の枯渇から国家100年の基礎へ

橋本 本書では、私の自由主義の思想を提示するにあたって、大きく3つの思想を取り上げています。まずはアマルティア・センの「ケイパビリティ」(capability)というアプローチです。これは非常に豊かな理念で、社会の新しい基礎概念になると考えられました。

続くもう一つが、「リバタリアン・パターナリズム」(libertarian paternalism)です。最近はナッジ(nudge)とも言われますが、元々は21世紀はじめに行動経済学と法哲学の新しい模索の中から生まれてきた思想です。代表的な論者はキャス=サンスティーンという法哲学者ですが、基本的には行動経済学をベースにしています。

そして最後に、ウェルビイング(well-being)です。GDPは経済の成長についてのみ語るものですが、私たちが求めているのは経済的な利益だけでなく、もっと実質的な幸福です。それを、ウェルビイングという言葉で一般化する。そして、「ウェルビイングとは何か」を、心理学、倫理学、哲学といった様々な分野を巻き込み、基礎論として展開していく。

これらのケイパビリティ、リバタリアン・パターナリズム、ウェルビイングといった哲学的な問題をしっかりと絡めて議論しないと、社会の大きなビジョンを作ることができないとわかってきました。こうした、同時代の哲学的なトレンドの中から、三つのテーマを体系的に論じることで福祉国家の基礎を提供するのが、本書の大きな特徴です。

若森先生がおっしゃるように、現在の福祉国家論では比較制度分析が主流です。しかし、その背後に理念がないと、福祉国家というのは、どうしても社会主義と自由市場経済のあいだの妥協のシステムに見えてしまう。

今は、社会の理念が枯渇している状態です。与党も野党も、どういう福祉国家がいいのかというビジョンを描けてないし、野党を支える知識人も「新自由主義はダメ」と批判するけれども、国家のビジョンを提供できていない。この状況は深刻で、国家100年の計として、次の100年をどういう理念で引っ張っていくのか。その基礎を、本書は提供しようというのです。

人々の未知の可能性を触発する――「無知」に基づく福祉国家論

若森 本書全体での人間像の根底にあるのは、人間の自身に関する「無知」です。人は、最初から自分がどういうポテンシャル(潜性力)を持っているか知らないし、自分にとって善き生はどういうものなのかについても、予め知らない。この「無知」の定義が本書の出発点にあります。人生の試行錯誤の過程において意図せざる経験をし、また他者と出会うなかで、自分のことについてもだんだんとわかってくる。本書はこの点を強調しています。

人間の自身についての「無知」を基礎にしながら自由の意義を問い、善く生きる(ウェルビイング)とはどういうことかを考察する。これらの問いと絡めながら、福祉国家の構築へと議論を組み立てています。

橋本 先に挙げたセンのケイパビリティでいうと、私はこの概念に着目した上で「潜性的可能性としてのケイパビリティ」(capability as potentiality)という考え方を提示しています。というのは、センのいうケイパビリティは理論的に行き詰まっていて、私が考える潜性的可能性という側面から構築しないと、その考えの一番重要な部分が理解できないだけでなく、欠陥をもつことになるのです。

どういうことかというと、センはケイパビリティを、すでに能力として持っている、「できること」(ableness)という形でしか定義していない。でも、これでは「人は何が幸福なのかわからない」という問題と同様、自分の能力を十分捉えきった概念ではない。そうではなく、ケイパビリティとはむしろポテンシャル(潜性力)として捉えるべきで、自分でまだ気づいていないポテンシャルをいかに引き出すか、と問うべきなのです。

ですが、それに自分で気づいて、自分から引き出すのは難しい。だから他人にお願いして引き出してもらうような配慮をしてもらいたい。そういう、無知の前提に立った上で、その無知に対処するために福祉国家を営むことが必要になる。自分のポテンシャルを自律的に引き出すのではなく、自律した生活よりもすぐれたウェルビイングを求めて、政府に対して自律の代行を求めることができる、と考えます。

では私たちは、自律を超えるウェルビイングの理想を、どのように追求しうるのでしょうか。それは私たちそれぞれにとって、自分のウェルビイングが自生的に生まれるような環境においてである――本書の第5章で提示した、自由の原理である「自生的な善き生」の理論は、こうした政策理念を提供するものとして構想しました。

若森 「自律を超えるウェルビイング」という今のお話の論点、興味深いですね。本書の第2章「福祉国家の哲学的基礎」に、次のような印象的な一文があります:「人は、自己目的の観点から潜勢的可能性を捉えるだけでは、その力能を十分につかみとることはできない」(145頁)。人は生きるに値する人生を送りたいと根源的に欲求している。ただし私たちは、自分自身について配慮するのが苦手であるし、その可能性も孤立していてはわからない。

だから、ウェルビイングには自律を超えた、社会的な文脈が必要になるんですね。私たちには、自分自身に配慮するだけでなく、他者に配慮するようなシステムや社会的な土壌が不可欠である。この点にこそ、福祉国家の積極的な意義や役割があるともいえるわけです。――この点こそ、社会哲学者・橋本努が本書で示した福祉国家の理念の礎となる思考がある、礎といえるでしょうか。

ハイエクとの対決

若森 橋本さんは最初のご著書『自由の論法――ポパー・ミーゼス・ハイエク』(創文社、1994年、Kindle版、2022年)で、ハイエク・ポパー・ミーゼスを取り上げました。本書『自由原理』で「自生的な善き生」という重要概念が登場しますが、橋本さんの最初の著書とはどのような関係に位置しますか。橋本さんとハイエクの距離感といいますか……。

橋本 『自由の論法』を書いたときは、自由主義といってもハイエクとポパーとミーゼスはぜんぜん違うので、それを明らかにすることでもって、ハイエクを相対化しました。それ以前からハイエクのいう「自生的秩序」はおかしいと直感しており、学部生のときの指導教員(鬼塚雄丞先生)ともかなり議論しました。ただそのときは、批判することはできても、それに代わる考え方を出すことはできなかった。

ハイエクにはコスモロジーがありますよね。だから批判はできても、これに代わる新しいコスモロジーをなかなか提案できない。ハイエクが自生的秩序論を書いたのは1970年代ですが、批判者たちはいまだに「新自由主義じゃダメ」というだけで、オルタナティブの思想が出てこない。ハイエクにとらわれている状況を突破しないと新しい経済思想を作れない、と当初から思っていました。

本書では、その対決に際して、4つの人間像(無知なる人間・自生的な多産性・回顧された生・もてなされた生)をもとに「自生的な善き生」の理論を提示しています。詳しくは本書第5章をお読みいただきたいですが、これらは政府が道徳的な人格を支えるためにできること、そして社会的な理念を同時に兼ね備えるものです。

ハイエクにはあまり大きな人間像はなく、「無知な人間」という想定に基づく自生的秩序を前提にしています。ハイエクはどういう道徳的な人格が望ましいのか述べていないけれど、それを盛り込んだ理論を新たに導き出せるのではないか、というのが私の着眼点です。

若森 ハイエクと橋本努との格闘の結果、本書の人間像の議論はハイエクを拡張したものなのか、それとも決定的に批判しようとしたものなのか、いかがですか?

橋本 そのこと自体は本書には書いておらず、以前私は、ハイエクを徹底的に批判した別の小論(「自生的秩序論の解体」)を書いたことがありました。これをさらに展開して、いずれ別の本に収めるつもりです。

本書『自由原理』の人間像という点では、ハイエクともう1人、アンリ・ベルクソンが重要になってきます。ベルクソンは理性的な人間像ではなく、創造的な人間像というものを掲げます。これは「理性的に考えて社会を最適化しよう」ではなく、「想像力・創造性の発揮を促して社会を発展させよう」というもので、ある程度クリエイティブ・クラスに対応する思想といえますが、90年代後半以降のIT産業の勃興と共に、理性的・勤勉な人間よりも、創造的にベンチャーする人間の方が求められるようになってくる。社会全体として創造資本を高めていかなければならない、そういう資本主義の新しい段階に入ったときに生きてくる理念だと思うんですよね。

では、クリエイティブな生をどう支えるか。その一つが、憧れの他者=ロールモデルを模倣するという回路です。どういう人がロールモデルになって語られ、憧れ(aspiration)によって触発されながら自分の生き方を変えていくのか、そういう回路を社会的に増やす必要があるという論点が、私の考える福祉国家としての課題です。

「もてなされた生」が社会をよりよくする

若森 話は変わりますが、本書は教育格差の議論にも活きるのではないか、と思います。生き方のロールモデルについては、ジェンダー・ギャップの問題や論じ方と絡めていろいろと考えさせられるところがあります。

たとえば、「親密圏」でのロールモデルは家父長的なもの以外の選択肢については非常に限られています。他方で、公共圏では従来の(男性主義的な)競争システムや官僚制などの支配システムが主流です。グレーバーのいう「ブルシット・ジョブ」を高評価するシステムのなかで、魅力的なウェルビイングのロールモデルを見つけることは容易ではありません。本書で橋本さんが論じる、互いに配慮し合う「もてなされた生」ともいえないですよね。

教育の役割とは、親密圏の制約から出るというチャンスの提示でもある。アーレント的に言うと、私的領域で閉じ込められ、奪われている(deprived)ところから解放される。そういう意味で、「もてなされた生」にいかに配慮するかは、教育格差をなくすという議論と哲学的な問題として重なるのではないかと思っています。私的領域から解放された、先の公的領域がいかにクリエイティブでありうるか、という点も機会があれば、また、お聞きしたいです。

橋本 この点、本書でいうポテンシャル(潜性力)の概念がカギになると思います。人はそれぞれ生まれ育つ家庭で、早い段階からアイデンティティを持ちますが、同時に自分の中の他のポテンシャルに気づく機会を奪われてしまう。だから教育で、いろんなポテンシャルに気づく機会を提供すべき、となる。

豊かな文脈で育った人は、そこに位置づけられた自我(situated self)のもと、コミュニティの中で生き生きとすることができる。しかしそうした豊かな文脈に恵まれてない人もたくさんいる。だから、その文脈から離れたところで、未知のポテンシャルに気づくことが重要になる。あるいは、別のコミュニティ・新しい文脈の中で「もてなされる」ことが生き方として重要になってくる。教育はまさにこの「もてなされた生」の重要な役割でしょう。

「自由か介入か」ではなく「いかなる介入を正当化すべきか」

若森 ナッジを熟議・民主主義に取り入れているという特徴も指摘しておきたいと思います。「熟議の民主主義」を提起する政治思想史家の宇野重規は、民主主義には熟議が必要である、と論じています。まったくそのとおりなのです。しかし、「熟議の民主主義」が「熟議のための熟議」となってしまっていては、人々は失望してしまう。それに対して橋本さんは、「ナッジが熟議を刺激する」という表現をしています。ナッジそのものが、価値の普遍化や多元主義を超えるというわけではありません。しかし、ナッジを民主主義を活性化する「仕掛け」として組み込めば、自由や福祉国家の理念についての熟議も刺激される可能性がある。政治についても言えることだと思います。

橋本 背景から説明すると、経済思想では「自由市場に任せるか、政府が介入するか」の対立があり、それに対してキャス=サンスティーンはリバタリアン・パターナリズムの立場から、「介入とは自由のために行われる」という、真ん中を取りに行く議論をしました。私はそこから一歩進んで、「どういう自由のための、どういう介入がいいのか、要するにどういうリバタリアン・パターナリズムがいいのか」に焦点を当てています。

というのは、リバタリアン・パターナリズム自体は、「効用が高まりさえすればいい」という社会的厚生主義の立場なので、それ自体では介入の仕方は何でもありの議論になってしまう。ですが、本書でも論じるように、功利は数値で測ることができるものもあるけど、わからないことのほうが多い。それがわからないのであれば、争点とすべきはやはり価値なのです。

その価値にはいろいろな議論があり、熟議もその一つですが、一番重要なのは、私たちが市民社会を築くにあたって、「理性的に考える時間を増やすのか、それとも創造的になる時間を増やすのか」ということです。これまでの議論の考え方とは「みんなが理性的に熟慮すれば、もっといい社会になるだろう」という発想です。これは、自分が無知であることを知り、無知を理性的に克服するということですが、私は必ずしもそうとは思わない。

もちろん議論の過程で他人の意見も聞くわけだから、自分の無知はある程度相対化されます。でもそれは、その他人が自分より知識があればの話ですし、議論したってわからないということも十分あり得る。

例えば、将棋を指す人と解説する人を考えてみましょう。将棋を指す人には、理性的・反省的に考えていると却(かえ)って前に進めないことがあります。むしろ、ある種のクリエイティブな直感を頼って、それを切り開いていくような行為でもって前に進んでいく。これは、ハンナ・アーレントのいう活動(action)ですが、それは理性的で自律的な営みとしての仕事(work)とは違う。自分がどうしたらいいのかわからないなりに前に進んでいくことができる、善き生とはそうした活動(action)の形でありうる、といえるのです。

ある「一手」を指すための直感は、議論の中では鍛えられないんですよね。もちろん、なぜその一手がいいのか、議論し、やはりいい手だったと納得することはできるけれど、「じゃあ君、指してみてください」って言われても、熟議でそれが身につくわけではないですよね。スポーツや音楽、演劇、あるいは多くの場面で、熟議しても身につかない能力はたくさんあります。私が本書で論じているモデルは、こうした理性を超えるような能力を引き出すことを、社会的にどう奨励するかという話です。

その時、ある人たちをロールモデルにして憧れを抱く。その人になれるわけではないけれども、自分の中のロールモデルを増やしていく、そういうあり方が、一つの人的な資本形成になる。これが私が考える介入の正当化、つまりロールモデルを増やす仕方で活動的な生(vita activa)を支援し、福祉国家を作っていくべきというものです。

若森 将棋の例でおっしゃった「指す」というのは、政治家でいうならば法案であり、政策や制度ですよね。熟議のための熟議に終始してしまい、制度や政策、そして日常生活が変わらないこと(悪化していく状態)に、多くの人がいらだって、言葉の力が失われていく。民主主義や自由という理念の力も弱まっています。

ナッジは思想を持たない(⁉)し、すぐに役に立つし便利である。なんといっても、本人が知らないうちに背中をそっと押してくれるべく、判断材料を予め形にいくつかして準備してくれているから、選びやすいし行動しやすい。こんな選択肢があったのか、ということが大いにある。橋本さんの著書は、ナッジを利用したアーキテクチャを作ることで、硬直した官僚制的思考を柔らかくし、政策や制度の幅や可動域を増やせる可能性を示しています。ナッジそのものを礼賛するのではなく、橋本さんの「自由原理」と「福祉国家の来るべき理念」の枠組みでナッジを活かしている。本書の魅力はここにもあると思います。

ケアの倫理を社会の根幹に

若森 最後に、「ケアの倫理」との関連をうかがいます。現在、『ケア宣言』(ケア・コレクティヴ、大月書店、2021年)をはじめとする著作の刊行が相次ぎ、ケアを中心にした社会をどう作っていけばいいかという魅力的な議論が進んでいます(『世界』2022年1月号も参照)。

女性は社会的再生産をはじめ「ケア」の領域を押し付けられ、男性的・自律的なロールモデルの「サポート」をさせられてきました。ケアがなければ、社会的再生産の活動が維持されなければ、人間の社会は一時たりとも保つことができないのに、ケアや社会的再生産の位置は、これまでの資本主義のなかでは極めて周辺的な領域に置かれてきたのです。そこでは、構造的な搾取や暴力や不平等が負わされてきました。

「ケアの倫理」を提起するフェミニズムは、「女性の権利」を「従来の男性の権利」にいかに近づけ、再分配を求めるかという権利論的なものとは、一線を画しているように思います。女性が従来の男性的な権利やロールモデルを求めたいとは根源的には思ってないと捉える「ケアの倫理」のフェミニズムは、これまでの男性的な生き方やロールモデルそのものの見直しを、提起しています。生きづらくない、生きるに値する人生というのを、すべての人がどうやって享受できるかについて根本的に考えて、社会を変える資本主義批判を提起しています。

人間の「脆弱性」を人間観の中心に据えた「ケアの倫理」は、橋本さんの『自由原理』の各所に埋め込まれた、「ケア」や「配慮」という用語とリンクするように思います。この点、いかがでしょうか。

橋本 私の母はいま認知症で、記憶がなくなりつつあるんです。そうすると、自分の人生が良かったのか悪かったのか、そういうことを考えようにも、本人はやがてたどることができなくなるのではないか。私の理論のなかで「回顧された生」という理念があるのですが、これは現在の効用よりも、過去を回顧した場合の効用のほうが重要、という議論です。まさに己の人生をどう捉え返したかが重要なになるんですが、しかしそれは本人だけでなく、他人が捉え返す視点でもありうるという議論になっています。ケアしてくれる人がその人の過去を知っている、物語的に受け止めてくれている。そこに善き生の可能性があると思うのです。

私が本書で理論的・哲学的に一番苦労したのは、効用(utility)の概念からウェルビイングの概念を導くところで、それだけでも3ヶ月を費やしました。実はこれまで、効用についての哲学はほとんど展開されてきませんでした。近代経済学の哲学、経済思想では、日本だと清水幾太郎が『倫理学ノート』(岩波書店、1972年、講談社学術文庫、2000年)で少し紹介した程度で、それも途中で考察が中断しているんです。そしてその後、「効用とは何か」を引き受けた現代的な理論はほとんどなかった。

私はそこに取り組みました。そして、「効用と異なり、ウェルビイングは第三者が判断する/三人称になっている」という結論に至りました。ウェルビイングには「他者が誰かを配慮する」という考え方が入ってくるんですね。社会を回していく一番の根本原理として、ウェルビイングには他者を配慮(ケア)することが据えられている。そこからいろいろなことが理論的に派生していく。

これまでリベラリズムは権利・義務・正義という、大文字の男性的な理念で語られてきたんですが、本書の理論ではこれらの理念を用いず、別の観点から論じている。それが、ケアの倫理をはじめ様々な可能性を開いていると思っています。以前、社会思想史学会で、障害者のケアの倫理の視点からこの本の意義を評価してくださるコメントを頂きました。私自身はまだそこまで突き詰めていませんが、そういう可能性をもつ理論になっているかもしれません。

若森 おっしゃる点が橋本さんの独創性であり、ケアの倫理を中心に民主主義を考えることを普遍化する土壌を作っていると思います。これまでのロールモデルや、コミュニティの中である程度完結したアイデンティティが有効でなくなっている状況のなかで、それにもかかわらず私たちがよりよく生きるにはどうしたらいいか――そうした実存的な不安に対して、本書は人が互いにケアし合うという関係性を礎にした、理性的なモデルとは異なる思想・理念を打ち出している。生きるための活力となる理念として、こうした現代の課題に誠実に応えている。そう思います。

プロフィール

若森みどり経済思想史・政治経済思想

大阪市立大学経済学部卒、東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。博士(経済学)。現在、大阪公立大学 大学院経済学研究科・経済学部教授。専門は経済思想史・政治経済思想。著書に、『カール・ポランニーの経済学入門――ポスト新自由主義時代の思想』(平凡社新書)、『カール・ポランニー──市場社会・民主主義・人間の自由』(NTT出版)、論文に、「「ケアの倫理」と擬制商品の脱商品化──資本主義における社会的再生産の位置を問う」(『関西大学 経済論集』71(4)2022年3月)、共編訳書に、K. ポランニー『市場社会と人間の自由』(大月書店)、G.デイル『カール・ポランニー伝』(平凡社)など。

この執筆者の記事

橋本努社会哲学

1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学経済学研究科教授。この間、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は経済思想、社会哲学。著作に『自由の論法』(創文社)、『社会科学の人間学』(勁草書房)、『帝国の条件』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)、『自由の社会学』(NTT出版)、『ロスト近代』(弘文堂)、『学問の技法』(ちくま新書)、編著に『現代の経済思想』(勁草書房)、『日本マックス・ウェーバー論争』、『オーストリア学派の経済学』(日本評論社)、共著に『ナショナリズムとグローバリズム』(新曜社)、など。

この執筆者の記事