2022.08.31

日本人とカルト――橋爪大三郎氏インタビュー

服部美咲 フリーライター

社会

今、政治と宗教の関係が問われている。

政権与党の政治家が、次々と特定の宗教団体との関係を明らかにした。霊感商法などの活動が問題視される団体である。野党は、これを追究していたはずだった。しかし、野党の政治家もまた、同じ宗教団体と関係を持っていたことが次々と明らかになった。政治家を批判する報道が続くものの、何が問題なのかははっきりしない。

政治家が特定の宗教団体と関係することの何が問題なのか。その本質は曖昧なままである。

過度な献金を求めるなど、反社会的な活動を行なう宗教団体をカルトと呼ぶことがある。またカルトは、宗教の初期形態を指すともいう。

宗教は、人間にとって、行動を決める考え方そのものである。

日本人の多くは特定の宗教を信仰していない。それにもかかわらず、なぜカルトは日本で力を持ち続けているのだろうか。

今考えるべきことは、特定の政治家と特定の宗教団体との特定の関係性に留まらない。日本人と宗教、宗教とカルト、そして宗教と民主主義の関係を見定める必要がある。

宗教社会学者の橋爪大三郎氏(東京工業大学名誉教授)に伺った。(聞き手・構成 / 服部美咲)

カルトは病原性の高いウイルスである

――宗教とカルトの違いはなんでしょうか。

宗教は考え方です。考え方は人から人へと伝染する、ウイルスみたいなものです。ウイルスは伝染します。しかし、ウイルスが必ずしも悪さをするとは限りません。ウイルスの中に、病原性の高いものがあります。病原性の高いウイルスは、感染した結果、当人や周囲の人によからぬ状況を引き起こす。これがカルトです。

よからぬ状況とは何か。実生活に害を及ぼすことです。

人間に、実生活と宗教があるとします。カルトは、宗教さえあればいい、実生活は存在しなくてもいい、と言います。カルトに限らず、宗教は大体そういうことを言うものです。しかし実際には、宗教は実生活を尊重しています。

たとえば、税金。

ユダヤ教やキリスト教には、十分の一税というものがあります。十分の一を宗教組織のために納めなさい。これはつまり、十分の九は手元において、実生活のために使いなさい、という意味です。宗教のために使うお金に上限があるんですね。だから、宗教と実生活を調和的に両立できる。これはカルトではない。

カルトは無制限に求めます。寄付をすればするほど偉い、実生活を全部捨てて、全財産を投げ打って教団に加わると良いことがある、と言います。そんなことをすれば、本人や家族の実生活はたちゆきません。それに、皆が出家して普通の仕事をしなくなれば、社会も回らなくなってしまいます。もちろん、少数の専従の宗教者がいて、修行だけをしていてもいい。けれども、それを支える人がいて、社会を回さなければならない。

日本の平安時代の仏教には、専業の僧侶がいました。彼らは出家して、家庭を持たず、お寺に籠ってずっと修行していました。それだけを見ると、実生活を犠牲にしていて、カルトみたいですね。しかし、彼らを支える一般の人びとがいて、人数のバランスがとれている。社会をちゃんと回している。だから平安時代の仏教はカルトではありません。

カルトは社会を回すことを考えない。教団さえ良ければいい、という組織原理を持っています。社会の資源を吸収して、ぶくぶくと肥え太っていきます。カルトのこの性質は、がん細胞にも似ています。がん細胞は、がん細胞自身さえ良ければいい、という論理でもって、一般の臓器に転移して、養分を吸収して、自己増殖していく。最終的には身体そのものが生命活動を維持できなくなって、がん細胞もろとも死んでしまう。カルトはがんであるとも言える。

――カルトは、病原性の高いウイルスであり、がんでもある。本人や周囲の実生活に有害な影響を及ぼし、社会と共存できない。つまり反社会的なんですね。「カルト」はもともとネガティヴな言葉ではなかったとも聞きます。

カルトというのは、もともとはキリスト教の考え方です。

キリスト教には教会があります。教会にはカトリックがあって、オーソドックスがあって、カトリックから飛び出したプロテスタントがあって、プロテスタントにはいろんなグループがあって、それぞれが社会と共存しています。社会と共存できるように考え方を調整しているわけです。

そこに、普通のキリスト教から逸脱したもの、いわば「プッツン系」が出てくる。この、「プッツン系」を、もともとはカルトと呼んでいました。

「プッツン系」は、普通のキリスト教ならば言わないことを言うのが特徴です。

たとえば、「私がキリストの生まれ変わりです」、あるいは「何月何日に世界が終わります」。そして「私たちのグループに入ると救われるが、私たちのグループに入らない者は悪魔あるいは反キリストです」。3つ目については、これに近いことを言うクリスチャンは意外に多い。ですから、カルトとカルトでないものの境目は曖昧ですね。普通のキリスト教のおしえから逸脱しているかどうかだけでは、カルトかどうかを判断できないかもしれない。

でも、そのプッツン系が反社会的かどうかということを考えれば、判断ができる。

実生活が立ちいかなくなってもいいからどんどん献金しなさい、実生活を捨てて教団に加わりなさい、他のグループは敵です、教団に入らないものは敵です、そういうことを言っているグループは反社会性が高いでしょう。反社会性があるから、これはカルトです。反社会的かどうかならば、キリスト教に限らず、どんな宗教でも同じように考えることができます。

カルトから宗教へ

――カルトについて、国語辞典(新明解国語辞典, 三省堂)には「狂信的な信者によって組織されている、小規模な宗教団体」であるとも書いてあります。団体の規模によってもカルトかどうかは変化するのでしょうか。

最初はカルトとして出発するけれど、しばらくすると反社会性がなくなっていって、最終的にはカルトではなくなる、という現象があります。ウイルスでいえば、病原性がだんだんなくなっていくことがあるんですね。

たとえば、モルモン教というキリスト教系の新興宗教があります。

モルモン教は、19世紀のはじめに、ジョセフ・スミスがつくった宗教です。彼は農民の息子で、学もない。でもキリスト教に適性があったのか、神秘体験をします。ある日天使に会って、「裏山を掘るといいものが出てくる」と教えられ、裏山を掘ったら金の板が出てきた。古代文明のモルモンが書き残した「モルモンの書」だという。

モルモンの書とはどういうものかというと、イエス・キリストが死んだ後、イスラエルから一群の人びとがアメリカ大陸に流れてきて、文明が栄えた。だけど1000年くらいして文明が滅びることになった。滅びちゃいけないということで、書物を書きました。そういう内容です。これが古代文明の言葉で書いてある。

イエス・キリストが復活して現れ、教えを述べているので、イエス・キリストの言葉がたくさん残っているわけです。これは翻訳しなくちゃいけない、ということで、ジョセフ・スミスは奥さんや友達と一緒に翻訳するわけですね。都合のいいことに、翻訳のヒントも「モルモンの書」と一緒に埋まっていた。そのヒントを見て、英語に翻訳して出版した。するともう一度天使がやってきて、原文はもう用が済んだから私が持って帰ります、と持って帰っちゃった。だから原文は存在しない。翻訳された英語の本しかない。

なかなかあやしくはある。けれどもそれでモルモン教が始まった。モルモン教には、旧約聖書と新約聖書、モルモンの書、と三冊も聖書があります。これは普通のキリスト教からは逸脱していますね。「プッツン系」です。

モルモン教はどういうものかというと、まず古代イスラエルの精神で生活をしましょう、という。天使に会ったジョセフ・スミスは預言者です、古代イスラエルで、預言者には奥さんが大勢いました、だからジョセフ・スミスには奥さんが大勢いることにします、幹部も皆大勢奥さんがいていいことにします。これは逸脱どころかキリスト教の道徳に反します。だからどこに行っても追い払われる。追い払われて、石を投げられる。石を投げられると、今度は武装をする。民兵をつくる。反社会性があって、この時点のモルモン教はカルトですね。

武装した若者たちの集団がやってきて近所に住んだら、住民との間でトラブルが起こるでしょう。それで揉めているうちに、モルモン教を批判する記事を阻止しようといって、新聞社を襲撃する。それでたくさんの信徒が逮捕されて、ジョセフ・スミスも逮捕されました。繋がれている牢屋に、人びとが押しかけて、ジョセフ・スミスと彼の弟を射殺してしまった。

リーダーが殺されたので、普通はそこでモルモン教は終わりです。ところがブリガム・ヤングという男が現れて、後継者になった。ブリガム・ヤングは皆を率いて、今でいうユタ州のところまで行って、ここに新しいエルサレムを作ります、とモルモン教の国を作ってしまった。それが今のソルトレイクシティです。ソルトレイク(塩の湖)という湖があって、これはエルサレムのデッドシー(死海)と同じだ、と。エルサレムには神殿があるからといって神殿も作った。地名も全部エルサレムの地名にした。後にモルモン教徒がユタ州に集まった。

さて、ユタ州がアメリカ合衆国に加盟するかどうかという際に、モルモン教がキリスト教かどうかという点が問題になりました。特に奥さんが大勢いるという点が争点になった。合衆国側と話し合って、一夫多妻をやめますということで折り合って、ユタ州は合衆国に加入することになりました。モルモン教には他にもいろいろ特殊なライフスタイルがあって、コーヒーや紅茶、コーラも飲まないとか、髪型や服装にもいろいろな決まりがある。考え方もライフスタイルも正統のキリスト教ではない。それでも、彼らは真面目に働いて、税金を払って、信仰深くて、アメリカの理念に共鳴していて、反社会的なところは特にない。反社会的ではないので、もうモルモン教はカルトではない。

日本人と宗教

――日本人にとって、宗教とはどのようなものなのでしょうか。

日本人にとって、最も影響が大きい宗教は仏教です。

仏教はとても完成度の高い宗教です。これが中国から、漢字と一緒に入ってきた。しかし、中国語で表現されていて、インドの考え方で、抽象的な哲学で、当時の日本社会に生きる一般の人の感覚とは非常に距離があった。仏教を好意的に受け入れたのは、字の読み書きができて、外国の事情にも詳しくて、仏教の考え方が世界標準だと感じる、知的に優れた一部の上流階級の人びとだけです。

仏教を信仰するにはお金がかかります。仏像をつくったりお寺を建てたりするから。そして僧侶は通常働きません。国が仏教を進めるにしても、財源はどうするかという問題が出てくる。皆から税金を取ろう、ということになります。

国が仏教を進めた場合、受益者は上流階級の人びとや僧侶などのごく限られた内輪の人たちです。国分寺は、今でいえばタワーマンションですね。それが奈良とかあちこちに建ってしまう。建築費も維持費もかかる。誰が負担しているかっていうと日本中の農民です。日本の圧倒的多数の人びとにとっては、仏教は税金が高くなるだけのものです。迷惑この上ない。日本の農民は昔から村の神々を信じていて、お祭りをして、交流もできている。今さら仏様と交流する必要はない。

さらに、そのころから荘園制が始まりました。荘園は貴族かお寺が所有していて、農民から税金をとります。税金は京都にいる貴族か、お寺にいく。貴族はお寺に寄進するので、結局のところお寺が皆とっていってしまう。やがて日本中の農地が荘園になっていく。農民にとっては、仏教は不幸の原因でしかない。

これが日本人にとっての宗教の原体験です。

――仏教は、一部の上流階級だけが信仰しているもので、ほとんどの日本人にとっては実生活を脅かすだけの異物だったのですね。

その仏教がやがて革新を迎えます。武士が出てきたからです。

武士と貴族の違いは何か。

貴族はセレブです。京都にいて、栄耀栄華な暮らしをして、歌を詠んで、ほとんど夢の中に生きている。民衆のことなんかどうでもいい。

武士は、荘園のガードマンです。基本的には普段地元にいて、貴族に雇われている。貴族に憧れはあるけれども、目の前で地元の農民の生活を見ている。だから、貴族が日本社会の現実と乖離していることもわかる。武士は現実的なんです。

さて、武士が出てきて、仏教に革新が起こります。貴族の仏教は、農民の実生活との共存なんて考えていない。自分たちさえ良ければいい。だから農民にとって仏教は迷惑な異物でしかなかった。

貴族の仏教では、武士も地位を得られない。仏教には殺生戒というのがあって、人を殺してはいけない。武士は人を殺すでしょう。ですから武士は仏教の原理原則から遠い、字もろくに読めない、獰猛なケモノである、ということにされてしまう。

でも実際に農村の経済や政治を回しているのは武士です。それで武士は思う。貴族の仏教なんてやっていられない、何か代わるものはないか、と。

そこで発見したのが、禅です。

禅宗というのは、字は読めなくていい、座禅だけすればいい。あるいは座禅もしなくていい。何かに一所懸命取り組めば、それが仏の道である。そういうおしえです。農業を一所懸命にやってもいい。戦を一所懸命にやってもいい。だから武士の日常と禅は相性がいい。

それで、鎌倉仏教というものができました。貴族の仏教は、天台宗も真言宗も、字が読めなければいけないし、たくさん勉強しなければいけない。でも禅宗は違う。平安仏教からは逸脱しているんですが、武士には人気を博します。

それから、浄土宗。これも貴族の仏教からは逸脱しています。経典は読まなくていい、「南無阿弥陀仏」と言いさえすればいい。これなら農民でもできます。農民のための仏教です。浄土宗、その後の浄土真宗は農民の間に広まる。

それから、法華宗。後にここから日蓮宗も出てくる。法華宗は浄土宗に対抗して、「南無妙法蓮華経」といえば法華経を読んだのと同じ功徳がある。これも農民の間に広まります。

禅宗、浄土宗、法華宗。鎌倉仏教のうち、この三つは鎌倉以降、一般の民衆の間にどんどん広がっていきます。

鎌倉仏教はすべて、日本に入ってきた仏教からは逸脱したものです。

でも、実生活を犠牲にしなくていい。お寺を作らないし、出家もしなくていい。つまり税金が高くならないから。武士や農民、つまり荘園で働く人びとが鎌倉仏教に改宗していく。荘園からの収入が減り、貴族が貧しくなって、力を失っていきます。代わりに、武士が力を得て、実質的に社会を回すようになる。鎌倉仏教は本来の仏教からは逸脱していますが、一般の人びとの実生活と調和的に共存している。社会を回している。反社会的ではない。したがってカルトではない。

日本のカルトの歴史

――キリスト教があまり広まっていない日本の場合、カルトはどのように位置づけられるのでしょうか。

日本では、幕末維新の頃にたくさん新興宗教ができました。その中で、戦前は神道系が特に警戒されていました。その理由は、当時の天皇制にあります。

古事記に、天皇が日本の統治権者であるのは、天照大御神の子孫だからだ、と書いてあります。江戸時代、本居宣長や平田篤胤らが研究して、これこそが日本の国家の本質である、と考えました。天皇を中心にまとまるのが日本国の正しい姿である。この考え方を採用して、明治維新を実行し、大日本帝国憲法はつくられた。したがって、この考え方が揺らぐと、日本国の根幹が揺らいでしまう。

ところが、神道系新興宗教は、私はナントカノカミと連絡がとれます、という。金光教や黒住教や天理教や大本教など、それぞれが天照大御神じゃない神々と連絡がついている。

さて、ここには大きな問題がある。

天照大御神は高天原にいて、たくさんの神々がいる。神々は天照大御神と対等の関係であって、子分ではない。子分ではないので、独自の活動をしていい。それぞれの仕事もあって、たとえば天照大御神は太陽だから太陽の仕事はやるけれども、それ以外の職務は他の神々が分担している。だから、他の神々を否定することはできません。

ここは一神教、キリスト教との違いです。

キリスト教には唯一の神がいて、イエス・キリストが神の息子です。それ以外の神や権威が出てくれば、それは異教なので否定して弾圧していい。

しかし、神道では天照大御神以外の神々を否定することができません。実際に日本全国の神社を見てみると、天照大御神はむしろわずかで、それ以外の神々が山ほどいますね。これが日本の信仰の姿です。したがって、他の神々を祀る神道系新興宗教の存在そのものを否定することはできません。しかし、その教義が日本国の政策と矛盾する場合がある。これは扱いに困ります。そこで、反社会的であると認定して弾圧することにする。反社会的、つまりカルトと認定してしまう。日本では、政府がカルトかどうかを認定するというやり方は、江戸時代からありました。邪宗門といって、カルトをリストアップしています。そこでは、キリスト教もキリシタンといってカルトに認定されています。

旧統一教会はなぜ日本で流行するのか

――世界平和統一家庭連合(旧統一教会)のような、キリスト教系の新興宗教が流行する背景にはどのような理由があるのでしょうか。

旧統一教会はカルトです。しかも病原性が高い。実生活に害を及ぼします。なぜ日本で統一教会みたいなものが流行るかといえば、キリスト教についての基礎教養が足りないからです。

キリスト教の基礎教養があれば、カルトかどうかはすぐに判別することができます。タンパク質でいえばアミノ酸配列が違うから。

たとえば、アメリカにはキリスト教が広まっていて、キリスト教の基礎教養もある。そこにモルモン教が出てくると、普通の人はまず反発します。モルモンの書とかモルモン文明とか、そもそもの言っていることであるとかが、普通のキリスト教とは全然違うから。それでもアメリカでモルモン教がある程度広がるのはなぜかといえば、普通のキリスト教の教会に不全感を持っている人が一定の割合でいて、そういう人を仲間として迎えるからです。モルモン教にきて、はじめて私は生きた心地がしましたという人が、普通のキリスト教の中から不断に生み出されています。そういう人を集めて住み分けていく。

日本の場合、そもそもキリスト教があまり広まっていませんので、キリスト教と相性の良い人がキリスト教系新興宗教に触れた場合、普通のキリスト教がカバーできる部分に魅力を感じる、ということがあります。その上キリスト教の基礎教養がなければ、自分が魅力を感じるのがキリスト教なのか、キリスト教系の新興宗教なのかも判別できません。実は普通のキリスト教の考え方に魅力を感じていても、旧統一教会に魅力を感じていると勘違いしてしまうこともあるでしょう。

韓国にはキリスト教が広まっています。普通の人のキリスト教についての基礎教養はかなりある。ところが、韓国にはキリスト教系新興宗教がかなり多い。旧統一教会は、文鮮明がイエス・キリストの生まれ変わりである、という典型的なプッツン系です。これが韓国で始まってそれなりに流行る理由としては、次のようなことが考えられます。

まず、キリスト教が社会に入ってくるには、それなりの前提があります。韓国は父系社会です。父と子の関係、祖先との関係、そのなかで団結を確認して安心する、という歴史と伝統がある。その歴史と伝統はもともと儒教と結びついていました。儒教がだんだん下火になって、社会が都市化していくと、心の中に穴があいたような気持ちになる。すると、どこかに父親のイメージを求めるようになる。キリスト教には天の父がいて、その子のイエス・キリストがいる。父系社会にキリスト教はおさまりがいいんです。

翻って日本は母系社会です。父親のイメージをあまり必要としていない。キリスト教の出番はあまりありません。それなのに、旧統一教会のようなカルトがなぜ日本にはいってくるか。

まず、旧統一教会がカルトだと判別できない。キリスト教の基礎教養が足りないからですね。だから、日本のキリスト教の力が弱いということ挙げられる。そして最後に、旧統一教会が政治と結びついたからです。

――旧統一教会のようなカルトが政治と関わることには、どのような問題があるのでしょうか。

宗教団体には、お金が一方的に集まります。なんにも生産していないのに、お金だけはどんどん集まる。無制限に献金を募るカルトのしていることは、詐欺に近い。本当の詐欺の場合、少なくともリーダーには、詐欺をしているという自覚がある。だけどカルトの場合、詐欺をしているという自覚がない可能性がある。むしろ、いいことをしているとすら思っているかもしれない。

いいことをして集めたお金を政治家に渡して、自由に使ってください、選挙のときにも手伝いますよ、そして、その代わりに、カルトじゃないことにしてください。しかしつまりそれは、病原性があるウイルスが蔓延するのに、見てみぬふりをしてください、ということです。

政治家がそういう取引きに無自覚に乗ってしまうのはなぜか。

まず、日本の政治家に、宗教についての教養がなさすぎること。

第二に、民主主義についての理解がなさすぎること。

民主主義の基本は、アメリカンデモクラシーです。アメリカンデモクラシーの基本は宗教と政治の関係にあります。

最後にその話をしましょう。

民主主義の基本は宗教と政治の関係にある

アメリカは、ピューリタンが作ったことになっている。

アメリカ大陸のプリマスに、ピルグリム・ファーザーズが上陸した。彼らはイングランドの普通の農民ですが、ピューリタンになった。

ピューリタンというのは、自分たちはピュアだが、他の人たちはピュアじゃない、という考え方です。

どうピュアじゃないか。イングランド国教会が、イングランドでは唯一合法な教会ということになって、みんなこれに入らなきゃいけないんだけれど、実際にはいろんな人がいるわけです。宗教なんかどうでもいいと思っている人もいるし、ビジネスのために教会に入らなければいけないから入る人もいる。真剣にカルヴァンの考え方をもって信仰している人なんてほんの一握りでした。ピューリタンとしては、私たちのようなピュアな人間が、このままピュアではない教会にいていいんだろうか、と悩むわけです。こんな国ではとても私たちの信仰は守れない。ピューリタン革命というのもあるけれど、ピューリタンの考え方で政治革命をするのは大変なことです。そこで国を出て、自分たちの理想の国をつくろうというピューリタンがいた。

彼らはまずオランダに行きました。すると、まずオランダ人はオランダ語を話していて、英語が通じない。おまけにオランダの農地はオランダ人が全部持っていて、外国人には売ってくれない。オランダでは生きていけないということがわかった。

しかし、イングランドに戻ろうにも、もう家財を整理して出てきてしまって、今さら戻るわけにもいかない。英語が通じて、農地が確保できて、彼らが行ける場所、となると、もうアメリカ大陸しかない。そこで、なけなしの金をはたいて、小さな船に乗って、100人ほどの家族づれがアメリカ大陸に向かった。これが、ピルグリム・ファーザーズです。

ピルグリム・ファーザーズは、イングランドを出たときには、生活のすべてを宗教に捧げてきた。したがって、ほぼカルトです。

アメリカ大陸にわたって、教会を作って、町や村を作って、農業もして、家族もある。こうなると、カルトではありません。反社会的どころか、社会そのものです。

ピルグリム・ファーザーズの建国の理念は、バイブルコモンウェルス(聖書共和国)をつくること。聖書を読み、信仰を持ち、信仰を同じくして神に受け入れられた人たちが、ピューリタンとして一緒に暮らすことです。

さて、ではアメリカ大陸にいたのがピューリタンだけかといえば、そんなことは全然ない。まず、今のワシントンD.C.のすぐそばに、ヴァージニア植民地というのがありました。ここはイングランドの直轄領で、教会はイングランド国教会です。あとでニューヨーク州になるニューネーデルラント、ここはオランダの植民地で、ここはオランダの改革派、つまりカルヴァン派ではあるのですが、オランダの教会です。それからメリーランド州、ここはカトリック。さらに後からクェーカー教徒がやってきます。クェーカーはピューリタンととても仲が悪くて、ペンシルバニア州に行きます。ペンシルバニア州にはほかにもいろいろなプロテスタントの人びとが行きます。

アメリカ大陸には、ピューリタン以外にも、いろいろな宗派、いろいろな教会がありました。

やがてアメリカはイングランドから独立して、連邦政府をつくることになりました。

もともとピューリタンは、教会のためにアメリカ大陸に渡って、社会をつくったのでした。しかし、いろいろな宗派があって、州ごと町ごとに教会が違うという現実がある。

そこで、教会はばらばらでいいです、でも、連邦政府は、特定の教会に肩入れをしないようにしましょう、ということにした。アメリカ合衆国憲法には、連邦政府はestablished churchを定めません、と書いてある。日本人はestablished churchを「国教」と訳すんですが、そう訳さない方が正しい。

established churchは、政府が特定の教会だけに税金を使って維持管理をする、という考え方です。

税金は全員が払うものでしょう。その税金を特定の教会に注ぎ込むと、それ以外の教会との不平等が生まれます。すると信仰の自由が脅かされます。信仰の自由を守るために、政府はどの教会も平等に扱ってください、どの教会への信仰を選び取るかは、市民一人ひとりが自分自身で決めます、これが、合衆国憲法に書かれた政府と教会の分離、すなわち政教分離の原則です。これはアメリカ合衆国憲法で初めて確立しました。

たとえばヨーロッパはこうなっていません。ドイツは政府がルター派の教会に税金を使っている。イギリス国教会はイングランドの政府が税金で運営している。フランスにはかつてカトリックしかいなかったんだけれども、フランス革命のときにカトリック教会の資産を没収して、国に宗教は事実上ないといことにした。啓蒙思想というのがフランス人の考え方で、理性と哲学があればいいです、という。「自由・平等・博愛」というのは宗教の代わりですね。スペインやポルトガル、イタリアはカトリックです。税金は使っていないかもしれないけれど、教会の選択肢はカトリックしかない。

政教分離の原則は、信教の自由と同じコインの表裏です。

――日本で、政教分離と信教の自由について、正しい理解がされていると言えるでしょうか。

日本国憲法は、アメリカ合衆国憲法を真似たものですから、政教分離と信教の自由は憲法の原則になっています。でも、誰もそのロジックを理解していません。まず、義務教育でこれをきちんと教えていません。大学でも教えないし、テレビや新聞もわかっていないから報じない。教科書には書いてあるかもしれないけれど、教える側がその中身をちゃんと理解していません。

すると、どういうことになるか。憲法の原則、すなわち民主主義の原則に照らして、旧統一教会をどう考えたらいいか、創価学会はどうか、日本会議はどうか、靖国神社はどうか、あるいは神社本庁がどうか、そういうことについて、素人考えばかりが渦を巻いて、国民が迷ってしまうんです。だから政治家が特定の宗教団体の力を政治力に転換して、政治力になるならいいかとそれに無自覚でいられてしまう。これは、政教分離や信教の自由、つまり民主主義とはずいぶん距離がある状況だと思います。

アメリカの場合、いろいろな教会がたくさんあって、一人ひとりが別々に信仰を持っています。それなのに、どうして選挙をして民主主義の政治が成り立つのかといえば、キリスト教には聖霊という考え方があるからです。

キリスト教の普通の原則からいうと、聖霊というのは、父なる神とイエス・キリストから出て、人びとの中に入ってくるものです。イエス・キリストが現れて、十字架で死んで復活したけれども、天に昇ってしまって、今人びとの目の前にはいない。目の前にいないのに、一人ひとりが神と連絡がとれる。どうやって連絡をとるかというと、聖霊が飛び回っていて、祈ると、その人の中に聖霊がおりてくるんです。一人ひとりがそれぞれの聖霊と相談して、正しい行動を考える。

人間は皆罪深いから、誰がリーダーになっても何かしら欠点はある。でも大勢の候補者の中で、誰がリーダーになると神様は考えていますか、と一人ひとりがそれぞれ聖霊に祈る。聖霊を聞いて投票行動を決めるのは、一人ひとりの責任です。

教会のリーダーは聖霊を代表できません。イエス・キリスト(=神=聖霊)と私、この2者の間に誰であっても入ってこられない。これが、アメリカの民主主義の前提です。だから教会を買収することはできないし、組織票というものも存在できない。

ところが、日本の選挙はこうではない。地域や利益集団や労働組合ごとに、まとまってこの候補者に投票しましょう。これが日本のムラ社会の伝統ですね。しかし、これはアメリカ合衆国憲法の精神、日本国憲法の精神に反します。すなわち民主主義の原則に反しています。宗教の問題かどうかはともかく、民主主義が機能するには道遠し、ですね。

一人ひとりには信教の自由があるので、どの宗教を信仰しても自由です。それと同時に、一人ひとりの投票行動は自由でなければいけない。だから、宗教団体が団体としてどの候補者を支援するかを決めて信徒に説明して、その投票行動を左右するというのは、違法行為ではなくとも、憲法の精神に反します。そして、宗教団体の当事者能力が問われる現象です。そういう宗教団体の信徒に対する拘束力を利用して、政治家が政治活動を行うというのも、憲法の精神に反します。つまり、民主主義の精神に反します。

――2022年7月、安倍晋三元首相が銃撃されるというテロ事件が起きました。事件の犯人の供述から、自民党と旧統一教会との関わりがクローズアップされています。この状況が、テロリストの思惑通りになってしまっているのではないかという懸念の声があります。

政教分離と信教の自由は、民主主義の原則です。

自分たちの生きる社会の根幹をなす憲法の成り立ちや民主主義について、テロが起きるまで考えてこなかったことを、むしろ深く反省すべきでしょう。

テロがなくても考えるというのが本来あるべき姿です。不幸にもテロは起きてしまったけれども、日本の民主主義が一歩でも良い方向に進むように、日本人の一人ひとりが真剣に考えることが大切です。

プロフィール

服部美咲フリーライター

慶應義塾大学卒。ライター。2018年からはsynodos「福島レポート」(http://fukushima-report.jp/)で、東京電力福島第一原子力発電所事故後の福島の状況についての取材・執筆活動を行う。2021年に著書『東京電力福島第一原発事故から10年の知見 復興する福島の科学と倫理』(丸善出版)を刊行。

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