2023.01.18

私たちはいかにして新型コロナウイルス感染症と共存していくか――「ウィズコロナ」社会における受容と反省について

鈴木基 感染症疫学、国際保健学

社会

はじめに

2020年3月に世界保健機関が、新型コロナウイルス感染症についてパンデミック(世界規模流行)の状態にあると評価してから3年が経過しようとしています。当初、世界各国は感染制御を目的とした広範な行動制限策を講じていましたが、既感染者の増加とワクチン接種の普及による致死率の低下を受けて、2022年初頭以降は次々と制限を緩和、撤廃しています。世界最大の人口を抱え、長らく「ゼロコロナ」政策を堅持してきた中国政府も、2022年12月初旬をもってその方針を転換しました。これにより、国際社会は最終的にこの感染症と共存する道を選択したのだと言えるでしょう。

本稿では、日本国内の流行や対策の状況からは少し離れて、国際社会が本格的に迎えることになった「ウィズコロナ」社会のあり方について考えてみたいと思います。

日常の背景となるパンデミック

まず「ウィズコロナ(living with COVID-19)」社会という言葉の意味を明確にしておきます。これは文字通り、新型コロナウイルス感染症の流行下での生活であり、それが成り立つ社会のことですが、具体的にどのようなものであるかについては何も示していません。ただ明らかなことは、それがこの感染症の流行が続いていることを前提にしたものであるということです。実際、今後もこの感染症の流行は長期にわたって続きますし、それによる入院、死亡、後遺症を含む疾病負荷も、これに伴う社会経済的な負荷も継続的に発生することになります(エンデミック状態)。従って「ウィズコロナ」社会とは、新型コロナウイルス感染症の流行が続いており、その事実がそこで生活する人たちによって共有されている社会であると、ひとまず定義できるでしょう。

それでは、「ウィズコロナ」社会になっても、私たちはこれまでと同じように日々の感染者数や死亡者数に脅威を感じ続けなくてはならないのでしょうか。短期的にはそうした状況があるかもしれませんが、長期的には違ってくるはずです。季節性インフルエンザやHIV/AIDSを例にとってみましょう。これらの感染症も発生当初からパンデミックとなり、現在も世界規模で持続的に流行していますが、私たちはそれを公衆衛生にとっての脅威であると感じることなく生活しています。もちろん、これらに対する医療公衆衛生対応やワクチン・治療薬の開発の努力は不断に続けられています。しかし、当事者以外の多くの人たちにとって、それは日常生活の背景になっているものです。これが社会にとって安定的な状態であるとするならば、「ウィズコロナ」社会が目指しているのは、新型コロナウイルス感染症への対策をしながら人々がその脅威を「忘れる」ことだということになるでしょう。

感染者や死亡者が発生しているのに、それを「忘れる」など倫理的に許されないことだと思う人もいるかもしれません。しかし、これは決して非倫理的で無責任な態度などではないのです。ここで言う「忘れる」とは、私たち一人ひとりが、これから自分や身の回りの人たちが感染し、ある程度の確率で後遺症に悩んだり、場合によって死亡したりするかもしれないことを、日常の中のリスクとして受け入れる覚悟をすることに他ならないのです。

リスクとコストについて

この「リスクを受け入れる」ということについて、少し詳しくみてみます。もとより私たちは、リスクを完全に排除しながら生活しているわけではありません。食中毒であれ災害であれ、日常には様々なリスクがあります。これに対して社会は、そうしたリスクを回避する行動を習慣化し、リスクを削減する技術を開発・導入し、リスクに暴露されて被害を受けたものを治療し救済する制度を整備することで対処しています。

こうした社会によるリスク管理にはコストがかかります。社会環境(習慣・技術・制度)を整備し、維持するには社会のリソースを割く必要があります。また、管理が必ずしも期待通りにいくとは限りません。リスク回避の習慣は他の社会活動に好ましくない影響を及ぼすかもしれないし、技術や制度にはそれ自体が間違いや事故を起こす可能性があります。しかし、こうしたリスク管理に要するコスト(社会環境の整備・維持に要するリソース、およびそれがもたらす2次的なリスク)は、それが社会によって整備・維持されている以上、権利上は社会にとって制御可能なものということになります。

このように、社会はリスクをコストという制御可能なものに置き換えることで管理するのですが、どれだけコストをかけたところで、リスクが完全になくなるわけではありません。だから私たちは、コストと一緒に残存するリスクを受け入れて生活することになります。結局、受容するなら最初から放置していても同じではないか、と思う人もいるかもしれませんが、そうはいきません。なぜなら、社会には求められる重要な役割があるからです。

「交換可能な尊厳」について

現代社会に生きる私たちは、誰にでも基本的な自由と平等な機会が与えられることを望んでいます。これは誰もが同じように、現実的な条件の下で欲求とリスクを秤にかけながら、それぞれが思い描く人生の幸福を最大限に追求することが出来るような社会であって欲しいということです。そこでは、究極的には自分が誰かの人生と入れ替わり、富や能力や身体機能などの現実的条件や追及する幸福の内容が変わったとしても、その幸福を追求しうる存在としての充足の感覚については同じでなくてはならないのです。この感覚のことを、仮に尊厳(の感覚)と呼ぶことにしましょう。

これは決して抽象的な話ではありません。私たちは日常的に経験に基づいて自らの幸福を見積もり、それをメディアから得られる情報や会話などを通して確認し、更新しています。そして、幸福を追求しうる存在としての自身の尊厳(あるいは個別の環境と関わりながら生きている存在としての充足感)が他人と同じように保たれているのかどうか、それが社会の一定の水準にあるのかどうかを気に掛けているのです。もちろん、本当にそれが同じであるかどうかを調べる術はありません。ただ、私たちはそうであると信じて、身の回りのリスクとコストを受容しながら日常を過ごしているのです。

このとき社会の役割は、人々にとってその尊厳が交換可能であると信じることができる環境を整備することにあります。そのために、社会はそれを構成する人たちを見渡す反省的な視点に立って、様々な指標の測定や物語の分析を行い、各人の尊厳は交換可能であるか、それは一定の水準で保たれているかを見極める必要があるのです。従って反省的な視点は合理的なものでなくてはなりません。

パンデミックを受容するプロセス

新型コロナウイルス感染症のパンデミックに対する国際社会の対応は、この人々が交換可能な尊厳の感覚を抱くことができる環境を整備するプロセスとして理解することが出来ます。流行が始まった2020年当初、世界中で国内外の移動制限、外出制限を含む強力な行動制限策がとられました。これはおそらく人類史上最大規模の社会活動の制限であり自由の制限であったと考えられます。

グローバル化が進む21世紀の現代社会が、その流れに逆らうように広範な自由の制限を行った理由は何だったのでしょうか。実は、功利主義(「社会全体の幸福の最大化」)、自由主義(「他者に危害を及ぼさない限り自由である」)、生政治(「生物学的生存は自由に先立つ」)といった従来の主要な政治哲学的な原理では、これを十分に説明することができないのです。確かにこれらの原理に基づいて、新たなリスクの発生を契機に自由を制限することを正当化することはできるでしょう。しかし、その場合、自由を制限した理由と整合性をもってそれを解除できるのは、そのリスクが消滅するときだけです。従って、これらの原理では流行が続く限り、合理的に制限を解除することはできないことになります。

これに対して「交換可能な尊厳」という原理は、パンデミックの一連の経緯を次のように説明します。この感染症による健康被害の規模は、当初、不透明ながら十分に大きいことが想定されました。この新たに出現したリスクにより、私たちはそれまでと同じように人生の幸福を思い描き、それを追求することが困難になる事態に陥りました。そこで社会は、各人の尊厳の水準を保つために、この感染症による生存へのリスクを最小化する必要があり、一定の自由の制限を許容したのです。一方で、一時的にせよ自由を制限することは社会にとってコストであり、長期化することで人々の尊厳の感覚に大きく影響を及ぼします。この状況が解消されるには、よりコストをかけずにリスク管理ができるようにならなくてはなりません。

その後、何度かの感染拡大を経験し、知見が蓄積されることで、次第に私たちはこの感染症に感染するリスクとその健康被害の程度を理解するようになります。感染リスクの高い活動を一定程度回避する習慣を身につけたこと、ワクチンが開発され重症化率・致死率が大きく低下したこと、ある程度標準化された治療法が確立されたことも、リスクとコストの受容を後押しします。こうして環境(習慣・技術・制度)が整備され、この感染症の流行下でも誰もが同じように尊厳の感覚を抱くことが出来るようになるとき、社会は自由の制限を解除するのです。ただし、習慣や制度を含めて環境が変化しているので、制限が解除されても元の環境に戻るわけではありません。

「ウィズコロナ」社会における受容と反省

以上の一連のプロセスにおいて、社会は反省的な視点に立って判断を行うのですが、原理的に2つの段階に区別することができます。第1段階は、当初は日常の外部のリスクであった新型コロナウイルス感染症と共存するかどうかを決める判断です。これはそのリスクの存在下でも、人々が同様に尊厳の感覚を抱くことが出来る見込みがあるかどうかについての判断であるとともに、その水準が変化することを受け入れるかどうかという判断でもあります。第2段階は、新たな水準の尊厳が社会の中で交換可能であるかどうかを見極める判断です。

「ウィズコロナ」社会を迎えるということは、原理的には第1段階から第2段階に移行することに相当します(ただし、現実社会では必ずしも段階が明確に区別できるわけではありません)。この段階では、すでに尊厳の水準が変化することを受け入れているので、この感染症による死亡や後遺症を含めた一定の健康被害が発生することが前提となります。しかし、社会を構成する人たちが等しくリスクとコストを受け入れているわけではないので、ここでは新たな水準の尊厳を交換可能なものとする環境を整備することが課題となります。

実際、リスクとコストが各人の尊厳の感覚に及ぼす影響の程度は、個人のおかれた環境の現実的条件によって大きく異なっています。例えば、健康で活動度の高い小児や若い世代にとっては、健康被害よりも社会活動の制限による影響が大きいでしょう。一方で社会全体のリスク受容が進んでいくと、高齢者や基礎疾患のある人たちのように、流行による直接的・間接的な健康被害を否応なく受け入れざるを得ない人たちがいます。また世界に視野を広げれば、脆弱な医療公衆衛生システムと国際的なワクチン分配の遅れのために、早い段階からリスクを受容することを強いられてきた国々の人たちがいます。反省的な視点は、こうした尊厳の条件となる環境の格差や、その交換可能な範囲について常に目を配り、環境の改善を通してこれを修正するように導くのです。その判断は、現実に入手可能な範囲で十分な情報に基づいた合理的なものでなくてはなりません。

終わりに

以上のように、国際社会が本格的に迎えることになった「ウィズコロナ」社会では、新型コロナウイルス感染症によるリスクと、その対策に要するコストを社会の中で公正に共有し、万人にとって受容可能なものにしていくことが重要な課題となります。それを実現するには、各種コミュニティ、国家、国際社会の様々な階層で連携を進め、教育、技術開発、制度構築を通して、環境(習慣・技術・制度)を整備していかなくてはなりません。現実的には、新規変異株の発生や獲得免疫の減弱といったウイルス学・疫学的要因、さらにはインフォデミックと呼ばれる不確かな情報の拡散や国際情勢等の要因もあり、道のりは平たんではないでしょう。それでも私たちは社会がこの感染症を受容していくことを認めつつ、常に反省的な視点を持ち続けることが求められるのです。

プロフィール

鈴木基感染症疫学、国際保健学

1972年生まれ。1996年東北大学医学部卒業。国境なき医師団、長崎大学ベトナム拠点プロジェクト特任助教、長崎大学熱帯医学研究所准教授などを経て、現在、国立感染症研究所感染症疫学センター長。専門は感染症疫学、国際保健学。厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボードのメンバーとして、流行分析と対策に関する提言を行っている。

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