2024.04.09

不適切にもほどがある:健康保険料で子育て支援をやってもいいですか?

中里透 マクロ経済学・財政運営

社会

「異次元の少子化対策」は、まさに異次元の政策である。年間で3.6兆円(概数)もの予算が新たに追加されるにもかかわらず、この対策によって出生率がどの程度上がるのかがわからないからだ。

最近、EBPM(合理的な根拠に基づく政策形成)ということがさかんに言われ、霞が関でもさまざまな取り組みが行われているが、肝心な話になると、なぜかその時々の風向きと雰囲気で政策が進められていってしまう。少子化と人口減少への対応は重要な政策課題であるが、「満蒙は日本の生命線」というノリで「産めよ、殖やせよ国のため」とやっても、首尾よく成果をあげることはできないだろう。

何事についても目的と手段の関係を明確にし、コスパ(費用対効果)をきちんと考えて現実的な対応をとることが必要だ。「これからの6~7年が、少子化傾向を反転できるかどうかのラストチャンス」と唱えていさえすれば数兆円規模の支出増が実行に移せるということであれば、EBPMの取り組みは他愛なく無用である。

出生率が上がるかどうかはさておき、とりあえず予算が増えさえすればよいというのもひとつの考え方ではあるが、その資金の出所は納税者や社会保険の加入者だから(消費税のことを考えれば日本にいるすべての人が拠出している)、それでは受託者責任をきちんと果たしていないということになるだろう。

問題はそれにとどまらない。児童手当の拡充などに健康保険(公的医療保険)の保険料(支援金)を充てるというまさに「異次元」の政策が行われることになっているからだ。どのような分野でも政策形成は利害関係の調整を伴うから、「理屈は後から貨車で来る」ということが生じてしまうのはやむを得ないが、それでも最低限守るべき筋や矩というものはあるはずだ。

負担と給付の間の対応関係をきちんと確保するという社会保険制度の基本を蔑ろにするような対応があってもよいというのなら、行政というものは最終的には「何でもあり」でかまわないということになる。それがもとで東日本大震災の復興財源で問題となったような「流用」が行われてしまうことになれば、行政に対する信頼は損なわれ、「税金ドロボー」(社会保険料も含む)という批判に有効な反論をすることは難しくなるだろう(東日本大震災の復興財源をめぐる一連の経過については、福場ひとみ著『国家のシロアリ: 復興予算流用の真相』(講談社)に詳述されている)。

これらのことを踏まえ、以下では「異次元の少子化対策」をめぐる政策形成のどこに問題があるのかを考えてみたい。
(以下の議論の前提となる少子化の動向と少子化対策をめぐるこれまでの経過については「「1.57ショック」と「こども未来戦略」(https://synodos.jp/opinion/society/28868/)を併せてご覧ください。

問題の所在はきちんと把握できているか

話の出発点として少子化の現況について確認すると、出生率の代表的な指標として利用される合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子どもの数を一定の算式により計算した指標)は、7年連続で前年を下回り、2022年には2005年と並び既往最低の水準となった。中でも東京都の出生率は47都道府県のうちで毎年最低を記録している。このことだけをとらえると、全国から人を集めておきながら(転入超過)、子どもを産み育てる環境に恵まれない東京は、少子化と人口減少をもたらすブラックホールという印象になる。

だが、この「東京ブラックホール」論については留意すべきことがある。それは合計特殊出生率が「未婚の女性を含む」出産可能年齢(15~49歳)の女性を分母として計算される指標であるということだ。そのため、未婚率の高い東京都などの地域(主に都市部)では総じて合計特殊出生率が低くなる傾向がある。この点を考慮して有配偶者のみを対象に出生率を計算すると、東京都の出生率は全国平均と遜色ない数字になる。

ここからわかるのは、少子化の問題を考える場合には、未婚・非婚の増加の影響をきちんと考慮したうえで対応を考える必要があるということだ。だが、不思議なことに少子化対策をめぐる通常の議論では未婚・非婚の問題がしばしば脇に追いやられ、子育て支援の充実が対策の柱ということになりがちである。

しかも、すでに生まれている子どもへの対策に注目が集まり(その対策によってどのような年収・家族構成の世帯が得をするかが関心の的に)、少子化対策とされる施策の目的が、出生率の引き上げにあるのか、すでに子どものいる家庭の負担を減らすための家計支援にあるのかが曖昧になる。設備投資のアナロジーで言えば、投資減税が必要なはずなのに既存の施設も含む固定資産税の減免で設備投資を増やそうとするから、減税の効果が広く薄いものになるか、財政コストが大きくなるかのいずれかとなる。つまり、出生率の引き上げという観点からみると、目的と手段の対応関係が合っていないものが「少子化」対策に紛れ込み、総じてターゲット効率性が低いものとなる。

もちろん、やや長い目で見れば、子どものいる世帯への家計支援が出生率の引き上げに寄与することも期待されるが、「これからの6~7年がラストチャンス」という説明との整合性はとれていない。このように期限を切って物事を進めるのであれば、より即効性のある対策に財源を集中的に投下することが求められるはずだ。

もうひとつ留意が必要なのは、そもそも出産可能年齢の女性の数が大きく減ってしまっているという事実を改めて確認しておく必要があるということだ。最近時点における出産可能年齢の女性の数は、「1.57ショック」が話題となった1990年と比べても2割以上減っており、減少傾向は基調的に今後も続くことが見込まれる。このことを有配偶率の低下と併せて考えると、異次元の少子化対策によって出生率が飛躍的に上昇するといったことがない限り、少子化傾向は十分な反転が見込めないことになる。

さらに言えば、合計特殊出生率が人口置換水準(2.07程度)を下回る水準である限り、人口減少は続く。1年ほど前(2023年4月26日)に経済財政諮問会議に提出された資料によれば、子ども・子育てに関連する支出(家族関係社会支出)をGDP比で1%程度(年間約5兆円)増やすことで生じる出生率の上昇幅は0.05~0.1%程度とされているから、年間3.6兆円の予算の追加で期待される出生率の上昇幅は高々0.1程度となる。

これにより2060年時点の人口は、対策がない場合と比べ180万人程度多くなるが、この間に日本の人口は2千万人以上減ることが見込まれている。したがって、仮に年間3.6兆円規模の予算を投じる対策が奏功したとしても、人口減少のペースをわずかに遅らせるくらいの効果しか持ち得ないことになる。

これまでの経緯は適切に確認されているか

異次元の少子化対策では「これからの6~7年が、少子化傾向を反転できるかどうかのラストチャンス」「少子化対策は待ったなしの瀬戸際」というフレーズが、その必要性を訴える際の決め台詞になっている。この掛け声のもと、少子化対策の予算の「倍増」が企図されているが、広く世界を見渡すと、少子化が「国難」とされ、この10年ほどの間に少子化対策の予算が2倍近くになった国がある(2013年度と2023年度で比較)。それは東アジアに位置する日本という国だ。

この国で2012年の年末に誕生した安倍内閣(第2次~第4次)では、希望出生率1.8の実現を目指して少子化対策予算の大幅な増額がなされ、少子化関連施策の拡充が行われてきた。これにより保育の受け皿が拡大し、待機児童の問題が緩和されるなど、少子化対策には大きな進展が見られた。

だが、こうしたもとでも出生率は2015年にピークアウトし、2022年まで7年連続で低下している(2022年は2005年と並び既往最低の1.26)。出生率の推移は人口動態やその時々の経済状況からも影響を受けるから、その点を考慮に入れる必要があるが、大幅な予算の増額によっても少子化傾向を反転させるに至らなかったことは、この経過から十分に確認できる。さまざまな取り組みにより2025年には希望出生率1.8が達成できるとされてきたが、神風でも吹かない限り、来年の出生率が1.8になることはないだろう。

EBPMを謳うからには、これまでの大幅な予算の増額にもかかわらず、なぜ所期の目的を達成することができなかったのかをまず検証することが必要となる。それが「PDCAサイクルを回す」ということでもある。「ラストチャンス」や「瀬戸際」というフレーズで煽るのも商売のやりかたとしては「あり」かもしれないが、必要な検証を欠いたまま、「座して死を待つよりは」というノリで一擲乾坤を賭した場合に得られる結果は、「ジリ貧を避けんとしてドカ貧になる」ということにならないとも限らない。

政策としての筋は通っているか

政策形成や予算編成はまさに政治の領域にあり、どのような分野の政策もさまざまな利害調整の結果として生まれるものだから、調整の結果として出来上がった政策の中に「あれ?」と疑問に思うようなものが含まれてしまうのは致し方ないところもある。だが、そうしたもとにあっても最低限守るべき筋や矩というものはあるはずだ。この点からすると、残念ながら子ども・子育て支援金の枠組みには大きな瑕疵がある。

子ども・子育て支援金は、健康保険(公的医療保険)の加入者に通常の保険料に上乗せして新たな負担を求め、それにより得られた財源を少子化対策に活用するものだ。これにより、主たる家計支持者の年収が1千万円を大幅に上回り(世帯収入はこれより多い場合がある)、これまで児童手当の支給対象とならなかった世帯への満額給付がなされるとともに、第3子以降の子どもへの児童手当の支給額が倍増されるなど、子育て支援策の拡充が行われることとなっている。

子ども・子育て支援金については、この財源を活用することで子育てのための給付が増えるから大歓迎という向きもあるが(損得勘定だけを考えれば、これは合理的な反応)、健康保険の保険料(支援金)を子育て支援に充てることが、社会保険という制度の枠組みから見た場合に十分な妥当性があるものかという点については、きちんと考えておく必要がある。

教科書的な話に戻って税と社会保険の違いについて考えると、社会保険の大きな特徴は負担と給付の間に明確な牽連性(関連性)があるということだ。健康保険についていえば、病気やけがについての費用負担の一部を保険によってまかなうというのがその基本となる。出産は疾病とは性質が異なるが、医療機関(産婦人科)の受診や入院を伴う行為であるから、出産までは健康保険による費用負担が認められてもよいだろう。

だが、幼稚園・保育園や小中学校に通う子どものいる世帯を対象とする給付に、健康保険の保険料(支援金)を充てるとなると、負担と給付の間の対応関係を適切に確保するという社会保険制度の基本が揺らいでしまうことになる。どのような制度にも「建前」と「本音」があり、制度の「運用」によって問題を解決することがさまざまな課題をスムーズに解消していくうえで役立つこともあるが、その点を考慮してもなお、健康保険の負担金で子育て支援を行うことは、本来守るべき筋からの大きな逸脱である。この不整合について何ら疑問を感じないのだとすれば、その感覚は「ほとんどビョーキ」ということになるだろう。

このような形で社会保険料を本来の目的以外の使途に充てる前例ができれば、それを奇貨として別の事案でも同じような取り組みが行われることになる。そのことが社会保険という制度に対する信頼感を低下させることになれば、税や社会保険料の負担増を求めることはますます難しくなるだろう。

「バックキャスト」と「後の祭り」のあいだ

「こんな未来のために、こんな時代にするために俺たち頑張って働いてるわけじゃねえよ!」。TBSのドラマ『不適切にもほどがある』の中で、昭和61年から令和の日本にやってきた主人公の小川市郎はこう言ったが、今から30年後、2054年の日本はどのような姿になっているのだろう。異次元の対策が奏功して少子化の問題が解消され、将来不安のない明るい社会が実現しているのだろうか。それとも、少子化を前提とした社会への移行に向けた対応が遅れ、不安が消えることがない社会が続いているのだろうか。

ドラマのようにバスに乗ってタイムスリップをすることはできないから、2054年の日本を正確に予測することはできないが、後から振り返ってみたときに、2024年の日本が誤った選択をしてしまったということがないよう、現実的な政策判断のもとで適切な政策対応がなされていくことが望まれる。  

プロフィール

中里透マクロ経済学・財政運営

1965年生まれ。1988年東京大学経済学部卒業。日本開発銀行(現日本政策投資銀行)設備投資研究所、東京大学経済学部助手を経て、現在、上智大学経済学部准教授、一橋大学国際・公共政策大学院客員准教授。専門はマクロ経済学・財政運営。最近は消費増税後の消費動向などについて分析を行っている。最近の論文に「デフレ脱却と財政健全化」(原田泰・齊藤誠編『徹底分析 アベノミクス』所収)、「出生率の決定要因 都道府県別データによる分析」(『日本経済研究』第75号、日本経済研究センター)など。

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