2024.04.17

風土を守るとはどういうことか――風土論と環境倫理学の対話

犬塚悠×吉永明弘

社会

シリーズ「環境倫理学のフロンティア」では、環境倫理学の隣接分野の研究者との対話を行っています。今回は「風土論×環境倫理学」として、犬塚悠さんと対話を行います。犬塚さんは、シンガポール国立大学で生命科学を学んだ後、早稲田大学と東京大学で哲学の研究を行い、さらにフランス国立社会科学高等研究院で風土論の第一人者オギュスタン・ベルク教授のセミナーに参加されるというダイナミックな経歴の持ち主です。そして現在は名古屋工業大学で技術哲学・環境倫理学の研究をされています。隣接分野といいながら、環境倫理学の研究者でもあり、すでに昭和堂の『環境倫理学(3STEPシリーズ)』(http://www.showado-kyoto.jp/book/b515852.html)でご一緒している犬塚さんを今回お呼びしたのは、風土論と環境倫理学を中核におきながら、理系の観点と日本思想を押さえて研究されていることの独自性にあらためて注目したいと考えたからです。

研究の遍歴について

吉永 犬塚さんと最初にお会いしたのは環境思想の研究会の席でした。当時は大学院生で、フランスに留学する頃だったかと思います。すでに風土論の研究を始められていて、その時の発表も和辻哲郎についての内容だったと記憶しています。その後、フランスに留学してオギュスタン・ベルク先生のセミナーに参加されるということを聞いて、意欲的な研究者だと思った覚えがあります。現在は和辻哲郎を中心とする日本思想の研究者としても知られていますが、最初はシンガポール国立大学で生命科学を専攻されていたのですね。このあたりの研究の遍歴からお話いただければと思います。

犬塚 個人的な話でお恥ずかしいのですが、私は大学進学にあたって進路を決めた際は、将来環境問題の解決に何らかの形で貢献したいと考えており、複合的な問題である環境問題を多分野から捉えようと、まずは早稲田大学の国際教養学部に入学しました。

ですが入学して間もない頃、ある生物学の先生に「生態学を知らないで環境問題の何が分かるの」とやや厳しめのお言葉をいただきました。そこで、しっかりと生態学を学ぶことはできないかと考えていたところ、早稲田とシンガポール国立大学(NUS)との間でダブルディグリープログラムの提携がなされ、NUSの理学部生命科学専攻で学ぶ機会をいただけることになりました。NUSでは、分子遺伝学や細胞生物学といった分子・細胞スケールのものから、生態学・保全生物学といったマクロスケールのものまでを学ぶことができ、学部レベルではありますが生物と環境とのかかわりについて基礎的な知識を得ることができました。

和辻の風土論・倫理学に注目したきっかけ

吉永 ありがとうございます。そのなかで、犬塚さんが和辻の風土論に関心をもったきっかけを教えてください。

犬塚 端的に申し上げれば、人間と環境とのかかわりについての興味が増したためです。そのきっかけの一つが、NUSの卒業前に携わらせていただいたシンガポール周辺のマングローブ種(R. apiculataR. mucronata)の遺伝的多様性をめぐる研究です。フィールドと研究室との往復の中で各マングローブ林の遺伝的多様性が分かってくるにつれて、それまで同じように見えていたマングローブ林が「豊かな林」「貧しい林」と異なって私自身に現れてきたことが強く印象に残りました。また、同じマングローブ種でも地域によって様々な捉え方がなされていること――自然公園における保全対象や、リゾート地を飾るオーナメント、木材・燃料、エビ養殖における基盤など――を、調査を通して知りました。

生態学は生物について理解する重要な分野の一つですが、人間の生活における環境とのかかわりは生態学のみでは理解できません。私たちの見ている現実がどのように構成されているのか、物の価値や善悪は何によって決まるのかといった問題も含め、人間と環境とのかかわりをより深く理解しないと、そもそも環境問題とは何なのかも、私たちは何を目指すべきなのかも分からないという考えに至りました。

生態学の研究は夢中になって研究室に夜遅くまで残るほど面白かったのですが、帰国後はそのような考えから早稲田で哲学を学ぶようになり、その中でオギュスタン・ベルク先生の『地球と存在の哲学:環境倫理を越えて』を読んだことが一つのターニングポイントになりました。この本には、人間と風土(客観的・物理的な「環境」を超えて、主観的・文化的にも捉えられたもの)との不可分の関係を理解することから、人間にとっての環境問題の意味を考える議論があったためです。それは端的には、近代以降に自然と文化とを分けて理解・管理するようになり、地域の特殊な風土を考慮しない生活様式が広まったことが、自然環境のみならず人間存在も損なっているというものでした。これは、ともすれば人間の存在・活動一般を否定するような環境活動家の立場とは一線を画すものでした。

そのベルク先生の議論の中で和辻哲郎の『風土』が理論的に重要な軸となっていたことを受け、和辻の他の著作も読んでいく中で、彼の倫理学の中にはいわば環境を自己の一部とする人間存在が描かれているということが分かり、私も自分なりに和辻の哲学の今日的意義を明らかにしようと研究をしてきました。

オギュスタン・ベルク先生から学んだこと

吉永 ありがとうございます。ベルク先生の著書をきっかけに、和辻の風土論・倫理学を研究し、そしてオギュスタン・ベルク先生のセミナーに参加することになるわけですね。ベルク先生からはどんなことを学んだのでしょうか。ベルク先生は日本での滞在暦も長く、講演や対談なども多数あり、私も一度シンポジウムにお呼びして基調講演をしていただいたことがあります。ベルク先生は日本にはなじみ深い研究者ですが、直接教わった人は数少ないので、印象的なエピソードがあればお伺いしたいです。

犬塚 私が留学した頃(2014-2015年)にはベルク先生はすでにご退官されていたのですが、フランス社会科学高等研究院(EHESS)でルチアノ・ボイ先生という科学の歴史・哲学を専門とする先生と引き続きセミナーを開催されていました(私もボイ先生に受入教員になっていただきました)。セミナーはオムニバス形式で、様々な分野から招待された研究者が風土論と関連づけた講演をし、参加者との質疑応答をするというもので、毎回興味深いディスカッションが繰り広げられていました。風土の問題がいかに多分野に関係するものであるかを学びました。

また当時、ベルク先生は山内得立の哲学の研究を進められていて、山内の『ロゴスとレンマ』を風土論の観点から評価されていました(ちょうどPoétique de la Terre. Histoire naturelle et histoire humaine, essai de mésologieという著作を出版された頃でした)。西洋近代の批判としてのベルク先生の東洋・日本思想への期待や情熱を拝見し、私も日本人研究者としての役割を考えさせられました。

ベルク先生の周りにはいつも多くの方が集まって、セミナー後には毎回夕食会があり、春には公園でお花見もありました。年齢・分野を問わず、相手の研究や活動内容にご関心をもたれるベルク先生と奥様のお人柄・教養の広さによるところもあったと思います。私が東洋言語文化学院(INALCO)の研究会で和辻に関する拙い発表をさせていただいた際にも、ベルク先生はご友人の哲学者の先生を伴われてお越し下さりました。ご自宅にご招待いただいた際は、ご家族の皆様を交えて一人ずつ好きな詩を発表するという会が突然開催され、緊張したこともありました。

また、留学後の2017年のことではありますが、スリジー=ラ=サールという古城で風土論のシンポジウムが開催され、そこでも再びベルク先生はじめ、多分野の方々と議論をさせていただくことができました。私の発表では、ベルク先生のmilieuとしての風土論は、風土が客観性と主観性とを併せもったものであることを強調した点で大きな意義がある一方で、この概念はやや静的で、人間の社会・倫理形成にとって重要な性質である、風土ないしclimatの反復性が見落とされているのではないかといった批判をしました。ベルク先生はあまりご納得されていないようでしたが(笑)、他の先生からは好意的な評価もいただきました(会議の内容はLa mésologie, un autre paradigme pour l’anthropocène ? Autour et en présence d’Augustin Berqueという本にまとめられています。現地の植物を用いた参加者のコラージュ作品も収められているのが特徴です)。大切な思い出です。

ゲノム編集と風土論

吉永 最近はゲノム編集の倫理など、自然科学と倫理学の接点でご研究をされていますね。昨年から、金光秀和さんと共編で『技術哲学(3STEPシリーズ)』という教科書をつくっていて、この夏に昭和堂から刊行される予定ですが、そのなかで犬塚さんにゲノム編集についての章を執筆していただきました。この章は、ゲノム編集の基本的な論点をおさえたあとで、風土の観点から論じていくというオリジナリティの高い内容になっています。この章の内容を簡単にご紹介いただけますか。

犬塚 この章では、新技術の受容にあたって市民は何を検討すべきなのかを、ゲノム編集作物・動物を例に検討しています。バイオテクノロジーをめぐっては、そのリスクやベネフィットに関するデータに農業研究や開発支援にかかわる内部関係者しかアクセスできず、非内部関係者は内部関係者の証言とそれを解説するジャーナリストの説明に頼らざるを得ません。そこで倫理学者のポール・B・トンプソンが指摘しているように、非内部関係者の不安や批判の声に真摯に向き合っているかという内部関係者の道徳的性格が重要になります。

対して、非内部関係者である市民はただ内部関係者に従っていればよいのかというとそうではありません。市民には、まずは内部関係者の証言を基に技術を理解していきながら、内部関係者の道徳的性格を厳しく監視し、さらには技術の導入がかえって貧困や環境破壊といった社会的課題を悪化させていないかを指摘していくことが求められます。デーン・スコットという倫理学者がいうように、「技術的解決(technological fix)」はしばしば保守的です。社会システム内での課題を解決するために設計された技術は、システムそのものを問い直すものではないためです。時には、欠陥を抱えたシステムをより強固にしてしまう場合もあります。

本章では、欠陥を抱えたシステムへの気付きが描かれた作品として、『キング・コーン』というアメリカの映画を取り上げています。そして、この映画の監督の言葉を手がかりに、風景そして風土という観点から技術の受容の是非について考察しています。農業におけるバイオテクノロジー、特にゲノム編集技術をめぐっては、自然界における変異や従来の品種改良と比較してリスクに違いがないという点が強調されがちです。しかし、アメリカにおける遺伝子組換えトウモロコシの導入が、牛肉・高果糖シロップの大量生産、そして深刻な健康問題と構造的につながっているように、作物を取り巻く社会の姿、風景は大きく異なります。風景・風土論は、そのように技術の導入の是非を大きな視点から捉え、かつ自分の問題として考える際の手がかりとなるだろうと提案しました。

トウモロコシの栽培を考え直した主人公たちの畑(映画『キング・コーン』より)。風景が個人と社会との調和を必要とするものであることを示してもいる。

「かけがえのない場所が壊されることに対する憤り」について

吉永 先日の研究会のなかで、犬塚さんは風土論に関連して、オギュスタン・ベルク先生の「風物身体」(風土を第二の身体とする見方)という概念を引用しながら、風景が傷つけられることの「痛み」の感覚についてお話になりました。そこでは、デヴィッド・タカーチという、現在はアメリカで環境法学を教えている人が書いた『生物多様性という名の革命』という本も引用されていました。

「私自身、自然を孤独な少年期の避難場所としていた。郊外のあった家の近くに、小さな(おそらく一エーカーほどの)低木の林があった。そこは私の王国だった。たとえ名前は知らなくても、私は植物や動物を知っており、どの木がどこにあるかを知り尽くしていた。だが、三年生のとき、ある穏やかな日に、スクールバスを降り、丘を越えてその林に向かった私は、すべてが消えうせていることを知った。朝、一瞬のうちにブルドーザーが林をなぎ倒してしまっていたのだ。〔中略〕そのとき、自分の一部が破壊されたように感じたのを覚えている。掘削機が家の周囲を、そしてロングアイランド全域を破壊していくにつれ、自分がいくつもの傷を負ったように感じられた」(タカーチ『生物多様性という名の革命』281-282頁)。

そして、このような経験をもつ人は少なくない、と発言されていました。ここに環境倫理学との接点があると感じました。つまり環境問題というのは、こういった「かけがえのない場所が壊されること」を指すのであり、環境保全運動の問題意識は「かけがえのない場所が壊されることに対する憤り」にあると思うからです。このあたりについて、ご研究のなかで思うところはありますか。

犬塚 この点、取り上げてくださり誠にありがとうございます。「かけがえのない場所が壊されること」としての環境問題の定義には、あまりに人間中心的過ぎるという批判もあるかもしれません。もちろん、人間主体で考える立場には限界もありますが、私もこのように捉えていくことこそ、人が環境問題を自分の問題として考える一つの重要なきっかけになると思います。

『技術哲学』の担当章でも紹介した言葉ですが、『キング・コーン』の監督アーロン・ウルフも、映画を作った背景として、彼自身がアイオワのトウモロコシ畑の風景を愛していたことを挙げています。そして、そのトウモロコシの生産・流通・消費の実態が、彼の知らない内に変容していたことを知ったことによるショック――これを彼は「痛いところを突かれた」と表現していますが――をきっかけとして、映画が作られたといいます。また、私が大学でこのような話をすると、自分にとって大切であった風景が失われた際の悲しみ・痛みを共有してくれる学生も少なくありません。

環境問題と日本思想、そして技術哲学

犬塚 そもそも環境破壊を悪として捉える意識も、人間社会がその形を維持しようとする働きによるものではないかとも考えられます。環境問題は自然環境の問題と捉えられがちですが、地質学や進化論、そして私たちの自然的衝動――私たちの意識的な制御を超えて、現状に対して沸き立つ不満、創造への欲求――が示すように、自然はむしろ形の創造と破壊を続けるダイナミックなものです。拙い議論ではありますが、私自身の博士論文では和辻哲郎や西田幾多郎、三木清の哲学を参照しながら、環境問題とは、反復を善とする社会性と破壊・創造を善とする自然性とを併せもつ人間における、倫理と創造との相克の問題ではないかと論じました。

そしてこれは環境問題を超えた問題ですが、そもそも「人間」が属する範囲は、一般に考えられているように皮膚に包まれた個人の身体に留まるものではないと考えられます。ベルク先生の「風物身体」にも、和辻哲郎の人と人との間としての「人間存在」にも、その他様々な分野の議論においても、この考えは見いだされます。和辻哲郎は『倫理学』において、「環境の概念は、個人の立場において形成されたものとして、個人と個人との間である人間存在には不向きであろう」と、外界としての「環境」という概念そのものを問い直してもいます。

人間は人間関係において生きる存在であり、具体的な人間関係は身体の周囲の事物をその内容としてすでに含んでいます。分かりやすく具体例を挙げるとすれば、名古屋工業大学の教職員・学生の人間関係は、名古屋という土地と、大学という建築物・教育機関があってのものです。またその活動は、太陽・月の動き、季節と結びついてリズムを形成しています。

近年のピーター・ポール=フェルベークなどの技術哲学でも、行為者というものは人間単体ではなく、人間と技術的人工物との複合体であるといった議論がなされています。また、私が院生時代にご指導いただきましたお一人の金森修先生も、個人の生理的身体の周りに広がる「場所」を「一種の身体」として捉え、さらに「霧心(きりごころ)」という概念で、心というものは閉じたものではなく個人の身体から漏れ出て他の物・人と交じり合っているものであるということを表されました。

そのように人間を捉えていくと、今度は「個人」や「責任」はどのように考えられるのかという問題が生じます。環境問題をめぐっても、誰が、何に対して、どのような責任をもつのか。今日、技術がいっそう複雑化・高度化する中で、人の責任とはどのように考えられるのか。今はそのような問題意識の下、研究を進めています。

吉永 環境問題と日本思想、そして技術哲学が犬塚さんのなかでどのように繋がっているのかがよくわかりました。どうもありがとうございました。

プロフィール

吉永明弘環境倫理学

法政大学人間環境学部教授。専門は環境倫理学。著書『都市の環境倫理』(勁草書房、2014年)、『ブックガイド環境倫理』(勁草書房、2017年)。編著として『未来の環境倫理学』(勁草書房、2018年)、『環境倫理学(3STEPシリーズ)』(昭和堂、2020年)。最新の著作は『はじめて学ぶ環境倫理』(ちくまプリマ―新書、2021年)。

この執筆者の記事

犬塚悠近代日本哲学・環境倫理学・技術哲学

名古屋工業大学准教授。専門は近代日本哲学・環境倫理学・技術哲学。共著にJapanese Environmental Philosophy(Oxford University Press、2017年)、Tetsugaku Companion to Japanese Ethics and Technology(Springer、2019年)、 『環境倫理学(3STEPシリーズ)』(昭和堂、2020年)、『工科系学生のための〈リベラルアーツ〉 』(知泉書館、2023年)など。

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